勝山三山(山口県下関市)の自然・史跡の保護活動ページ

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勝山三山と勝山御殿跡

2014年08月09日 16時22分22秒 | 勝山三山と勝山御殿跡

勝山三山と勝山御殿跡










(青山・勝山・四王司山・勝山御殿跡)

勝山三山と勝山御殿跡の歴史
勝山三山(青山・勝山・四王司山)には、地域の歴史を物語る中世の山城の遺構が残っています。
またこれらの山に囲まれるようにして、勝山御殿跡と呼ばれている石垣が残っています。
この遺構は、幕末の攘夷戦の難を避けるために、毛利長府藩が政務をとるための藩庁と藩主の居宅を設置したときのものです。



●青山(288m)
青山城

形が富士山に似ているため、「長門富士」の別名がある。古名は「形山」。
頂上付近には、郭、石垣、竪堀などの遺構が残っている。「防長古城史」によると、青山城主、高森正倫(まさとも)と勝山城主、内藤興盛が不和となって、勝山青山合戦が起こった。

大永7年(1527年)10月、青山勢には、津原善勝、津田興輝が加勢し、一万二千の軍勢で勝山城を取り巻いたが、勝山勢は大内氏の援軍を得て、三万五千の軍勢で逆襲に転じ、青山の 城を四方から攻め、一刻にして、これを落とした。

青山勢は残らず討死し、その遺骸は丁重に葬られたという。
勝山地区の各所に残る中世墓は、この合戦時のものと伝えられており、人々は「青山くずれ」と呼んで、今も大切に供養している。







勝山(361m)
勝山城

勝山村(明治31年)の地名の由来となった山。頂上周辺は絶壁で、要害の地。
付近に山城の遺構である郭(くるわ)や櫓(やぐら)跡がある。 大永元年(1521年)から大内家の重臣、内藤興盛が九州の備えとして在城した。

弘治3年(1557年)3月、毛利元就に追われた大内義長が山口を棄て、内藤隆世とともに籠城した。
毛利軍は攻略に手間どったため、矢文を放ち降伏を促した。
投降の勧告を受けた隆世は、主君義長の助命を請うため、一身に責を負い自刃した。
義長は、直ちに下城し、長府の長福寺(功山寺)に入ったが、毛利軍に攻められ自刃した。
大内氏最後の山城。
落城後、毛利元就が入江箸親を城番としておいた。






●四王司山(392m)
四王司城

清和天皇の貞観9年(867年)、新羅調伏のため、地勢高く賊境を見渡すこの山に長門国司が四王院を建立し、朝廷から下された四天王像を祀ったと伝わる。

中世、この山で大内・厚東両氏の抗争がくり返された。 正平6年(1351年)、厚東武村が、この山で大内弘世に敗れ自刃した。 正平13年(1358年)防長を統一した大内弘世が、厚東義武に代わって長州守護職に任じられた。

九州に逃れていた厚東義武は、翌正平14年(1359年)四王司山に拠って再び挙兵したが、敗れ、九州に逃れた。

現在、山頂には四王司神社の祠に毘沙門天が祭られ、正月の「初寅まいり」は特に各地から賑わいをみせている。





●勝山御殿跡
勝山御殿

勝山御殿の築城は、幕末の騒乱の中、長州藩における攘夷行為に際する外国艦船の攻撃に対する防衛構想に伴い長府藩により築城された。

文久三年(1863年)6月28日に着工され、5ヶ月後の11月21日に落成と極めて短期間で築城された。 翌年の元治元年(1864年2月1日に長府藩主毛利元周が入城した。

勝山御殿の本丸は南北に上下二段に区画され、それぞれ平屋の殿舎が建てられていたことが資料により把握できる。
南側の本丸表には政務を執り行う公的な空間として、また藩主の居住する施設として利用されていた。 北側の本丸奥は、藩主夫人をはじめ家族が住まう居住空間として使用されていた。2つの殿舎は渡り廊下により繋がっていたと思われる。

勝山御殿は、城地選地にあたっては、勝山御殿を中心とし、周囲に砲台や関門、土塁などを設けて防衛ラインとし、攘夷行為に対する外国艦船の反撃に備えた防衛体制を整えていた。




この資料は主に

2011年3月 下関市教育委員会発行「 文化財調査報告書 
ー幕末に築城された近世最終期の城郭ー」等をもとに抜粋引用したものです

大変ありがとうございます。

当資料の要約をご紹介します。
・勝山御殿跡は、幕末の攘夷戦に対処するため、海峡を航行する外国船の砲撃の危険にさらされる長府の海岸近くの居館から山地に築城された城郭。

・江戸時代を通じて発展した軍学に基づき、横矢懸りを採用した縄張や、神社仏閣や港湾施設、橋梁などを通じて確立した、山県積み工法を用いた石垣などが特徴。

・砲撃戦を想定した土塁の採用、建物配置、郭の構造などの新たな防衛構造も併せ持つ。

・第2 次大戦後の民間開発により改変されていたが、古地図、絵図などの史料により、埋没した築城当初の郭形態が発掘された。

・住吉神社が所蔵する御殿指図、現存する移築された建物、発掘された基礎、それぞれが符合し御殿殿舎の景観が復元できた。

 


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