古今、文化人には競馬好きが多いが、中でも「菊地 寛」はつとに有名である。氏の著わした馬券哲学には、現在でも納得できる部分が多々鏤められている。ここにその一部を引用してみたい。
一、堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、確かなる穴を取る。これ名人の域なれども、容易に達しがたし。
これぞまさに、わたしの目指す馬券道そのものなのである。普段からわたしは穴党を自認してはいるものの、なんでもかんでも高配当の穴目を狙って買っている訳では決してない。(そもそも、そんな買い方をして的中などする筈もないのだから)
「堅き本命」と「不確かなる本命」とはどういうことか。つまり「堅き本命」とは当該レースにおいて勝ってなんら不思議のない実力(実績)を備えた人気馬であり、「不確かなる本命」とは実力以上に過剰人気している馬と捉えればよいだろう。
(ただし馬とて生き物である以上、調教過程や体調・メンタル面などの要因による、好・不調の波があったりすることは否めない)
一、実力に人気相当する場合、実力よりも人気の上走る場合、実力よりも人気下走る場合、最後の場合は絶対に買うべきである。
対して「確かなる穴」とは如何なるものか。穴とは即ち人気薄の馬を指すのであるが、なぜ人気がないかと言えば、凡走を繰り返し能力的(又は調子的)に劣ると見られているからである。
裏を返せば、勝てる能力を持ちながら(過去のレースにおいて)何らかの要因で成績が振るわなかった穴馬を探し出すことができれば、僥倖を手中に収める可能性も膨らむということになる。
一、しかれども、実力なき馬の穴となりしことかつてなし。
では、どうやってその穴馬を探し出すのか。結論からいえば、いつでもどのレースでも確固たる穴馬が存在する訳ではない。仮にいたとしても、常に展開のアヤというものが付き纏う以上、何の保証もない。
それでも数々のレースにおいて、例え外れたとしても、その穴馬を探し出して票を投ずることが、楽しく充実した一瞬であることに変わりはないのだ。
一、損を怖れ、本命々々と買う人あり、しかし損がそれ程恐しいなら、馬券などやらざるに如かず。
今週はGI レースがないので、いささか手持ち無沙汰ではある。ここはひとつ来週の天皇賞(春)に向けてじっくりと、鋭い洞察力に磨きをかけておくことにしようではないか。
一、堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、確かなる穴を取る。これ名人の域なれども、容易に達しがたし。
これぞまさに、わたしの目指す馬券道そのものなのである。普段からわたしは穴党を自認してはいるものの、なんでもかんでも高配当の穴目を狙って買っている訳では決してない。(そもそも、そんな買い方をして的中などする筈もないのだから)
「堅き本命」と「不確かなる本命」とはどういうことか。つまり「堅き本命」とは当該レースにおいて勝ってなんら不思議のない実力(実績)を備えた人気馬であり、「不確かなる本命」とは実力以上に過剰人気している馬と捉えればよいだろう。
(ただし馬とて生き物である以上、調教過程や体調・メンタル面などの要因による、好・不調の波があったりすることは否めない)
一、実力に人気相当する場合、実力よりも人気の上走る場合、実力よりも人気下走る場合、最後の場合は絶対に買うべきである。
対して「確かなる穴」とは如何なるものか。穴とは即ち人気薄の馬を指すのであるが、なぜ人気がないかと言えば、凡走を繰り返し能力的(又は調子的)に劣ると見られているからである。
裏を返せば、勝てる能力を持ちながら(過去のレースにおいて)何らかの要因で成績が振るわなかった穴馬を探し出すことができれば、僥倖を手中に収める可能性も膨らむということになる。
一、しかれども、実力なき馬の穴となりしことかつてなし。
では、どうやってその穴馬を探し出すのか。結論からいえば、いつでもどのレースでも確固たる穴馬が存在する訳ではない。仮にいたとしても、常に展開のアヤというものが付き纏う以上、何の保証もない。
それでも数々のレースにおいて、例え外れたとしても、その穴馬を探し出して票を投ずることが、楽しく充実した一瞬であることに変わりはないのだ。
一、損を怖れ、本命々々と買う人あり、しかし損がそれ程恐しいなら、馬券などやらざるに如かず。
今週はGI レースがないので、いささか手持ち無沙汰ではある。ここはひとつ来週の天皇賞(春)に向けてじっくりと、鋭い洞察力に磨きをかけておくことにしようではないか。
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