生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

結局は習うより慣れろ?

2017-06-02 22:50:30 | 思うこと

 現代音楽は好きではない、というクラシック音楽愛好家の方は少なくないと思います。私の家族もクラシック音楽愛好家の範疇に入ると思いますが、現代音楽には拒否反応を示します。では、「現代音楽」とは何か?と、その定義を問うと、決して「現代の」音楽と言う意味ではなく、固有名詞としての「現代音楽」ということが確認できるはずです。では固有名詞としての「現代音楽」とは何か?といえば、少なくとも20世紀以降に作曲された、調性を否定するか少なくとも調性を主要な構成とはしない音楽、ぐらいの意味でしょうか?

 はっきりと指摘できることは、決して作曲された年代だけで定義されるものではない、と言うことです。20世紀あるいは21世紀に入って作曲された楽曲であっても、調性感に支配された楽曲は決して「現代音楽」とは呼ばれていないと思います。

 今回はあまり「現代音楽」には踏み込まない様にしたいと思います。私自身が「現代音楽」に興味を持ち続ける理由は、その”意外性”にあると断言しても構いません。古典派やロマン派の音楽は良くも悪くも”機能和声”の様式に従って作曲されているために、初めて聞く曲であってもその瞬間の後の和声展開がある程度予想できます。人間と言う存在は、どれほど美味しいものであっても毎食続くと飽きるものです。音楽も同じでどれほど感動的な音楽であっても、同じような展開が続けば飽きると思っています。そろそろ飽きて来たなという頃に、思わぬ展開が出てくると思わず弾き込まれてしまうというのが人間と言う存在ではないでしょうか?

 機能和声と言う様式の中での応用問題の回答を探し続けたのが古典派音楽・ロマン派音楽の時代で、探し続けた結果とうとう行き詰ってしまったのが20世紀初頭のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンといった「現代音楽」の作曲家たちが直面した状況ではなかったでしょうか。その軛(くびき)から逃れるための方法の一つが十二音処方だと思っています。

 「現代音楽」は好きではないとのたまう家族を見ていると、クラシック音楽の視聴に安らぎや安定感を求めているのが良く判ります。一方で私自身は安らぎや安定感のみでは飽きてしまっていて、予想できない展開の緊張感を求めているのが良く判ります。言い換えれば「刺激」を求めたい自分があります。同じクラシック音楽であっても、私の家族は癒しや安らぎを求め、私自身は刺激を求めています。ところが、これがまた双方の要求を同時に満たしてしまう作品もあったるするところに、(西洋)クラシック音楽の底なしの奥深さを感じます。


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