さらさらっと、お茶漬けのように読みました。それでいて、記憶に残るものがあります。
『マドンナ』では、40過ぎの妻子持ちの男が、20代半ばの新入社員の女性に恋をしてしまう。まずいな、と自制しながら勝手な妄想が止まらない。妻にも見破られる。しかし、そんなことはないと隠すが隠し切れない。ただ好きなだけならまだいい。しかし、嫉妬もついてくる。28の独身の同僚の男に、彼女と一緒にならないように操作する。彼もそれに気づき、酒が入って喧嘩に。翌朝、ぼこぼこになった顔を互いに見て、打ち解けてしまう。やがて、まったくの中立を保っていた彼女に、意中の男が現れる。二人の前に。彼女は頬を染め、他は眼中になく、恋する女になってしまう。それを見た二人は、肩を叩き、慰めあう。幻想は、一挙に消えてしまう。
『ボス』では、中間管理職の男の上司に、海外勤務を経た女性がやってくる。水曜はノー残業デー。喫煙や接待ゴルフも禁止。オペラ鑑賞、昼だけの立食パーティー。次々に今までのやり方が否定されていく。不満を募らせる中年男。ある日、彼女と帰宅の電車が同じになる。でも、彼女は自宅とは違う方向。なんでだろう? 軽い好奇心で男はついてゆく。彼女が入ったのは東京ドーム。水曜の夜のがらがらの日ハム対ロッテ戦。フェンスぎりぎりで双眼鏡を意中の人に合わせて離さない。メガホンを使って「黒木さーん」(元ロッテのエース)と叫ぶ彼女。その光景に触れ、彼はへなへなと力が抜けていく。なんだ、そういうことか。彼女にだって、仕事場以外の気持ちがあった。隙のない、冷徹な、優秀な顔だけではなかった。親しみが、腹の底から湧いてくる。
この本は、ある出版社の人から、「どうして男なのにこんなに女の気持ちがわかるんだろう」と聞いて、買ったものです。読み終えて、なるほどと思う。
僕は今まで、女性のある一面(よいところ)しか見てこなかったのだ。言ってみればいいとこ取り。そこだけを取り出して、美化して美化して、ときには詩まで書いてしまって、僕の想像を押し付けてきた。もちろん実体とはずれているから、彼女には受け入れられない。というか、僕が彼女を受け入れていない。化粧された、いいとこ以外は。最悪なことに、気持ちの重ならなかったことに、いつも後になって気づき、僕は怒りもし、彼女を責めもした。なんて幼稚だったのでしょう。
僕と同じように、彼女にも重層構造があるということ。かつての彼女は、「私にもいろんな顔があるのよ」と言っていた。今さらながら、この意味を痛感します。
社会に適していくには仮面もある程度は必要なのでしょう。しかし、生の人間は、それだけで生きていない。生きてゆけない。妄想や期待は、否が応でも膨らんでしまうのですが、それはそれとして収めて、言葉の向こう、発信源にまで思いを馳せる。その人がどういう人かわかったとき、僕はその人を信頼する。安定した関係が作られていく。その橋がかかる瞬間は、幸せな時と言えるのかもしれない。
著者の奥田英朗は、会社人間として、神経症を患った人として、人生も半ばを過ぎ、もう変わらないだろうと見えるような人までもが変容することを描いている。精神科医の伊良部シリーズもそう。様々な状況で、様々な職種の人が、それでも生き続けるために変わる小説を、意識してかしないでか、執拗に書いているように思える。自分のテーマがあるのでしょう。僕にもある。それでいいのだと思った。それで読者は不満じゃなく、マンネリじゃなく、さわやかな、一歩進んだ感じがするのだから。
少しでも女性を知ることができたでしょうか? 理解できる男になりたいものです。
奥田英朗著/講談社文庫/2005
『マドンナ』では、40過ぎの妻子持ちの男が、20代半ばの新入社員の女性に恋をしてしまう。まずいな、と自制しながら勝手な妄想が止まらない。妻にも見破られる。しかし、そんなことはないと隠すが隠し切れない。ただ好きなだけならまだいい。しかし、嫉妬もついてくる。28の独身の同僚の男に、彼女と一緒にならないように操作する。彼もそれに気づき、酒が入って喧嘩に。翌朝、ぼこぼこになった顔を互いに見て、打ち解けてしまう。やがて、まったくの中立を保っていた彼女に、意中の男が現れる。二人の前に。彼女は頬を染め、他は眼中になく、恋する女になってしまう。それを見た二人は、肩を叩き、慰めあう。幻想は、一挙に消えてしまう。
『ボス』では、中間管理職の男の上司に、海外勤務を経た女性がやってくる。水曜はノー残業デー。喫煙や接待ゴルフも禁止。オペラ鑑賞、昼だけの立食パーティー。次々に今までのやり方が否定されていく。不満を募らせる中年男。ある日、彼女と帰宅の電車が同じになる。でも、彼女は自宅とは違う方向。なんでだろう? 軽い好奇心で男はついてゆく。彼女が入ったのは東京ドーム。水曜の夜のがらがらの日ハム対ロッテ戦。フェンスぎりぎりで双眼鏡を意中の人に合わせて離さない。メガホンを使って「黒木さーん」(元ロッテのエース)と叫ぶ彼女。その光景に触れ、彼はへなへなと力が抜けていく。なんだ、そういうことか。彼女にだって、仕事場以外の気持ちがあった。隙のない、冷徹な、優秀な顔だけではなかった。親しみが、腹の底から湧いてくる。
この本は、ある出版社の人から、「どうして男なのにこんなに女の気持ちがわかるんだろう」と聞いて、買ったものです。読み終えて、なるほどと思う。
僕は今まで、女性のある一面(よいところ)しか見てこなかったのだ。言ってみればいいとこ取り。そこだけを取り出して、美化して美化して、ときには詩まで書いてしまって、僕の想像を押し付けてきた。もちろん実体とはずれているから、彼女には受け入れられない。というか、僕が彼女を受け入れていない。化粧された、いいとこ以外は。最悪なことに、気持ちの重ならなかったことに、いつも後になって気づき、僕は怒りもし、彼女を責めもした。なんて幼稚だったのでしょう。
僕と同じように、彼女にも重層構造があるということ。かつての彼女は、「私にもいろんな顔があるのよ」と言っていた。今さらながら、この意味を痛感します。
社会に適していくには仮面もある程度は必要なのでしょう。しかし、生の人間は、それだけで生きていない。生きてゆけない。妄想や期待は、否が応でも膨らんでしまうのですが、それはそれとして収めて、言葉の向こう、発信源にまで思いを馳せる。その人がどういう人かわかったとき、僕はその人を信頼する。安定した関係が作られていく。その橋がかかる瞬間は、幸せな時と言えるのかもしれない。
著者の奥田英朗は、会社人間として、神経症を患った人として、人生も半ばを過ぎ、もう変わらないだろうと見えるような人までもが変容することを描いている。精神科医の伊良部シリーズもそう。様々な状況で、様々な職種の人が、それでも生き続けるために変わる小説を、意識してかしないでか、執拗に書いているように思える。自分のテーマがあるのでしょう。僕にもある。それでいいのだと思った。それで読者は不満じゃなく、マンネリじゃなく、さわやかな、一歩進んだ感じがするのだから。
少しでも女性を知ることができたでしょうか? 理解できる男になりたいものです。
奥田英朗著/講談社文庫/2005











