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文脈の高低

2017-07-06 21:49:53 | 国際・政治
>日本語と欧米の言語の違いを調べていて「高・低文脈文化」という分類があることを知った。(ウィキペディア:リンク ) 一部抜粋。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
>この概念は、アメリカ合衆国の文化人類学者エドワード・ホールが『文化を超えて』(1976年)で世界中の言語コミュニケーションの型を高文脈文化と低文脈文化に分類したことに始まる。

独創的な分類ですね。英語や日本語の勉強に役立ちそうですね。

>高文脈文化のコミュニケーションとは、実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される(理解したと思われる)内容のほうが豊かな伝達方式であり、その最極端な言語として日本語を挙げている。

阿吽の呼吸ですね。相手にどう受け取られても仕方がないと言っています。

>一方の低文脈文化のコミュニケーションでは、言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる。最極端な言語としてはドイツ語を挙げている。

私には、ドイツ語は分かりませんが、西ゲルマン語 (West Germanic) に属する英語ならわかります。言わないことは無いことですね。黙っていれば、それで ‘勝負あった’ となります。

>(※ここでいう“高”“低”は優劣を表すものではない)

エドワード・ホール博士は、低文脈を使って、文脈の高低の存在を説明しましたね。外国人にも理解できる内容ですね。高文脈ではこうした発想はできないでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――

>上記リンクには高・低文脈文化を比較対照する表がある。高文脈文化 最極端の日本語と低文脈文化 最極端のドイツ語。以下を見ると、言語を用いる前提が全く違うことが鮮明になる。

       [高文脈文化と低文脈文化の比較の例]
     《高文脈文化》  |No|   《低文脈文化》
   ───────────────────────────
   言葉以外に状況や文脈も|1|伝達される情報は言葉の中で
   情報を伝達する。   | |全て提示される。
   重要な情報でも言葉に表| |
   現されないことがある。| |
   ───────────────────────────
   曖昧な言語      |2|正確性が必要とされる言語
              | |
   ───────────────────────────
   一般的な共通認識に  |3|言語に基づく
   基づく        | |
              | |
   ───────────────────────────
   双方の合意に基づいた |4|双方の合意に基づいた契約
   契約でも状況によって | |の変更は容易ではない。
   柔軟に変更される。  | |
   ───────────────────────────
   感情的に意思決定される|5|論理的に意思決定される
              | |
   ───────────────────────────
   沈黙は不快ではない  |6|沈黙はコミュニケーションの途絶
              | |として不快
              | |
   ───────────────────────────

>同じく意思を伝え合うための言語でも、ここまで正反対の方向で発展して現在に至るというのは、大変興味深い。

興味がわきますね。日本人の場合は意思ではなくて恣意 (私意・我がまま・身勝手) でしょう。

>上表から、高文脈文化:日本語の特徴は、一般的な共通認識があることが前提になっている。平たく言うと「相手と自分が同じ」であることを前提としている。相手と自分が同じというのは安心感に通ずるから、曖昧で許されるし、契約は変更可能だし、沈黙も不快ではない。

日本人には、個人個人で考えの内容がちがうという個人主義の理解が難しい。建前と本音の活用で、相手と自分が同じになります。

>一方、低文脈文化:ドイツ語は、その真逆だ。相手が自分と同じであるとは限らない。そこに警戒心が生じる。曖昧な言葉では不利益をこうむるかもしれない。そのため、正確に語る必要がある。また、警戒心(≒否定視)があっては、相手を正確に察することができない。結果として、言語だけで意思疎通を行う必要性が生じる。ロジカルであるというのは、言語だけを頼りに意思疎通をしてきた結果だろう。正確な言葉、正確な論理によってしか合意に至らない(納得できない)。そのようにして合意に至った契約が「容易に変更ができない」というのは当然といえば当然だ。

ドイツ人には、忖度 (推察) による恣意疎通は、考えられないでしょうね。まったく別世界の出来事なのでしょうね。

>このようにしてみると、両極端の言語にみる隔たりは、進化の途上にあった人類が言葉を必要とし発展(進化)させる過程に大きな隔たりがある、ということだろう。すなわち、語弊を恐れずに言えば「島国で仲良く暮らしていた日本人」と「侵略と服属を繰り返してきたドイツ人」の隔たりだ。こう考えて大きく外れていないと思う。

"太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず" ですか。日本人は、異人さんの取り扱いには苦労します。
ドイツ人は大英帝国を作らなかった。彼らは、アングロ・サクソンとはどこが違うのでしょうかね。地政学的な問題が関係しているのでしょうかね。

>『使う言語によって「性格」まで変わる』304395というのは事実のようだ。が、だからといって、言語の違いが直ちに相容れない人間性の隔たりとはならない。互いの歴史背景の違いを踏まえたうえで、寛容でありたいと思う。

そうですね。互いの歴史背景の違いを踏まえて理解しあうことが必要ですね。だから、私達は英語と日本語の両方を学ばなくてはなりません。
我々は国際協力により、大同となる未来社会を建設することが必要です。ですから、何が小異であるかを見極める必要もあります。
初めから大同小異であると考えて粗末な対応をすると、我々は国際関係において大けがをすることになるでしょう。


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