生涯を完結させるまでに歌いたい歌、最近始めたヴァイオリンとフルートはどこまで演奏できるようになるか、と時々ワンコ

死は人生の終末ではない。 生涯の完成である。(ルターの言葉)
声楽とヴァイオリン、クラシック音楽、時々ワンコの話。

人の痛みを共有できない人間が奏でる音楽に感動することは出来るのだろうか???

2017-07-14 23:27:14 | 思うこと

 ヴァイオリニストの五嶋龍氏が、日本の大学オーケストラに呼び掛けて、北朝鮮による日本人拉致問題に関するチャリティーコンサートを呼び掛けたそうです。ところが当初参加希望を表明していた少なくない大学が、怖いとか政治色が強いとかの理由を挙げて参加を辞退したそうです。北朝鮮のミサイル・核開発問題で韓国への修学旅行を取りやめるというのは理解できますが、拉致問題に関係するチャリティーコンサートに参加したら、オーケストラ団員や聴衆あるいは大学関係者が北朝鮮によって再び拉致されるとでも言うのでしょうか?また、自民党も共産党も北朝鮮による日本人拉致問題に対しては殆ど同じスタンスを取っていて、なんら政治的なイシューではないと思うのですが、いかがでしょうか???

 参加を見送る判断をした人間は、同じ日本人として例えば拉致被害者横田めぐみさんのご両親に対してどの様に説明するのでしょうか?人類が被る様々な悲惨な出来事に対して音楽(あるいは他の芸術)は何を出来るのか?という議論が様々な機会に生じていると思います。自然災害の被災地に出かけて行ってコンサートをすることは出来るが、拉致問題についてのチャリティーコンサートには参加できないというのは、どのような論理なのでしょうか。私には全く理解できません。せめて今日のブログのタイトルに記した様に、チャリティーコンサートを辞退する判断をした人たちに対して、その様な人たちが奏でる音楽を聞いても私は感動することは出来ないのではないかと大きな危惧を抱かざるを得ない、とのせいぜいの嫌味を言うくらいしか出来ません。

 ヴェルディのオペラの大半は親子の不幸な愛情を描いていて、私はそれに触れてどうしようもない人間の運命に触れて嘆きながらも感動の涙を流さざるを得ません。ベートーヴェンが楽聖と称えられるのはそれまで貴族階級が独占していた音楽を被支配階級にまで広げる先鞭をつけたからで、べーt-ヴぇンの才能があって初めてできたことでどれほどの逆風を受けつつ貫き通したのか、そこまで想像力を発揮できる人間であれば、絶対に拉致問題チャリティーコンサートへの出演を断ることが出来るとは思えないんですよね。音楽に限らずいかなる芸術の根底に存在するのはヒューマニズムの精神です。同じ日本人として本当に悲しく嘆かわしい判断ですし、同じ国籍・民族でないとしても個人的には許せない判断です。チャリティーコンサートを辞退したオーケストラの中にも、個人的にはチャリティーコンサートに参加したいと考えている団員が一人でも多く存在することを願うのみです。

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