水瓶

ファンタジーや日々のこと

私憤の人 BRUTUS・筒井康隆インタビュー

2016-12-18 09:21:52 | 雑記
「私憤」の対義語って義憤かと思ったら公憤なんだ。。。まあいっか。
で、私憤の人とは誰のことか。筒井康隆氏のことであります。私憤ていうのは

おれんちの前で犬にフンをさせるな。
おれの担当には美人の編集者をよこせ。


こんな感じかな?美人の編集者っていうのはちっと違うかも知れないけど、でも私の筒井康隆のイメージは大体これなんです。「おれ」。

昨日は森のなかまの実家に行った帰り、おおむね私の要望で「久しぶりに神保町へ行こうよ」てなことになりました。
で、シルクロード関係の本を買い込んで来たんですが、三省堂一階のレジ前に並んでたらBRUTUSがあって、
そういえは筒井康隆のインタビューがのってんだっけと思ってちょっと立ち読みしたら面白そうだったので買いました。
その後食事をしながらパラパラ読んで、森のなかまとあーだこーだいいながら笑ってました。
やっぱり筒井康隆はいいよねえって。

インタビューには、わりと長いこと疑問に思ってたことの解答のように思えることが書いてありました。
ちょっと前に、久しぶりで「宇宙衛生博覧会」読んだんです。面白かったけど、一篇だけ読んでてドン引きして、
思わず書いた人の人格を疑って筒井康隆から心理的な距離をうんと取りたくなった話があったんです。

「問題外科」。ひでえ、これ。。ていうかオエエ。。。

そうだそうだ、たしかこれ昔も一度か二度しか読んでないやつだった。
ひどいっていうのは小説の出来がひどいってことじゃなくて、ていうかまあ小説の出来がどうとか言えるような身分じゃないけども、
とにかくさすが文章のプロだとは思うんですが、とにかく読めばわかるけど内容がひどい。ひどいとしかいいようがない。
残酷残虐で因果応報的なオチもなし、なんらかの教育効果とか啓発目的とかのおためごかしも全然なくて、
ただ単に残酷展示会やりたかっただけのような、人としての道徳心や倫理のかけらも感じられない小説なんですよ。
で、ブルータスのインタビュー読んだら、そう感じて正解だったみたいです。よかった。???

昭和がどれほどひどい時代だったかというと、筒井康隆氏がまだ独身時代にお見合いをしたそうなんですが、
いざ相手が来てみたら見合い写真とあんまり違うんで、怒りのあまりその場で障子の桟をバラバラに外して帰ったというこまめにひどいエピソードをエッセイに書いていまして、
売れっ子の作家がこういうことを書いて大手の出版社が堂々出版して売ってて、
読む方も「筒井康隆ひっでえことすんなあ」ぐらいで笑って流してたようなひどい時代だったんです。
やっぱり昔はよかったね。

ベトナム戦争をパロディにした「ベトナム観光会社」を書いた時、
身内からも「書いていいものと悪いものがあるんじゃないか」と言われ、そういう場合はどういう切り返しをされるんですかと問われ

___そりゃ「書いて悪いものなんか何一つない」ですよ。

・・・うれしいよねえ。うれしいよね。
私は別に文筆業でなし、社会にたてついてまで何かを表現したいとかの欲求もないけど、でもこの言葉にはほっとする。。
なんか、柵って見えるじゃないですか。この人にはきっとこういうことは書けないだろう、みたいな限界。
それはずっと遠くにあって、書いている分にはほとんど不自由は感じられないんだろうけれど、
そっから先は行けないだろうと感じさせる柵のようなものが、なんとなく色んな小説とか読んでると、見えてくる。
それは小説によっては書かれる必要はなくても、その柵が見えると、ここが限界かと思ってなんだか残念に思ってしまうような、そういう柵。
でも多分、その柵を設けない状態で文章書くのって、すごく怖いんだろね。



たとえば殺人を肯定的に描いた小説があって、それに影響を受けて人を殺す人が実際に出るかも知れないからそういう小説は書いてはいけない、出版してはいけない、みたいな考え方ありますよね。
それに対抗して、いや、こうして殺人をフィクションで書くことでそういう欲求がある程度満たされて、
殺人を犯さないで済む人もいるだろうからむしろ書かれた方がいいんだっていう言い方もあります。
実際の所はどうなんでしょう。私はどっちもあるんじゃないかなって気がしますが。
その殺人肯定小説に影響を受けてほんとに人を殺してしまう人も出るかもしれないし、
その殺人肯定小説に満足してほんとには殺人を犯さないで済む人もいるだろうと。
じゃあ後者の方が多ければ益があると表現の自由を訴えることもできるけれど、
これってきっと調査とかしても、そういう証拠は出せませんよね。結局のところわからない。

ジョン・レノンが暗殺された時、犯人はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を持ってたっていうのは有名な話ですが、
でもそれで「ライ麦畑でつかまえて」を発禁にしようって話は出なかったと思うんだけれど、
それは「ライ麦畑でつかまえて」には銃や殺人の話は出て来なかったっていうのあるだろうか。
もし銃や殺人の話があったら、発禁にしようって話が持ち上がっただろうか。
でも、犯人はやっぱり「ライ麦畑でつかまえて」に影響を受けて、ジョン・レノンを射殺したのかも知れない。
あれのどこにそういう要素があったかと思うけど、かといって殺人を肯定するようなことが書いてあったから実際に殺人を犯した、
とあっさり言えるような、ごく表面的な話ってのも実はそんなにないんじゃないかな、っていう気がして。
聖書読んでもライ麦読んでも、極端な話料理の本読んでも、影響を受けて殺人を犯すことはありえるんじゃないかと思います。
それはもうその人ひとり限りでしか通らない話で、予防的に制限できるようなものではないんだろうと。
ならば自由の方を取ろう、と思う。

それでも最近の、差別的な発言を公の政治家とかが堂々として、それを歓喜で受け取るような人たちも多い様子を聞くと、
やっぱり法律で規制した方がいいこともあるのかなあとか思ったりもするんだけど、、、
正直、私はまだそれについてはっきり言うことができません。けっこうな覚悟が必要ですよね。どちらと言うにしても。
ああ、うん、でもまず、あんまりひどい人だと思われたくないっていうやらしい気持ちはあるんですよね。
そういうひどいこと言うのを許容するなんて、なんてひどい人だろうって思われたくないっていうのはある。日和りたくなる。。。



でも、インタビュー読んで思いました。私憤を公憤だの義憤にすりかえないで、
単に「おれに無礼なことをするな」とずっとプンプン怒って来たのが筒井康隆だと。
印税で悠々食えるようなえらい作家になったら、眉間にしわ寄せて腕でも組んで、もったいつけて公憤義憤でものを語るもんなのにね。
こんな人他におらんで。きっともう出ないで。

私が筒井康隆の洗礼受けて育ってよかったって思うのは、読んでないまま生きてたら、きっと今頃、
今の私が大嫌いな感じの人間になってたような気がすることなんですよね。。
まあそういう嫌な私は、実際今でも時々顔を出してなんか言ったりすることもあります。
うん、ほんと今気を抜くと、心のめちゃ狭いご立派な私が幅をきかせそうになってる時がある。
そういう時、ちょっと待て待て、そんなお前らしくないだろ、鏡見てみろ、こっけいだろ、
みたいなこと言って止めてくれるのが筒井成分なんですよね。
まあ、筒井康隆読まないで生きて来たパラレルワールドの私は私で、筒井康隆読んで喜んで笑ってるような堕落した悪い人間にならなくてよかったって思ってるかも知れませんが、やっぱりおれはこれでよかったんじゃい。

話変わって、メタフィクションとかパラフィクションとか最近たまに聞くようになって、
どういう意味なのかちょっとわからなかったんだけれど、インタビューにはっきり書いてありました。引用しちゃうぞ。

___パラフィクションってわかるか。メタフィクションが読者に「これは虚構だ」と認識させることだとすれば、パラフィクションは読者に「今自分は読書している」と認識させることだ。うわあ、いやだなあ。つまらん解説させられちゃったよ。あっ、この辺のところ、カットしたり書き直したりしやがったら承知せんからな。

・・・先生それ私、メタフィクションは「興ざめ」、パラフィクションは「さらに興ざめ」って思ってたやつだ。。。

インタビュー記事の最後、編集部の註なんか入れなければよかったのに。そんなの詳しくわかんない方が面白いよね。


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