人生ブンダバー

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三宅裕司生誕60周年記念「こんにちは赤ちゃん」 『読める年表 激動の大正昭和』

2011-06-13 05:00:00 | Weblog

伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演
三宅裕司生誕60周年記念「こんにちは赤ちゃん」
前にも書いたかしらん。平日は早寝早起き。翌日にこたえるのでスケジュール
を入れないようにしているが、たまたま今月は平日3回のハードスケジュールで
ある。

その一つ目、6月8日(水)夜、伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演「こんに
ちは赤ちゃん」を赤坂ACTシアターで観た。(公演期間は5月27日~6月12
日)

関西の松竹新喜劇、吉本新喜劇は何回か観に行ったことがあるが、東京の喜
劇(軽演劇)を生で観るのは初めてだ。

東京の喜劇といえば、元々は浅草である。戦前、テレビのない時代は大変な盛
況ぶりだったようだ。

戦後、1960年代の白黒テレビでは、エノケン(1904生)、森川信(1912)、デ
ン助(1913)、堺俊二(1913)(注)、佐山俊二(1918)、石井均(1927)等々
が活躍していたが、石井均一座にいたのが伊東四朗(1937)と財津一郎
(1934)である。(このあたりは江戸っ子小林信彦の分野かしらん。)

(注)堺正章の父。堺利彦は昔の社会主義者で赤の他人。社会主義者が「赤」
の他人とはできすぎ?

余談だが1960年(昭和35年)といえば、ついこの前のように思うが、今から50
年以上前のことになる。私が生まれた年から50年前は日露戦争前だった。
60年代の高度成長期は大正生まれが活躍した時代である。

赤坂ACTシアターは平成20(2008)年、東京放送旧社屋の再開発として完
成している。客席数1324席。ミュージカル用に作られているのだろうか。私は
初めて訪れた。満員だった。

<出演>
伊東四朗(73歳) (6月15日で74歳になる)
三宅裕司(60)

真矢みき

渡辺正行(55)
ラサール石井(55)
小宮孝康(55)

小倉久寛(56)
春風亭昇太(51)

東貴博(41)
伊東孝明(40)

河本千明
丸山優子
白土直子  他


開演「5分前」に幕前で「内田裕也」のインタビューがあった。むろん本物ではな
い。東貴博の変装だったのだろうか。

第1幕PM6:05~7:20
--休憩--
第2幕PM7:40~8:45

閑散とした遊園地に起きるUFOと誘拐騒ぎ。ほとんど出ずっぱりの伊東と三宅
を中心に、アドリブっぽい、練れた掛け合いに笑いが起きる。今回は元宝塚の
男役真矢みきをゲストに迎えて成功していた。

伊東四朗の「ひ」を「し」という東京なまり。真矢みきのセリフ「昔とった宝塚」に
「それもいうなら、昔とった杵柄(きねづか)でしょ」とツッコミが入る。コント赤信
号のからみに、3人が「なぜか、懐かしい気分がしますね~」。なんでも歌にな
っちゃうコント等々久しぶりに乗り出した。ボリュームは大きくないが、全員が小
型マイク(?)をつけていたようだ。音楽のボリュームもまずまずだった。

ラスト10分は「真矢オンステージ」とばかり、10曲前後の歌と踊り(ダンス)を
披露してくれた。真矢もさることながら、若手の一糸乱れぬダンスもすばらしか
った。当日は昼夜公演で、大変な熱演。

今回の19回公演はすべて満員--25,000人以上の観客を動員したようだ。
入場料収入は2億円以上になる。





混雑する入口


たくさんの「まねぎ」




1階のカフェ 家内と待ち合わせ、パンで夕食


1階席から


2階席から


シアターより赤坂駅方面



『読める年表 激動の大正昭和』(自由国民社) (★★★★★)
大正100年。「大正・昭和を、事件、人物、世相、流行、知られざる事実とトピッ
クスで綴る、新聞形式の年表」を購入した。帯には「なるほど!そうだったのか
と、なっとく」とある。
通常の年表では一行ですんでしまう。教科書でもエッセンスしか書かれていな
い。しかし、本書を読むと同時代的に動きを知ることができそうである。
(監修者;奈良本辰也 執筆担当;左方郁子、高野澄ほか)

例えば昭和15(1940)年の大政翼賛会について、ある高校教科書では
「1940(昭和15)年7~8月には、社会大衆党を先頭に諸政党はつぎつぎに
解党して新体制運動に加わり、同年10月、近衛を総裁に旧政党など諸勢力
を集めて大政翼賛会が発足した。こうして、複数政党制を前提とした議会制
度は骨抜きにされ、すっかり無力化してしまった」
と記述されている。

一方、本書73ページには「新体制運動から大政翼賛会へ」というテーマが
1000字以上にわたって解説されている。これによると前枢密院議長で人気の
あった近衛文麿が「新体制運動声明」を出し、各勢力それぞれの思惑から一斉
に歓迎されたことが始まりのようだ。

「陸軍強硬派はナチスのような一国一党を考え、対米英戦に向かって国力統一
のできる組織を期待した。政党は、失った国民の信頼が取り戻せるのではない
かと考えた。国民は国民で、政党が軍部を上手にコントロールできないとすれ
ば『新体制』に頼るより仕方がないと考えた」

「各勢力は各々の要求を(近衛に)持ち込んできた。一党独裁は天皇大権を超
えるのではないかと批判するものがあるかと思うと、反対に『新体制はアカだ』
と攻撃するものもあった。当初から甘い『新体制構想』と近衛自身とは、もみく
ちゃになり、骨抜きになった。・・・・・・大騒ぎしてできたことはできたものの、それ
は要するに、何もやらないことを主旨とする組織だった」

これを読むと、政党が禁止されたのではなく、政党が自ら解散、解党した様子
が分かる。なるほどそんなものだったのかもしれない。

原則がないというか、あいまいな言葉(「新体制」、「友愛」?)が一人歩きしがち
なのが日本であり、その点、日本の「体質」は戦前も戦後も変っていないのでは
ないかしらん。

まだすべてを読んだわけではないが、以下興味深かった項目

大正10(1921)~11ダンスが流行 大正14警視庁はダンスホールの入場者
 の住所・氏名・職業を記載する台帳を作って取り締まる。
大正11(1922)大隈重信国民葬、山県有朋国葬。前者は会葬者10万人。後者
 は元勲であるばかりか枢密院議長現職だったが寂しい葬儀だった。
大正12(1923)関東大震災後、地震博士今村明恒は講演を行い今後60年間
 は東京に地震はないと述べた。
昭和2(1927)マスクが流行 東京を中心に流感が猛威をふるい、白ガーゼの
 マスクが売れた。
昭和15(1940)10/31東京のダンスホール閉鎖。なごりのステップを踏む客
 で超満員。「蛍の光」のアンコールがひきもきらなかった。


昭和26(1951)マッカーサーGHQ最高司令官を解任される。
マッカーサーが羽田の東京国際空港から旅立つ時は、沿道に20万人が押し
寄せた。朝日新聞と毎日新聞はマッカーサーに感謝する記事を掲載。(ここま
では書かれていない。)







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