神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

桃園

2016-11-25 07:15:43 | 支流編(桃園川3)

 「桃園 享保の頃此辺の田畝に悉く桃樹を栽しめ給ひ、其頃台命によりて此地を桃園と呼ばせ給ひしよりといへり。今も弥生の頃紅白色をまじへて一時の奇観たり、此地に大将軍家御遊猟の時の御腰掛の地あり。又岡の前を流るゝ小川に架せる橋を石神橋と唱ふ。」(「江戸名所図会」) 「新編武蔵風土記稿」の記述はより詳細で、それを年表風に要約すると次のようになります。元禄8年(1695年)上地となり御囲設置、宝永6年(1709年)御囲廃止、享保年中(1716~35年)吉宗たびたび遊猟に訪れる、同20年(1735年)御立場設置、紅桃50株に白桃も交えて植樹、元文元年(1736年)松を植樹、麓よりの道開削、同3年(1738年)6万7千余坪に緋桃150株植樹、寛保3年(1743年)御立場の後ろに大名山を築く。このころが最盛期で、茶屋11軒が軒を並べ、庶民の行楽スポットとしてにぎわったそうです。

 

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    ・ 「中野村桃園図」  「新編武蔵風土記稿」に掲載されている挿絵です。→ 「江戸名所図会」のものに比べ、桃園川を望む全体像がよく分かります。

 画面右手に桃園川が流れ、桃園橋(「風土記稿」では石神井橋)も架かっています。青梅街道からの道は橋を越えてすぐ、小高い丘に差し掛かり上り坂になります。その一帯5~6万坪がかっての五之御囲、その後桃園となったところで、現在の中野マルイの裏手に当たります。もう一つの注目は桃園川の左右の水田の様子で、左岸により広がっているのがわかります。→ 「東京近傍図」にもあるように、桃園橋の架かる本流は右岸段丘近くにあり、水田は主に左岸に広がっているのと一致します。

 

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    ・ 桃園通り  中野五差路から入る通りはすぐに上りに差し掛かり、その坂を上りきったところです。なお、明治22年(1889年)に開設された中野駅は、この通りと現中野通りの間にあり、ここが駅前通りでした。 

 桃園のその後ですが、寛延4年(1751年)に吉宗が死去して後、安永(1772~80年)の初めころまではなおにぎわっていました。その頃増補版が刊行された「江戸砂子」(明和9年 1772年 菊岡沾涼)には、「中野のさきより方二、三里の間、田畑畝の間にみな桃を植たり。花のころは見わたし三里がほどは一色にして希有の眺望也。近年ことに江都より見物の遊客おほし」とあります。それが、「新編武蔵風土記稿」によると、同6年(1777年)に鶉の御場となり、一帯の雑木を伐採したため、桃の樹林も次第に衰えたようです。「風土記稿」は天保元年(1830年)の成立ですが、「今はたへだへになれりとぞ」と書いています。

 

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