川内町内会

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広瀬川と島崎藤村

2016年11月07日 | 川内・広瀬川あれこれ

 縛り地蔵から宮城県立工業高校の裏を経て霊屋橋のすぐ下まで、長い河川敷公園が造られている。明治時代にはもちろんこの公園はないのだが、広瀬川や仙台というとよく引き合いに出される文学者の一人である島崎藤村もこの辺を散策したのではないかと、つい想像してしまう。というのも、この辺は東北学院大学にもっとも近いので誤解しやすいのである。
 当時の東北学院は、東二番丁と南町通りが交叉する角にあったので、このあたりが1番近いというわけではない。藤村が25才の明治29(1896)年9月~明治30(1897)年7月までの9ヶ月間の東北学院勤務を終えた翌年に「若菜集」が出版されているが、広瀬川が詩に現れるのは1カ所だけである。

   その鬣(たてがみ)の艶なきは
   荒野の空に嘆けばか
   春は名取
(なとり)の若草や
   病める力に石を引き
   夏は国分
(こくぶ)の嶺を越え
   牝馬にあまる塩を負ふ
   秋は広瀬の川添の
   紅葉の蔭にむちうたれ
   冬は野末に日も暮れて
   みぞれの道の泥に饑
(う)
              島崎藤村「牝馬」部分 [1]

 「国分の嶺」がどこを指すのか、私にはわからない(国見という丘陵は仙台市西北部にあって、市内からよく見える)。それに、この詩句からは、藤村が名取の地や広瀬川をどのように感じていたのかはよくわからない。七五調で格調を重んじる近代詩の特徴ではある。残念ながら、藤村が広瀬川を散策したのかどうかも、この詩からは推量できない。

[1] 島崎藤村「若菜集」『現代日本文學大系13 島崎藤村集(一)』(筑摩書房 昭和43年) p.13。


(HP 『ブリコラージュ@川内川前叢茅辺』から抜粋、転載しました)



 

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