とある日のことだった。誰かのお土産だろうか、そこには人形があった。一見、変なモンスターのように見えるその人形もよく見ると、可愛らしかった。そして、その人形がキャッチボールのボールとして扱われているのを見たとき、とてもかわいそうになった。
人形は無機物であるから心や意識というものがない。合理的に考えればそうだ。材質などの差はあれど、命がないという点ではボールと同じであろう。しかし、投げられている人形を見たときにかわいそうなどと思ってしまった。この時、単なる物質としての人形が、私によって別のものに変化した。
このことは音楽にも言える。ただ音を出すだけでは音楽にはならない。各々が、ただ音を出し、並べるだけでは、(たとえ音程などが合っていたとしても)まとまりがなく、ただの騒音になってしまう。その自分の出す音、1つ1つにどのようなイメージで、どのような印象を与えるか、などを考えなければ、音楽にはならない。
最初の話に戻るが、もしその人形が赤ちゃんだとしたら、キャッチボールはしないだろう。(もちろん、それはただの人形なのだが)また、日本では自然物や自然現象に神が宿っているという、八百万の神の信仰があるが、その人形にも宿っていると思うだろうか?
話が飛躍しすぎているようだが、言いたいことは、物事を合理的に考えるだけでは足りず、精神面でも考える必要があるということである。そうすれば、私達の演奏も、もっと表情豊かな良い演奏になると思います。そう考えると、近年の文低理高の考えが間違っているという指摘も、その通りであると思いました。(もちろん理系は大切ですが)
以上、日曜日担当のステファンでした。
人形は無機物であるから心や意識というものがない。合理的に考えればそうだ。材質などの差はあれど、命がないという点ではボールと同じであろう。しかし、投げられている人形を見たときにかわいそうなどと思ってしまった。この時、単なる物質としての人形が、私によって別のものに変化した。
このことは音楽にも言える。ただ音を出すだけでは音楽にはならない。各々が、ただ音を出し、並べるだけでは、(たとえ音程などが合っていたとしても)まとまりがなく、ただの騒音になってしまう。その自分の出す音、1つ1つにどのようなイメージで、どのような印象を与えるか、などを考えなければ、音楽にはならない。
最初の話に戻るが、もしその人形が赤ちゃんだとしたら、キャッチボールはしないだろう。(もちろん、それはただの人形なのだが)また、日本では自然物や自然現象に神が宿っているという、八百万の神の信仰があるが、その人形にも宿っていると思うだろうか?
話が飛躍しすぎているようだが、言いたいことは、物事を合理的に考えるだけでは足りず、精神面でも考える必要があるということである。そうすれば、私達の演奏も、もっと表情豊かな良い演奏になると思います。そう考えると、近年の文低理高の考えが間違っているという指摘も、その通りであると思いました。(もちろん理系は大切ですが)
以上、日曜日担当のステファンでした。