泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

死に至る病

2009-12-02 18:27:17 | 読書
 キェルケゴール。
 デンマークの哲学者。実存思想の始まり。
 具体的であるということ。一人であるということ。
 彼自身、肉体的なハンディを、まさに背負っていた。せむし(背骨が曲がって弓なりになってしまう病気)だったと言われている。
 当時(1849年)、ヘーゲル哲学がブームだった。止揚、弁証法という、抽象的な概念操作。言葉によってすべてが(神さえも)把握できてしまうような、産業革命に呼応したような思想。キェルケゴールは、徹底してヘーゲル批判をした。
 体が、罪が、また信仰がそうさせたのでしょうか。
 フロイト以前の人が、主体こそが真なりと言い、神の前に人間は一人だと言う。それはやはり画期的なことだと思う。
 僕は「神」を、すべて「命」と読み替えた。すべてに共通する存在。今ここにあり、私と関係しており、人間でもある。それは永遠であり、僕以前にも以後にもあるだろう。生物学的に言えば、それは海中のバクテリアということになる。物語的に言えば、命の始まりは神となる。光となる。
 絶望とは死に至る病である。
 絶望して、落ちるところまで落ちて、お先真っ暗で、頼るものもない。非難され、助けるものはなく、みんなに死ねと言われる。自分で自分も責めている。死ねばいいんだと思いつめる。そんな状態で、一体何が彼の見方でしょうか。体であって、命の源。それを神と言い、その働きを信じるなら、そうせよとキェルケゴールが言っているならわかる。そう納得した。
 絶望とは罪である。命である神を信じられない、あなたにある何か。それを躓きと言う。拘りでしょうか。信念でしょうか。それを心理では、認知療法などで解きほぐしていく。自己否定とは躓きであり、罪であり、そこに留まったままであることが一番の罪。絶望とは罪であり、死に至る病である。
 しかしみな、死んでゆく存在である。ここから逃れることはできない。
 不安は尽きない。言葉だけによる楽園も存在しない。
 じゃあどうすれば、どうすればいいのか。神々からは沈黙を教えられる。
 そう、聴くこと。神である命に。
 私の命。使命。それをユングでは自己という。フロイトでは無意識。
 ロジャーズでは、「To be personal is to be universal(個人になっていくことは人間になっていくこと)」。
 菊田和弘では、「泉を聴く」。
 学生以来のキェルケゴールでした。難しくて、一割も彼を理解できたとは思えない。でも、感情で納得してしまうのです。言葉は方便だと、彼も知っていたように感じるから。
 大切なのは信じること。自分に則して行動すること。命を粗末に扱うのは罪だということ。
 それにしても信頼。やっぱり信頼。キェルケゴールは神に対して、命に対して。現代の僕らは、何に対して? 社長?店長?上司?部下?先生?子供?政治?詩人??
 信頼という橋を、一つでも多くかけていくこと。その具体が、友人なのかもしれない。伴侶となっていくのかもしれない。
 言葉とは、もともと他人。言葉をつないでいくことは、他人と他人をつないでいくこと。その具体が、小説。
 僕のやりたいこと、本質が、少しずつ現れてきたのだと、卒論以来のキェルケゴールに接して、じわじわ思い出されます。
 決して止まってはいなかった、断絶されてはいなかったと思う。つながっている。
 多くの、深くまで関わってくれた人たちを思う。優しさ。
 今までのすべてを込め、やはり作品としてお返ししていきたいと思う。強く。

キェルケゴール著/斎藤信治訳/岩波文庫/1957
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