「爆問学問 爆笑問題のニッポンの教養」(NHK)という番組は、ことに芸術論や哲学論の話に及ぶことが往々にしてあるのだけれども、今回ばかりは真正面からの芸術・哲学論。これはかなり気合を入れて観た。期待に添えてかなり面白かったから、満足千万。
テーマは、ズバリ「美」とは何か。
そもそも、「芸術」という概念自体が興ったのが18世紀であると言うから、ルネサンス時代に「芸術」なんて無かった、という言い方も出来るわけである。
何時しか人間は、感性及び威圧として感じ取っていた芸術の中に、その意味というものを希求するようになったのだろうか。
それはつまるところ、「美」というものが理論立てて説明がなされないと、享受し難いものになってきているのではなかろうか。
このブログで以前にも取り上げた(→過去の記事はコチラ:2007年8月26日付)、デュシャンの「泉」という作品。これが全く新しい芸術の領域を開拓した一方で、芸術作品とは何を示すのかと言う根源的な議論を巻き起こすきっかけともなった。
しかしその反面、もうこれ以上「新しい」芸術は生まれないだろうという閉塞的な見方や、芸術という概念をなし崩しにしてしまったという、どちらにしても「デッドエンド」な状況に陥らせてしまったとする向きもあるようである。
そのスキャンダラスな作品は、1917年に誕生した。
現代美術は、早90年も、その場で地団駄を踏んでは停滞していたというのか。
もしくは、ぼやけてしまった「美」という目標地点を再度捜し求める為にうろうろしていたのが現代か。
そういえば現代美術の流行と言えば、作品自体にではなくそれを作る過程にある、とする風潮を感じる。
でっかいキャンバスに見立てた白壁に、ボクシングのグローブでペンキをどかどか塗りたくるところを観衆に見せるというショウ。見たことがある人も多いのではなかろうか。
しかしそういったものに「美」を認めることができないと太田談。なにかこう、1917年以降の芸術には、ゴッホやモネやフェルメールのように直感的な「美」を抱くことが出来ない、というのは自分でも同じ。それらが単に古典的価値を持つと言う以上の、何かがある。
その「何か」というのは、たとえば「美」を追求しようなどというおこがましい野望を取り払った感性で描いているからではないか、と思える。要は、飾りが無い、目立ちたがらないと言えようか。
「芸術」という概念、もしくは「ブランド」のようなものに目を眩ます事も無く、淡々と、内より湧き出でたる美への衝動に駆られた結果であるならば、18世紀依然は実に良い時代だったに違いない。
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