聴覚障害である吉田松陰の弟・敏三郎が、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で描かれています。
ドラマを見て検索してこのブログにたどり着いた方々がそれなりにいたみたいで、録画したまま未見だった番組を見ました。
結構出番があったんですね。
大人になりつつある敏三郎が姉にむかって
「きらいだ。姉上が、きらいだ。俺は もう子どもじゃない 子どもじゃない」と訴えます。
現在も使われている手話単語、身振り、手話言語においてきわめて重要な指さし、そして手指以外の箇所、つまり顔の表情や上半身の動きなどの表現をミックスして、とても工夫された表現になっています。そのあたりはさすが米内山(ろう指導)さんです。
言語としての手話の萌芽的な表現とでも呼べばいいのでしょうか。
大人になるという点と、言葉を持つという両面が表現されているのかもしれません。
そうやって敏三郎がメインで描かれている時はいいのですが、それ以外の場面では疑問点がとても多い。
前回も今回も、高杉晋作との会話はどのように進められていたのか、筆談なのか?
それなら筆談した紙を見せるという演出があってもいいかもしれないんですけどね。
また多くの場面で目線を落としているにも関わらず、状況を都合よく把握できていることが多過ぎて。
あるいは人物の後ろにいて、会話が“見えない”位置にいるし。
メインの役者以外は脇に追いやりたいということかもしれませんが。
でも聴こえないんだから見ないと状況把握できないだろう、と思うことしばしばです。
ろう指導は充分足りていても、聴こえない設定の役に対する選出サイドの演出が足りなさ過ぎるという気がします。
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