日本書紀

『日本書紀』は正式な国史だと言われている。しかし、その中身について本当に研究されたのかどうも疑わしい。

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甘樫丘

2017年03月06日 | 日本古代史

2017.03.20 一部編集
【甘樫丘】
つい先日(3月1日)奈良県明日香村の小山田古墳(橿原神宮と石舞台の中間の甘樫丘にあり飛鳥時代最大級の方墳といわれ一年前から発掘が続いていた)で奈良県立橿原考古学研究所が発見した羨道(せんどう)の幅が石舞台古墳に匹敵することから、古墳の被葬者が舒明天皇(在位629-641)か蘇我蝦夷(586?-645?)かという説のあることがニュ-スで流れた。蘇我蝦夷といえば、奈良文化財研究所が以前に発表した乙巳の変の火災の跡のある蝦夷の邸宅で、ひょっとすると『天皇記』『国記』の燃えカスが出土するかも知れないという話(2005年)や、金錯銘鉄剣の「ワカタケル」で有名になった雄略天皇の磯城宮ではないかと云われた建物跡という話(1984年、脇本遺跡)はどうなったのだろうか。『日本書紀』記述を信用するあまりに、まさか本気で『天皇記』『国記』の燃えカスが出て来るなどと思ってはいないだろうが、その前に、天皇ではない蘇我氏の邸宅に何故『天皇記』『国記』があったのか、『日本書紀』であれ程有名な蘇我氏が『古事記』では宗賀之倉王? 、宗賀之稻目宿禰大臣の二人しか名が無いのは何故か、脇本遺跡の柱跡が5世紀後半のものと何故分かるのか、金錯銘鉄剣と同じで「最初に5世紀後半の雄略天皇ありき」の説ではないのか、などの説明をぜひとも聞きたいものである。

日本考古学ではいつもの事だが、このように大きな話の後に何も発表されないという事は「高松塚古墳やキトラ古墳の壁画保存の失敗」と同じで「予想が外れ何も出なかった、あるいは間違いだった、現在も作業中だが、このまま黙っていれば世間は忘れるに違いない」という事なのだろう。何らかの成果が上がらなければ普通はカットされる予算も、橿原考古学研究所のかかわった特定の遺跡発掘には毎年何処からか降ってくるようで、纒向遺跡をはじめとして奈良盆地は各所で発掘作業に明け暮れている。因みに、文化庁の予算は1000億円を超える。

丁度良い機会なので記紀のカラクリの一つを、この記事にある「甘樫丘 アマカシノオカ」を使って説明する事にしたい。
甘樫丘と云えば『日本書紀』では允恭・安康紀の盟神探湯(クガタチ)に登場するのだが、記紀を後世に書き直した学者の悪い癖で「味橿岡 アマカシノオカ」あるいは「甜白檮・甘檮」を「甘樫」と書き換えている。元々、漢語でない限り倭国では「甘」は『古事記』のように「牛甘・馬甘 ウシカイ・ウマカイ」と読むか、「美味(ウマ)い」という意味の「甘・味」の読みは下記の甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)や神代紀の可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)、『旧事本紀』のいう天香山命の異母兄の可美真手命(ウマシマデノミコト)と同様に、読みは「アマ」ではなく「ウマ」である。ところが記紀を見たことのない人達は「ウマシ」という読みを知らず、猫も杓子も「アマカシノオカ」と振り仮名を付けている。
ここまで書いただけでも甘樫丘(アマカシノオカ)や馬甘(ウマカイ)から本来は「ウマシカシノオカ」で、意味は神武天皇の橿原宮(カシハラノミヤ)と同様に「(蘇我)馬子の館跡」となる。「丘」には「小高い山」以外に「墓」や「建物跡」の意がある。

何処かで書いたような気がするが、舒明天皇の倭風謚号、息長足日広額(オキナガタラシヒヒロヌカ)の「足 タラシ」を持つ天皇は500年以上前(最近では学者の都合で120~200年の下駄を履かせている)の天皇にあり、分かり易いように舒明天皇や景行、成務、仲哀、応神、仁徳朝に二百数十年間仕えたという蘇我氏の祖、武内宿禰(タケシウチノスクネ)や弟の甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)を並べて書いてみる。なお在位年は紀元節の設定に合わせたもの。
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武内宿禰(タケシウチノスクネ 孝元天皇三世の孫 景行天皇14-?)
甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ 応神紀 武内宿禰の弟)
12代 景行天皇(大足彦忍代別 オオタラシヒコオシロワケ 在位71-130)
13代 成務天皇(稚足彦 ワカタラシヒコ 在位131-190)
14代 仲哀天皇(足仲彦 タラシナカツヒコ 在位192-200)
(15代)神功皇后(氣長足姫 記は息長帶比賣 オキナガタラシヒメ 摂政在位201-269)

(35代)34代 舒明天皇(息長足日広額 オキナガタラシヒヒロヌカ 在位629-641)
※神功皇后を大正以前の15代天皇とすれば、舒明天皇は35代、『扶桑略記』のように飯豐天皇を24代とすれば、36代となる。
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1 上にはないが允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰)にも宿禰が付き年代的に「八色の姓」の三番目とも言えず、武内宿禰・甘美内宿禰・蘇我稻目宿禰・蘇我馬子宿禰の宿禰は美称と云われるが、何故か蝦夷・入鹿に宿禰はない。恐らく天皇のように振舞った事を理由に外したのだろうが、それでは大罪を犯した馬子との違いは何だろうか。なお一説には上記の甘美内宿禰の「甘美 ウマシ」も美称だという。では、この人物の名がなくなってしまうのだが?

2 同じ「足 タラシ」が付くことから、景行・成務・仲哀・神功皇后は後世に造られたものという説もあるようだが、実際は加耶一族の渡来時期の欽明紀にあったもの。『日本書紀』を読んでみれば分かるように景行天皇と日本武尊は同じ話を分けたもので、成務天皇に皇子が居ないという理由で日本武尊の王子を仲哀天皇としているが、仲哀天皇の神功皇后を「氣長足姫」、『古事記』では「息長帶日賣」と書き舒明天皇の「息長足日広額」と比較すれば「氣」と「息長」を逆にして入れ替えている。これらは全て何故『古事記』が舒明天皇の前代、推古天皇で終わっているかの答えでもある。

3 武内宿禰(タケシウチノスクネ)が筑紫に来た時に弟の甘美内宿禰の密告で壹岐直祖真根子が身代わりになって死んだ話からも分かるように、武内宿禰(タケシウチノスクネ⇔チクシノウチノノスクネ 筑紫の内野の宿禰)は舒明天皇(田村皇子)のいた福岡市早良区野方や田村を流れる室見川の上流の内野が出身地である。その為に奈良盆地を取り囲む山の名に平群山・葛城山があり、蘇我氏が住むことになっている。

あくまで石舞台が『日本書紀』の記述にある※桃原墓という馬子の墓だという前提での話だが、場所が蘇我氏の拠点の甘樫丘(アマカシノオカ ウマシカシノオカ)に近く、石舞台と同じ方墳であることから蘇我蝦夷説が限りなく正解に近いと思う。しかし、有名な先生方は触れられていないが、逆に疑問が増えたと云ってもよい。

崇峻天皇殺害の張本人と云われた蘇我馬子(稲目の子)が推古天皇34年(626年)に亡くなった時の『日本書紀』の記述には、蘇我馬子が生前に三宝を敬ったことを理由にして桃原墓に葬られた、とある。
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推古天皇卅四年
夏五月戊子朔丁未、大臣薨、仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也、性有武略亦有辨才、以恭敬三寶。…
(「薨」は皇族・三位以上に使われる為、皇族ではない馬子は三位以上ということになる。しかし673年即位の天武天皇は皇子以外の皇族諸王に三位・四位を与えている。果たして馬子の時代に既に冠位制度があったのだろうか)
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崇峻天皇殺害という大罪を犯した蘇我馬子を推古天皇(崇峻天皇の異母姉)は別に咎めることもなく理想郷・仙境・別天地とも云われる桃原墓に埋葬したが、時代は不明だが後に徹底的に破壊されている。
では何故、宿禰という美称のない蘇我蝦夷・入鹿親子が自らの墓を天皇と同様に「大陵・小陵」と称し「八佾の舞(ヤツラノマイ、ハチイツノマイ)」を舞わせ、乙巳の変(645年)の入鹿の死に際して邸宅に火を放って(聖徳太子と蘇我馬子が620年に纏め上げたという)『天皇記』『国記』とともに自害した蝦夷にも拘わらず巨大な方墳に葬ったのか。そういえば、舒明天皇陵の押坂内陵も上円下方墳である。

蘇我氏に関する上記の疑問に対する答えは簡単で、蘇我氏も大王一族であったと考えれば良いだけの話である
もちろん、そんな事を言い出せば今迄『日本書紀』は日本の正史である、と云って来た先生方の立場がなくなってしまう。
繰り返しになるようだが、その証拠に拠点とした場所を学者は「甘樫丘 アマカシノオカ」と書いているが、『日本書紀』には「甘檮丘 アマカシノオカ」とある。というと恐らく「檮 カシ」は旧字であるために本来は「橿 カシ」だが、それでは允恭紀に「味橿丘」と書いてしまった為に国字だが「樫 カシ」と書いただけ、と云うに違いない。確かに神武天皇紀には「橿原宮 カシハラノミヤ」とある。しかし『古事記』は神武天皇の宮を「白檮原宮 カシハラノミヤ」と書いて蘇我氏の「甘檮丘」と同じであり、「橿」、「檮(切り株)」、「樫」も「カシ 堅い」という意味で「基礎となる盤石な地盤」つまり「丕基 ヒキ」を指す。馬子一族の拠点(ヒキ)が甘檮丘(ウマシカシノオカ)という訳だが、記紀に国字の「樫」は一字もない。恐らく学者の本音としては神武天皇の「橿原宮」と悪役の蘇我氏一族を区別したかったのかも知れない。

次回は 不知火 について

2017.03.06 記
2017.03.07 追記

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