神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

成宗村

2017-05-10 06:06:08 | 支流編(善福寺川4)

 「成宗村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱なし、按に当村及び常久村なども是政村の類にて、人名を以て唱ふるなるべし、・・・・村の四境、東は和田村と田端村の飛地に接し、西は田端村にて、南は下高井戸宿に隣り、北は阿佐ヶ谷村なり、東西二町余、南北十町許、民家八十軒、陸田多く水田少し、地形は中央ひくき所ゆえしばしば水損の患あり」(「新編武蔵風土記稿」) 成宗は村の成立とかかわった人物、あるいは矢倉台に城塞を設けた人物の名前とされますが、その具体像については、鎌倉の御家人中野氏、太田道灌の家来の某、後北条の家臣大橋氏など、諸説あって真偽のほどは不明です。

 

Narimum13

    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。なお、オレンジ細線は杉並村当時の村境、大字境です。 

 「新編武蔵風土記稿」の収録する小名は、白幡(しらはた)、尾崎、矢倉ですが、うち白幡、尾崎には大宮八幡創建とかかわる伝承があります。源頼義が奥州遠征をした際、当地で白雲が白幡のようにたなびきます。それを見た頼義は、氏神である八幡大神の霊威を感じ、後に大宮八幡を勧請しました。そして、白雲がたなびいたあたりを白幡、その尾の先を尾崎と名付けたというわけです。「風土記稿」によると、白幡はかって和田村の一部だったといわれ、また、元禄3年(1690年)の庚申塔の記載(「武州多摩郡中野郷尾崎村」)からは、尾崎が一村だった時代もあるようで、地名由来にまつわる伝承の違いをも合わせ考えると、成宗村は成立過程を異にする三地域が併合した可能性が指摘できます。その際中心となったのは、成宗伝承とかかわり、本村と呼ばれることもある矢倉だったのでしょう。

 

0205a

    ・ 須賀神社  成宗田圃を望む左岸台上にあり、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれました。古くより本村の鎮守で、明治に入り村社とされました。

 本村(矢倉)の天王社(須賀神社)以外にも、尾崎の権現社(熊野神社)、白幡の白山社(白山神社)と、各々の字に鎮守が祀られていて、これは本村の天神社、日性寺の稲荷社など、やはり字ごとに鎮守が祀られていた隣村の田端村と事情は同じです。それが明治に入り、田端神社に合祀した田端村のように、多くの村が一村一社に統合されますが、こと成宗村に関しては字ごとに鎮守が併存し、今日に至っています。あるいは、上述した村の成立の事情を反映し、より字間の独立性が保たれていたからかもしれません。

 

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 成宗左岸7 | トップ | 成宗村用水 »