聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問77「パン裂きが終わる日」Ⅰコリント十章16~17節

2017-07-16 15:49:55 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/7/16 ハ信仰問答77「パン裂きが終わる日」Ⅰコリント十章16~17節

 夕拝でテキストにしていますハイデルベルグ信仰問答では、聖餐式の事を続けて取り上げています。何度もお話ししますように、この夕拝では実際に聖餐をして、パンを裂き、杯を飲むことは致しませんけれど、それでもここで私たちは、一つのパンを裂き、ひとつの杯を回し飲むような、そのようなイメージを心に描いてほしいと思います。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、血を流された。その事が私たちに最もハッキリと分かるようにと定められたのが、聖餐だからです。

問77 信徒がこの裂かれたパンを食し、この杯から飲むのと同様に確実に、ご自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。

答 聖晩餐の制定の箇所に次のように記されています。
「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
この約束はまた聖パウロによって繰り返されており、そこで彼はこう述べています。
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの体にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。

 この問77は、聖餐がキリスト御自身の命じられたこと、約束されたことであると確認しています。人間が考え出したり、教会が決めたりしたことではありません。キリスト御自身がお定めになった食事なのです。ここで使われている言葉は、さっき読みましたⅠコリント10章と、その次の11章の言葉です。そこでパウロは、コリントの教会の人々を教えるために、キリスト御自身がこう仰った事を思い出させています。

Ⅰコリント十16-17私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

 ここでも、主が命じられた杯とパンの聖餐が、キリストの体を現していて、そのキリストの体に与る私たちの交わりを現している。そこを土台にして、私たちの生き方、教会のあり方を考えて行くのだと言っています。それとともに、このハイデルベルグ信仰問答や宗教改革の伝統が大事にしてきたのは、パンと杯は、そのパンや葡萄酒そのものに力があるのではなく、キリストの死を思い起こさせることにこそ、その意味がある、という強調点です。儀式に力があると考えると、パンと葡萄酒に対する迷信的な扱いが始まります。そういう本末転倒をしないようにする、ということは大事なことです。

 しかし、私たちはいつも不完全な者です。誤解があり、理解には限界があります。聖餐に対しても、私たちは完璧な理解が出来るわけでもありません。また、ここに集まっている私たちも、このハイデルベルグ信仰問答を一緒に学びながらも、完全に一致した理解をしているわけではないかもしれません。それに、こうして学ぶまでは、そんなことは考えたこともなかった、知らなかった、という事もあるのです。しかし、そうした私たちの誤解や無理解、また意見の相違があるとしても、大事な事は変わりません。

「取って食べなさい。これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。…この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」

 キリストが私たちに仰ったのは、これですね。裂かれたパンをいただき、私たちのために十字架で体を裂かれたキリストが思い出されるのです。杯を頂いて、キリストが血を流されて、私たちのための新しい契約を立ててくださったことを覚えるのです。その理解に誤解や違いや、多少迷信めいたものがあろうとも、そこでキリストが覚えられさえすればいいのです。というよりも、それこそが、このパンを裂いて食べ、一つの杯から飲む、という形が示しているメッセージそのものだからですね。

 食事を食べる時も、私たちはその栄養や健康への効果を十分分かっているわけではありません。ジャガイモだと思っていたらカブだったり、この魚にはどんな栄養が入っていて、自分の健康にどういいのか分かっていないことが殆どではないでしょうか。それでも、普通の食事をバランス良く続けていれば、たいてい健康に過ごせます。その意味を分かっていないと消化されない、体に吸収されない、ということはありません。聖餐もそうです。大事なのは、そこに示されているメッセージそのものです。それは、キリストが私たちのために御自身を裂かれ、いのちを下さった、という確かな事実です。

Ⅰコリント十一26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 この御言葉が示すとおり、私たちはパンと杯をいただく聖餐を通して、主の死を告げ知らせます。でも、ここに

「主が来られるまで」

ともありますね。私たちは、主が十字架で死なれた過去の出来事を思い起こし、記念するだけではありません。その主が、やがてもう一度、ここに来られるのです。主は死なれただけでなく、よみがえられました。そして今も私たちに命を与え、私たちを結び合わせ、恵みの中で養い育ててくださると信じています。やがて、このイエスが来られて、すべてを新しくなさいます。聖餐はそれまでの食事です。主イエスが来られて、世界を新しくされた後はもう、神の国で聖餐を行うことはありません。その時には、主が私たちを神の国の食卓に着かせて、永遠の祝宴を味わわせてくださるのです。もう今のようなパン裂きはしません。いいえ、むしろ、今のパン裂きこそが、やがて神の国の食卓が始まることの約束であり、しるしなのです。過去の十字架だけでなく、主が来られる将来をも味わうのが聖餐なのです。

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使徒の働き3章1-21節「回復の時が来る」

2017-07-16 15:41:08 | 使徒の働き

2017/7/16 使徒の働き3章1-21節「回復の時が来る」

 先天性の歩行機能障害者がたちまち立ち上がって踊り、神を賛美した奇蹟です。しかし現実にはこんな奇蹟はごく稀です。癒やされない障害や苦しみが多くあります。すると「神には奇跡が出来るけれど、それに与れないのは、人に問題があるからだ」と考えられ、病気や障害があるのは、本人の信仰に問題があるという本末転倒がよくあります。それは当時も同じでした。

1.歩けない人を見る目

 この人は、宮の

「美しの門」

と呼ばれて親しまれた門に運ばれてきました。午後三時の祈りの時間、参拝者が一段と増える時間に、この場所で施しをもらうためです。当時の考えでは施しは「祈り」と等しい善行として大いに奨励されましたから、財布の紐を緩めた人は少なくなかったでしょう。でもそれは、自分の善行のため、神を喜ばせるための功徳でした。この人を尊び、この人に目を向けてではなかった。恐らくは目や顔も見ずに、小銭だけを投げ与えて、「良いことをした。良い気分だ」と去って行ったのでしょう。その障害は、本人か両親が神に罪を犯した罰に違いない、と思い込まれていました[1]。弟子達もそうでした。癒やしを求めてイエスに近づいた病人を通せんぼしたり、仲間でない人が癒やしているのを止めさせたり、歩けない人の前で

「この人が歩けないのは誰が罪を犯したからですか」

とイエスに訪ねたりする無神経な弟子達でした。つまり、当時の考えでは、障害者は慈善活動の対象として憐れむことはしても、その人自身に何かしらの罪の呪いがあると人格は否定されていたのです。

 ところが、ここでペテロとヨハネはそのような見方をせず、この人に目を留め、手を差し伸べ、立たせて、神を賛美する仲間に加えました。二章で誕生したばかりの新しい教会、キリスト者の共同体は、当時の社会が人として扱っていなかった人をも受け入れ始めました。ペテロとヨハネは、この人が踊り回って神を賛美するのと一緒に宮に入っていきました。すると人々は10節で

「驚き、あきれた」

とあります。彼は神殿の門で物乞いをしているのがせいぜいで、門から中には入れないのが当然、礼拝の恵みに与れないのも本人の問題だ、と思われていたのです[2]。しかし、ペテロとヨハネは、この人に目を留め、手を伸ばし、イエス・キリストを紹介しました。イエス・キリストにある歩みを無条件に与えました。それは、彼にそれだけの信仰や相応しさがあったからではありません。12節で明言されている通りです。

使徒三12…「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」

16…このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

2.キリストの受難と万物の回復

 「イエスの御名が」

というのは、イエスの名前に呪文のような力があるということではありません。イエスというお方を一言で言い表すのが「名」です。イエスのご人格、なさったこと、約束、すべてが詰まったのが「イエスの御名」です。そのイエスは、旧約の時代、

「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神」

として御自身を啓示された大いなる神の

「しもべ」

として、神の栄光を現すお方です。けれども、その栄光は神の偉大さにふんぞり返り、神に不忠実な者を罰することも躊躇しない神通力、というような栄光ではありません。人々の所に来られ、嘲られ、憎まれ、殺される道を歩んでくださったお方です。その低く低く謙ったイエスがこの時、生まれつき歩けない人に信仰を与え、癒やして、宮に入らせました。宮に入れてもらえず、門の前で施しを受けるだけだった人の所に、宮で礼拝されていた神のしもべ御自身が飛び出してきて、彼を立ち上がらせ、礼拝の中に入れてくださった。それは、宮に入って礼拝をしていた人々にとって開いた口が塞がらないほどの出来事です。そしてペテロは、それをこの人の信仰や自分たちの力のせいではなく、神御自身がそのようなお方なのだ、というメッセージとして伝えているのです。

19そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち帰りなさい。

20それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。

21このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

 「回復の時…万物の改まる時」を主はやがて来させられます。このやがて来る、慰めに満ちた時、全てが本当に生き生きと輝く時が来ることのしるしが、この時の、生まれつき足のなえた人の癒やしでした。障害が癒やされた奇蹟よりも、神が障害のある人も受け入れておられたことを彼らは驚きました。今も大事なのは、こうした奇蹟がいま起こるかどうか以上に、イエスが約束されている「回復の時…万物の改まる時」を信じて、生き方を整えることなのです。

3.立ち帰らせてくださる

 身体障害や精神障害、発達障害などハンディキャップは、それだけで人知れない苦労があるものです。その痛みに無神経であった社会の中で、弟子達がまず変えられて、手を差し伸べ、仲間として受け入れるようになりました[3]。障害者を結局排除していた社会は、

「美しの門」

を通って、そこで物乞いをする「可哀想な障害者」に小銭を投げ与え、良いことをしたような気になり、でもどこかで「自分はこの惨めな人のようではなくて良かった」と自惚れている礼拝者だったのでしょう。勿論、彼らも苦労はありました。ローマ帝国に支配され、重税を強いられる屈辱から逃れたくて、早く主がメシヤを遣わして、悪を終わらせて、正義の国を初めて欲しいと思っていたでしょう。しかしペテロの説教は、そういう政治的な、自分たちに居心地のいい将来という願望しか持たないあなたがたが回復されること、あなたがたの考えが改められるべきことを語ります。

 神を賛美し礼拝しつつも、その憐れみを小さくしか考えず、何かがあると断罪したり裁いたり決めつけて、一線を引いてしまう。そういう考え方こそが、実はイエスをも理解できず、十字架に殺す態度に繋がったのです。十字架に苦しむイエスを見て、やっぱり神の子のはずがない、と嘲る態度に通じるのです[4]。しかし、イエスは神の栄光を受けたからこそ、この世界で、生まれながらの障害を持つ者や、人から裁かれ、神の宮の門前払いをされた者のそばに来られました。自ら小さな者、苦しむ者、社会で排除され、嘲笑われる一人となりました。そのイエスが集められる教会は、障害や生まれやどんな過去があろうと招かれた家族なのです。

 誰もがどんな障害を持つかもしれません。いいえ、私たちは誰も完全ではありません。何かしらの欠けがあります。心の罪に限らず、コンプレックスや欠陥がありますね。でもその私を、イエスはあるがままに愛され、招いてくださいました。だから私たちは、自分の問題を隠さず、イエスの御名によって立ち上がって歩めるのです。健康なふりや強がりをせず、ここにおれるのです。そこには健康な人間たちだけの集まりとは全く違う交わりがあるはずです。それが教会なのです。

 障害や変えられない苦しみ、説明の付かない痛みは今もこれからもあります。やがての回復の時、一切の差別や先入観から自由にされ、私たちの思いや人を見る目が刷新される時を心から待望して、今ここでの交わりを築くのです。出来る事には限界があります。やっぱり

「金銀はない」

のです。しかし主は、そうした痛みを通して、私たちを本当に回復され、障害や病気で裁き合わず受け入れ合う新しい関係に生かしてくださるのです。

「主よ。あなたは限りなく低くなって、十字架の死にまで謙られました。その栄光により、卑しめられていた人も招き入れられ、恵みを受け継ぐことを感謝します。どうぞ私どもの狭い心を広げてください。人を押しのけ、御名をさえ用いて裁き、人の傷口に塩を塗る罪から救い出してください。あなたがすべてを新たになさる時に向けて、私たちの生き方を整えてください」



[1] ヨハネ九章参照。

[2] Ⅱサムエル五8には「目の見えない者、足のなえた者は宮に入ってはならない」という律法が出来たことが伝えられています。

[3] 後藤敏夫『神の秘められた計画 福音の最高-途上での省察と証言』(いのちのことば社、2016年)「聖霊に満たされた弟子たちは、神殿の「美しい門」で、イエスの御名によって、足の不自由な人を癒やしました(三章)。障がい者として宮に入ることを禁じられた人です。その人と礼拝の民として共に歩き始めたのです。これは神の国のしるしです。私たちは、目に見えるところではいまだ癒やされなくとも、障がいを持った人々とともに、神の民、礼拝の民として愛し合って歩みます。」(70頁)。

[4] これをペテロは26節で「邪悪な生活」と呼んでいます。

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