聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

コロサイ書1章1-12節「キリストにすべての宝が 一書説教コロサイ人への手紙」

2018-01-28 20:24:24 | 一書説教

2018/1/28 コロサイ書1章1-12節「キリストにすべての宝が 一書説教コロサイ人への手紙」

 毎月最後の週は一書説教です。「みことばの光」聖書通読表からコロサイ書を取り上げます。

1.まだ見ぬコロサイの教会へ

 このコロサイ人への手紙は、パウロが書いた教会宛の手紙の一つです。パウロがこの比較的短い手紙を、コロサイという小都市に生まれた教会に宛てて書いたことは一章の最初の部分からも分かります。一方、この手紙の最後、四章18節にはこう書かれています。

四18私パウロが自分の手であいさつを記します。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。

 パウロはこの時、牢屋に囚人となっていました。福音宣教に反対する人々に訴えられて、未決囚として投獄されていました。不自由で思うままにならない生活だったでしょう。そうした中でパウロが書いた手紙は「獄中書簡」と呼ばれ、四つあります。その一つがコロサイ書です。パウロは二度投獄されていますが、最初の投獄で、紀元五七年頃書かれたというのが伝統的な立場です。先週の「使徒の働き」一五章のエルサレム会議からは二十年近く後です。既に三度の伝道旅行で、パレスチナから現在のシリア、トルコ、ギリシアの都市で伝道をして教会を建て、弟子たちを育ててきたパウロの、晩年の手紙と言えます。このコロサイ教会はパウロが開拓した教会ではありませんでした。他のコリント、ガラテヤ、エペソなどはパウロが開拓して育てた教会への手紙でした。しかしコロサイの町はまだ訪れたことがなく、その弟子たちにも逢ったことがない、そういう教会に対してパウロが認(したた)めた、珍しい手紙です。

 コロサイの近くにはラオディキアやヒエラポリスといった大都市がありましたが、コロサイは交通の要衝でもなく、産業も発展していない、あまり重要でない小都市でした。書簡執筆後のまもなく、紀元六十年には大地震で壊滅的な被害を受けます。その後、この町が自力で復興して他の町を助けたのか、もう歴史から姿を消してしまったのか、また教会がどうなったのかは諸説あって不明です。いずれにしても、今読んでいるこのコロサイ人への手紙そのものが、社会的には吹けば飛んで消えそうな小さな町の教会への手紙であり、そういう小さな教会に、縁の薄いパウロが、しかし心を込めて書いた手紙。それが今私たちに伝えられているのです。

 パウロが手紙を書いた理由は、二章8節にある

「あの空しいだましごとの哲学」

でしょう。コロサイ教会に異端的な教えが入ってきて、弟子たちの信仰が混乱したためでした。現代でも「ものみの塔」「モルモン教」「統一教会」や最近では「全能神」「摂理」といった団体がキリスト教を装って活動しています。こうした教えが教会に入り込むことはパウロの時代から今に至るまであります。そうした間違った教えの悪い影響をパウロは決して侮りませんでした。

2.知恵がありそうだが

コロサイ二6このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

 キリストにあって歩むのでなく、キリストだけでは足りないと不安を煽るのが

「空しいだましごとの哲学」

でした。16節には

「食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のこと」

18節「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる…自分が見た幻に拠り頼み」

21節「「つかむな、味わうな、さわるな」といった定め」

といった警告が出て来ます。あれを食べるな、こういう儀式を守れ、自分はこういう幻を見た、幻を見ていないあなたがたより自分の方が分かっている。そういう理屈を押しつけてきたのです。23節が爽快です。

23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

 言い得て妙です。人間が好むような礼拝や肉体の苦行のゆえに知恵がありそうに見える、というのです。「私たちはまだまだダメだ。苦行や努力が必要だ」と自己卑下するのでしょうか。そういう卑下は人の心に潜む不安や自信のなさに訴えて賢そうです。けれどもパウロは、そうした人心に訴えるような宗教は、何の価値もなく、肉を満足させるだけだと一刀両断です。そう言い切る根拠は何でしょうか。それこそ、このコロサイ書の特徴である壮大なキリスト理解です。あまりに壮大すぎて、分かり難い印象もあるコロサイ書ですが、キリストの偉大さ、素晴らしさ、十分な恵みを丹念に書いて歌い上げるからこそ、人間好みの苦行とか自己卑下などが、実は空しく、的外れだと気づけるのです。だからパウロは一章で、キリストが神であり、すべてを造られ、成り立たせ、私たちに罪の赦しも、万物との和解も与えてくださったことから書き始めるのです。世界の王であるキリストがどれほど大きな方で、私たちを暗闇の力から救い出してくださって、今も私たちに働いておられ、やがては神の前に立たせてくださる。それを知れば、それじゃ足りないとは言えません。苦行や禁欲や規則がどんなに謙虚そうで賢そうで実感あるとしても、キリストから離れて行く、間違った、悲しい教えだと分かるのです。

3.キリストこそすべて

 パウロはキリストの満ち満ちている恵みを語ります。

二3このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されている

と言って間違った教えを退けます。しかしそれだけではありません。三章はもっと積極的に新しい生き方を勧めます。キリストで十分。だからこそ、神の前に相応しい生き方を励まします。

8節「…怒り、憤り、悪意、ののしり、…恥ずべきことばを捨てなさい。互いに偽りを言ってはいけません。」

 11節で、ギリシア人、ユダヤ人、民族の違いも奴隷も自由人もない、キリストにあって

「一つのからだ」

なのです。12節以下で、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し、愛といった美徳を勧めます。妻と夫、親子、職場の関係が語られます。キリストを知ることはとても実践的な勧めに結びつくのです。

 コロサイ教会に入り込んでいた教えにはそういう実践的な発想はなかったのでしょうか。自分のために苦行や禁欲的な生き方や学びに励まなければならないなら、それは人を思いやり、互いに生かし合うことには繋がりません。家族の中でさえ、不安や自己卑下で良い関係は始まりません。その反対に、キリストの十分な恵みは、神との関係だけでなく、互いの関係にも力をくれます。世界を造られた神の子キリストが私たちのために十分なことをしてくださり、私たちがそのキリストの力をいただいて、もう民族も身分も越えて一つとされている。この恵みが、私たちに互いを受け入れ合わせ、ともに生かしてくれます。怒りや憤りや悪意の言葉から自由になれます。裁き合わずに愛し合って、家庭や社会を育てるため、自分の出来る小さなことをしていけるのだと思います。それが最初の一章9-10節で祈っていたことなのです。

 このキリストから引き離そう、言葉巧みに、聖書を引用さえして惑わせる教えは繰り返してあります。それはとても深刻な被害を与えます。聖書全体から学んで、キリストの恵みの教理を知ることはとても大事です。それで頭でっかちになるのでなく、自分も含めた世界を見る目が明るくされるためです。間違った教えで戸惑い、自己卑下に押し潰されたり、牢に投げ込まれることさえあっても、そういう歩みでもキリストの素晴らしさを知ることが生きる力になるのです。自分も他の人も主の大きな愛の中に見て、一生懸命生きることが出来るのです。コロサイ書は、キリストの壮大な栄光と、それに相応しい尊い生き方を私たちに教えてくれます。

「世界の造り主、万物の支配者、十字架による平和の主、イエスよ。私たちはあなたの偉大さを計り知ることが出来ません。しかし、私たちの無知や誤解よりも大きく、あなたの平和の計画は進んでおり、私たちのうちに、私たちを通して、あなたが働き続けてください。あなたを小さくし歪める間違った教えから救い出して、あなたを知る幸いを豊かに味わわせてください」

 

 

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