生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

神奈川フィルハーモニー管弦楽団 ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調Op.125「合唱付き」

2016-12-03 23:47:25 | 聴いて来ました

 聴いて来ました。神奈川フィルハーモニー管弦楽団の第9です。場所は神奈川県民ホール、我が席は3階のほぼ中央。指揮は若きマエストロ川瀬賢太郎氏、ソリストは秦茂子女史、林美智子女史、升島唯博氏、宮本益光氏。合唱は神奈川フィル合唱団。

 一楽章冒頭から少々驚くほどの速いテンポです。緊張感の持続を重視しているのかなと想像しました。一方で弦楽5部のアンサンブルについては、以前はもっと透明度が高かったように感じてしまいます。まあ演奏が始まった直後の印象では、以前の神奈川フィルのほうが弦楽アンサンブルの透明感では優れていたな、ということです。とは言え、早めのテンポ、マエストロの判りやすいジェスチャ等などで、完全無欠とは言えないまでも致命的な破綻もなく、指揮者が意図するとおり(?)の前に前にと進んでいく推進力に優れた演奏が展開されていきます。オーケストラを朗々と鳴らし切る演奏よりも、細部までコントロールしきる演奏を追求しているようで、のびのびとした演奏というよりも全体に統制の取れた演奏が鳴り続けて行きます。当初は小粒な演奏かなと言う危惧もありましたが、弱奏から強奏までのダイナミックレンジの広い演奏です。

 惜しむらくは神奈川県民ホールの音響特性が、クラシック音楽向きとは言い難いことですね。オーケストラの響きはそこそこ悪くは無いのですが、4楽章のバリトン独唱部分からして、独唱者が顔を少し左右に振るだけで声の響きが変わって聞こえます。ホールの残響特性が優秀で直接音と間接音のバランスが良ければ、独唱者が多少顔を左右に振ってももう少し間接音の効果で平均的に聞こえる筈です。独唱者が少し顔を左右に振るだけで響きが大きく変わるということは、間接音が乏しく大半を直接音のみで聞いていると言えるでしょう。

 オーケストラを朗々と鳴らすことを指向する演奏というよりは、細部の完成度を高めつつ全体を積み上げていくというアプローチから、オーケストラのパート感での主題の受け渡しなど、ベートーヴェンがどのように演奏して欲しかったかを指揮者なりに研究した成果が花開いた、コンサイスな演奏というのが最も合った評価ではないかと思う次第です。

 ベートーヴェンは第9交響曲で全人類に対して「抱きあえ兄弟よ」と呼びかけています。とは言えその「人類」とはベートーヴェンが生きた時代の行きた空間での文化の担い手である特定の階層のみの人類を対象としているのではないか、との疑問もあらためて感じます。ベートーヴェンがシラーの歌詞に仮託して歌った「兄弟」達には、例えばイスラム教徒は含まれているのか、肌の色が違う人々も含まれているのか、近代民主主義社会の担い手であるブルジョアジーだけではなく、勤労者・労働者階層も含まれているのかどうか・・・。演奏を聞きながらそんなことまで考えさせられる演奏でした。この意味でマエストロ川瀬賢太郎氏による2016年の神奈川フィルの第9はクレバーというかクールというか、理知的あるいは倫理的な側面を有している演奏だと思います。マエストロ川瀬氏が何処まで想定して分析していたのかは判りませんが、少なくともサウンド指向でオーケストラを朗々と鳴らそうという視点ではなく、理知的あるいは倫理的にベートーヴェンの作品にアプローチしようとしていた姿勢が反映していたと思います。

 とは言え、4楽章で独唱と合唱が加わりフィナーレへと突き進む展開の中では、十分な高揚感と最後の爆発を堪能できました。感情に任せて最後に爆発してそれで良いという演奏は多々あるように思いますが、最後に爆発して終わるにしても途中のアプローチとして理知・倫理あるいは論理的な必然性などを十分に研究した成果が結実した、ベートーヴェンが生きた時代背景からベートーヴェンが更に突き抜けて人類史上の普遍性にまで訴えかけようとしたレベルまで考えさせられた第9の演奏はこれまで無かった様な気もします。


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