普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

ご無沙汰しました

2016-05-07 19:45:00 | 普通な人々<的>な
今年のGWは、なかなかに緊張の連続でありました。

車で1600劼鯀破しました。何年か前にもほぼ同じ距離を走りましたが、今年はさすがに一人での運転はきついものがあり、半分は息子君がしてくれました。

奥さんの84歳になるお母さんに会いに神戸へ。お元気そうで安心しつつ、その足で鳥取経由、ボクの生まれ故郷・島根に。

あれこれと神戸でも島根でもやることはありましたが、ひょっとすればもう二度と足を向けることができないかもしれない、奥さんとボクの故郷の風景を瞼に焼き付けに行った、そんな感じです。

もちろん奥さんの故郷・神戸は、母親はじめ親戚兄弟もいて、風景だけではない人の温もりのある故郷ですが、ボクの故郷はボクの郷愁の中にしかありません。それでも、自分の生家跡を訪ねたりもしました。泣けました。

その話はまた別立てで……。

とにかく、行っておかなければいけないという衝動にも似た思いが奥さん共々にあって、無理を承知の強行軍でしたが、これを旅というのであれば、非常に充実した、楽しい旅でした。

無事、事なきを得て(同じことだ!)帰京いたしました。

また、よろしくお願いします。
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熊本に

2016-04-24 01:23:47 | 普通な人々<的>な
何も言うまいと思っていたのだけれど……。

熊本には思い出がある。

阿蘇の五岳の雄大な眺めは、とても日本のものとは思えない景色だった。中岳は噴煙を上げていて、大地が生きていることを教えてくれた。

博多のラーメンとは違った、独特の熊本ラーメンもうまかった。

カルデラの中にある街を車で通り過ぎたときに、そばの栽培が盛んになっているという話も聞いた。

もう30年も前のことだが、まるで昨日のことのように思い出す。

なにか妙に懐かしい印象を持った記憶がある。

よかところだった。

手毬歌を思い出した。

「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ 船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと隠せ(「おっかぶせ」と覚えているが)……」

もう一つ思い出した。五木の子守歌

「おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと(「ど」と覚えているが……) 盆が早よ来りゃ 早よもどる……」

幼い頃に母が歌ってくれたのを、空で覚えた。いまでも歌える。

熊本の歌は、まだあった記憶がある。「おてもやん」。

こんな歌を思い出し、通りすがった風景を思い出すうち、熊本は、決してなににも負けないだろうと思った。もちろん地震になんぞ負けたりはしないだろうよ。
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しんねりむっつり

2016-04-22 00:14:27 | こんなことを考えた
面白い言葉だよね。

結構ニュアンスも意味合いも、マイナスのイメージが強い言葉だけれど、意外と好きです。

一般的には「ネクラ」とか「態度・性質などが陰気で、心に思うことをはっきりと言わないさま」という意味だそうですが……。

なんとなく、もっと痴れっとした感じがしませんか?

どちらかというと、暗くはないニュアンス。

しんねりだけだと「ねばっこい感じ」「陰気な感じ」を指します。むっつりは「口数が少ない」とか「愛嬌がない」といった意味。

それが合わさると、「ネクラ」「陰気で根に持つ」みたいな印象になっていく。

なにか違うな? どうせそんなに使ってないんだから、もっと面白い言葉として再登録してあげようよ!?

たとえば「ちょっと引き気味?」「なにかこっそり面白いこと考えてるんだろう?」みたいな感じ?

なぜこんなこと書いているかといえば、今日あるところで、自分が話すべき時なのに、ちょっと言葉が出てこなくて、でも腹の中では、なにか結構クリアに自分のことが分かっているような瞬間があって、その時にふと心の中で「しんねりむっつり」という言葉が頭をもたげたのだよ。ひとり心の中でクスリと笑ってしまったのだった……。

そう! 上の文章の最後にくっつけた「……」これが、「しんねりむっつり」の正体なのだと思う!!

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法華経の宇宙観 あれから1年5ヵ月 その

2016-04-12 19:46:14 | ちょっと宗教<的>な
2014年11月18日に「法華経の宇宙観」という原稿を書いて、すぐに続きを書こうと思っていたのに、気がつけばあれから1年5ヵ月もたっているという、時間感覚の不埒さ……。

追いつきませんが、それがどうしたということで……。あの続きを。

あの時、二処三会ということを書きましたが、最近少し違う印象を持ち始めています。

二処三会って、本当は一処三会だったのだろうという認識。

つまり、映画館に入って椅子に座ってポップコーンをつまみ隣りの友達と喋っている内に、場内が暗くなって映画が始まり、映画が終わり場内に明りが戻る……みたいな。ボクはどこへも行っていないのですね。

ただ、そこに集ったあらゆる生あるものが、同じ映画というイリュージョンを体験するわけで、そうでなければ成立しないことなのですね。そのイリュージョンを仏は見せてくれたということです。仏は名映画プロデューサーか⁉ ということですね。

もし一処三会であっても、法華経の価値は微動だにせず、むしろさらに深い認識へと誘われるわけです。

どういうことかと言えば、世界はあらゆる生あるもの一つひとつに、それぞれの世界として備わっているもので、生あるものの数だけ世界は存在しています。パラレルに。

その世界はそれぞれに独立しているのだけれど、横断的に共通項を持っているわけです。その共通項は幾つもあるのですが、代表的なものは「言葉」です。

ことに宗教的な概念は、体験という強力な認識の道具・方法はありますが、概ね言葉で共通認識を持ちます。

例えば先ほどの映画館の話ですが、映画という共通項、その共通項=イリュージョンを理解するための映像と言葉(音も含めて)、それがそれぞれ一つひとつの世界と映画の世界とをリンクさせます。

観ているイリュージョンはたった一つですが、リンク先ごとにその相貌を変えていきます。つまり理解が少しずつずれてくるわけです。ところがそれこそが仏の狙いなのですね。受け取る生命の相貌(境涯)にあった理解しかなされない。そのズレの隙間に仏は入り込み、一つ一つの生命と向き合っていくのです。

十界互具論はそこで発動します。

十界互具は、ただ一念三千の百界を説明するためにあるものではなく、今様に言えば「フラクタルな世界」の説明なのですね。無限に生滅する世界とその世界を支える一つひとつの生命の形です。常に変化しているけれど、生命という本質的な形を生み続ける源。百界どころの騒ぎではないのです。無限界です。

そうなんですね、生命は際限もなく生滅し、永遠なんです。

法華経は、その生命を説明している経典。最近ボクはそう思っています。成仏の記別とは、生命が永遠であることを知ることなのではないか。それだけなのではないか、です。

だから仏とは永遠の別名、法華経はその解説書、ボクは最近そう理解しています。

何度でも言いますが、これはボクの勝手な理解ですからね。なにかを下敷きに書いていることでもなく、あくまでボクの勝手な解釈。

それだけは、理解しておいてくださいね。

あ〜! スッキリした。



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東京「昭和な」百物語<その12>あれ、とかこれの3 この際、省線のこと

2016-04-11 23:33:53 | 東京「昭和な」百物語
JR線のことを、その昔、昭和の20年代半ば頃までは「省線」と言いました。

大正期から、国家機関である鉄道省・運輸通信省・運輸省等の管轄下で営業された鉄路の総称だったようです。調べると昭和24年まで「省線」の名称が使われ、「国鉄(日本国有鉄)」に変更になりました。やがて1987(昭和62)年にはJRになりましたが、その前に一時「E電」などという呼称も存在しました。なんだか今風な感じですが、「良い電車」の後尾呂合わせだったような気がします。

省線という言い方は、ボクの両親や親戚の叔父・叔母などが使っていました。国鉄という言い方はなじめないと言っていたのを覚えています。ボクも省線と言っていた記憶があります。小学校の時、友達と省線、国鉄どちらが良いか論争をした記憶もあります。

省線ですが、ボクは山手線を指してそう言っていました。なぜでしょう? 理由は分かりません。コーヒー色をしたしかつめらしい外観の電車でした。乗り込むとすぐに今で言えばポールダンスに使うようなステンレス(?)製の棒がありました。座ることもできず吊革につかまることもできない人は、そこに掴まるわけですね。床は10冑くらいの板材を貼り合わせてありました。そしていつも頭が痛くなるほど、ワックスの臭いがしていました。

座席は固いけれど、まるでビロードのような素材のカバーだったような気がします。昭和30年頃はまだ、対面式の座席の車両もあったのではなかったかという気がしますが、記憶違いかもしれません。

どんな満員電車でも、煙草の煙が充満していました。混雑時に煙草が禁じられたのは、1960年代に入ってからではないでしょうか。それでも普段は喫煙可でした。新幹線が禁煙車両を設けたのは70年代の半ばだったと思いますね。

子供の頃は、初乗り運賃、というより山手線一周どこまで行っても5円だったと思います。ボクが山手線を使うのは、代々木、のちに原宿に転居した母方の叔母の家に遊びに行くときでした。

中学に入学した頃からは、あちこち行きましたが……。

昭和30年代までは、子供を抱いた若い母親が、電車内で授乳するのも普通の光景でした。
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今日は、ブレヒト

2016-04-11 00:00:26 | 普通な生活<的>な
昨日は能楽だったが、今日はブレヒト。

東中野の演劇集団「風(KAZE」)の公演を観にいった。久しぶりに見るブレヒト。この劇団の創立メンバーの一人が、50年近く前にともに同じブレヒト劇団のペーペーだったのだ。いまでは主要メンバーとして芝居を作っている。

舞台の印象は、少しボクの抱いていたイメージとは違った。

なぜか、ボクだったらどうするだろうという思いで観ていた。不思議な感覚だった。

すっかり忘れていた芝居を形づくっていくプロセスと、その結果への憧憬のようなものを、心のどこかで追いかけながら観ていたのだ。

さあ、これはやばいな! 虫が蠢き始めている感じがするな……。

お芝居はブレヒトが1930年にオペラ的に書き上演された「マハゴニー市の興亡」。一連の教育劇などの前に書かれたもので、叙事演劇という理論武装をすでにまとった脚本だ。クルト・ワイルのオペラ作品として、最近になって人気が出始めた。

ブレヒトによって描かれた世界観が、90年近くも経って今と全く重なるからか……。

演劇集団「風」の舞台に関しては、もう少し咀嚼してからここに書こうと思う。
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今日は仕事で、能楽

2016-04-10 00:56:30 | 普通な生活<的>な
それも、能・狂言を2連荘。

ボクの高校時代の恩師である井関義久先生は狂言の役者でもあり、のちに桜美林大学の教授に転じ新作狂言の台本も書かれている。とは言えお便りもせず、まったく不詳の生徒である。

演劇部でお世話になったのだが、今日観た狂言「棒縛り」の演者方は、和泉流野村万蔵家に連なる皆さんで、井関先生はその中でも野村万作さんのお弟子であったと記憶している。野村萬斎さんのお父上だ。

本当に久方ぶりに狂言の舞台を観たが、やはり良いものだ。ことに「棒縛り」は面白い演目で、今どきのコントよりも、ボクには面白く感じられる。

さらに、狂言と併せて「船弁慶」「土蜘蛛」二題の能舞台まで観ることができた。

「船弁慶」は落語や歌舞伎でも扱われるほどポピュラーな話。「土蜘蛛」も同様。で、囃子方も地謡もそれはそれは完成度の高いもので、仕事とは言え、すっかり堪能しました。

どちらも仕掛けのある華やかな舞台ですが、是非奥さんやお嬢に観せたいものだと思いました。少しだけでも、世界観が変わる契機になるかもしれませんから。


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最遊記 第1回 西に向かって1歩を踏み出すの記

2016-03-25 20:03:24 | 最遊記
この混沌とした大八嶋=世界に生を受け、28年が過ぎる頃、いまの伴侶に出会いそれから5年後、共に暮らすことになった……。

我が夫婦、天地開闢の時だった。

あれから幾星霜……僕ら夫婦は色々ありながら……そうほぼ毎日のように喧嘩をし、周囲の人間の誰一人として、僕らがまともに結婚生活を送れるなどと思ってもおらず、子どもたちでさえ、僕たちが離婚せずにいることを訝しんでいた節もあるほど。本人たちでさえ、と言いたいところだが、どっこい二人だけは、別れを考えたこともない。

いまでも揉め事の種は尽きないのだが、過去のそれらはすべてが今考えれば必然で、むしろ楽しかったことだらけなのだ。だから、僕ら夫婦は意外にも、周囲の人々の期待を裏切り続けて33年ということになるだろうか。

考えて見れば齢66年を積み重ねてきた僕は、人生のちょうど半分を奥さんと、毎日喧嘩をしながら過ごしてきた計算になる(細かくみれば多少の誤差はあるのだが)。

有難いことだ。奥さんに感謝しかない。……気取ることもないか⁉

なぜ喧嘩を日常としながら33年もの長きに亘って別れを考えもせず共に暮らせたのか?

謎のようだが、謎でも何でもない。それはおいおい書くとして……。

そんな僕ら夫婦だが、過日お伝えしたように、少し遊ぼうということになった。さんざん遊んできたような気もするが、それはそれ、意識して遊ぼうということになったのだ。奥さんの提案だった。

そして、その提案の骨子が「西に向かっていこう!」という、ざっくりとしたもので、そのざっくりさ加減に僕は大いに賛同した。いずれは海外に雄飛するぞ! という決意表明も、お互いの心の中でしている(はずだ)。

そして栄えある第1回を、できるだけ早くに書きたかったのだが、宣言以来なぜかどこにもいかず、なにも書けなかったのだが、先週の日曜日、以前にもご紹介させていただいた「小澤酒造」に行ってきた。……海外リポートはおあずけで。

酒呑みの僕ら夫婦に相応しい第一歩ということで、その時のリポートを近々に。

今回は、プレリポート、プロローグということで……。
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記憶は彼方へ。思いは鮮烈に。

2016-03-11 19:50:13 | 思いもよらない未来<的>な
1月17日も、3月11日も、忘れられません。

阪神淡路大震災。以前も書きましたが、おそらくボクは近畿圏以外で最も早く地震を知った人間の一人です。後に全壊指定地域となった神戸市灘区天城通に居住していた義母が、短縮ダイヤルを三木に居住していた義姉の電話と押し間違え、地震から1分も経たずに東京のわが家へ電話してきたからです。5時47分頃、寝ぼけ眼で義母の電話を受けたボクは、それほどの大事とは思わず、一言二言義母が叫ぶように話した声を聞き終えて「分かりました、後で電話かけさせます」などと、そっけなく電話を切ったかもしれなかったのです。寝ぼけていたせいか記憶はあいまいです。

東日本大震災。家で仕事していたボクの他に、娘も息子もなぜか家にいました。強い揺れに襲われましたが、揺れの方向が良かったせいか何一つ落ちることもなく、ただ地震の大きさに驚いていたのを思い出します。テレビを見れば、それから丸一日以上に渡り、恐ろしい惨状を映像として流し続けていましたっけ。その間に、仕事で日野市の豊田近辺にいた奥さんを車で迎えに行きました。後にとんでもない渋滞だったと知るのですが、ボクは裏道から裏道を華麗に走り抜け、立川駅によりながらも、いつもより(普段は往復40分程度)1時間多くかかった程度で無事帰りつきました。

阪神淡路大震災後、ボクは神戸に何度か入りました。取材でも個人的にもです。地震直後の惨状はいまだに脳裏から離れません。1階部分だけぺしゃんこになったマンションの1階で潰れている何台もの車、道を覆うように倒れ掛かっている家屋、波をうつアスファルトの道路、倒壊した阪神高速道路の傍まで行きました。カタストロフの巨大さはこの世のモノとも思えませんでした。
奥さんの実家まで、どこからでしたか(西宮北口からだったかな)歩いていきました。あまり覚えていません。あの風景は忘れられないのですが、具体的な風景は忘れています。記憶にあるのは風景から受け取った驚愕と恐怖の感情と、それを呼びさます幾たりかの印象としての風景です。

東日本大震災。毎日のように津波の映像を見続けていました。当たり前ですが、驚愕はありましたが恐怖はありませんでした。そして一度も被災地に足を踏み入れたことはありません。誘われましたが断りました。なにかとても怖いのです。東日本大震災の惨状を見るのが怖いのではなく、阪神淡路大震災の惨状を思い出すのが怖いのです。

最近、台湾、インドネシア、ニュージーランドと地震が起こったのを記憶していますか?
ボクは予言者ではありませんが、なにかざわざわとします。実は、日本のいずれの大震災の前後にも、同じ地域で地震があったのを覚えていませんか?
この地域以外に、カムチャッカ、アラスカ、そしてアメリカの西海岸で、同じ時期に大きな地震がありました。それがまだ起きていないと思っていたので、少し安心していたのですが、実はこれらの地域で、今年の初めに8000回を超える微細な地震が起きていたことを知り、足が震えました。

ひょっとすると、近いかな。日本を襲う大きな地震が近いかなと思う、今日この頃なんです。どこかは分かりません。でも年内に起きそうな気がします。
生き延びる準備だけは整えておいてください。お互い様に。


 
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東京「昭和な」百物語<その11>あれ、とかこれの2・遊び道具

2016-03-09 00:13:33 | 東京「昭和な」百物語
前回、電話のことを書いた。まったく隔世の感がある。

同じ程度にその変化の大きさに衝撃を受けるのが、遊び道具だ。

昭和30年代。日本中を席巻した遊び道具が、3つあった。

それは、およそすべての日本人が、なんとか手に入れたいと思った類のものだった。それほど大流行した。

まず流行ったのは、ホッピング。昭和32年のことだった。一本足のポゴスティックとも呼ばれる遊び道具に似た、バネを仕込んでより高く飛び上れる、オモチャというより、運動道具だった。今でも、売られていて高度な技を見せてくれる若者もいるようだが、当時はみんな道路でただただピョンピョン飛んでいた。だが、なぜか急激に下火になった。

その理由は「胃下垂になるから」というものだった。首をかしげたくなるような理由だった。

次はフラフープ。直径1メートルほどのプラスティック様の輪っかで、それを腰のあたりや首で回転させて遊ぶ。ただそれだけのものだったのだが、爆発的なブームになった。元々はアメリカからの輸入物だった。昭和33年のことだ。ボクは小学1年生ぐらいだったが、腰をうまく使いながら、いつまででも廻していられた。廻し続けられる少年少女は、モテた。

だが、あるときを境に一気に下火となった。なぜか? これは「腸捻転の原因」と言われ始めたからだ。

なんだか妙な理屈だらけで不思議な感じだ。

腸捻転はどうかわからないが、確かにやりすぎると腹回りが痛くなり、腹筋にも過度の負荷がかかった。そう考えれば、今でもフラフープが、ダイエット用品として頗る人気の理由が分かる。

次に大流行りしたのが、ダッコちゃんだ。これは昭和35年頃の流行だった。
真っ黒なビニール製の人形で、当時の言葉で「黒んぼ(黒人の蔑称のように受け取られている)」を模した、両腕が輪っかを作り、ちょうど二の腕辺りにコアラのように抱きつかせて歩く、これもただそれだけのオモチャだった。その姿かたちは、当時の人気児童書「ちびくろサンボ」(1980年代になってエキセントリックな反差別主義で、発売自粛というか発禁になってしまった)と重なって、なお人気だった。

夏の海岸などは、誰も彼もがダッコちゃんを腕に留めて闊歩していた。街中でも女の子の腕にはダッコちゃんがくっついていた。

一体どれほど売れたものかわからないが、現在のタカラトミーの前身、宝ビニールという会社が制作・販売し、大儲けしたという話は聞いたことがあった。

この3つの遊び道具が、昭和の3大オモチャ。考えてみれば、すべて遊んだ。そしてあっという間の下火にも、世間様と歩調を合わせた。

ただ、その遊び道具は、どれも外で体を使って遊ぶ道具だった。

いま、家の中でオンラインゲームなどで遊んでいる子どもたちの姿を見ていると、まさに隔世の感があり、どちらが良いのかなどと考えてもしまう。

外で遊び辛い時代ではある。実際にわけの分からない、それとわかる危ない人も多い。地域の高齢者が子どもに声をかけるだけで、変質者扱いされるような時代。それでも、やっぱり「外で遊ぶ方がよくね?」などとお節介なことを言いたくもなる。ただ、昭和30年代の遊びも、いま考えればそれ程おすすめでもない。

どちらかといえば、野原で蝶々を追い回し、小川でメダカ取りに興じて遊ぶ子どもが一番だと思うのだが、最近は野原も小川も、蝶々もメダカも何もない。

やんぬるかなという所。
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インターバル

2016-03-07 00:23:54 | こんなことを考えた
いつでも書けると思うと、いつまでたっても書けない。

こンなこと考えながら、一生涯を閉じるのは嫌だな。
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楽しい ありがとう 嬉しい 感謝します

2016-02-17 19:45:21 | こんなことを考えた
という、4つの言葉以外、要らなくねえか?

最近そんな気がしています。

以前はいまの政治や社会に一言くらい言ってもいいだろう、と思うこともありました。

でも今はそれほどありません。なにか言いたくなるのは人を傷つけることを生業にしているような、マスコミに対してぐらいでしょうか。

思うに、自分の世界の中での歴史は、よーく眺めまわすと、そんなに否定する要因がないのです。もちろん悪さも人を傷つけることもしてきています。でもそれとても、肯定的な今の自分を作る土台になっています。いまの自分は肯定できる自分です。日常の中で自分を肯定できれば嬉しいですよね? それ以上を話題にする必要はありませんよね?

昨日までの自分、一瞬前までの自分に、ありがとうと言い続けたい感覚があります。

そして今、素晴らしい仲間と仕事をしていること、喜び合える家族と共にあること、気の置けない友人と話し過ごす時のあることを、ありがたいと感じ、そうすることを嬉しいと思い、そうしたすべてを楽しく引き受け、感謝するしか思いつかないのです。

と、頗る前向きです。いや前向きではなく普通です。

不平や不満はどこかにあるのでしょうが、探す気になれません。忘れることにします。

そしてこれだけは確かなことですが、楽しい、ありがとう、嬉しい、感謝しますという4つの言葉を自分の意識・言葉の中心に据えると、生きるのが楽です!

そして楽はLuckにつながります。もちろんGood Luck!ですね!
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続「小保方さん」という、真実

2016-02-03 12:14:20 | まあまあ社会<的>な
こんな記事を見つけたので、リンクしておきます。2015年12月13日のものです。
小保方さん、踏ん張れ! 

    ↓

http://life-news.jp/?p=4102
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「小保方さん」という、真実

2016-02-02 01:24:38 | まあまあ社会<的>な
小保方さんが手記を出版したそうだ。

マスコミがバイアスのかかった斜め読みを紹介してくれているので、まだ買っていないのに読んだ気になっている。

そして、小保方さんはまたぞろ「マスコミにしてやられたな」という印象を持った。もっとはっきり言えば、また騙された。

そんな印象を持ってしまったものだから、買って読もうなどとは金輪際思わない。

小保方さんが書いたものなら、彼女の精神年齢は意味もなく高い。しかもおじさんの精神構造。話自体は小保方さんの言葉を援用しているのだろうが、書いているのは明らかに60歳過ぎのおじさんという印象が拭えない。

もし本当に小保方さんが書いたのなら、ごめんね。

なにしろ一貫して「言い訳のような」「自分の解説のような」文章がうまい具合に並ぶ。達者な筆致だ。

他の要素はほとんどない。これだけ飽きもせず自分を擁護し、誰かに責任転嫁する姿勢は「そうすることを決めて事に当たっている」プロのものだ。

そんなこんなで、小保方さんは「またしてやられて」しまったようだ。

小保方さんは全ての権利も存在意義も奪われ、放り棄てられた。今また、攻撃の材料を提供させられた。もう一度、弱り切った彼女を叩きのめすために。
マスコミは残酷だと思う。

同じことを今ではベッキーにもやっている。

誰か、徹底的にしゃぶりつくすための「スケープゴート」を、血眼になって探している。そのためには、人を騙すことも平気だ。

皆よく考えてみるがいい。他人のラインが平気でマスコミにリーク(いや、マスコミが盗用した?)されたと考えると、これほど怖いことはないと思わないか? 内容は問題ではない。監視されているのだよ? しかもやむを得ない国家権力の介入などではなく、男と女の痴話話だよ。

この構造は、甘利前大臣の事件にも当てはまる。

いい加減止めようよ、騙しは!

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東京「昭和な」百物語<その10> あれ、とかこれの1・電話

2016-01-24 22:16:27 | 東京「昭和な」百物語
昭和な「電話」という道具について。

もとより、今のようなパソコン・スマホなどという通信手段、情報収集手段などなかった。

画期的にも車載電話ができ、大きなお菓子箱をぶら下げるが如き携帯電話もできはしたが、昭和のそれは無骨で見るに堪えない、ましてや使うに忍びない代物だった。

ボクらにとっての通信手段は、手紙であり電報であり、電話だった。もっと言えば直接相手に会いに行くことだった。

ボクは昭和24年生まれだが、東京に引っ越してきて初めて我が家に電話が入ったのは、昭和33年だった。黒電話で、しかもダイヤルもなかった。どんなものかと言えば、一度外部から交換台(我が家は公団住宅だったから、電話番号は公団住宅宛の数回線だけだった。それが交換台に繋がり、交換手が800世帯ほどあった公団住宅の各部屋に繋ぐシステムだった)を通して我が家の端末電話に掛かってくるというもの。今でいえば、ホテルの各部屋にある内線電話のようなものだと思えばいい。

それが時を経ずして、昭和35年には各家庭ごとに黒電話が入った。それぞれに電話番号が割り振られたのだ。一気に電話が普及した時だった。いまでもその電話番号を覚えている。398-4☓☓☓。もちろん今ではかからない。

今の若者は「ダイヤル」と言う言葉も知らない。ヒチコックの名作「ダイヤルMを廻せ!」という映画タイトルの意味も分からないのだ。

公衆電話はあった。この公衆電話は、いまでは想像もつかない道具だった。当時いつ頃までだったか定かではないが、10円で日本全国、時間も無制限に繋がった。とにかくただただ便利さを共有するという意識だけだった。そのことで金儲けしようなどという発想は、電電公社にもほとんどなかったのではないか。

ちょうど昭和30〜40年代のテレビ番組で、アメリカのSF物のテレビ・シリーズが人気だった。「スタートレック」「宇宙家族ロビンソン」「空飛ぶ円盤UFO]「アウター・リミッツ(Out of limits)」「世にも不思議な物語」……。

そうした映像の中で、腕にはめた通信機器を使って遠方の仲間と連絡を取るというシーンがよく登場した。

あれから半世紀。あの当時の映像の中の通信機器を遙に凌駕する道具を、ボクたちはいま、使っている。

感慨深いことだ。
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