新聞記者になりたい人のための入門講座

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スクープの数々22・下山事件

2011年05月11日 | ジャーナリズム

 

  件 不屈の「自殺」報道

 

              国鉄総裁 ナゾの死

 

 下山事件近く結論発表」「特捜本部、自殺と断定」「きょう合同捜査会議」(1949=昭和24=83日付毎日新聞朝刊1面)

 国鉄(現JR)の下山定則総裁が76日未明、東京足立区の常磐線でれき死体となって発見された事件を、この記事は自殺と報道していた。

 この結論にたどり着くまで、社会部の取材班は悪戦苦闘した。当初、法医学の権威、古畑種基東大教授が立会った解剖で死後れき断とされ、他殺の疑いが強かった。しかし、毎日新聞は現場付近で、生前の下山総裁の目撃者多数を探し当てた。また、自殺に傾く警視庁の動きも正確に追っていた。法医学者の間では、「生体れき断もありうる」と古畑鑑定に異を唱える人も相次ぎ、生体れき断か死後れき断か、自他殺論争が起きていた。

 一紙だけ自殺説を強める毎日新聞は「科学を信ぜざるもの」と、他紙から攻撃を受けた。警視庁担当記者は時の官房長官から、自殺説を控えるよう介入も受けた。労働組合と対立し、人員整理を進める政府には、下山総裁が職員との板ばさみで悩み自殺したのでは、都合が悪かったのだろう。この報道は、スクープになるはずだった。

 合同捜査会議は予定通り83日、東京・碑文谷の警視庁刑事部長官舎で行われた。途中、警視総監から電話があり、刑事部長は「だめだ。発表はここではできない」と姿を消した。会議終了後、「下山総裁自殺」を発表する段取りは中止され、スクープは一転、大誤報になった。

 その後、取材班は解散しても、記者たちは真実の追求を続けた。米軍謀略説も入り乱れ、自他殺論争は延々と続いた。しかし、秘密のベールがはがされる時が来る。警視庁史編さん委員会が78(昭和53)年3月に発行した「警視庁史 昭和中篇(上)」は、警視庁が自殺と認定していたことを明確に記述した。警視庁の正史で、他殺説の根拠をすべて否定していた。

 事件から37年目の8616日付産経新聞は、米国立公文書館から入手した下山事件の現場写真をスクープした。遺体の胴体部分は腹部で180度ねじれ、心臓は飛び出し、胸は扁平にひしゃげていた。法医学者の鑑定では、下山総裁が立ったまま列車に激突、自殺したのは明らかだった。同年126日付朝刊では、すでに定年退職していたOB記者が元刑事部長にインタビューし、警視庁は自殺の結論を出していたことを明らかにした。226付朝刊では、米国立公文書館所蔵のGHQ(連合国軍総司令部)極秘文書に「これは悪い報道だ。彼らを黙らせろ。自殺ではない」と毎日新聞の報道にストップをかけたと見られる文書の存在が報道された。ある大佐を通して、警視総監に圧力をかけたと見られる背景も明らかになった。

 37年目に歴史的なスクープにたどり着いた不屈の記者魂は、今も毎日新聞の記者に受け継がれている。(20081月号から。写真:下山事件を自殺と断定した世紀のスクープ紙面は、占領軍の介入でその日のうちに誤報に変えられ、真実が自殺と判明するのに相当な期間がかかった)



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