聖書のはなし 鳴門キリスト教会礼拝の説教原稿

鳴門の牧師が書いた、礼拝説教原稿を載せています。「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問68「一番大事なことは一つ」Ⅰコリント11章23-26節

2017-05-14 15:59:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/5/14 ハ信仰問答68「一番大事なことは一つ」Ⅰコリント11章23-26節

 このところ、キリスト教会の礼拝の特徴、「聖礼典」についてお話ししていますが、今回の問68については、先取りして既にお話ししてきた通りです。

問68 キリストは新約において、いくつの礼典を制定なさいましたか。

答 二つです。聖なる洗礼と聖晩餐です。

 今までもう二つであることを前提にお話しして来ましたが、改めてここで「いくつですか?」と問うています。ナゼかと考えるとすぐに答は思い浮かぶでしょう。そうです。聖礼典がいくつあるのか、混乱があったのです。

当時の教会では、聖礼典には「七つ」が考えられていました。今でもカトリック教会は、聖礼典のことを「秘蹟」と言い、七つあるとしています。その七つは、洗礼と聖餐(聖体拝領)の他に、

「堅信(信仰告白)、改悛(告解)、婚姻、塗油(終油)、叙階」

です。七つの儀式が、司祭によって行われる特別な礼典である、という教えでした。

こういう理解に対して、ハイデルベルグ信仰問答は、キリストが制定なさった礼典は二つだけです、と言いました。実際、聖書でイエスがハッキリと弟子達にお命じになったのは、洗礼と聖餐だけです。

 聖餐については、今日のⅠコリント11章23節以下やその他で繰り返されています。

Ⅰコリント十一23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 洗礼については、マタイ28章19節、最後の大事な命令のところで言われています。

マタイ二八19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

 そして「使徒の働き」では、弟子達が実際に教会の中で、洗礼を授け、パンを裂くために集まっていたと何度も書かれています。こうしたことから、新約においては、洗礼と聖餐の二つが、キリストご自身によって定められた「礼典」である、それ以外は礼典ではない、と考えたのです。この事を確認しているのが、この問68です。

 しかし、ここで

「新約において」

とわざわざあります。それは、新約の前、旧約においては、洗礼と聖餐はまだ定められていなかったのです。むしろ、キリストが洗礼や聖餐を定める土台となった儀式やその他の儀式がありました。旧約の律法を読むと、神は御自身の民に対して、

「大祭司」

を立て、子どもには

「割礼」

を施し、

「幕屋」

という礼拝の場所を造らせました。何かの度に「動物の生贄」が捧げられ、毎年一回

「過越の祭り」「仮庵の祭り」「ラッパの祭り」

などのお祭りを命じられました。そのような儀式を行うことが大事な役割を持っていたのです。

そして、イエスご自身もそのような儀式を守られました。幕屋の代わりに出来た神殿を大事にされました。しかし、十字架に架かられることで、そのような儀式を変えられました。割礼は洗礼に、過越の祭りは聖餐に変わりました。なぜなら、大祭司はイエスご自身の事でしたし、動物の生贄もイエスご自身の十字架の生贄によって終わったからです。パウロはこう言います。

コロサイ二16こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。

17これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

 

 本体はキリストにある。食べ物も飲み物も、祭りや戒めも全て、キリストという本体の「影」だったのです。だから今では、旧約の儀式やお祭りなどの規則に従う必要はありません。もうキリストが全部を成就してくださったからです。それほどキリストが私たちにしてくださったことは豊かで確かなことでした。このキリストを見ていくこと。それが一番大切なことです。キリストの福音こそ、ずっと旧約時代も待ち望んできたことで、新約の今は、洗礼や聖餐式を通して、覚え、いただく恵みなのです。キリストが私たちのために、大祭司となって十字架にかかり、完全な生贄となり、私たちの全ての祝福の土台となってくださった。その福音に、礼典は与らせてくれるのです。

 先ほどの、秘蹟を七つとする考え方に上がっていたのはどれも大切なものだとは思います。結婚も罪の告白も、最後に油を塗って祈ってあげることも、大事です。それは聖礼典ではありませんが、やはり大事なことです。けれど、聖礼典として牧師が大切に執り行うのは聖餐と洗礼の二つです。罪の告白や油を塗っての祈りを秘蹟にする考えだと、そういう大事な時には牧師がいないと祈ることは出来ないことになります。けれども一番大切なものはひとつ、本体であるキリストだけだ、という考えを採る私たちの教会は、祭司は牧師だけではありません。私たち一人一人がイエスにあって祭司となる。これを

「万人祭司(全信徒祭司)」

と言います。人の心の重荷を聞いて、そのために祈り、心の重荷を分け合ってあげられるのは牧師だけではありません。皆さん一人一人が出来るのです。病気の時、死の直前、結婚のような嬉しい時、祝福を祈って欲しい時、「牧師が祈った方がよく聞かれる」とは考えないのです。イエスが私たちのために、十字架に捧げられた、完全な罪の赦しと、溢れるほどの祝福を届けるのは、牧師だけではなく、全てのキリスト者の特権です。私たちの毎日の生活における様々な出来事で、儀式や牧師に特別頼る必要はありません。

 誰もが同じように、助け合い、支え合うことが出来ます。しかしその根本には、私たちの祝福全体の鍵となるキリストの十字架があります。キリストの十字架の贖い、犠牲、愛、赦し、祝福によって、私たちはキリストが下さった完全な救いを見るのです。そして、そのキリストに繋がる時に、私たちも、互いの祝福を願い、祈り、出来る形で仕え合うように召されます。

 キリストが私たちのために、十分な生贄となってくださいました。私たち一人一人の大祭司として立っていて下さり、私たちをお互いの祭司としてくださっています。この一番大切なひとつのことに立って、私たちは自分の生活にも、他の人との関わりにも、出て行くことが出来るのです。

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