神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

成宗弁天池

2016-10-13 07:20:07 | 支流編(桃園川2)

 成宗弁天池は元々あった湧水池ですが、青梅街道を越えるのに必要な水位を得、泥やごみを沈殿させるための中継点として、新堀用水開削と同時に拡張、整備されました。「中野村外弐ヶ村用水路新規自普請諸入用取調書上帳」に450坪との記載があり、また、→ 「迅速測図 / 東多摩郡高圓寺村」 には、横長のひょうたん形が描かれています。「杉並区史探訪」(森泰樹 昭和49年)に収録された聞き取りによると、大正の中頃に個人所有となり、一部埋立て庭づくりをしたとあります。下掲「空中写真」では、用水溜というより庭園の池風なのはそのためと思われます。その後、銀行の所有地となってさらに半分ほどが埋立てられ、現在はマンションの敷地となり姿を消しました。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  この写真だけでは輪郭がはっきりしないので、日本地形社「昭和11年測図 同22年補修」(1/3000)の描く弁天池を重ねました。

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    ・ 成宗弁天社  成宗村本村の鎮守だった須賀神社(江戸時代は牛頭天王社)に隣接して祀られています。なお、弁天池は左手マンションの敷地にありました。

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    ・ 「三ヶ村用水記念碑」  「武州多摩郡中野村高円寺村 / 馬橋村之地平原乏水屡羅凶 / 旱三村之民相謀上請開新渠 / 引池水以灌漑時懸令中村氏 / 給費天保十二年辛丑正月工竣」 

 <成宗富士>  弁天池の北畔には富士塚がありました。高さ20、ないし20数mといわれています。従来、新堀開削や弁天池浚渫の残土でできたとされてきましたが、「杉並区立郷土博物館研究紀要第15号(平成19年 杉並区立郷土博物館)によると、元々あった「高一丈余之富士写」に足し上げたもののようで、天保13年(1842年)正月17日の日付のある、鳥見役の許可を求める中野、高円寺、馬橋、成宗村の村役人連名の文書が引用されています。なお、この紀要中「中野村・高円寺村・馬橋村三か村用水開削の経緯と成宗弁天」には、新堀用水に関するは多くの史料が収録されていて、(これまでもまたこれからも)特にことわりなく引用しているものはその孫引きです。話を富士塚に戻しますが、「杉並区史探訪」によると、大正年間に個人所有となった際、富士塚の土で弁天池の一部埋立てなど庭づくりがなされ、昭和27年(1952年)には完全に取り崩されました。  

 

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