普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

レイバンのサングラス!

2017-01-15 01:17:27 | 極端な生活<的>な
ずいぶん前のことになるが、ボクのfacebookか何かのアカウントだかが「乗っ取られてるみたいですよ」と、親しい友人の一人が教えてくれたことがあった。

眺めてみると「レイバンのサングラスを安く売る」みたいな記事が、ボクのfacebookを通して様々な人に送り付けられていたみたいだった。

とりあえず、「こんなことになっているみたいでごめんね」的な記事を書いて、皆の元に届けばなと思った。

その時、そのことを教えてくれた人と、やり過ごしてくれた人と、もう一種類の人がいた。その代表例が「人として最低」というコメントを残してくれた人。

SNSの怖さだよな。その人にとってボクはすっかりネットを悪用する商売人ということになったわけだ。

正直、ネットを利用してモノを売ることが悪いことだとは思わない。だからボクはそのままにしておいた。

最近また、ボクのメールに「レイバンのサングラスなんちゃら」という記事が舞い込んでくる。いい迷惑だが、特段人を傷つけるわけでもないので、そのままにしている。

「人として最低」とコメントしてくれた人に対して、いいのか悪いのかよくわからないが、ボクはすっかり「覚めて」しまった。

その人はSNSを多用する。自分の思いや活動を人に送り付ける。それは親しい人にとってはとても嬉しくもあり、待ち遠しいものでもあるだろう。ボクもその一人だった。

だが、送られてきた誰かの記事が、それまでその人間が発信してきた記事とは異質だと思う程度の疑いやら、その人への信頼感が根底にあって記事は読むものだろう。

そうした検証もなく、一方的に「人として最低」という言葉を投げて終える感覚がどうしてもボクにはわからない。

その感覚のままだと、自分が同じ憂き目にあったときにどんな対応をするのだろうと、心配になる。

ま、ボクが心配することではないのだが、最近メールに舞い込んでくる鬱陶しい記事を見ていて、急に思い出したのでちょっと書いておきます。

乗っ取りにはご注意を! ただ、乗っ取られたときにどうしたらいいのかは、よくわからないままです、相も変わらず。
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東京「昭和な」百物語<その20> グリーンハウス

2017-01-14 02:24:11 | 東京「昭和な」百物語
1960年代の終わりに近づくと、世の中は騒然とする。

ある意味、1960年6月15日の東大生樺美智子さんの国会南門での機動隊との衝突による死亡で始まった反安保闘争という「政治の季節」が、ピークに達するのだ。

60年安保闘争から70年安保闘争へ、学生が主体となった政治闘争は刻々と姿かたちを変えながらも連綿と受け継がれ、その間のベトナム反戦、沖縄闘争などのファクターを抱え込みながら、一種のカタストロフとでもいえるような悲劇的な高揚を見せる。まるで負けを覚悟の捨て身の新宿、安田へとなだれ込むのだ。その先に浅間があり三菱もあった。

その一方で、束の間のアバンチュールのように、ヒッピーというそれまで自分たちが知っている世界とは違う世界がアメリカやヨーロッパにはあるみたいだぞ、的な期待や高揚と、ナチュラリズムに名を借りた怠惰で、退廃的な現実があった。

その象徴が、今では信じられないことだが、長髪の兄ちゃんやとっぽい姉ちゃんが、ハイミナールやシンナーでおっぺけぺになりながら、新宿アルタ前に存在した芝生の一角で一日中寝転がっているという事実があった。その一角をグリーンハウスと称した。全然温室じゃないけどね。

しかも彼らは、ヒッピーではなくフウテンと呼ばれた。あ、彼らじゃないか、ある意味ボクもだった……。ボクはおっぺけぺじゃなかったけどね。

その一角に入りきれない連中は、新宿中央通りの「風月堂」「ウィーン」という喫茶店に入り浸った。コーヒー一杯でおよそ半日以上をそこで過ごした。政治的ではない時は、ボクはこのウィーン一派として過ごした。

なんて、その第一人者のように書いているけれど、そうではなくて、十把ひとからげの一人。芝居もやっていて忙しかったし、あまりそこにはいられなかった。ただし、いられるときはそこの住人のようにふるまっていたな。

でもね、ことさらに言うわけじゃないけれど、それはそれで楽しかった。政治も含めて新しいカルチャーとして理解していた。

昭和という時代は、前半は戦争だらけだった。そして中盤は政治的だった。最後の最後は……なんともいわく言い難い不思議な終わり方をした。混乱を避けながら混乱を招き、消耗し、果てたという感じ。

それでも、なにか元気だった。今よりははるかに元気だった。
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少々痛んで、年明け

2017-01-10 00:47:50 | 普通な生活<的>な
新年が おめでとうと言い 顔を出し

2017年そうそう、少し体を痛めています。奥さんも。

精神は健康そのもので、なんともはや。このバランスをどう整えるか?

その方法は、すでにボクの手の内にあります。

少し時間をかけて、2017年がかつてないほど最高の年になるよう!

生きていきます。
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謹賀新年、です

2017-01-02 02:16:58 | 普通な生活<的>な
謹賀新年


2016年と同じですな。

………。

2017年が明けましたが、どうしたわけか昨年末から例年のような年末年始の緊張感やら慌ただしさなどが、まったくありません。

ちょっとした変化はありますが、淡々と日々が過ぎていきます。

これは何なのでしょうか? ちょっとですか戸惑いも感じます。

今年もお節料理はすべて手作りしましたが、31日のおよそ3時間で作りました。作るに際してのバタバタも全くありませんでした。

写真をアップするような代物でもなく、エビの煮物、ピーマンの肉詰め、煮しめ、鶏のチリソース炒め、ブリの照り焼き、ミートローフ、卵焼き、ごぼうと牛肉の煮物などなど。

どれも家族には好評で、すでになくなりました。

今年の年頭は、これほど淡々と過ぎていますが、どう考えても新しい人生の第一歩という感じも強く、なにやらボク自身が大化けしそうな予感があります。

期待していてくださいね。

本年は、殊によろしくお願いします!!
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東京「昭和な」百物語<その19>新宿大ガード付近(再録)

2016-12-17 17:43:07 | 東京「昭和な」百物語
(2011年7月20日にこのブログで書いた原稿を少し書き直して再録します)

 昭和33年の冬、それまで住んでいた上板橋のハモニカ長屋から、荻窪の公団住宅に引っ越した。これは画期的な出来事だった。

 当時僕は小学校三年生で、板橋から文京区立窪町小学校に越境入学していた。越境入学の理由は、今は筑波大学となっているが、当時の東京教育大学附属小学校の入学試験に落ち、癪にさわって隣りにあった窪町小学校に通うことにした、ということになっていた。本当のところは不明。
 確か季節は冬。ニ学期の終業式当日だったような……。

 上板橋から窪町小学校に向かい、帰りは荻窪に帰った。
 よく考えれば、10歳の小学校3年生にはかなり無謀な行程だったような気がする。なにしろ荻窪なんぞは、行ったことも聞いたこともなかったから。

 当日の朝、帰りは荻窪まで来るようにと言われ、心細いなんてものではなくて、当時の学友に先生(中村先生!)に促されてサヨナラの挨拶をし帰路についたが、心此処にあらず的な浮き足立った感覚を覚えている。

 営団地下鉄丸の内線の茗荷谷が窪町小学校への下車駅だった。いまの感覚で行けば、それなら茗荷谷から荻窪まで丸の内線で一本じゃないか、と言いたいところだろうが、丸の内線、当時はまだ荻窪まで開通していなかった。池袋から霞が関までしか開業していなかったと思う。荻窪からは方南町あたりまでだったかな?

 どんな行程で茗荷谷から荻窪まで行ったのか定かではないが、その夜にはきちんと荻窪で食事をした記憶があるから、ちゃんと行けているわけだ。いろいろな方法があった思うが、おそらく、茗荷谷から池袋(2駅)へ出て、省線(と昔は言ったのだよ)に乗って新宿へ出て、当時は高尾ではなく浅川行きと言った中央線に乗って行ったのか、あるいは、新宿で降りて淀橋方面に向かって大ガードを抜けて歩き、都電に乗っていったか、いずれかだろうが、そこのところの記憶は曖昧だ。
 どちらかと言えば、都電で行った公算が大きい。というのも、4歳年上の姉が、当時まだあった淀橋浄水場近くの精華女学園中等部に通っていて、記憶にはないのだが、彼女と待ち合わせて帰ったと考えるのが最も妥当だ。そうなれば都電で荻窪に向かうのが最も自然だ。

 当時、都電は東京を縦横に走り回っていた。ボクが最も馴染んでいたのはやはり杉並線で、新宿の大ガードを超えたすぐの所に、熊の胃の宣伝だったかジンギスカン料理屋だったか、大きな熊の絵だったか彫刻だったかがあって(後々、当寺は結構あったという今でいうところのジビエ料理の店だったと、友人に教えてもらった)、その目と鼻の先に都電杉並線の停車場があった。それに乗れば、終点の荻窪駅まで連れていってくれた。
 都電荻窪駅は、新宿から向かえば荻窪陸橋を越えた北口側にあった。
 ただ、営団の丸の内線が荻窪まで乗り入れた昭和37年の翌38年には廃線になった。だからボクが乗ったのも、約4年間程度だったという計算になる。

 都電は、本当なら環境にも優しい素晴らしい交通手段だ。東京でもいまも最後の一路線「荒川線」が早稲田から三ノ輪まで走っていて、たまに何の用もないのに乗る。ゆっくりと風景が流れていく様は、普段感じることもない時間の流れが目に見えるようで楽しい。

 季節になると大塚駅から池袋方面へと向かう線路際が、バラの花で覆われる。結構好きな光景だ。
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一言。韓国

2016-12-14 01:22:12 | 極端な人々<的>な
朴槿恵大統領の引きずりおろしに「成功」して、国家(国家の体をなしていないが)を上げて万歳している韓国。

正直、韓国がどうなってもどうでもいいことなのだが、周囲への配慮も、何事かをなせばどこかが歪むといったことへの熟慮もない国民が、まるで革命でも起こしたかのように狂喜する姿は、見苦しく、見るに堪えない。

一時、「SNS革命」などとおだてあげられ、結局は混沌に沈んだ「アラブの春」の失敗から、何一つ学んでいない人々が、そこにいるだけ。

自分たちが選んだ大統領は自分たちが責任をもって処する、という発想はありだとは思う。だがその方法は、選挙だろう。何もしない大統領だからといって「弾劾」はないだろう。

アメリカの大統領の中でも強面だったレーガンは、占星術師ジーン・ディクソンをオブザーバーにしていたといわれる。小太りのおばちゃんが大統領にサジェスチョンして何が悪いというのだろうか?

弾劾に賛成した「painted back=背塗」党の反主流派の所業も、弾劾賛成派に抗して果敢にデモを敢行した「背塗」党支持者=朴大統領支持者への単なる背信に過ぎない。

世論の主導で事は成されたといえば聞こえはいいが、世論を醸成したのはおそらく無責任な世論の尻馬に乗ったメディアであり、どこかマッチポンプのような連中のなせる業だったのだろう。

韓国の政治的混乱は、半島情勢になにか大きく影響するのではないかと思っている向きもあるが、まずない。「北」も呆気にとられているといったところだろう。これが40年前なら「南」の混乱に乗じて侵攻するというような状況も考えられただろうが、今回はあまりにも突飛で、「北」も、状況をはかりかねているに違いない。というか、韓人のメンタリティはよくわからないが、所詮北と南は「戦争ごっこ」をしているだけということだろう。緊張感の欠片もない。そこは、隣国としてはありがたいばかりだ。

世界は音を立てて動いている。韓国はそんなことにも気づいていない。もし気づいていたら自分の足元のことだけで、国のかじ取りを任せていた棟梁を引きずり降ろしたりはしないものだと思うのだが、どうだろう? 

これ以降さらに、対外的(ことに日本への)な国家間の信義に関わることどもも、平気でチャラにしかねない韓国の国家的アイデンティティは、如何にもお粗末、としか言えない。
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12月4日 後日談

2016-12-08 02:21:18 | 普通な人々<的>な
先生でもないのに、駅までおよそ700mを走り切ったボクは、そのバチがあたったのだろうか、その二日後の6日、なんと何年振りかで熱が出たのだった。

……。

それだけなんですが……。今日も節々、痛んでます。
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師走

2016-12-04 02:12:30 | 普通な生活<的>な
先生でもないのに、電車に遅れそうなので、家から駅まで走ってしまいました。
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東京「昭和な」百物語<その18>雑誌②

2016-11-29 20:11:52 | 東京「昭和な」百物語
そう言えば、雑誌で思い出すのは「週刊新潮」だ。

我が家がまだ上板橋に住まっていた頃、我が家に「週刊新潮」という新しく創刊された週刊誌が送られてきていた。後に「黒い報告書」などの人気シリーズを生む週刊誌ブームの火付け役だった雑誌。

なんで送られてくるのかと思っていたが、後々父親が戦前に新潮文庫の編集者だったと知ることで、その謎は氷解した。父親にシンパシーを感じてくれる後輩編集者がまだいた時代だったのだ。

ボクはかなりませていたのか小学生時代に親に内緒でコッソリと「週刊新潮」を読んでいた記憶がある。コッソリとと言うのは、ちょっとエッチな内容もあったからだったが、ことにトップ記事は政界の内幕話や事件記事で面白かった。後にトップ屋と呼ばれる一人であった梶山季之などの原稿だったと知る。吉展ちゃん事件(営利誘拐殺人事件)やら、三鷹事件、帝銀事件などといった戦後の不可解な事件の真相を追い求める記事などがあったように記憶しているが、間違いかもしれない。

ボクはお芝居をやっていた関係なのか、なかなかに破天荒な生活を送っていた。そしてどちらかと言えば社会に対して斜に構えていたし、反体制的であろうと努めていた。

1970年代に、そんなボクが嵌った雑誌が幾つかあった。

「エロチカ」という高橋鐵や団鬼六などが関わっていた性風俗(今のような性風俗ではなく、むしろ民俗学的な切り口であり、文化的な印象すらある雑誌だった。澁澤龍彦につながる系譜も内に秘めていたように思う)を扱う雑誌だった。これは我が家の本棚を占領していた時期がしばらくの間あった。

他には「東京25時」などという突き抜けた雑誌もあった。まだまだ一種独特な雰囲気を持った雑誌があったが、正直タイトルが出てこない。

1970年代も終わりに近くなって創刊された「ムー」「トワイライト・ゾーン」なども面白かった。当時「ムー」が一歩リードしていた感があったが、へそ曲がりなボクは「トワイライト・ゾーン」の方が好きだった。

この雑誌タイトル「トワイライト・ゾーン」は、1960年代のアメリカ・テレビシリーズ「Twilight Zone」から取ったもので、テレビシリーズは「Outer Limits」と双璧の不思議系テレビシリーズだった。後のスカリー、モルダーの「Xファイル」の先駆けのような番組だった。日本の誇るウルトラマンを生んだ「ウルトラQ」の生みの親でもあるだろう。

マンガ雑誌にも「ガロ」という金字塔があったなぁ。
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東京「昭和な」百物語<その17> 雑誌①

2016-11-29 01:06:18 | 東京「昭和な」百物語
子どもの頃を思い出してみた。

上板橋に住んでいた頃、ボクはまだ未就学の幼稚園生で、父も母もまだボクにそれほどの手をかけはしなかった。例えば習い事や、勉強。

畢竟、姉には少女雑誌や少女漫画を買い与えたが、ボクにはまだ何も与えられなかった。

だから姉の手元に届く「少女クラブ」などを読んでいた。その中で最高に面白かったのは『リボンの騎士』だった。時々付録のような小冊子になっていた記憶がある。

やがてボクは両親の許しを得て「少年」を読み始める。横山光輝の『鉄人28号』、堀江卓の『矢車剣之助』、テレビとメディアミックスしていたような九里一平の『海底人8823』とかわくわくしながら読んでいた。もちろん『鉄腕アトム』もだ。

少年誌では「冒険王」「少年クラブ」などあったが、「少年」が最高峰だった。

内容に触れていると膨大になるので、雑誌名だけ取り上げることにする。

小学校4年生の時に画期的にも週刊少年漫画誌「少年マガジン」「少年サンデー」が創刊、第一号から読み始め、結局34歳まで欠かさず読んでいた。

ボクの子どもの頃の少年誌は、実は戦争色の濃いものだった。作品ではなく、巻頭の特集などは野球や相撲といったスポーツヒーローもの以外は、日本の戦艦や武器などの解説、どれほど日本の科学力が優れていたかといった内容のオンパレードだった。中にはドイツとの比較やら、ヒトラーを肯定的に紹介するような記事もあったように記憶している。宇宙ものも多かった。光子ロケットなどと言った宇宙航行のアイデアは、当時「少年マガジン」や「少年サンデー」ですでに取り上げられていたと思う。

やがて第二次性徴期を迎える頃になると、青年誌に移行するわけだが、ちょうどその間を埋める「ボーイズライフ」などという雑誌もあった。この雑誌はオカルト的な記事もあり、ボクらの脳髄を刺激してやまなかった。

青年誌では「平凡パンチ」「週刊プレイボーイ」と並んで「F6セブン」という雑誌があった。ちょうど「パンチ」と「プレイボーイ」の間に創刊された記憶がある。活字の多い雑誌だったがピンナップは結構刺激的だったかな?

(この項続く)
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例の、UFO画像を

2016-11-28 18:38:41 | 超常現象<的>な
このブログで過去にアップしたモノも、併せて再録します。

これはUFOなどではないという意見もあろうかと思いますが、すべてボクが撮ったものなので、ボクとしてはUFOだと思いたい。なにせそういうの好きだから。

というわけで、上から2010年12月27日目撃のUFO


真ん中は2013年11月3日目撃のUFO
一番下が2016年11月22日目撃のUFO

11月22日は動画で撮っているのですが、データが重いのでキャプチャーした3枚を載せます。時系列は左から右です。電信柱の上の部分に合わせてあります。


以上です。
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さや様へ

2016-11-26 01:38:11 | こんなことを考えた
10月15日に、6月20日に書いたボクの原稿に「返答」と題して原稿を書きましたが、その原稿に対して「さや」さんから「不完全燃焼である」との意味合いのコメントを頂いたので、再度パラレルワールドについて書くことにしました。

「さや」さんの言葉は、本当は「不完全燃焼である」などというものではなく、ボクと奥さん二人のパラレルワールドに対する説明を聞きたいとのことでしたので、あらあら書かせていただきます。

ボクと奥さんのパラレルワールド「論」は、実は基本的にそれほどの差異があるわけではありません。

仏教の「一念三千」という法門がベースにあります。

「さや」さんが、この「一念三千」という法門の意味をご存じないという前提で書きます。もしご存じなら失礼ぶっこきます。
 
仏の示した「一念三千」の意味(本当は仏の真意を天台大師が解き明かした)については、2012年の3月28日と30日の二度に分けて、このブログで少しだけ書いているので、参考にしてください。

さて、「一念三千」とは、文字通り「一瞬に想起する一念に、三千の認識、言葉を換えれば選択肢が生じる」ということです。言ってみればボクたちは一瞬一瞬毎に、必要な選択をし続けて生きているということになります。

考えてみればストレスの多いことこの上ないわけですが、仕方ありません。そうしなければボクの思考も意識も停止してしまう、言い換えれば生命としての「死」を迎えるからです。「一念三千」は、生きる意味を表わした法門でもあるのです。

さてその「一念三千」ですが、三千というのはもちろん仏法的にきちんと裏付けのある数字なのですが、それは置いておいて、数多のという意味合いで捉えていただけばいいと思います。人は一瞬に常に移ろう三千の世界を抱え、瞬間瞬間にその一つを選び取って生きている存在というわけです。

これはどういうことかといえば、いつでもシフトできる三千の世界、つまりパラレルな三千の世界を人は誰でも抱えているということです。別の世界に移ろうと思えば、いつでも移れるのです。

それは、人間は自分が選べば自分にとって最良の世界を選び取ることができるということです。

その方法は、例えば仏教的には修行などといいますが、そんなことではない。要は「深い思い」です。

自分にとって最良の世界を選ぶというのは、決して最高にハッピーな世界、というわけではないということに注意してください。

自分にとって最良、というのは自分が気持ちのいい世界であり、幸せとは限りません。ぐずぐずと他人に対して文句を言うことが大好きな人もいます。自分の生活に不満ばかりあることが好きな人もいます。人と別れることが実は楽しくて仕方ない人もいます。そうしようと思って人は自分の人生を選んでいるのです。

いまの自分の境遇、境涯は、ほとんどすべて自分が望んだ結果としての世界なのです。

傍から見るともの凄く不幸に見えても、平気な顔で生きている人もいます。それは自分が選んだ世界に納得しているからです。

最高の誰から見ても幸せな世界から、最低の誰が見ても不幸な世界まで、人は三千の世界を選びながら生きているのです。だから強い思いで「最高に幸せな世界、自分だけでなく人も幸せにしていける世界」を望めば、一瞬にしてそうなるのが、ボクたちの世界なのです。

それがパラレルワールドの本質だと、ボクは考えています。実は奥さんもそうです。ただ、異なるのは実践です。

奥さんは見事に実践の人で、パラレルワールドの中から最高に幸せな世界を選び取れる人です。ところがボクは理論的な理解はできていても実践が伴わない、と奥さんは感じているのです。実はボク自身もそう思ってしまっている節がある。

そこが異なります。最高に幸せな人生とはどんな人生なのだろうか? そう自問自答し続けようとボクは思っているわけです。そしてある日ふとそのことの意味が分かり、行動に移すことに何の抵抗もなくなり、ボクは別の世界にシフトする、そう思っています。

さやさん、こんな感じです。

もう少し補足すると、量子力学ではパラレルワールドの存在が証明されたそうです。簡単に言うと同一の量子が二カ所に存在できることを確認したということのようです。つまり一つの存在に少なくとも二つの世界があるということです。

こんな感じです。

最初にさやさんが「不完全燃焼」と言ったと書きましたが、それはパラレルな別の世界のボクの認識・受け取り方だったということです。ほんの少しのずれ。それこそがパラレルワールドなんだと思います。
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東京「昭和な」百物語<その16> 恋愛事情

2016-11-25 08:07:48 | 東京「昭和な」百物語
昭和の終わり頃になると、それまでの一般的な恋愛観は相当崩れていたような気がするが、実は、昭和の恋愛観を決定的に突き崩したのは、1960年代後半のヒッピームーブメントと学生運動だった。

ボクの子どもの頃は、それこそ女の子と手をつなぐことなど「夢のまた夢」とでも言うような、この世の出来事とは到底思えないことだった。

それが、高校くらいになると、あれよあれよと世相が変化した。それはベトナム戦争、ヒッピームーブメント、反戦という三題噺のような若者の関心事が目の前に突き付けられたことによるとボクは思う。簡単に言えば外国からの輸入モノが呼び水になった。

フリーセックスなどという刺激的な言葉が世の中に登場したのも、この頃だ。ことに北欧の自由奔放な若者の性が雑誌などで取り上げられたりし始めた。

それを後押ししたのは、もちろん映画やお芝居という若者のカルチャーだった。ピンク映画、日活ロマンポルノなどという映像が溢れ、海の向こうのオフオフブロードウェイでは「ヘアー」、「ジーザスクライスト・スーパースター」などといった完全なるサブカルチャーから生れた舞台が好評を博していた。

そうした表現はすべて自由な恋愛、自由な性を標榜していたように思う。

それでは、昭和の元々の恋愛観は、どんなものだったか?

調べて見ればわかる通り、日本は元々フリーセックスの国である。ただし、身分制度に縛られ、なおかつ婚姻は家同士で行うものという前提があった。その前提をわきまえれば、恋愛は自由だった。平安時代の妻問婚の名残りなのか、夜這いなどという風習も全国に偏在していた。

だが、戦争という出来事を前に、性に対する規制や観念的な忌避が生じた。すべては国家によってコントロールされた。

だから昭和の恋愛事情は、そもそもの出発点から国家のコントロール下にあるものという、歪んだものであったわけだ。

女性は何より「貞節が一番」的なコントロール。その割には「産めよ増やせよ」と夫婦の尻は叩いた。

日本人はそのコントロールから戦後もなかなか抜けられなかったが、前述の通り、外国からのフリーセックス等という呼水で、1960年代後半に一気にタガが外れた感がある。元に戻ったといったら言い過ぎか?

その受け皿というか、大義名分というか一つの役割を担ったのが「同棲」という概念だ。

それまではお見合いを通じて家単位での婚姻が一般的だったが、男女の個のつながりでプレ婚姻、お試し婚が広く認知された。上村一夫のマンガ「同棲時代」がその先鞭をつけた。

かくいうボクも1970年に同棲した。3年間だったが充実した日々だった。なにが? と聞かれても答える気はないが……。

とにもかくにも、昭和の後半は婚姻の形もお見合いは一気に廃れ、自由恋愛が当たり前の時代に移行した。手を握ることなどに躊躇している暇もないほど、事は先へ先へと進んだわけだ。

1970年頃には、ディスコなどに行くとトイレでその場しのぎのセックスに興じる男女を見かけることも普通だった。

恋愛を時代でひとくくりにするのは、無理があるなといま感じたが、もう遅いな。
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また、UFO

2016-11-24 01:07:04 | 超常現象<的>な
なぜかこの時期になると、UFOが現れます。

今回は11月22日の夕方。西北の空をゆっくりとした流れ星のように流れていきました。

今回はスマホで動画を撮りました。ただデータとして重いので、ここには載せません。

少し経ったら写真でもアップします。お好きな方はこうご期待。

ついでに、その時に前のものも掲載しておきます。

なぜかというと、どうも同じもののような気がして。

一応ご報告。
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クラス会

2016-11-22 13:30:14 | 極端な人々<的>な
それも小学校の。

以前にも、この歳になるまで続く小学校のクラス会は大したものだよな、というようなことを書きましたが、まったく同じ感慨を抱いております。

クラスの同級生はおよそ50人ほどいた団塊の世代ですが、幹事のS藤君の話を聞けば、連絡のつくクラスメートがまだ30人前後いて、出したハガキに30人弱が返事をくれたとのこと。

実際参加したのは20人弱でしたが、物凄い参加率だなと感心します。

担任のK澤先生は、お歳がお歳なので、前回で最後と言っていましたが、お近くまで行ってまたやりたいと、全員が賛同しておりました。

場所は麹町のイタリアン。同級生のご子息のお店「麹町カフェ」。これがまた良い店で土曜日のオフィス街にも拘らず、クラス会開催時間は4時間もあったのに、ずっと満席。料理も良いお味でした。普通にまた行きたいお店です。

さらに凄いのは、二次会に行こうと入ったのが「タリーズ」。もうお酒を飲もうということにはならないわけです。

素晴らしい一時でしたy。

幹事さん、ありがとう! 感謝です。

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