たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



ほんの弾みで、高崎の白衣観音を見に(拝みに)行った。今から20年以上前に、Nくんと連れ立って、その県の向こうにいるある人を訪ねて行く途中に、遠くから眺めたことがあったが、真下から見るのは初めてだった。デカかった。おおっきいねという声が、辺りに飛び交っていた。高さは41.8メートルあるという。大人の男の25倍ほどか。昭和11年に建立されたという。間近で見ると、柔和な顔をされている。子どもの頃、会うといつも驚くほどのお小遣いをくれた伯母に似ていると思った。観音様、観世音菩薩像。それは、日本の至る所に祀られている。大船にも大きな観音様がいらっしゃる。観音信仰は、日本人の精神の襞に深く染みついている。観音様は、凡夫に、現世利益をもたらすとされる。白衣観音の大きさは、人びとの世俗的な欲望・願望の大きさと深く結びついている気がした。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




・・・急に寒うなって、そんな時季になりました、ベートーベンマスクのダニエル・バレンボイムの第九(1992年12月、ベルリン、イエス・キリスト教会、2000 ワーナー・ミュージック)で、どうでっしゃろ、この曲を聴くと年末(終末?)に向かって急き立てられ、追い込まれてゆく感じがする、そんで、そこんところがなかなかええんやな



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




古川日出男の新作を読んだら、作中にビートルズの曲が出てきたので、なんだか聞きたくなった、そうだ、俺は、『リボルバー』が好きだった、と思って買って聞いたらよかった、泪がこぼれ落ちそうなくらいよかった、初めてビートルズを聞いたのは小学校5年か6年生のとき、ともだちのSくんの家まで遊びに誘いに行ったら、二階の解き放たれた窓から爆音で流れていた、「ヘイ・ジュード」、最近おにいちゃんがしょっちゅうアレかけてるって言ってた、その後、ビートルズを聞くようになった、なんだか大人になった気じがした、ビートルズ世代じゃない、ポスト・ビートルズ世代だ、みながビートルズを聞いていた、競うように、その頃には、ジョージが"You"を、その少し前には、ポールが"Band on the Run"を、ジョンは"Woman"をヒットさせていた、リンゴにも何かあったっけ?、想い出せない、で、リボルバー、そこにはこれと言ってスゴイ曲はない、けど、"Good Day Sunshine"から"And Your Bird Can Sing"へと続いて、次に"For No One" ↓に行くくだり、たまらなくいい。
http://www.youtube.com/watch?v=J6iAykoKLog

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




吐息が白くなるほど寒く、冷たい雨が降り、全国的に、今年になって一番冷え込んだ11月初旬の一日。その翌日、一転して、初秋の陽気に逆戻りした。最近では、年に一度か二度しか訪れる機会のない、高校卒業まで住んでいた、関西の故郷の町を歩いてみた。習字を習っていた書道の教室。その場では先生の名が浮かんでこなかったが、いま思い出した、N川先生だった。確か、その辺には印刷業を営むUくんの家があったはずだが、すでに跡形なく、建て替えられている。今は亡き父が、40歳代の後半だったのだろうか、夜半にトイレで斃れて救急車で運ばれて入院した病院。運び込まれたとき、意識がなかったことが想い出された。中学3年生の時、クイーンのレコードを買いに行ったレコード店は、確かそのあたりにあるはずだったがない。それは、もはや追憶のなかにしかない。小学校の頃、放課後、暗くなるまで、友達と缶蹴りやドッヂボールなどをして遊んだ神社(写真)。祭神は、豊受比売命とあった。へえ、ちっとも知らなかった。5月には祭がおこなわれ、神輿を担いだこともあったな。そこで、ある秋の日の夕暮れに、あまり知らない子から、今で言うコクられたことも思い出した。それは、中学生の頃だ。鎮守の森の裏手に回ると、小学校の5,6年のときに、Mくんたちと、カエルの肛門に爆竹を突っ込んで、吹っ飛ばして遊んだ想い出が、ふと甦った(アニマルライツ派のみなさん、ごめんなさい)。風景のなかに、個人的な記憶がくっきりと刻まれている。それが、深い情緒的な絆を、そうした故郷の景観のなかに感じる所以なのだろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』講談社文庫★★★★(11-46)



タイトルのこのきわめて不思議な言語感覚:わたくし率 イン 歯ー、または世界は、話の内容を聴覚的に・視覚的に的確に表している。
歯医者の助手になった「わたしは奥歯であるのやと、云うてもええんとちやうのん、わたしは奥歯であってもいいのですと、そういうことにしたのでした。」と、わたしとは奥歯であると観念する。
彼女には、どうやら青木という恋人がいるが、しばらく忙しくて会ってもらえないこともあり、妊娠もしていないのに、未来に生まれてくる子どもに向けて毎日手紙をしたためる。
このあたりから、この主人公の行動が、怪しく感じられてくる。
やがて青木が彼女の勤める歯医者に患者としてやってきて、主人公は、治療後に彼を追いかけ家に乗り込むが、そこには、別の女がいて、青木宅では見知らぬ女の突然の訪問によって騒ぎが起きる。
当然である、青木は、奥歯に自分を見出す女のことなんか、とっくの昔に忘れ去っていて、何の関係もないからである。
どうやら、青木と奥歯の女は中学の同級生で、いじめにあっていた時代に、青木が優しく語りかけたようなのである。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」には主語がないということを教えてくれて、主人公である奥歯の女は、その後、そのことをずっと覚えていて、その青木宅への訪問時のやりとりで、一気呵成にぶちまける。
「あの雪国の、あの主語にその秘密のちょっとが隠されているような気がしたん、あの文章は、どこ探しても、わたしはないねん、私もないねん、主語はないねん、それじたいがそれじたい、なあなあなあなあ素敵やろ、主語がないねん、こんな美しいことがあるやろか!」。
私のわたくし率についての文学的・哲学的な考察。
大阪弁で語られる言葉がつぶつぶして魅力的に感じられる。

絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』文春文庫★★★★(11-47)

上の川上の本の女主人公と違って、現代日本の日常のありうる情景として、読者はす〜っと、主人公の橘優子にシンクロすることができる。
優子は、精神病を患って入院して、会社に復帰すると仕事がなくなっていて、今は貯金を切り崩しながら、絵描きとして暮らしている。
彼女は、男に振られて蒲田に引っ越すが、そこで大学時代の友人・本間に再会する。
優子は、誰とでも「してしまう」女である。
本間と飲んで家に連れ帰って、彼には淡い恋心を抱きながらも、勃起障害だと分かって、できない。
メンタル系の病気サイトで知り合った安田とは、時々会うだけの関係である。
女のヒモをやっていて、自殺予告メールを送ってきた、いとこの福岡在住の祥一を、一時、蒲田の家に引き受ける。
議員に立候補している本間の事務所で働いている、同じく大学時代の友人・バッハ。
それぞれと性的な関係が発生し始めたり、最初からそういう気がなかったりするような経緯が描かれる。
もう一人の登場人物は、出会い系サイトのバイトをしていた時に知り合った、40代の痴漢kさんである。
「痴漢に名前は要らないだろう。彼は私のことをuちゃんと呼び、私はkさんと呼んでいる」「垂れ目で頭が少しさびしい四十代だが、私が好きなタイプの禿げ方だ」。
優子と痴漢の関係がなかなかに興味深い。
「私と痴漢の出会いは常に指が触れている『点』のイメージであって、プロフィールのある『面』であってはならなかった。ましてや時間軸の設定された『立体』などは論外だった。私はそういうイメージでしか男をとらえられなかった。」
主人公・優子の日常のムダ話(イッツ・オンリー・トーク)であるが、秀逸である。

モブ・ノリオ『介護入門』文春文庫★★★★(11-48)

現代社会の周縁的現実。
金髪で、無職で、小学生相手の家庭教師をしている大麻常習者の主人公・29歳が、痴呆症を患い、庭先の石畳で頭蓋を割って快復した祖母・85歳を、母と交替しながら介護している。
夜は、祖母のベッドの脇に寝て、夜中に二回起きて、祖母の股を拭いてオムツ替えをする。
 昼はぐったりとしているだけなので、親戚である祖母の実子たちからは、「穀つぶし」だと見られている。
実の親が介護ベッドで横たわる部屋の隣室で、「人間もこないなったら終わりやなあ、私やったら死んだほうがましやわ」としゃあしゃあと口にする祖母の実子たちに
内心猛反発したり、手抜きをする介護士に対する反感が、小説のなかでは、呪詛として綴られる。
「知識、知恵、技術は魂の力となる。記憶は思考への固有の資源だ。思考は魂を鍛え上げるためにある。魂は、俺を動かす。俺はヘルパー達の顔を思い浮かべ、介護を職業とする者の存在でこの俺を励まし続けよう」
「日々俺死ぬ、故に我あり。わが人生に価値なし。これがおれの生活になった。他の二人分も濃い祖母の血を持つ祖母の実子らは、ねぎらいの言葉すらお穢らわしいと撥ねつけたくなる俺の心を知らない・・・」
フェルデイナン・セリーヌばりに、次から次に吐き散らされる呪詛の言葉言葉言葉。
しかし、そうした呪詛の言葉の向こう側に、祖母に対する深い愛情が透けて見えてくる。
「俺はいつも、«オバアチャン、オバアチアン、オバアチャン»で、この家にいて祖母に向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ」。
その語りに、一筋の救いの光があるような気がする。

西村賢太『寒灯』新潮社★★★★(11-49)

『苦役列車』は、中卒で女もいないし、何をやってもうまくいかない男・貫多の話だったが、この本では、西村の分身である貫多が30歳半ばくらいで、秋恵という女と恋仲になり、ウキウキしながら同棲生活を始めるのだが、一年くらいで破局を迎える
貫多は女性から見れば、さぞ細かくてジコチュウで最低の男だろうな。
貫多と秋恵のやり取りは、外から見るとたんなる口喧嘩である。
同居し始めて最初の正月を迎えるにあたって、秋恵の母が送ってきた帰省のための新幹線のチケットをめぐっての諍い。
秋恵が帰省しないことになり、大晦日、秋恵が年越し蕎麦のおつゆ作りに失敗し、貫多は怒声を浴びせ、癇癪を起こし、秋恵は嗚咽する。
彼の口癖は、何事にも「慊(あきたら)ない」という言葉。
ペン皿という誕生日のプレゼントにも慊ない。
「無論、貫多とて女には、自分に対する善意もあれば愛情もあるのを他面では充分に理解していた。だが、根がどこまでも駄々っ子気質にできている彼は、それならば尚と一層に、息せき切ってデパートに駆け込み、彼の為に精一杯の品を購めて綺麗にラッピングまでしてもらった女の厚意を、そして眼前に並ぶ心づくしの手料理を、思いきりケチをつけたうえで足蹴にしてやりたくてたまらなくなってくる」。
貫多は、堪え性がないのだ。
この本を読んだ後味はかなり悪い。
なぜなのか。
それは、男女を越えて、
貫多の振る舞いのなかに、他ならぬ自分=「潜在的な自己」を見出すからではないだろうか。
すると、そうした「自分」を私小説のなかに曝け出せる西村は恐るべしである。

笙野頼子『母の発達』河出文庫★★★★★(11-50)

 

うわっ、何じゃこの問題作は、でも好き。
全編これ、母の物語。
母は命を生み育む源、母は偉大なり、母は太陽である・・・という神話のこっぱみじんの解体ではないか、この小説は!
でも何が書いてあるのかよく分からない。
論文でいえば、時々まわってくるリジェクト査読論文を読んだときのような感覚。
いや、この小説は文字面を丁寧に追っていくと分からないけど、斜め読み的に文字を追うと、母の「はは」性という私(たち)が疑うことがなかった自明性を壊していることに気づく。
そもそも「母の縮小」という第一章のタイトルからして頭をひねってしまう。
しかし、これは、私自身が体験した私の母なるものの原像にぴったりと重なる。
おそらくまだ小学校に上がる前の頃だと思うが、二段ベッドの上からテレビを観ている母を見ていると、いや、遠くへ行って小さくなってしまったことがある。
「その母を私は指でつまみ上げて、ディスプレイの上に叩きつけた。そのままその上を掌で強く押し続けると、急に抵抗してくる厚みがなくなってしまった。見ると、母はヤブカのようにぺしゃんこになり、デゥスプレイのなかでインベーダーのような、小さな記号のようになって点滅していた。母という文字ですらなくなっていた。」
文字を流すだけで、真剣に意味を考えない方がいいのだろう。
やがて主人公ヤツノは母を殺す。
死んだはずの母が言う。
「ちがうわ。あのな。おかあさんな、まず、お母さんらしいおかあさんを、センメツすんのや。それからあるべきお母さん白書をソウカツするのや、どれでな、もともとからあったお母さんを全部カイタイするのや。」
これが、この小説の核心部分ではないか。
ヤツノは、アイウエオ順に、母が「落ち」になるような小噺をつくりだす。
「『れ』の母は連立政権の母やった。物語のないところがこれがみそやった。『ろ』の母はロリータの母やった。ナボコフに言うた。--へへんあてに振られたからてなんちゅうあてつけがましい。あーあ、あきまへんわいなあ、あーんな小娘。」
意味はよくわからないものの、
母が母でなくなっていく。
母とは、たんなる女であり、人間であるということに気づいて、母を相対化することになるやもしれぬ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今日、秋晴れの下、大学祭が始まった。
大学祭期間中にキャンパスに行くのは、10年ぶりくらいのことだ。

講演会と討論会。学生からの依頼だし、まあ何とかなるのではないかと思って、両方気軽に引き受けたのだけれど、いま、すごく後悔している。もはや、なんともならん、まとまらんのだ、特に、後の方が。
5教科9科目の大学共通一次試験(現・センター入試)が近づいているのに、生物と日本史はやったけど、地学と
世界史がまだ全部見終わってもいないというような、いまになっても数年に一度見る夢のようだ。

講演会の「人、このセクシュアルなもの」については、思いつきで付けたタイトルに振り回されてしまった。
内容をぎゅうぎゅうに詰め込みすぎたような気がする。
質疑の時間はカットかも。
ま、いいっか、来場者はそれほどいないだろうと思う。

http://obirinfes.web.fc2.com/kikaku2011/arp.html

トークセッション「どうする?!3.11.震災復興と日本の行方」。こっちのほうだ、悩んでいるのは。こ
の10日ほど、震災関連の本を読んだ。と言っても、10冊にも満たない。

『現代思想2011.5.特集:東日本大震災 危機を生きる思想』『atプラス2011.8.特集:震災・原発と新たな社会運動』らをパラパラ。
山折哲雄『絆、いま、生きるあなたへ』は、前半は、震災から着想を得たエッセイで、後半は、死をめぐるエッセイだった。
『やまかわうみ2011.夏 特集:災禍の記憶』『季刊東北学2011夏 特集:地震・津波・原発 東日本大震災』などもパラパラ。
いくつか読むと、震災を機に新たに何かを考えているというよりも、あらかじめ考えていることがあって、震災が来て書いたというものが多いように思う。

最後にたどり着いたのが、高橋源一郎「恋する原発」だ。源さんにシンクロしてしまった。自らを追い込んで書いている気がする。文字に向き合う迫力が感じられもした。
『早稲田文学4号 特集 震災に』には、重松清と古川日出男の対談が載っていて、古川は早々に4月の段階で浜通りに行って、『馬たちよ、それでも光は無垢で』を書いたという。読みたいと思った。さっき、在庫があるということを調べて、閉店近くだったが、大手の本屋に行ってきた。古川日出男の棚に駆けて行った。なかった(泣。一冊誰かが抜き取ったような跡があった。店員も調べてくれたが、在庫がなかった。
あ''〜、明日、どうするかだ。

http://ameblo.jp/obirin-slc/image-11057277304-11566483059.html

(写真は、まったく関係がないが、サラワクのカヤンの「生命樹」)
 



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




高橋源一郎「恋する原発」『群像』2011.11.pp.6-131.(11-45)★★★★★★

雑誌掲載にストップがかかったというような情報が伝わってきて、そのことによって逆に、読書欲をそそられていたのであるが、日々、被災地の復興・復旧の遅れ、被曝と放射線量の影響、政治家たちの正義ぶったり、な〜んも考えてなかたりするような言葉言葉言葉、自治体の原発承認をめぐるメールやらせ問題、さらには、脱原発・原発推進などをめぐる「知識人」たちの「知識人」ぶった批評など、震災後の意見表明や珍見提出にうんざりして、やや食傷気味のところに、「恋する原発」は、一見、「不謹慎」な内容ながら、ほ〜、なるほどね、すごい!、と思わされるようなスパーキングな読後感を与えてくれる。

ストーリーは、AV監督という職業を恥ずかしく思っている男のチャリティーAV作成をめぐる奮闘の日々の物語。最初に、
AVの作品が、たんなるAVではなく、どんどんとヘンテコになって来ている現実が描き出される。そのうちに、主人公たちは、2011.3.11.の地震の揺れにみまわれる。前半部分でまず驚かされるのは、放送禁止用語のお構いなしの連呼・連発である。慣れてきて、読者(である私)は、そのうちに、何も感じなくなって、やがて作者の術中にはまっていくのだ。

『恋するために生まれてきたの・大正生まれだけどいいですか?』という「AV業界を震撼させたシリーズ」の第一弾、『稲元ヨネさん七十二歳・夫が戦死してから五十年ぶりのセックスです、冥途の土産にしたかった』
 では、ヨネさんと二十二歳童貞カネダとのセックスが記録されている。それを見た視聴者の反応は、おおむね、4つある。「(1)目を瞑る。(2)ヴィデオのスイッチをOFFにする。(3)他のヴィデオに替える。(4)試練だと思って、見つづける。」私なら、(4)かなと思ったけど、「多くの視聴者たちが(1)を選んだ」らしい。そして、そのヴィデオの反響はすごかったらしい。三人が出家し、全財産をアメリカ動物虐待防止協会に寄付したやつもいた。「女の裸を見てもなにも感じなくなった」・・・「男に生まれてきてすいません」というような反響も。ロケバスでは、怒涛の叫びが巻き起こったという。「戦争に反対する!あらゆる抑圧に反対する!・・・」。「あの72歳のヨネさんの裸体とセックスシーンを世界のテレビのゴールデン番組で放映したら、この世から戦争なんかなくなるんじゃないだろうか。」そのAVには現実への強い喚起力があるのだ。

ところで、
何で、このヨネさんのAVヴィデオが震災に関わるのかというと、そのAVを撮影した15年前に、小学校の先生にレイプされてから30年間セックスしていなかった、ヨネさんの姪のヨシコさん(40歳)が、その作品のおまけのコーナーのなかでセックスをしていたのだが、当のヨシコさんは、いま福島のハズレにある、小学校に設けられた避難所で避難生活をしているからである。AV製作のスタッフは、『大正生まれですけどいいですか?』のシリーズに出演後に亡くなったおばあさんの法要に出かけて行って、自分たちが元気であることを知らせるためにセックスして、それを撮影する。ある人は、それを冒瀆だという。そりゃそうだろうなと思う。「それって冒瀆なのかな。おれは麻痺しているから、わからんけど。ちゃんと、お布施も持ってゆくし・・・最後には脱いじゃうわけだが。」う〜ん、やっぱり狂ってんじゃないかと、私は思うけど。

そのあたりの問題を、作家・高橋源一郎はこの作品でターゲットにしているのではないだろうか。震災後の復興復旧、原発や被爆問題、それらをめぐる行政のごたごた、議員たちの正義を振りかざした言葉、知識人の批評などによってつくられてゆく現代日本社会の浮ついた現実に切り込むために、高橋は、映画やニュースからは捨象される一方で、現代日本人の現実であるAV産業のなかの「チャリティーAV」というヘンテコな、キワモノ的な慈善事業を描き出すことで、日本社会の狂気へと迫ろうとしたのではないだろうか。高橋は、「チャリティーAV作って、その収益性を寄付するより、ふつうにAVをサクサク作って、その収益を寄付したほうが手っとり早いんじゃないですか?」と、主人公の口からまともなことをしゃべらせている。

最後には、フクシマ第一原発前広場での、「ウィー・アー・ザ・ワールド」をバックミュージックとして、一万組・二万人同時集団セックスというチャリティーAVが行われる。
最後の最後になって、「っていうのはどう?そんな案却下。なんで!そんなのAVじゃないからだよ!」という言葉で締めくくられ、それが「案」であったことが明かされる。

さらに、この作品には、そのクライマックスに行く手前に、骨太の「震災文学論」が差し挟まれている。「ぼくはこの日をずっと待っていたんだ」という、インタヴューを受けたある著名人の「不謹慎な」言葉によって、高橋は、震災後の「がんばれ東北、がんばれニッポン!」という現代日本社会の風潮に安住することなく、そういう見方に挑んでいるように思える。そのなかで、
川上弘美『神様2011』、宮崎駿『風の谷のナウシカ』、石牟礼道子『苦海浄土』が取り上げられている。「わたしたちは、『死』や『老い』を『汚れ』とみなすようになった。おそらく、『病』や『障害』や『貧困』も。『汚れ』は浄化されなければならない。つまり、私たちの視線から遠ざけられなければならない。」震災や死や貧困や障害は、それほど、酷ったらしいことなのだろうか。それらはこれまでつねに人を苛んできたし、それゆえに、人はそれらとうまくやって来たのではないだろうか。「おそらく、『震災』はいたるところで起こっていたのだ。わたしたちは、そのことにずっと気づいていなかっただけなのである」。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「3.11.以降」に対する私の思い付きは、先住民や我々の祖先の考え方を称賛する一種のロマンティシズムかもしれない。http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/77fe92d594b936accaad3dae93771da1

中沢新一著『日本の大転換』(集英社新書)を読むと、そんなふうに思えてくる。

震災を原発というエネルギー形態の災禍の枠のなかに捉えて、それを
用いて暮らす現代人の「経済」まで視野に収めて、乗り越えを考えてみるという行き方はひじょうに魅力的である。

原子力によるエネルギーは、太陽圏という生態圏の「外部」の高エネルギー現象を生態圏の「内部」に持ち込む技術である。それは、生態圏にとって「外部」の超越神を自立的に生態圏に介入させることによって成立した一神教思考とパラレルだという。他方で、生態圏では、抽象的な商品経済や経済の合理性の精神が、その内部を貫いて、現実との間にノイズを生み出している。原子力発電は、これまで、そうしたグローバル型の資本主義によって担われてきた。

原発事故は、資本主義的な小手先の知性でブレイクスルーできるようなものではない。原発から自然エネルギーへの転換は必要であるが、それを、たんにビジネスの話で終わらせるべきではない。必要なのは、強力なビジョンを用意しておくことである。人が原子炉をコントロールし、自前で、富の源泉を確保できたという思い込みは、太陽や自然からの「贈与の次元」を失うことであった。もしそうであるならば、原子力開発に続く「第八次エネルギー革命は、原子力発電からの脱出をめざすとともに、人類の思考のうちにこれまで長いこと隠されてきた贈与の次元をよみがえらせる運動でもあるのだ」。

原発事故は、資本主義経済の今日の深刻な行きづまりに関わっているというのが、どうやら、大枠で議論の底にあるようだ。中沢さんは、「フュシス(自然)」+「クラティア(管理)」としての「フィジオクラシー(重農主義)」を構想したケネーの経済学に、未来を開く鍵があると述べて、現在、著作を準備中だという。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




水曜日の昼休み、曇り空、けやき広場。馬頭琴の癒し系の音色を聞いて、学生や教職員がたくさん聞きに来てくれた。朝から大慌てでビデオを充電して、モンゴル民族音楽コンサートを撮影しようと意気込んだが、機器がうまく作動せず、急遽ICレコーダーで録音した。スピーカーの調子がいま一つだったが、ホーミーの「アルタイ山賛歌」の生演奏は迫力があった(演奏と写真)。参加学生の頑張りで、討論会も無事終了し、懇親会もけっこう盛り上がった。留学生と関係学生たちの努力に感謝。これで、専攻の今年のイベントは終わった。非・海外志向だという今日日の大学生が、少しでも遠い世界に対して興味関心を抱いてくれればいいのになあと思っている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2011年3月11日。春休みの一日、いつもの年のその時期にそうであるように、私は海外にいた。東北の地震と津波の報を聞いて、しばらくして密林に入った。3月末に帰国すると、国内が節電で薄暗く、エスカレータがいつものように動いていないことに、震災の影響を感じた。オフィスの棚から書類が落ち、ともに落下したはずのワインボトルはなぜか割れていなかった。3週間授業開始が遅らされて、私は、邪気なく、むしろ春休みが長くなったと歓迎したほどである。そのあたりに、いつだったか、ゼミの卒業生と会って話をした時に、地震当日の話題になったことがある。彼女は、都内のビルで仕事中に、地鳴りがして、やがて揺れ出し、地の力みたいなものを感じだのだと言った。それは人を超えた力のことではないかと思った。荒ぶる地の神が、突然、動き出したかのように。地震大国・日本の住民にとって、地震という厄災は、そうしたものとして、考えられ、イメージされてきたのではないだろうか。

そんなことに気づくうちに、今回の震災は、自然の力、自然の神を封じ込めようとする努力は虚しい、儚いことであるということを示唆しているのではないか、と思うようになった。そうした単純な事実を想った。科学技術を用いて、自然を操作し、電気エネルギーを生み出したり、大海原からの巨大な波の伝来を止めるための防潮堤を築くという人の営みは、人ゆえ、人ならではのものであって、そうした人の企てをやすやすと超えるものこそが、大いなる自然たる神だという点を、私たちは心深くに刻みつけなければならないのかもしれない。

私たちが深く懐におさめて、享受しているため、簡単には批難することはできないかもしれないが、自然を人間と対立させ、それを制御しようとする、ヨーロッパ形而上学に特徴的な自然と文化の二元論が、いま、私たちの足元に潜んでいることが、ようやく見えかけてきている。その延長線上に、精神を持ち、思考する主体である人間が、人間以外の自然の事物・対象を奴隷として、自らの統御の下に置いてきた。しかし、人が完全に自然をコントロールすることなどできはしない。そのことは、私たちを養ってくれる自然=神に対する反逆、反乱、抵抗でさえある。そうした自然と文化の二元論をベースとする科学への信奉が広く世界に行き渡り、自明化する以前に、人の心根にあったものが何であったのかを、私たちは問い尋ねてみなければならないのかもしれない。

赤道直下の熱帯に生きるボルネオの狩猟民・プナンは、科学以前に生きる人びとであると言えよう。プナンにとって、最大の自然の脅威は、湿り気を帯びた水蒸気がやがて天高く一か所に滞留し、凄まじい雷鳴を轟かせて、激しい雨をもたらす、気象の急変である。雷神は、稲妻を走らせ、落雷して木々をなぎ倒し、生命を奪い、鉄砲水を引き起こし、あらゆる事物を水のなかへ流し去り、時代を一気に神話の時代へと遡らせる。プナンの理屈は、天界にいる、そうした神々の怒りを引き起こすのは、日々の狩猟で得た獣に対する人による不遜な、不敬な振る舞い、すなわち、人が、動物と戯れたり、動物をからかったりしたことに因があるというものだ。プナンは、だから、(決して言葉に出して語らないが)自然が与えてくれる恵である獲物の扱い方に、念入りに注意を払う。そのことによって、狩猟民プナンは、間接的に、自然=神に対する畏怖、恐れを表現しているのだ。逆に言うならば、人は、自然の前では、ただただ逃げ惑って、猛威が納まるのを待つしかない、ちっぽけで、不甲斐ない存在なのだということを、彼らはよく知っている。

必要があって、ちょっとだけ考えてみた。

(写真:アレット川の濁流)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »