朝陽(あさひ)~三重・河芸の地域情報~

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ざるやぶり神事(一色)~市指定無形民俗文化財~

2009-03-23 16:23:58 | 河芸の文化財
【一色の起源】


(写真は、ざるやぶりの行われる一色の八雲神社です。)

一色の八雲神社は弘治元年(1555)7月2日、三井治郎左衛門高次が建てたものである。現在の棟札(長さ6寸6分)のうちもっとも古いものは、のちに慶長16年(1611)に社殿を造営の時、針金でしばりつけたものと伝えられている。

高次は、有名な佐々木四郎の末裔(まつえい)である。紀州あたりを転戦の末敗れて舟でのがれ、高次、高治の兄弟は3、40人の一族郎党とともに、豊津の海岸にたどりついたのは少なくとも弘治以前のことであろう。

そのころ、一色は千次浜といって中別保から移住した住家がわずか3軒であった。角政(現 朝日新聞専売所)を100メートルほど下った角の、当時、保衛という家に榎の大木があった。海上よりこの大木をみて舟を着けたといわれている。

民家に入ったがあたりに人影もない。空腹にたえかねた高次たちは、台所のざるに入れてあった「よまし麦」をむさぼり食べた。そこへ家人が帰って来て、たちまち大げんかとなったが、事情がわかって無事おさまり、高次らは、この地に住みつくようになった。

【ざるやぶり神事】



昔は夏と秋の2回の祭りがあった。ざるに夏は麦を、秋は白米を神前に供えて、終了後に、それを参拝者にわけた。今は祭礼は、7月14日、15日の夏祭りとなって、15日の夜は「ざるやぶり」神事が行われる。

氏子の青年を中心とする裸男たちが、神社の境内いっぱいに、体と体をぶっつけあいもみあいをして、ざるをやぶるという裸祭をくりひろげる。

この神事の由来は、三井高次一族が一色海岸にたどりついたことによるものである。

「よまし麦」のざるを奪いあったことことをしのび、この神事が行われるようになった。当時の祖先を追憶し、豊漁と安穏無事を祈願するという祭礼である。

現在の神事は、神社から100メートルほど離れた宿所(以前は北端家や集会所)に、裸男たちが集合し、午後7時30分の打ち上げ花火の合図とともに、4、5人ずつ組になって参道を「ワッショイ、ワッショイ、ワーイ」の叫び声とともに、いく組みもが社前に掛けこむ。5アール位の社の庭で、数十人ほどの裸の若者が、肌と肌をぶつけあって、もみあう。そのつど「ワッショイ、ワッショイ」の叫びとともに「ワーイ」のひとしお高い声があがる。

青年幹部の団長、書記、会計の提灯が、それを統制する。一段と熱気は高まり、その裸男の集団に冷水があびせられる。



かくして、もみあいは境内の外の参道までおよぶ。約20分ほどして潮の引くように一たん宿所に引きあげ小休止する。これが1回のからねりである。

第2回は、また花火を合図に波状突進が行われ、社前でもみあい、さらに拝殿のなかでも祈るごとくもみあう。そのつど「ワッショイ、ワッショイ。ワーイ」の叫びと喚声があがる。

さらに、花火が数発夜空をいろどる。第1回より人数を増し、ひとしお熱気をおび、水をかぶせる、かぶる。それは勇壮である。約30分ほどして引く。

第3回は9時ごろから最終のもみあいになる。一段と熱気を増し、人の上に人がのしかかって一段と高まる。やがて、前日より白米を入れて、神前に献上してあった「たんばざる」(直径約60センチメートルぐらい)を神社総代から幹部に渡すと、裸男たちが、おたがいに引っ張りあい奪いあいために、ひとしお背高く、人の上に人がのし上がって騎馬戦のようである。

そして、ざるは、やぶられる、ちぎられる。



拝殿では、午後7時ごろから、神社総代はじめ関係の方々が着座し、参拝者に答礼し、神酒をくみ、お神楽を奏して、地区の平和安全と氏子の無病息災を祈願する。特に、豊漁とその安全と発展を祈願するのはいうまでもない。

神前に供えられた白米が、参詣の人々に授与される。つぶされ、ひきちぎられたざるの竹の端は、かむと歯痛が治るということから、この小片を参拝者や観衆が持ち帰る。

この神事は、明治以降、盛衰をくり返し、時には、一時中断されたようであったが、ざるやぶりの衰退は漁業の衰退であり、漁獲量にかかわりあるものとして、漁民の願いを込めて、継続すべく関係者の努力が払われたので、近年ますます盛んとなり、7月15日には晴雨にかかわらず決行されている。

(かわげの伝承から)


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