神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

左岸流3

2016-12-28 07:52:02 | 支流編(桃園川3)

 山手通りを越えます。山手通りが開通する以前の古道には宮坂橋が架かっていました。「豊多摩郡誌」には本流に架かっていた宮前橋(のち宮下橋)と同様、「水流及び所在地」は「善福寺分流、埼玉道」となっていて、本流と左岸流は同じ扱いでした。それが区画整理後の「中野町誌」では、本流の方はかわらず「善福寺分流」ですが、左岸流は「用水路」となり、さらに中野区役所土木課の橋梁表では本流は「桃園川」、左岸流は「在来下水」とはっきり区分されています。なお、「豊多摩郡誌」では「構造木造」ですが、「中野町誌」では「橋種石橋」にかわっています。

 

Sagan3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回最後の左カーブを抜けた先です。変わらず段丘の際にありますが、やや北に向きを転じます。

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    2. 山手通りを越えます。宮坂橋のあったのは通りの西側、左写真のあたりです。

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    3. 氷川神社参道前には参宮橋が架かっていました。「参宮橋 橋長2.35m 幅員8.8m 橋種混凝土 河川名谷戸川」(「中野町誌」) 

 <氷川神社>  山手通りを越えてすぐ、左岸段丘上には中野村鎮守だった→ 氷川神社があります。「氷川社 除地、一町二段八歩、村の中央よりは東南の方によりてあり」(「新編武蔵風土記稿」) 同書は「鎮座の年代詳ならず」としていますが、長元3年(1030年)、源頼信が平忠常討伐の際に武蔵一の宮である大宮氷川神社から勧請、との伝承があります。その後、応永年間(1394~1428年)には社殿を改築、また、この地域の氷川神社の例にもれず、太田道灌が豊島氏との戦を前に戦勝を祈願し、凱旋後に社殿を造営したともいわれています。なお、境内には安永6年(1777年)建立の→ 石橋供養塔があり、その裏面には「氷川山下架石橋」の文字が見て取れます。あるいは、上記の参宮橋にかかわるものでしょうか。

 

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