水瓶

ファンタジーや日々のこと

石川町散歩

2016-05-18 20:30:12 | 横浜の町
山手西洋館の中でも、山手イタリア庭園のある外交官の家は、JR根岸線石川町駅寄りで、
みなとみらい線の元町中華街駅からは少し離れているので、今まであまり行っていませんでした。
先日はこの方面をおさんぽしたんですが、石川町辺りの町並みが予想外におもしろかったので、
外交官の家とは別に記事をまとめてみました。




山手へと上がってゆく階段。この辺り、急な坂や階段が多いんですが、そのおかげでというか、
景色に変化がついてよいのです。眺めはいいし、すごくいい所なんですよね。苦労もあると思いますが。。


外交官の家の横にある階段を下りて来るとこの坂道に出ます。ここも結構な勾配。





石川町は、やきとり屋とそば屋とワインを飲ませる洋風居酒屋、それに手芸屋さんや雑貨屋さんが多い印象でした。
間口が狭く、小さいお店がひしめきあって、なつかし楽しい感じです。
あと岩手のアンテナショップもありました。レモンバジル風味のサバ缶がおいしかったんですよ!
地方のアンテナショップはいつも人がいる感じ。なんか入りやすいんですよね。なんでだろう。


山手から石川町へ下りて来る階段の途中に、お地蔵さんの祠があって、こんな碑が立っていました。

大丸谷震災地蔵尊の由来碑

1923年(大正十二年)九月一日午前十一時五十八分関東全域にわたって大被害をもたらした関東大地震は震源地を相模湾の北西隅あたりの海底と推測され、北海道、沖縄にいたる地域でも人体に感じ、全世界の地震計に記録をとどめ、死者99,331名。負傷者103,733名、行方不明43,467名の大地震であった。当時此の付近一帯は各所より発生した大火災により一面火の海となり避難民は高台(十三番)の安全地帯を求めて大丸谷道路上を山に向かって殺到した。其の数役三百名、然し下方より吹き上がる火焔は物凄く道路上は忽ち灼熱の地獄と化し前進をはばまれ止むなく右手の崖を草の根につかまりつつ我先にと登りはじめたが後続の避難民は火焔にあおられ熱さに耐えかね、つつじの灌木の中に身を伏せこらえたが後方よりせまる火勢の猛威には抗しきれず、ついに二十七名が二度と帰らぬ犠牲者となった。震災五十周年にあたり尊き人命を失った方々の霊にたいし改めて冥福を捧げるものであります。
昭和四十八年九月一日 石川町一丁目町内会


月曜日の夜に関東地方で大きめの地震があって、久しぶりに緊急地震速報で電話がギュンギュンいってびっくりしました。
昔って、こういう天災には、備えもなすすべも、今よりももっとなかったんでしょうね。
堀立柱の祖末な小屋なら、震度5ぐらいでも倒壊して、けがをした人や死んだ人も出たかも知れない。
江戸時代になっても、富士山の噴火や三度の大きな飢饉の時などに、幕府や藩の援助はぜんぜん不足していたようですし、
稲作農耕の暮らしの身動きの取れなさ、日本の、新たに開墾する土地のなさは、こうした災害へ対抗することも難しくしただろう。
けしてどうでもいいことではない、本当なら忘れるべきでない過去を無理にでも忘れ去って、
気持ちも暮らしも立て直すほかなかったんだろうと思いました。
もしも深く、真面目に考えれば、再建のために立ち上がる気力も出なくなってしまうんじゃないかと。
忘れるというのは、具体的にはほとんど対策することができなくて取らざるをえない、最後の奥の手なんだと思います。
ことに大きな天災を相手にしては、過去、人間は、ほとんど無力だったでしょう。
でもだからこそ、大きな被害のあったことについて、こうした碑や記録を未来に残してゆくことは、すごく大事なことなんでしょうね。


この建物は美容院で、とても目をひいたんですが、意外に町並みになじんでいました。建ってからの時間のせいかしら。


山手西洋館のような、その建物自体が美しい場合と、一軒一軒は山手西洋館ほどには美しさに重点を置いていないのに、
町並み全体に独特の美しさが現れてくるのは不思議ですね。
高級住宅地って、全体を見た時の美しさは、あんがい退屈なんですよね。
山手西洋館や高級住宅地の美しさは、ほかお城とかもそうだと思うけれど、生活感を隠した美しさで、
古民家やこうした町並みの美しさは、生活感がほどよくにじみ出た美しさなのかなあと。






電車に乗って馬車道駅まで。石川町とはまた雰囲気が違いますが、ビルの壁に夕陽が照り返してきれいでした。

しばらく前にBSプレミアムの新日本風土記で、鳥取県酒津の「とんどう」というお祭りを取り上げていて、
とんどうっていうのはお正月飾りとかを十五日頃にお炊き上げする、いわゆる左義長の一種のようです。
鳥取は因幡の白うさぎ伝説にあるように、大国主命、つまりオオナムチのお膝元で、
「火山列島の思想」にも取り上げられていたんですが、このわらで編んだ山、夜には火をかけて、まるで火山のように見えました。
左義長は徒然草に記載があったり、戦国時代頃の屏風絵にも描かれていたりとかなり起源が古いようで、
ひょっとしたら火山神・オオナムチをまつるお祭りに由来するのかも知れないなあと、これは私の想像ですが。

古民家で祭られているかまどを見た時も、考えてみればかまどってご自宅用のミニ火山みたいだよなあと。
お盆に帰って来たご先祖さまを、お供えなどを焼いて送るように、
左義長はお正月に訪れた神様(これもやっぱりご先祖様?)が宿った正月飾りを焼いて、高所へ送る儀式のように思えますし、
全く無関係にも思えた山の神、火の神、かまどの神、ご先祖さま、が、ぼんやりとつながってきたように思います。
おそらく、こういうことに確かな答えを出すことはできないんでしょうけれど、こうして考えをめぐらすのは面白いのです。

原始・古代の祖先たちにとって、山は神であった。山が清浄であるからではなく、山が神秘不可測な〈憤怒〉そのものであったからである。山は、まず火の神であることにおいて、神なのであった。(「火山列島の思想」益田勝実)





関東大震災から93年。東京オリンピック、私はテンションだだ下がりなんですが、
もしも予定通りにやらなければならないとしたら、東京の街を少しでも地震に強いようにしてくれたらいいなあと思います。
大がかりにそういう工事やら区画整理やらやるにはいい機会ですもんね。
東京に関東大震災規模の地震が今来たら、、、と考えると、本当に恐ろしいです。。
建物は当時よりはるかに耐震性があるけど、人口の集中も当時の比じゃないだろうし、日本全体に及ぼす影響に至っては、
考えるのも恐ろしい……。
だから、やっぱり少しでも、今できるだけのことはしておかなければ。
天災は今でも恐ろしいけれど、人は昔ほど、それに対して無力ではないはずですよね。


         


おまけ。懐中電灯は何本かもっておくと安心ですよ。少しお高めでも、今は小型で軽くて性能もいいのがありますから。
まあうちはもう、そんなにあってどうすんだってぐらいあるんですけど、震災の時には本当に助かりました。
だってあの時は、お店から懐中電灯も乾電池も、みんななくなっちゃいましたもんね。。
あとは、ガスレンジでもきれいにしておこうかなあ。


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