生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

人は真実のみに感動するものでもない

2016-12-07 22:47:47 | 思うこと

 先日、真実は細部に宿るという思いをこのブログに記しました。今回は正反対のことを書きます。細部にどのような不整合や矛盾があっても、否、根幹に不整合や矛盾があっても、人は心から感動することができる、という思いです。

 何を念頭においているかと言えば、オペラ一般のストーリーです。私が最も好きなオペラであるヴェルディの「リゴレット」にしてから、恋心をいだいた相手とは言え乱暴され更には他の女性を口説いているところを目にしたジルダが、父親の復讐を妨害してマントヴァ公を生かすために自らの命を犠牲にするだろうか?という疑問は現代的な視点からは当然生じると思います。しかし、この指摘については現代的な視点からであって当時の価値観では当然有りうるという反論があっても驚きはしません。しかし、モーツァルトの「魔笛」が前半は夜の女王の依頼を受けてパミーナをザラストロの手から救うことを決意しながら、後半ではいつの間にかザラストロが正義の味方で夜の女王が地獄に落とされます。

 ということで、オペラのストーリーの中には結構荒唐無稽と思われるものがあります。それでも、細部に限らず根幹のストーリーに多少の無理があっても、どうしようもなく感激する公演はこれまた珍しくないと思っています。間違いなく、映画やTVドラマに比べてオペラの方がストーリーの展開に無理があっても気にならないと思います。そもそもオペラはストーリーを楽しむよりは、歌手の歌唱やダンサーの踊りを楽しむという要素が強かったと思います。ヴェリズモ・オペラが誕生する前後から、歌唱や踊り以上に内容・ストーリーが重視されてくるようになったという気がします。

 それでも、未だに荒唐無稽なストーリーであってもオペラの公演にどうしようもなく感動します。それは音楽と歌唱の素晴らしさに感動しているからだと思います。ストーリーを云々するには全体を俯瞰する必要がありますが、音楽や歌唱の素晴らしさを感じるには必ずしも全体を俯瞰する必要はありませんね。その瞬間瞬間を音楽の演奏・歌唱の流れに見を任せれば良い、問題はその瞬間瞬間に全てを委ねられるほどの演奏・歌唱がなされるかどうか、という事になります。この点でオペラの鑑賞の仕方はフィギアスケートの見方と共通するものがあるように思います。オペラ全体のストーリーはフィギアスケートの演技の全体をどのように構成するかということに対応していると思います。フィギアスケートの演技を見る立場でも、審査官等はそれぞれの技の完成度だけではなく全体の構成についても評価しますが、観客の多くは全体の構成についてはさほど気にせずに、とにかく一つ一つの技の出来栄えを見て興奮し感動していると思います。オペラもストーリー自体が一つの芸術としての成果であることは間違いありませんが、フィギアスケートの演技での此処のジャンプやスパイラル・ステップ等に対応する、アリアや重唱、合唱や器楽の前奏・間奏・後奏ということになると思います。

 ストーリーに無理があっても、それを感じさせないだけの音楽的な手当がされていれば、人は十分に感動できるということですね。ストーリーに感動したいという思いもありつつ、ストーリー等どうでも良いからこのアリアを何時迄も聞いていたい、という感動を聴衆に与えるのは歌い手の役割ですし、あるいはその様な歌唱の素材を提供することが重視されていてストーリーは二の次というオペラが多数存在しているということも事実ですね。

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