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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

検証嫌い

2017-11-11 20:29:15 | 政治

>敗戦は「終戦」に、占領軍は「進駐軍」に
>昭和20(1945)年以降、日本の教育、特に歴史教育を支配してきたのはGHQ(連合国軍最高司令部総司令部)である。>そもそもGHQとは、日本が受諾したポツダム宣言を執行するために設置された連合国の機関である。では、無条件降伏した日本を管理する最高意思決定機関はどこか。>それは「極東委員会」である。
>この極東委員会とGHQの関係は、極東委員会が決定した対日占領政策を実際に遂行する機関がGHQであるという、いわば上下の関係にある。>組織である以上、明確に上下が存在しなければおかしい。>ところが、これは単なる「形式」であって、実際にはGHQが極東委員会に従ったことはまずないのだ。>実質的に日本の占領をすべて執行したのは、極東委員会ではなくGHQであった。>その最高責任者がアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥であった。>マッカーサーは、昭和20(1945)年8月14日に連合国軍最高司令官(SCAP)に就任し、日本の占領施策を全面的に指揮したのである。>極東委員会の下部組織であるはずのGHQのボスは、連合国軍最高司令官でもあったのだ。>結局、戦争とは「勝てば官軍」であって、どんな組織で誰に何をやらせるかといった事柄も勝者の理屈と事情で行われるものなのだ。

そうですね。負ければ賊軍ですね。(Might is right.)

>もちろん、このような米軍による日本占領下で行われた事柄も、私たちにとっては検証の対象であることはいうまでもない。>現実は検証どころか、敗戦を「終戦」などという言葉に置き換えて事実を正視せず、占領軍を「進駐軍」などといって刺激を和らげようとするなど、占領された日本側が米軍に媚びへつらったのである。

そうですね。我々は検証を怠りましたね。検証は刺激になるからでしょう。我々は、常に刺激をやわらげましたね。

>なぜこんな奇妙なことになっているのか

日本人の国民性にあるのではないでしようか。奇妙な国民性ということです。

>思えば、明治維新といわれるあの時には、やはり卑しいほどの欧米崇拝に狂奔し、大東亜戦争敗戦によって占領されたその後は、再びアメリカ至上主義が社会をリードするという具合で、占領下で幼少期を過ごした私などは、検証されないままの官軍教育と、異議を唱えることなど許されない占領軍教育とその派生でもある左翼教育に振り回されて、異常な教育を受けて育ったのである。

そうですね。無哲学・能天気に育てられたのですね。

>ほんの一例を挙げれば、「道」のつくものはすべて軍国主義に繋がるという乱暴な理屈で、華道、茶道まで白眼視され、学校教育では柔道、剣道、書道などはすべて禁止されたのである。>他国の民俗文化などに余り興味も知識ももたぬGHQは、「道」という文字はすべて軍国主義に繋がると切り捨てたのである。

‘道’ と名のつく習い物は、すべて序列昇進の努力を要求しますからね。ノラクロ (野良犬のクロ) を育てます。

>余談として述べておくが、アメリカに占領されていた7年間に米兵に殺された日本人は、調達庁の資料を調査した高山正之氏によれば約2500名である。そして、米兵に強姦された日本女性は2万人強とされ、米兵が強姦している現場で日本の警察官が見張り役をしていたという事例は数多く伝えられている。

‘勝てば官軍、負ければ賊軍’ は、実証されましたね。

>結局、我が国の近世・近代史は、二度にわたって戦の勝者が書いたまま今もなお検証されていないということである。

我々日本人は、検証嫌いですからね。歴史は常に勝者の書くものとなっているでしょう。

>こういう異常な歴史的経緯を辿り、私たちは今、一つの時代を終えようとしている。

歴史は繰り返すのではありませんか。

>これはどこまでも偶然と考えたいが、私の大学生時代に「明治維新百年」を国家のお祝い事として祝事を展開したのは、“長州政権”であった佐藤栄作内閣であった。>今、やはり“長州政権”ともいうべき安倍内閣が「明治百五十年」と銘打って全く同じことを行おうとしている。>安倍内閣が「維新」という言葉の使用を回避したのは、後ろめたさの表れであろう。

そうかもしれませんね。

>国民の目を他に逸らしておいて自ら総裁任期を9年に延長したこと、ロシア・プーチン大統領を長州に招いた上で北方領土への経済支援を開始したこと、選挙権年齢を18歳に引き下げたこと――これらは、すべて一つの政治目的、部分的な現状追認という小手先の改憲に向かって繋がっている。

そうでしょうね。

>さらに、「明治百五十年」祝典だけに満足せず、維新以降の軍国主義の基盤となった「皇民化教育」の基本テキストともいうべき「教育勅語」を閣議決定してまで容認し、「文化の日」を「明治の日」と呼称変更しようとしている。

祖先返りですかね。

>実質的にGHQ民政局が作成した憲法であり、占領地の現行法律尊重を求める「ハーグ陸戦条約」に抵触する、存在するだけで国際法に違反している現憲法は、速やかに廃止されなければならない。>しかし、検証の対象当事者である“長州内閣”にそれを行う資格があるとは思えない。

廃止をする適当な責任者がいますかね。存在するのか、作るのか。それとも、無い物ねだりをするのか。

>再び司馬遼太郎氏の造語を借用すれば、安倍内閣とはもともと美しい歴史を紡いできた大和民族の永い歴史を、短期間に再び醜く汚そうとする「異胎」と呼ぶべきであろう。>何がこの「異胎」の台頭を再び許したのか。

許すも許さないもない。日本人には、意思が無いですからね。あくまでもすべては自然の中にあります。

>それは、官軍教育、GHQ教育という二つの異常な歴史教育を全く検証してこなかった私たち市民の怠慢であるといえるだろう。

自然と呼ぶか、怠慢と呼ぶか、それは考え方の分かれ目になりますね。




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和の国

2017-11-11 11:00:47 | 政治

>●国民による国民のための詩集
>多くの国民が参加して偉業を成し遂げるというのは、巨大建造物に限らない。>世界最古、最大の選詩集『万葉集』もその一つである。>4,516首という規模で世界最大であり、かつ、7~8世紀の歌を集めている。

確かに偉業ですね。

>規模や古さだけではなく、万葉集が特徴的なのは天皇から庶民までほとんどあらゆる階層を含んでいることである。>アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏は…天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、その題材の豊富なことは、詩集として世界でも稀なことであると述べている。
>作者も宮宮廷の詩人だけでなく、防人(さきもり)の歌や東人の歌、農民、遊行女婦、乞食まで多様な階層の歌が選ばれているのである。>いかに階層に対する偏見がないか、また平等な世界であったかがよくわかる。>(同上)

階層 (class) に対する偏見は無いかもしれませんが、序列 (hierarchy) に対する偏見はあるでしょう。日本語には階称 (言葉遣い) というものがあって、序列判断は避けられません。この判断が偏見となっています。

>西洋や中国の詩集が専門歌人の作品を集めているのに対し、万葉集は、多くの国民がそれぞれの思いを詠んだ詩歌を集めた、まさに国民による国民のための詩集であった。>この和歌の伝統は、現代の日本でも皇室を中心に中学生から老人まで数万の短歌を集める「歌会始め」に連なっている。

序列体制が堅持されていますね。

>●国を挙げて取り組んだ教育水準の向上
>幅広い国民参加による世界レベルの偉業達成というパターンは近現代でも続いている。>江戸時代の教育水準の高さはその一つである。

これで、我が国民は賢い国民ということになりますかね。

>トロイの遺跡発掘で有名なドイツの考古学者シュリーマン(1822~1890)は、トロイ発掘の6年前の1865年に旅行者として日本を訪れ、1カ月の間、江戸、横浜などに滞在しているが、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。>中国をも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と旅行記のなかで書いている。>(同上)

そういうことでしょうね。

>この世界一の教育水準は、日本各地に無数に設置された藩校、私塾、寺子屋によって達成された。>藩校の最初は、元禄10(1697)年に米沢藩が設立した興譲館だが、その後、全国に広がり、幕末までに約260のすべての藩が、規模や形態の差はあれ、藩校を設置している。

アメリカの州立大学の様なものですかね。

>私塾は寛文2(1662)年に、伊藤仁斎が京都に古義堂を開設して以来、様々な専門分野で広がり、幕末には全国で1,500もあったといわれている。

今日でも、塾・予備校は全国にありますね。

>寺子屋は農民や町民の子供たちにお坊さんや神主、町のご隠居や武士などが教えていた。>幕末には全国で1万から1万5,000もあった。>現代日本の小学校数約2万に匹敵する規模の初等教育が行われていたことになる。

明治10年生まれの私の祖母たちは、文盲でしたがね。

>藩校を運営した各藩主から、私塾を経営した各分野の専門学者、さらには寺子屋で教えるご隠居さんまで、国民の各層がそれぞれに人づくりの志を持って取り組んだ結果が、世界一の教育水準なのである。

そうですね。処世術の励みは盛んでしたね。

>●「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」
>『日本史のなかの世界一』には、このほかにも「江戸時代、268年間の安寧」「日本の花火の豪華さ美しさ」「パーフエクト・ゲームとなった日本海海戦」「戦後日本、奇跡の復興と高度経済成長」「自然環境との調和、森林の保存の歴史」と、興味深い世界一が次々と紹介されていくが、これらも無数の国民が力を合わせて実現したものである。

自己慶賀に資する事柄ばかりを並べましたね。

>その最後を飾るのが「世界最長の王朝、万世一系の天皇」で、皇室が2,000年以上も続いてきたこと自体が世界史の奇跡なのだが、その陰にあって皇室を支えてきた無数の先人たちがいたことを忘れてはならない。

序列制度に資する滅私奉公は忘れられませんね。

>「和をもって尊しとす」とは、聖徳太子の17条憲法の第一条冒頭の一節だが、これは単に「仲良くしなさい」という意味ではない。>第一条は、上下和睦して事を議論する時は、物事の道理が自ずから通うので、「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」という強い信念で結ばれている。

日本人には、理屈が通りませんね。それは、頭の外にある内容 (現実) は述べることが出来るが、頭の中にある内容 (考え・非現実) は述べることが出来ないからです。全ての考え (非現実) は文章になる。文章にならないものは、考え (非現実) ではない。日本語文法には時制 (tense) というものがありませんので、非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容を文章にすることが出来ません。文章にならないものには意味が無く、矛盾も指摘できません。ですから、話の筋は通りません。それで、’単に仲良くしなさい’ という意味になるのでしょう。

>世界の陸地面積の0.2%でしかない日本列島に住む、世界人口のわずか約1.7%の日本人が、これだけの世界一を成し遂げたことを見れば、人々の「和」によって「できない事などあろうか」と断言された太子の確信の正しさが史実として証明されている、と思えるのである。

確かに、日本人は力を発揮していますね。でも我々は、もっと大きな力を発揮できるはずです。
日本人には、大同 (非現実・哲学) が無い。小異 (現実・処世術) の闘争に明け暮れています。大同を示さなければ、小異を捨てる理由はありません。だから、国会議員たちは、離合集散を事としています。それで、大同団結ができません。
日本人は、考え方を変えなくてはなりませんね。時制ある考え方・非現実を語る考え方を獲得する必要があります。非現実を現実に変える励みに成功すれば、我々は人類固有の創造力を発揮したことになります。
英語には時制というものがありますので、哲学が可能になります。ですから、夢も希望もある生活が実現します。我々は日本語と英語の両方を真剣に学ぶ必要があります。




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