日本史疑

北条・織田・徳川の出自―「文字は死なない」

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2016-10-01 | 日本史疑


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新『日本史疑』


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Ⅱ第10話 豊臣秀吉の出自

2013-04-11 | 日本史疑

 信長に仕える前の秀吉が仕えたとされる松下之綱の遠祖は鎌倉末期に三河・碧海郡松下郷を本貫とし、之綱自身は遠江・引佐郡曳馬城主の飯尾連龍の配下に在ったが、飯尾連龍こそ桶狭間合戦後の遠江における親今川派と反今川派との抗争を激化させた張本であり、連龍は鎌倉幕府の吏僚であった三善氏の流れを汲むとされる。飯尾連龍がもたらした遠州錯乱激化の契機とは井伊谷城主・直平を毒殺したことであったが、『寛政重修諸家譜』は井伊氏を藤原冬嗣・六子とされる良門の息・利世より派したとするも、新井白石の『藩翰譜』は藤原利世の実在性に疑念を呈している。松下之綱が遠祖の本貫地とする碧海郡松下郷は松平氏の本貫地を抱く賀茂郡とともに現在は、学校教科書で見かけられる信長肖像を蔵した長興寺の所在する豊田市に編入されており、長興寺は鎌倉初期を生きた中条家長の後裔が営んだ高橋荘内にて鎌倉幕府滅亡の直後に中条氏によって建立された名刹である。中条家長は武蔵・多摩郡下にて船木田荘を営んだ横山党の流れを汲むとされ、横山党の源流は近江・滋賀郡を本拠とした小野氏より派したと云われる。古族・小野氏はまた大和・添上郡を拠点とした春日氏より岐れたとされ、後醍醐帝が正中の変にて幕軍に抗い立て籠もった笠置山麓に位置する添上郡柳生郷に在地した宗厳の息・柳生宗矩の許へ松下之綱の女は嫁している。和田義盛と姻戚に有った横山時兼は義盛の蹶起に因り党を喪う憂き目に遭うも、時兼の次弟・広長は多摩郡平子(たいらく)郷を本貫としながら同国久良岐郡へ移徒し、上総介広常の粛清後に和田義盛が拠点を移した上総と対い合う久良岐郡和田郷の尾根続きに現代の港街を俯瞰して高爽な台地上に平楽の字名を今に遺し、平子氏は相模・鎌倉郡長尾郷を本貫とする長尾氏の配下として越後へ入部しており、横山党の滅亡から免れた同族として中条家長や平子広長の他には、愛甲郡依知郷小字本間を本貫とした本間氏が北条得宗被官として佐渡へ入部している。平安末期、藤原伊周の家令であった処を主家の失脚直前に辞して関東へ下野した有道惟能の後裔を唱えた在地領主らが蟠踞した武蔵・児玉郡と隣接した地に割拠した猪俣党は横山党より分岐したものと伝わり、治承・寿永の内乱に参戦したとされる児玉党・庄弘高の息らとして横山党に属するとされる中条家長と名を等しくした庄家長や横山党の族滅から免れた平子広長と訓を等しくして児玉郡四方田郷を本貫とするとしながら史家より実在を疑われている弘長などの名が『武蔵七党系図』児玉党条に見られ、庄家長・四方田弘長兄弟の末にはやはり四方田郷を本貫としたする高綱なる名が見え、高綱の息はまた景綱とされ、恰も鎌倉末期を生きた内管領・長崎円喜に伝えられた諱や北条得宗被官の筆頭として伝わる尾藤景綱の名を連想させる。長崎氏の祖は一般に平三郎兵衛尉盛綱とされるが、中条家長の養父であった八田知家は藤原伊周の叔父に該る道兼より派したと唱える宇都宮氏の流れとして、『吾妻鏡』に拠ると源頼家の下命により北条時政の孫に該り頼朝の異母弟である阿野全成を斬っており、阿野全成の同母兄である義円を墨俣で討ち取った者は平家の郎党・平高橋左衛門尉盛綱であったと伝わる一方、武蔵・児玉郡と隣接する加美郡阿保郷を本貫とした安保実員の女が生した北条泰時の次子・時実を殺害した者は得宗被官であり京洛・高橋を在所としたとされる高橋次郎なる者であった。しかし、有道姓を唱える児玉党・庄家長の長子とされる頼家の名は『吾妻鏡』のみならず史料的価値の低いとされる『源平盛衰記』にも顕れながら、頼家の遺領はその次弟に継承され、また頼家・次弟の後裔は秩父郡下へ移徒したとされる不可思議を現代に誘っている。結局、後世に児玉党の嫡流と看做された流れは庄家長の四子・時家の後裔であり、時家を以て本庄氏祖としているが、『続群書類従』桓武平氏系図を除き同書の北条系図を始め14世紀に成った『尊卑分脈』や近世に編まれた『系図簒要』は北条四郎時政の父を挙って四郎大夫時家としている。此処で『武蔵七党系図』児玉党条に刮目すべき点は、庄頼家・本庄時家の末弟として記される家綱の後裔が中条姓を称したと伝えることである。

 若き秀吉が仕えた松下之綱は飯尾連龍の配下から家康の許へ異動しているが、桶狭間に兵を進めた今川義元の先陣を務めた将は飯尾連龍が毒殺した井伊直平の孫となる直盛であって、今川方の最前線基地への兵站を務めた将が家康であったことはよく知られている。井伊直盛の戦死に因り直盛の従弟となる直親が井伊氏の家嫡となるが、直親の父は今川義元に家康への内通を疑われ誅殺され、直親自身もまた家康との内通を小野道好により今川氏真へ進言され誅殺されており、井伊氏は直盛の女を男子の諱を称えさせ家嫡としている。直親の嫡子・直政が井伊氏の家嫡となるのは家康が遠江を接収して後のことであり、直親が父の死後に信濃へ落去したと伝わる点や直政もまた漂泊を余儀なくされた時間をもった点が重要なことは後述するが、松平氏の発祥地を鎌倉期より室町期に亘って領知した中条氏は小野氏の流れを唱えていた。巷伝には若き秀吉やその実父もまた山窩であったとする説を見、信長の家中に加えられた秀吉との盟友関係を伝えられる蜂須賀小六の伝と相俟って、内管領・長崎円喜が傀儡と呼ばれた集団を駆使していたと叙べる講談もまた在る。本間氏が入部した佐渡へ幕府により流刑とされた日蓮の関東への帰途、日蓮を自邸に歓待したと伝わる児玉時国の邸址を遺す埼玉県児玉郡児玉町下の地は連雀との字名を見せ、連雀とは往古の行商人を意味するとされ、信長の宿将・丹羽長秀は尾張・春日井郡児玉郷に在地し、長秀は信長の後継を決定する清洲会議にて柴田勝家に抗い池田恒興とともに秀吉に与しているが、長秀の息は関ヶ原合戦時に西軍に与し、池田恒興は長久手合戦にて豊臣方として有道惟能の母方祖父となる平公雅の後裔と云う永井直勝により討たれたとされながら、家康が"危難の伊賀越え"を演じた地に授封された豊臣大名たる藤堂氏や阿波一国を授封された蜂須賀氏と同様に、池田恒興の息は有道氏を出自とする赤松氏の旧領に授封され、丹羽氏は郡山市~福島市間の二本松へ封ぜられており、同地の近傍には磐城国好島荘に所職を有した伊賀氏より生した北条義時の息・有時の後裔が所職を有した伊具郡が在り、同郡に隣接して有道氏の源流である丈部を管掌した阿部氏の姓を併せ称した阿部柴田臣が古代に在地した陸前・柴田郡が在り、伊賀氏とともに磐城国好島荘に所職を有した大須賀氏は千葉常胤の息・胤信より派した下総・香取郡大須賀郷を本貫とした領主として家康の旗本先手四将の一たる大須賀康高を派し、また大須賀川畔には堀籠の字名を見出し、該地は往古に現利根川を利した港津であったとされ、因みに大須賀川の源流一帯の字名である伊能は三善氏より派した飯尾氏の元来の訓を帯しており、陸前・黒川郡には秀吉にとって帷幕の将と謳われ美濃・不破郡関ヶ原を領知した竹中重治の出自として相模・三浦郡長柄郷を本貫とした長江氏とともに阿野全成の後裔となる堀籠氏も入部し、さらに黒川郡の北方に位置する北上川の支流・江合川流域を戦国期に至るまで児玉党・四方田氏が威勢を揮っており、本能寺への寄せ手には四方田なる将の名が見出される。猶、丹羽長秀の息として藤堂氏の猶子となった者の後裔は伊賀から大和へ抜ける途次の名張に陣屋を構え、藤堂氏の分家として独立している。

 明智光秀にとって股肱の臣であった斎藤利三の母は遠江・佐野郡石谷郷に在地し、鎌倉二代将軍・頼家の親裁停止後に果たされた幕府宿将十三人による合議制下の一であった二階堂行政の後裔を唱える領主へ再嫁して長宗我部元親室を生しているが、先夫との間に生した利三の兄を石谷氏の嗣子と為し、先夫との間に生した長女は室町幕府・政所代の蜷川親長へ嫁しており、親長は松永久秀による将軍・義輝への弑逆に因り丹波・船井郡下の所領を喪い、長宗我部元親を頼っている。斎藤利三は女らを柴田氏や稲葉氏へ嫁し、その中、稲葉氏より生した孫が春日局であることは周知のことであり、稲葉氏の源流は稲葉山に城を築いた二階堂行政の女婿として伊賀氏祖となる佐藤伊賀守朝光が城を譲渡されたことを以て起源とされるが、伊賀氏祖が旧佐藤姓を称した所以は下野・安蘇郡を本拠とした藤原秀郷の流れを汲み佐野荘内に在地したことを因とするとの説が在り、同郡より発祥した佐藤氏より派した族が南北朝期に北朝方にて権勢を揮った仁木義長が守護に補された伊勢・一志郡榊原郷へ入部した榊原氏であり、家康の先手旗本四将の一たる榊原康政はこの出自である。斎藤利三の実兄が入嗣した石谷氏は朝廷の理財を鎌倉末期より担うこととなった山科家の遠江における西郷荘の代官を任じた西郷氏と関係をもったと考えられ、西郷氏とは仁木義長が肥前に赴いていた頃に被官となり三河・守護代を任じた族であるとされ、西郷氏の源流は有道惟能が家令を務めた主家の弟となる藤原隆家の流れを唱えて肥前に蟠踞した族であった。蜷川親長が所領を喪った丹波・船井郡は若狭湾に注ぐ本邦屈指の氾濫河川である由良川を派しながら、奥丹波と称され現在は兵庫県に編入されている氷上郡や篠山盆地を擁する多紀郡と接しているが、この船井・氷上両郡境を成して本州島にて最低標高の分水嶺を越える途次に築かれた黒井城を拠点とした族こそ、本能寺への寄せ手に加わった赤井氏であり、遠江在地の葛俣氏を出自とし武田信玄の家中へ馳せ小幡姓を与えられた甲州流軍学の祖が戦国三将の一に挙げる人物が赤井氏嫡子を後見して"丹波の赤鬼"と称された赤井直正であり、他の一を長宗我部元親とする点には遠江の在地領主らの源流を示唆するものを感得する。鎌倉初期を生きた足立遠元の後裔が在地した丹波・氷上郡下には芦田の字名が見られ、江戸幕府の『寛政重修諸家譜』はこの芦田氏を信濃・水内郡下に本貫をもった族とするも、何かを隠蔽せんと図る幕府の意図が感じられ、芦田氏の真の出自は平安最末期に信濃・佐久郡下の依田城を拠点とした族より室町期に小県郡下に蟠踞した滋野一党より奪取した芦田城へ入った者らの後裔である可能性が有り、赤井直正が後見した同氏の嫡子は丹波の領知を信長より下命された明智光秀の臣として斉藤利三が赤井氏の本拠であった黒井城を接収すると、遠江の眷族を頼って後、信濃に在地した芦田氏なる士の許へ隠棲していた処、関ヶ原合戦の直前に石田光成の配下に転じた旧臣よりの書翰を家康へ献じ、戦後、大和・十市郡下に所領を得ている。斉藤利三の妹が嫁した長宗我部元親の死没に因り家督を継いだ盛親は関ヶ原合戦に臨み東軍へ与するべく、甲賀口へ向かった処を水口を采領していた旧丹羽長秀・臣の長束正家に阻まれ、長宗我部軍は正家により合戦場の遥か外側へと誘導されており、長宗我部軍を抑えて干戈を交えたのは有道惟能の母方祖父である平公雅より派して源義朝を尾張・知多郡長田荘下の自らの邸で謀殺した忠致の後裔と唱える永井直勝により長久手合戦で討たれたとする池田恒興の息であった。長宗我部盛親が関ヶ原合戦を前に家康の許へ差遣した士は十市新左衛門なる者であったと伝わり、有道氏の系譜を伝える古文献は大和・十市郡に発祥した古族と有道氏の源流は祖を等しくすると主張している。南北朝期頃に成ったかと思われる文献では、春日大社に奉仕する氏子として大和国内の在地領主らの名を列記しており、該文献にて十市氏の後に柳生氏の名が見える。

 三河譜代の将らを越えて家康麾下の将らの筆頭格に遇された井伊直政の父・直親は今川軍の先鋒として桶狭間で討たれ、信長の宿将として太閤の下命により長久手で戦没した池田恒興の息・輝政は赤松氏の旧領へ封ぜられ、長篠合戦にて城を攻囲した側に在った小幡氏は遠江の在地であった葛俣氏の流れとは異にして上野・甘楽郡小幡郷を本貫とする有道惟能の後裔とされ、籠城した奥平氏と同源となり、信玄麾下の"赤備え"部隊を小幡氏とともに務めた山県昌景の後裔が彦根藩主に仕えた如く、小幡氏が奥平氏の中津藩に仕えている点、自らの生命を犠牲に後裔の生命の保障を家康に託したかと想像したくなるような構図を類似させている。大阪・奈良に次いで大規模な古墳が集中する群馬県南西部は往古には足柄関を抜ける東海道より好まれた関東への陸路として東山道の通う交通の要衝であったが、その経路上の兵站部に小さく点在した多胡郡下に鎌倉初期、多治比姓を称えた多胡荘を営む族が見られ、古代・河内王朝の在った河内・丹比郡を本拠とした古族・多治比氏を出自とした葛原親王は桓武平氏の源流を成す人物とされ、葛原親王の家令を務めた常陸・筑波郡に旧在地したとされる丈部氏道の後裔と伝わる有道氏の流れとなる奥平氏の本貫もまた同郡下に在り、多胡郡にはさらに"多比良"姓なる在地領主が在ったと云う。平安京の国訓である"たいら"京を平姓の謂とする説に対し、多比良姓における良とは多治比の流れを意味する良として良血の意とともに列ぶ意の羅の音を帯した字義とするのは失当であろうか。後醍醐帝の息である護良や懐良、宗良の訓を"よし"とする説に対しても、後醍醐帝の血が"ながれる"意として旧来の"ーなが"と訓ずるのを正当と考えたくなる。鎌倉初期に上野・多胡郡に在地したと伝わる多比良氏より派したかと憶測したくなる伊勢義盛は源義経の郎党として上野・碓氷郡下に邸址を伝えるが、伊勢三郎義盛の本貫は伊勢国内とされながら、皇室の祖廟たる伊勢神宮の土地を預かった関東の在地領主らは、朝廷に対する不輸・不入の特権を求めた。頼朝に誅された義経の郎党・伊勢義盛の後裔が、桓武平氏の祖となる平高望が土着した上総の守護を鎌倉初期より任じた足利氏の根本被官である伊勢氏の源流とされ、鎌倉末期に平俊継―宗継―伊勢貞継にいたる系譜を伝える族が初の室町幕府・政所執事となった貞継以往、近世に至るまで貞の偏を通すも、833年に朝家より有道姓を与えられた常陸丈部がその先代より中関白・道隆の家令を務めた有道惟能の父の先代に至るまで継の偏を通したとする文献を鑑みるに、何か符合する妙を得る。柳生宗厳に剣を伝えたとされる上泉信綱は上野・厩橋の上泉郷に在地したと伝わり、江戸中期に成ったとされる『関八州古戦録』は何を典拠としたか信綱の本姓を金刺と記しており、南北朝期に幕府方に圧され上野の本貫より奥平氏が移徒した三河・設楽郡作手郷より長篠を経て、三河・遠江国境を成す丘陵を越えると井伊氏の本拠地に至り、引佐郡井伊谷郷を近くして金指の地名を見る点、出雲族を祭神とする諏訪大社・秋宮の神職であった金刺盛澄は義経とともに朝廷へ任官しながら後に頼朝の陪臣となっており、盛澄の弟はまた源義仲の郎党である手塚光盛であった。因みに、義仲の郎党であった樋口兼光・今井兼平兄弟の本姓は中原とされ、有道氏の系譜を伝える文献は大和・古族たる十市氏とともに中原氏もまた同源であると主張する。柳生宗厳に剣を伝えた上泉信綱は、伊勢に在地した愛洲移香斎より剣を授かったとされる。

 北条四郎時政の出自を示唆する意図が感じられる『愚管抄』巻第六の一節は、"ミセヤノ大夫行時"なる士が同族の子弟を猶子としたことを記している。有道氏系図は上野・多胡郡片山郷を本貫とした惟能の後裔があったと記すが、有道惟能の後裔とされる在地領主らは上野・南西部とともに武蔵・児玉郡下へ展がり、『吾妻鏡』や『源平盛衰記』に顕れる庄頼家の父にとって弟として位置づけられ、同郡四方田郷を本貫とした弘長について史家が実在を疑っていることを先述した。四方田弘長の兄弟とされる久下塚弘定もまた同様に怪異を見せ、児玉郡久下塚郷に遺構を発見させず、然るに弘定の息・親弘の邸址が児玉郡の臨む利根川に沿って下った埼玉郡北部に発見されている。久下塚弘定の本貫は先述した本庄時家の本貫と同じく北堀郷と伝えられるが、庄頼家の父や久下塚弘定、四方田弘長らの兄弟より曽祖父の弟として位置づけられ、児玉郡真下郷を本貫とした族が見出される。九条兼実卿の『玉葉』は文治元年に源義経を京都の逗留先であった堀川に真下姓の士が塩谷姓の士とともに渋谷昌俊に引率され襲撃した記事を伝えるが、有道惟能の後裔として児玉郡真下郷に初めて在地した士をひとつの文献は基直とし、日蓮正宗大石寺に遺る文献が互いに従兄弟関係に有ったとする北条時政と熊谷直実らの祖とされ、摂関家の家人として在京していたとされ源義家の母方祖父と云う平直方と偏を等しくするが、他の文献は基行として有道惟能にとって次孫とされる経行の後裔らが上野に展がった者らの通有した偏と等しくし、系図学の権威であった故・太田亮氏の『姓氏家系大事典』では誤植を犯したか敢えて慎重を期したかは定かとせずも単に基の一字を以て記している。


藤原保昌の父=致忠、保昌=摂津・平井郷  松平親氏・奥平貞政を助命=平井xx守

菅原道真>高視(高見王)>雅規(平公雅)>薫宣>持賢>永家>播磨守永珍>5人>柳生宗厳

武蔵武芝の女⇒菅原正好・室

武蔵武芝の女⇒平将恒・室


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Ⅱ第9話 三島由紀夫の出自

2013-01-12 | 日本史疑
 現皇室の始祖である継体帝の第二子より派した孫は十市王と号し、その名から連想させるものが平安期から江戸期に至るまで太政官少納言局を差配した中原氏の源流を成すとされる大和に在地した十市県主であり、十市県主はまた或る古書の伝える処に拠ると他編にてしばしば論じてきた有道氏の源流でもあるとする。皇族たる十市王の息は多治比古王と伝わり、この名もまた河内・丹比(たじひ)郡を拠点とした古族を想起させる。天智帝の諱は葛城であって橘氏祖もまた皇族時代には葛城王を称え、河内王朝の権臣であった葛城氏に焦点を当てて葛城王朝の存在に脚光を浴びせる説も有るが、大和・葛城郡から生駒・金剛両山地を縊るように二上山麓を貫く"山門"を通って難波へ至る"たけのうち"街道上の大阪府羽曳野市飛鳥には飛鳥戸神社が建つ。延喜式にて名神大社とされる同社は江戸期まで牛頭天王社であった。皇統を後世に伝える継体帝の第三子より4世となるかとされる皇族はまた百済王と伝わるが、巨大な応神天皇陵の横たわる大阪・羽曳野市の前身たる河内・安宿(あすかべ)郡に在地した飛鳥部奈止麻呂の女であった百済永継より百済国の遺民を出自とした母をもつ桓武帝が生した良峯安世を有道氏を出自とする可能性の濃厚な丹羽長秀の後裔は遠祖と唱え、桓武帝が多治比氏を出自とする女より生した葛原親王に833年朝家より有道姓を与えられた丈部氏道は家令として仕えていた。百済永継が藤原内麻呂との間に生した息らが、日野家祖となる真夏と北家の大立者である冬嗣であったことは他編で散々言及した。9世紀後葉を生きた吏僚たる百済有雄は河内・高安郡に出生したがその出自は飛鳥戸造であって、863年に百済姓を与えられた有雄の本拠地を『日本三代実録』はやはり河内・安宿郡であったと伝えている。
 有雄と同じ9世紀を生きた画匠である百済河成もまた百済遺民を出自として、旧姓を"わ"ではない"余"とし、7世紀に百済国王の息として来朝した善光は、天智帝の治世下において百済・日本連合軍が白村江で唐に敗れ、百済国王が高句麗へ逃亡した為、日本へ帰化せざるを得なくなった。高句麗と同系とされる扶余族が百済国王の出自とされるが、百済王善光の曽孫となる敬福は天平年間に陸奥介へ補され、749年に陸奥・小田郡より産金を遂げ従三位に叙されている。同年にはまた上総在地の丈部大麻呂が該産金の功を以て無位より一挙に従五位下へ叙され、その後の百済王敬福は橘奈良麻呂の乱に加担した多治比犢養や小野東人らを拷問で殺している。百済王敬の息か孫とされる遠宝は常陸守を任じ、遠宝の孫はまた桓武帝の即位直後に陸奥鎮守権副将軍へ任じられており、出生地を常陸・筑波郡とし葛原親王の家令を務めた丈部氏道とともに有道姓を与えられた者には氏道の近親と思われる道の名が在った。やはり百済王敬福の孫となる俊哲は奈良朝期に蝦夷征討へ加わっており、敬福の孫となる女は桓武帝の後宮へ入り、出雲族を祭神とする一宮の所在する能登・羽咋郡内に所領を与えられている。
 大和・葛城郡楢原郷に在地した古族を出自としたか8世紀を生きた楢原造東人は、駿河守に在任中の750年に任地の庵原郡多胡浦浜にて産金を遂げ朝家より褒賞されるが、東人の後裔は朝家より滋野姓を与えられ信濃国衙へ赴任し、国衙を間近くする小県郡下の在地領主らが滋野姓を称えた遠因を成している。大和古族や渡来人が産金に関わり、桓武帝を始め帝に先立つ奈良朝の東北征伐の動機が那辺に在ったかを推測し得る。第2編第5話にて論じた上野・多胡郡名称の謂を想起すると、多胡郡奥平郷を本貫とし有道姓の出自であった武家と源流を等しくするとされる播磨・佐用郡に在地した赤松氏と同族と推測される浦上氏の拠点とした揖保郡下には、河内・安宿郡に建つ飛鳥戸神社の帰属した牛頭天王社の本宗と目される広峯神社が建ち、浦上氏を出自とすると唱えた江戸幕閣の堀田氏は尾張・中島郡下の牛頭社である津島神社の社家であって、やはり牛頭社として著聞する京・八坂社の社家である堀田氏との眷属関係もその辺から云われたものと思料される。しかし、堀田氏は遠祖を古代に関東から東海道に分布した丈部を管掌下とした阿倍氏と源流を一にする紀姓羽咋臣と嘯いた動機は何であったか。
 本名を平岡とする作家・三島由紀夫の祖父として内務官僚であった人物の出生地は播磨・印南郡志方郷とされ、斯地には景行帝后陵と后の息となる日本武尊の生誕地伝承が見られ、農水省を局長にて勇退した三島の父が生きた時代を襲った帝都の震災後、遷都の候補に挙げられた地の一つでもあった。後の太閤殿下による"三木城干殺し"で有名な播磨東部を拠点とした別所氏もまた播磨央部の浦上氏とともに播磨西部を拠点とした赤松氏との眷属関係が認められ、往時の印南郡志方郷に在地した士は別所氏の配下に在った。赤松氏と同源となり南北朝期に上野から三河へ転じた武家のさらなる源流となる朝家の吏僚が発祥した常陸に係り、1319年銘を記す文献は同国在庁官人であった大春日氏の所職に係る紛争に関するものであり、大和・添上郡を本貫とする春日氏より派した族が近江・滋賀郡を拠点とした小野氏であったが、同文献は大春日氏を支援する者らによる弁護を内容とするものとされ、大春日氏を支援した者らの中に百済家成の名を見出す。故・石井進東大名誉教授の著した"中世成立期の軍制"(『鎌倉武士の実像』平凡社刊 2002年)に拠ると、百済家成の名には平岡との傍注が付されている。百済家成は鎌倉幕府の動揺が愈々深刻となる1331年には、常陸国司命にて「重代相伝証文等之旨」に拠り常陸国衙にて検断職(警察)等の職責を永代管領することを下命されていると上書は言及している。北畠親房が『神皇正統記』を執筆した常陸には、親房に左袒した関氏の居城を間近くする旧筑波郡下の大宝神社近傍に新田義貞の倒幕に加わった堀籠有元を連想させる堀籠郷の字名を見出す。堀籠有元の遠祖は『尊卑分脈』では隆元と記される北条時元であり、時元は源頼朝の実弟である阿野全成と北条時政が武蔵一宮の神職として藤原仲麻呂の乱の鎮定に功を成した丈部不破麻呂の後裔たる武蔵氏を出自とすると思われる足立遠元の女より生した阿波局との間に生まれた息であり、倒幕に蹶起した時の堀籠有元の居城は下野・安蘇郡朱雀郷に所在した。
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Ⅱ第8話 宮本武蔵の出自

2012-12-26 | 日本史疑
 朝廷が因幡国へ賦課した庸としての銅を鋳造した銭貨が運ばれた道は現在の鳥取県八頭郡下に所在する智頭から兵庫県下へ通ずる鉄道に概ね沿ったルートであったが、智頭急行が岡山県下を通過する途上に宮本武蔵駅が在って武蔵の生誕地として観光客を誘っている。しかしながら、武蔵が養子とした伊織が記した処に拠ると、武蔵の生国は播磨であったとする。智頭急行が岡山県下の山中を抜け、兵庫県下に達すると往古に赤松氏が拠点とした播磨・佐用郡へ到り、同郡福平郷には武蔵が生涯初めて決闘を果たした記念碑を見せる。武蔵は大坂の陣にて水野勝成の客将として参じて後、伊織とは異にする水野氏臣の息を養子として姫路城主の本多忠刻の許へ出仕させており、武蔵はこの本多氏との間に明石の町割や姫路・明石の城、寺の作庭を請け負っている。1624年に武蔵は尾張藩へ寄留し、付家老の請いに因り門弟を推挽しており、翌々年には播磨・印南郡米堕郷に在地した田原久光の息である伊織を養子とし、明石城主・小笠原忠真へ出仕させた。この寛永年間に吉原を開いた庄司甚右衛門の書に拠ると、武蔵は島原の乱の直前まで江戸に在府したことを伝え、18世紀前葉に庄司勝富の記した書では往時に吉原の名主であった並木源左衛門と山田三之丞は武蔵の門弟であったとしている。徳川の要路へ出入りした宮本武蔵が吉原の事業者らと因縁をもったことは、武蔵が土木を業としつ徳川の諜報活動を担う存在であったことを憶測させる。若き太閤殿下は遠江・引佐郡下の頭陀寺城主であった松下之綱の従僕であったことが云われ、松下之綱の女は幕僚となった柳生宗矩の室であった。太閤殿下の出世譚にて初めて城をもった近江・長浜城下は今日も東京都心並みの幅員を見せる道路網が画然とし、京洛や大阪城下にての太閤の偉業を想うと、宮本武蔵もまた太閤と同じような業を果たしていた感が有る。
 養子・伊織が出仕した小笠原氏が小倉へ転封となり、1638年に島原の乱が勃発すると武蔵は小倉城主の甥である豊前・中津藩主の後見を務め、養子・伊織は戦功に因り4千石と云う大身となって、小笠原家中にて一門・譜代を越えた首席家老に就いているが、これもまた武蔵の江戸幕府に負った任務を推測させる。島原の乱の後、武蔵が日向・延岡城主である有馬直純へ書状を認めている点、同様に松井友閑にとって兄に該る人物の孫として細川氏臣へも書状を送っていることが上の推測を補強する。延岡城主・有馬氏の源流が在地した肥前・彼杵郡は元寇にて奮迅した水軍を統べた松浦党の根拠地を近くして北条氏の被官であった諏訪氏の関わった社が建ち、江戸末期に成った『系図簒要』が織田信長の生家と源流を等しくすると示唆する内管領・長崎氏を連想させる県名を与えられている。肥前・有馬氏と眷属関係に有った大村氏の家中にて幕末に藩論を主導した治三郎の息が長岡半太郎であるが、長岡氏は元寇を前に幕命により肥後・玉名郡野原荘へ転封となった小代氏と同族であり、長岡氏の本貫は小代氏の本貫である武蔵・入間郡正代郷を近くする同郡長岡郷であって、後述する上野・多胡郡奥平郷を本貫とした武家と同じく有道氏を本姓とし、足利義昭の陪臣であった細川藤孝は旧長岡姓であった。1640年に武蔵は肥後・熊本城主である細川忠利の許へ赴いている。松井友閑は1575年に信貴山城で謀叛を果たした松永久秀やその3年後に太閤殿下による播磨・三木城攻囲の最中その退路を脅かすように伊丹城=有岡城で謀叛を果たした荒木村重へ説得に赴いており、荒木村重の許へは太閤殿下の側からも旧は小寺政職の配下であった黒田孝高が派されている。実に、播磨東部に拠点をもった三木城主の別所長治や姫路城代として播磨央部に在った小寺氏らは播磨西部を拠点とした赤松氏の分流であり、播磨守護・赤松氏の下で守護代を任じ揖保郡を拠点とした浦上氏もまた赤松氏とは同族である可能性が濃厚であって、摂津に在地した有馬氏もまた同様である。伊丹に割拠した荒木村重の出自は三木城から北方へ向かって進んで現在は兵庫県に編入された丹波・多紀郡下の八上城主・波多野氏であり、浦上氏の下剋に因って赤松氏が倒れた後、さらに備前・美作を圧さえて浦上氏を駆逐した宇喜田氏の家中へ参ずる小西行長の出自は多紀郡に北接してやはり旧は丹波に属する氷上郡を制圧した赤井氏に逐われる丹波・守護代の内藤氏であった。故・太田亮氏に拠ると播磨・佐用郡に在地した赤松氏の源流は上野・多胡郡奥平郷を本貫とした有道姓を唱える族と等しくすると云う。
 現在の神戸市が跨る摂津・有馬郡と菟原郡の後者に所在する河内国魂神社に奉仕した族が凡河内氏であったと伝え、同氏の称である凡河内は後に摂津・和泉・河内に分かたれ、現在の皇室の祖となる継体帝の息として即位した2帝は、今の鳥取県八頭郡に発祥し、熱田神宮の神職を世襲した族を出自とする尾張草香の孫となり、一方の帝は摂津国造・凡河内石麻呂の女を妃としていた。醍醐朝期を生きた三十六歌仙の一である凡河内躬恒は、浦上氏が拠点とした播磨・揖保郡下に所在し牛頭天王社の本宗と目される広峯神社・社家の高祖とされている。同じく牛頭天王社として京洛の八坂神社と尾張・中島郡下の津島神社の社家であった族が堀田氏であり、後者の社家を出自とした武家が近世幕閣にて重きを成している。宮本武蔵の養子となった後に小笠原公へ仕えた伊織は1654年に主家の城下に武蔵の顕彰碑を作っているが、同碑文では武蔵を「播州赤松末流」とし、同碑を作る前年に伊織が出生地の神社へ寄せた文献にて記す「作州之顕氏神免」―美作にて顕著な家門である新免氏の養子となったとしている。播磨・佐用郡から吉川英治の講談で叙べられる武蔵の生国を経て尾張氏の発祥地へ到る途上に在地した新免氏が"武門の名家"であったとするのは、18世紀に武蔵の養子となった伊織の出生地と隣接する平津郷の医師が成した『播磨鑑』に見える伊織の父が仕えたとする三木城主と同族であったことを想わせる。伊織の眷族後裔は伊織の出生地にて近世に名主を務めており、『播磨鑑』の載せた巷伝は結構信憑性をもつ感を得る。『播磨鑑』に拠ると、宮本武蔵の出生地は揖保郡宮本郷と云う。
 宮本武蔵の養子となった伊織が1653年に文献を寄せた出生地の神社へは、『播磨鑑』に拠ると伊織からまた三十六歌仙の画を寄せられたとする。武蔵を養子とした美作在地の族と姓を等しくした新免無二なる士が、姫路城代の小寺氏の配下に在った黒田孝高の後裔となる福岡藩主に仕えたことを慶長7年、9年の黒田藩分限帖が教え、豊後・日出城主であった木下延俊の日記にては1613年に新免無二より剣を指南されたことが記されている。木下延俊の父は織田家中の士であり、その叔母こそ太閤殿下の正室であり、他が浅野長政の室であった。細川氏臣が1672年に記した家記に拠ると、云わゆる"巌流島決闘"の後に武蔵が門司城代を任じていた家記著者の許へ逃げ込み、豊後に滞在していた新免無二の許へ送り届けたと云う。
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Ⅱ第7話 因幡・八上郡、河内王朝そして蝦夷と奥州藤原氏

2012-12-25 | 日本史疑
 考古学者に拠ると鳥取県下に所在する馬ノ山古墳は近畿における前期古墳に較べても外形や内部構造、副葬品などの諸点で比肩し得るものとのことだが、これを大和国家の勢力が前期古墳期における山陰への浸透と解すべきであろうか。同県下の石馬谷古墳からは石製の馬形が出土しており、同様なものは福岡県と熊本県以外には発見されていないと云う。朝鮮半島南端より対馬を経て玄界灘へと渡海する経路よりは、対馬海流に乗って山口県萩市内に所在する須佐湾辺りへ上陸するか島根半島辺りへ上陸する方が往古には楽であったのではないか。出雲族の祖神は須佐と呼ばれる。現在の鳥取市より岡山・兵庫県境へと向かって分け入った中国山地の一角を占める山間部は、平将門が蹶起した頃に編まれた『和名類聚抄』にて八上郡と記される。八上郡衙の所在地は国道29号線の通う郡家(こおげ)の近傍に在ったとされ、国道29号を兵庫県境へ向かって進むと安部の地名を今に遺し、『和名類聚抄』では往古に八上郡下に曳田(ひけた)郷が在ったとする。『古事記』にて崇神帝の発遣した四道将軍の一として東海道へ向かった孝元帝の孫となる建沼河別(たけぬなかわわけ)を祖とする阿倍氏の後裔にて、引田(ひけた)臣を号した流れが主流であったと云われるが、『日本書紀』にて阿倍引田臣比羅夫は658年に越国守として粛慎を征伐し、翌年には蝦夷を、さらに翌年には再び粛慎を征伐したと伝え、『紀』が漢人の入植した遼東地方からずっと奥まった現在の中ロ国境周辺たる沿海地方に棲息した粛慎の語を用いて蝦夷と区別している点には興味をそそられ、鳥取県下の国道29号にて安部と若桜(わかさ)の途中には丹比(たじひ)の地名を見出す。河内・丹比(たじひ)郡と接した志紀郡の号は大和国家の巻向宮が置かれ纏向遺跡の発掘された大和・磯城郡を連想させ、やはり丹比郡と接した安宿(あすかべ)郡は山陰から難波を経て生駒・金剛両山地を縊るような二上山麓の"やまと"を貫いて葛城郡を結んだ"たけのうち"街道が通い、『和名類聚抄』にての丹比郡は『吾妻鏡』では丹北郡・丹南郡へと分割されるが、『鏡』はさらに丹比郡央を八上郡と記している。
 中国山地よりほぼ真北に向かって鳥取市内を流れ日本海へと注ぐ千代川畔の途中にて国道53号と分岐し岡山県境の辰巳峠方面へほぼ西へと向かう国道482号の通う佐治の地は平安末期を生きた佐治道貞の本貫であり、道貞は幼名を北条氏と等しく四郎として本姓を尾張氏と唱えたが、尾張氏は累代に亘って八上郡司を務めたと云う。佐治道貞の息である康貞は曳田郷へ入部し、もう一人の息である重貞は北条義時に与し和田義盛の討滅に立ち働いている。概ね南北に走る国道53号を岡山県境へ向かった中国山地北麓には埴師の地名を見出し、『和名類聚抄』にて土師郷の在ったことを識る。『日本書紀』に顕れる土師氏祖として野見宿禰は崇神帝の下命により出雲より来たって大和・葛城郡下の当麻郷を領掌した者と相撲の取り組みを果たし当麻郷を与えられたとされるが、『播磨国風土記』は野見宿禰の死没した地を現在の兵庫県龍野市と記している。往古に朝廷の因幡国へ賦課した庸として斯地での産銅を以て鋳造した銭貨は、国道53号上の埴師の北に位置する智頭から兵庫県へ通ずる鉄道と平行した道を辿って運ばれたと云う。智頭急行にて兵庫県下の佐用から南東へ向かった地が、野見宿禰の死没した地となる。佐用から智頭急行をさらに南へ進むと赤松則村が拠点とした白旗山が在る。故・太田亮氏に拠ると、赤松氏は上野・多胡郡奥平郷を本貫とした有道姓を出自とする族と源流を等しくすると云う。いま一つ記さねばならないことは『和名類聚抄』において亘理の郷名を見出すことであり、藤原秀郷より6世とし奥州藤原氏の源流となる経清が拠点とした地もまた陸奥・亘理郡と号されたことである。亘理郡と隣接した伊具郡へは北条義時が伊佐朝政の女との間に生した有時が所職を得ているが、伊佐氏の本貫は常陸・真壁郡下にて鬼怒川畔に所在した伊佐荘であった。近世大名たる仙台藩主は実に伊佐氏の流れである可能性が濃厚であるが、伊達氏自らは藤原魚名の次子より派した玄孫となる山蔭の後裔を唱えている点は足立遠元や安達盛長の出自に係る伝と酷似する。藤原秀郷は魚名の四子より派した玄孫であるが、魚名の四子は藤姓であるにも拘らず諱を藤成として、藤成の母は熱田神宮司を累代世襲した尾張氏と同源とされる摂津一宮・住吉社の神職であった津守氏を出自としていた。また、秀郷の祖父・父ともに母の出自は下野在地の鳥取氏である。しかし、この鳥取氏はまこと下野に古くから在地した原住民であったろうか。播磨・佐用郡に隣接して飾磨(しかま)郡の号を見るが、現在の宮城県北部にも色麻(しかま)町の称を見出し、後者はアイヌ語を語源とするのではないかとの説を見る。『日本書紀』にて阿倍比羅夫が征伐した対象を識別した一方として東北の産金を支配していたかとも伝わる蝦夷は朝家から粛慎と区別されていた理由をもった筈であり、古代史家が説く河内王朝の存在を想起するならば、朝家から粛慎とは区別され桓武朝が征伐に熱意を奮った蝦夷とは実に古代王朝の遺民が東北に残存した勢力ではなかったか。
 『尊卑分脈』にて藤原秀郷の母は下野掾・鹿嶋氏の女とされるが、鬼怒川下流域に建つ関東最古社の号を称えた族は果たして往古より斯地に在地した族であったものか。奥州藤原氏の源流を成す秀郷6世は俘囚の長たる安倍頼良を娶った時、陸奥・亘理郡下に所在した鹿島神社の近くに居館を設けたと伝わる。
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