川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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戦争犠牲者の画像を見よう 平和の価値を知るために 「憎むは人の業にあらず」

2015-02-08 23:00:57 | Weblog
             長崎原爆翌日1945.8.10、自宅跡で母の遺体を背に立ち尽くす女性

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満州事変1931年から敗戦1945年まで日本軍による斬首や銃剣刺殺は日常茶飯事でした


 きょう、ある立派な人のお話を聞きました。その人が3歳のとき、奈良に住むようになったきっかけです。昭和20年戦争中のことで、大阪大空襲で母親がその人をねんねこで背負って逃げ惑いました。住まいも失いました。父親は戦死しました。それが奈良県に住むようになったきっかけです。

 その人の母親は戦争後に必死に生きて子育てをしたことでしょう。その人も母親を助けて懸命に生き、学び、世間から尊敬を集める人になられました。しかしそれは、敗戦日本に平和がもたらされたからでしょう。戦争がつづいていたなら、また違う道に追い立てられていたかもしれません。

 中東の事情にうとかった私たちは、後藤健二さんのおかげで多くのことを知りました。戦争状態の下で生活している人々が、中東で何百万人もいることを知りました。「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」――小説のこの平凡な一節が、日本で平穏に暮らす私たちに迫ってきます。

 昭和の戦争時代に生きた日本人も、アジア・太平洋の広大な領域で住民に被害を与えて戦争加害者になりました。そして国家に徴兵された父や兄である日本兵も大量に死にました。国内でも無抵抗の日本人が米軍機の空襲によって大量に殺されました。シリアやイラクの紛争地域で暮らす人々や戦う人々の姿が、昭和戦争時代の日本人の生活に重なります。人ごととは思えません。

    ◇

 私が持っている「新版 死者が語る戦争」(河出書房新社 1995年初版)は戦争犠牲者の写真を集めた写真集です。写真に番号をつけて簡単な説明がついています。巻末には掲載写真ごとの出所一覧があります。目次は、日中戦争、太平洋戦争、アウシュヴィッツ、沖縄、空襲、広島・長崎、朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連邦崩壊、アフリカ諸国、イ・イ戦争・湾岸戦争、ボスニア・ヘルツェゴビナと並んでいます。写真番号と説明をピックアップして紹介しましょう。

<5> 写真提供者である大阪府大東市在住のB氏によれば、昭和6年(1931年)か7年、満州で入手とのこと。村人を全員集めて、親日派を使っての見せしめ処刑をたびたび見たという。B氏は昭和5年から20年まで中国大陸を転戦した軍人で、転戦地と年月は不詳。 (※:この写真の中央の膝立ちをした男性の首がなく、前に落ちています。その傍らで軍服を着た男が日本刀を振り下ろしています。その瞬間の写真でしょうか。ほかにも膝立ちしている男性が二人写っています。そのすぐ後ろに群衆がぎっしりと詰めあって見ています。)

<15><16><17> 後ろ手に縛られ、虐殺され、クリークに投げこまれた中国軍捕虜。 (※:17番写真だけでざっと30体ほど浅瀬に重なっています)。岸には黒こげの死体もある。「捕虜は足手まとい」が日本軍の常識だった。昭和12年9月~14年1月、第13師団の軍医として従軍した佐々木周一氏が昭和13年5月に蒙城で撮影。

<20> 火炎放射器で焼かれた日本兵。エニウェトク環礁、昭和19年(1944年)2月撮影。 (※:個人壕のような所から上半身を見せ、両腕を前に出して肘を地面で支え、顔はまっすぐに前方を見て鉄かぶとをかぶっています。そのままで黒こげになっている姿です。)

<21> 日本軍に虐殺されたシンガポール人。昭和17年(1942年)撮影。中学校歴史教科書で「虐殺2万人」が文部省指導で「6千人以上」に修正されたという報道が1983年にあった。 (※:掲載写真には6人の遺体が地面に並んでいて7人目が一部写っています。一人の日本兵が遺体を銃でつついているように見え、もう一人の日本兵は遺体が並んでいる方向に歩いています。)

<22> この写真は死んだ日本兵が持っていたもの。目隠しされた軍人は、軍服の特徴から、オーストラリア空軍兵と推測されている。撮影場所、年月不詳。 (※:一人の半ズボン半袖姿の白人兵が目隠しをされて、正座するように座っています。傍らで日本兵が日本刀を頭の上に振りかぶっています。その向こうに銃をかまえている日本兵や軍刀を腰にしている日本兵が見えます。彼ら日本兵の横列の後ろには現地人らしき観衆が重なっています。)

<29> 塹壕の中で全滅した日本兵。クェゼリン島、昭和19年(1944年)2月2日撮影。(※:折り重なって20体くらいあるように見えます。)

<34> 隣り合う日米両軍の戦死者。硫黄島、昭和19年(1944年)2月撮影。 (※:一人の日本兵が仰向けに倒れています。その向こうに日本兵の足の方に向けて体を並べてうつぶせになっている米兵。そのまた向こうに仰向けに倒れている米兵。3人が並んで死んでいます。)

<49> 首里城に散らばる日本兵の死体。昭和20年(1945年)4月29日。 (※:砲撃か何かで爆破されて壊れた遺体もあるように見えます。数体でしょうか。)

<52> 集団自殺のように見える非戦闘員。沖縄。撮影場所、年月不詳。 (※:写っている遺体は女性8体でしょうか。1体の頭に子ども一人が頭をつけて死んでいます。)

<55>~<65> 東京大空襲。2時間半の爆撃で8万5000人が焼死した。昭和20年3月10日、警視庁警務部写真室勤務・石川光陽氏撮影。(※:写真の遺体はどれも数多く並んでいます。黒焦げ人形のような遺体の写真もあります。)

最後に、イスラム国によるヨルダン軍中尉焼殺の動画です。中尉は檻の中に入れられています。火炎が檻いっぱいに燃え上がります。中尉はカメラに向いて立っています。そのうちに跳ねながら、くるりと体を回してカメラに背中を向けます。跳ねるのは、足の裏が熱いからでしょう。炎に包まれて、顔に両手を当てて立っています。熱さから顔を守っているのでしょう。その姿はもう黒く見えます。炎に包まれているので、照度不足から体が暗く写っているのかもしれません。そのうちにとうとう立っていられなくなり、両膝をつきます。檻の鉄棒を持つようにして体を支えようとしています。膝をついて顔が下に向き、両腕も下向きに下りています。アップで映し出されたその黒焦げの顔を、額あたりから鼻筋を伝った液が鼻頭からしたたり落ちます。吸う息のために肺はすでに焼けただれて息絶えているでしょう。前に両ひざをついた姿勢なのに、やがて体は後ろに傾き、両肘を曲げた腕を上にあげるようにして、後ろにどうっと倒れます。その瞬間にブルドーザーでコンクリートがれきを覆いかぶせます。惨劇に直面して乱れのない死に姿でした。

 私はこの動画を二つのサイトから採取保存しました。今は二つのサイト共に削除されて、見ることはできません。しかしありがたいことに、今の時代はネットで画像でも動画でもたいがいの見たいものを見ることができます。戦争犠牲者の姿を胸におさめて、戦争を招き寄せる人たちへの警戒心を高め、平和を希求するバネにしたいと思います。

 「憎むは人の業にあらず」。このことばが今、静かに広がっています。イスラム国の犠牲者・後藤健二さんの昨年2014年9月のツィッターです。後藤健二さんはこのことばをアラブの人から教わったと言っています。イラク、シリアの人々に平和が訪れる日を願ってやみません。


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