普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

師走

2016-12-04 02:12:30 | 普通な生活<的>な
先生でもないのに、電車に遅れそうなので、家から駅まで走ってしまいました。
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東京「昭和な」百物語<その18>雑誌②

2016-11-29 20:11:52 | 東京「昭和な」百物語
そう言えば、雑誌で思い出すのは「週刊新潮」だ。

我が家がまだ上板橋に住まっていた頃、我が家に「週刊新潮」という新しく創刊された週刊誌が送られてきていた。後に「黒い報告書」などの人気シリーズを生む週刊誌ブームの火付け役だった雑誌。

なんで送られてくるのかと思っていたが、後々父親が戦前に新潮文庫の編集者だったと知ることで、その謎は氷解した。父親にシンパシーを感じてくれる後輩編集者がまだいた時代だったのだ。

ボクはかなりませていたのか小学生時代に親に内緒でコッソリと「週刊新潮」を読んでいた記憶がある。コッソリとと言うのは、ちょっとエッチな内容もあったからだったが、ことにトップ記事は政界の内幕話や事件記事で面白かった。後にトップ屋と呼ばれる一人であった梶山季之などの原稿だったと知る。吉展ちゃん事件(営利誘拐殺人事件)やら、三鷹事件、帝銀事件などといった戦後の不可解な事件の真相を追い求める記事などがあったように記憶しているが、間違いかもしれない。

ボクはお芝居をやっていた関係なのか、なかなかに破天荒な生活を送っていた。そしてどちらかと言えば社会に対して斜に構えていたし、反体制的であろうと努めていた。

1970年代に、そんなボクが嵌った雑誌が幾つかあった。

「エロチカ」という高橋鐵や団鬼六などが関わっていた性風俗(今のような性風俗ではなく、むしろ民俗学的な切り口であり、文化的な印象すらある雑誌だった。澁澤龍彦につながる系譜も内に秘めていたように思う)を扱う雑誌だった。これは我が家の本棚を占領していた時期がしばらくの間あった。

他には「東京25時」などという突き抜けた雑誌もあった。まだまだ一種独特な雰囲気を持った雑誌があったが、正直タイトルが出てこない。

1970年代も終わりに近くなって創刊された「ムー」「トワイライト・ゾーン」なども面白かった。当時「ムー」が一歩リードしていた感があったが、へそ曲がりなボクは「トワイライト・ゾーン」の方が好きだった。

この雑誌タイトル「トワイライト・ゾーン」は、1960年代のアメリカ・テレビシリーズ「Twilight Zone」から取ったもので、テレビシリーズは「Outer Limits」と双璧の不思議系テレビシリーズだった。後のスカリー、モルダーの「Xファイル」の先駆けのような番組だった。日本の誇るウルトラマンを生んだ「ウルトラQ」の生みの親でもあるだろう。

マンガ雑誌にも「ガロ」という金字塔があったなぁ。
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東京「昭和な」百物語<その17> 雑誌①

2016-11-29 01:06:18 | 東京「昭和な」百物語
子どもの頃を思い出してみた。

上板橋に住んでいた頃、ボクはまだ未就学の幼稚園生で、父も母もまだボクにそれほどの手をかけはしなかった。例えば習い事や、勉強。

畢竟、姉には少女雑誌や少女漫画を買い与えたが、ボクにはまだ何も与えられなかった。

だから姉の手元に届く「少女クラブ」などを読んでいた。その中で最高に面白かったのは『リボンの騎士』だった。時々付録のような小冊子になっていた記憶がある。

やがてボクは両親の許しを得て「少年」を読み始める。横山光輝の『鉄人28号』、堀江卓の『矢車剣之助』、テレビとメディアミックスしていたような九里一平の『海底人8823』とかわくわくしながら読んでいた。もちろん『鉄腕アトム』もだ。

少年誌では「冒険王」「少年クラブ」などあったが、「少年」が最高峰だった。

内容に触れていると膨大になるので、雑誌名だけ取り上げることにする。

小学校4年生の時に画期的にも週刊少年漫画誌「少年マガジン」「少年サンデー」が創刊、第一号から読み始め、結局34歳まで欠かさず読んでいた。

ボクの子どもの頃の少年誌は、実は戦争色の濃いものだった。作品ではなく、巻頭の特集などは野球や相撲といったスポーツヒーローもの以外は、日本の戦艦や武器などの解説、どれほど日本の科学力が優れていたかといった内容のオンパレードだった。中にはドイツとの比較やら、ヒトラーを肯定的に紹介するような記事もあったように記憶している。宇宙ものも多かった。光子ロケットなどと言った宇宙航行のアイデアは、当時「少年マガジン」や「少年サンデー」ですでに取り上げられていたと思う。

やがて第二次性徴期を迎える頃になると、青年誌に移行するわけだが、ちょうどその間を埋める「ボーイズライフ」などという雑誌もあった。この雑誌はオカルト的な記事もあり、ボクらの脳髄を刺激してやまなかった。

青年誌では「平凡パンチ」「週刊プレイボーイ」と並んで「F6セブン」という雑誌があった。ちょうど「パンチ」と「プレイボーイ」の間に創刊された記憶がある。活字の多い雑誌だったがピンナップは結構刺激的だったかな?

(この項続く)
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例の、UFO画像を

2016-11-28 18:38:41 | 超常現象<的>な
このブログで過去にアップしたモノも、併せて再録します。

これはUFOなどではないという意見もあろうかと思いますが、すべてボクが撮ったものなので、ボクとしてはUFOだと思いたい。なにせそういうの好きだから。

というわけで、上から2010年12月27日目撃のUFO


真ん中は2013年11月3日目撃のUFO
一番下が2016年11月22日目撃のUFO

11月22日は動画で撮っているのですが、データが重いのでキャプチャーした3枚を載せます。時系列は左から右です。電信柱の上の部分に合わせてあります。


以上です。
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さや様へ

2016-11-26 01:38:11 | こんなことを考えた
10月15日に、6月20日に書いたボクの原稿に「返答」と題して原稿を書きましたが、その原稿に対して「さや」さんから「不完全燃焼である」との意味合いのコメントを頂いたので、再度パラレルワールドについて書くことにしました。

「さや」さんの言葉は、本当は「不完全燃焼である」などというものではなく、ボクと奥さん二人のパラレルワールドに対する説明を聞きたいとのことでしたので、あらあら書かせていただきます。

ボクと奥さんのパラレルワールド「論」は、実は基本的にそれほどの差異があるわけではありません。

仏教の「一念三千」という法門がベースにあります。

「さや」さんが、この「一念三千」という法門の意味をご存じないという前提で書きます。もしご存じなら失礼ぶっこきます。
 
仏の示した「一念三千」の意味(本当は仏の真意を天台大師が解き明かした)については、2012年の3月28日と30日の二度に分けて、このブログで少しだけ書いているので、参考にしてください。

さて、「一念三千」とは、文字通り「一瞬に想起する一念に、三千の認識、言葉を換えれば選択肢が生じる」ということです。言ってみればボクたちは一瞬一瞬毎に、必要な選択をし続けて生きているということになります。

考えてみればストレスの多いことこの上ないわけですが、仕方ありません。そうしなければボクの思考も意識も停止してしまう、言い換えれば生命としての「死」を迎えるからです。「一念三千」は、生きる意味を表わした法門でもあるのです。

さてその「一念三千」ですが、三千というのはもちろん仏法的にきちんと裏付けのある数字なのですが、それは置いておいて、数多のという意味合いで捉えていただけばいいと思います。人は一瞬に常に移ろう三千の世界を抱え、瞬間瞬間にその一つを選び取って生きている存在というわけです。

これはどういうことかといえば、いつでもシフトできる三千の世界、つまりパラレルな三千の世界を人は誰でも抱えているということです。別の世界に移ろうと思えば、いつでも移れるのです。

それは、人間は自分が選べば自分にとって最良の世界を選び取ることができるということです。

その方法は、例えば仏教的には修行などといいますが、そんなことではない。要は「深い思い」です。

自分にとって最良の世界を選ぶというのは、決して最高にハッピーな世界、というわけではないということに注意してください。

自分にとって最良、というのは自分が気持ちのいい世界であり、幸せとは限りません。ぐずぐずと他人に対して文句を言うことが大好きな人もいます。自分の生活に不満ばかりあることが好きな人もいます。人と別れることが実は楽しくて仕方ない人もいます。そうしようと思って人は自分の人生を選んでいるのです。

いまの自分の境遇、境涯は、ほとんどすべて自分が望んだ結果としての世界なのです。

傍から見るともの凄く不幸に見えても、平気な顔で生きている人もいます。それは自分が選んだ世界に納得しているからです。

最高の誰から見ても幸せな世界から、最低の誰が見ても不幸な世界まで、人は三千の世界を選びながら生きているのです。だから強い思いで「最高に幸せな世界、自分だけでなく人も幸せにしていける世界」を望めば、一瞬にしてそうなるのが、ボクたちの世界なのです。

それがパラレルワールドの本質だと、ボクは考えています。実は奥さんもそうです。ただ、異なるのは実践です。

奥さんは見事に実践の人で、パラレルワールドの中から最高に幸せな世界を選び取れる人です。ところがボクは理論的な理解はできていても実践が伴わない、と奥さんは感じているのです。実はボク自身もそう思ってしまっている節がある。

そこが異なります。最高に幸せな人生とはどんな人生なのだろうか? そう自問自答し続けようとボクは思っているわけです。そしてある日ふとそのことの意味が分かり、行動に移すことに何の抵抗もなくなり、ボクは別の世界にシフトする、そう思っています。

さやさん、こんな感じです。

もう少し補足すると、量子力学ではパラレルワールドの存在が証明されたそうです。簡単に言うと同一の量子が二カ所に存在できることを確認したということのようです。つまり一つの存在に少なくとも二つの世界があるということです。

こんな感じです。

最初にさやさんが「不完全燃焼」と言ったと書きましたが、それはパラレルな別の世界のボクの認識・受け取り方だったということです。ほんの少しのずれ。それこそがパラレルワールドなんだと思います。
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東京「昭和な」百物語<その16> 恋愛事情

2016-11-25 08:07:48 | 東京「昭和な」百物語
昭和の終わり頃になると、それまでの一般的な恋愛観は相当崩れていたような気がするが、実は、昭和の恋愛観を決定的に突き崩したのは、1960年代後半のヒッピームーブメントと学生運動だった。

ボクの子どもの頃は、それこそ女の子と手をつなぐことなど「夢のまた夢」とでも言うような、この世の出来事とは到底思えないことだった。

それが、高校くらいになると、あれよあれよと世相が変化した。それはベトナム戦争、ヒッピームーブメント、反戦という三題噺のような若者の関心事が目の前に突き付けられたことによるとボクは思う。簡単に言えば外国からの輸入モノが呼び水になった。

フリーセックスなどという刺激的な言葉が世の中に登場したのも、この頃だ。ことに北欧の自由奔放な若者の性が雑誌などで取り上げられたりし始めた。

それを後押ししたのは、もちろん映画やお芝居という若者のカルチャーだった。ピンク映画、日活ロマンポルノなどという映像が溢れ、海の向こうのオフオフブロードウェイでは「ヘアー」、「ジーザスクライスト・スーパースター」などといった完全なるサブカルチャーから生れた舞台が好評を博していた。

そうした表現はすべて自由な恋愛、自由な性を標榜していたように思う。

それでは、昭和の元々の恋愛観は、どんなものだったか?

調べて見ればわかる通り、日本は元々フリーセックスの国である。ただし、身分制度に縛られ、なおかつ婚姻は家同士で行うものという前提があった。その前提をわきまえれば、恋愛は自由だった。平安時代の妻問婚の名残りなのか、夜這いなどという風習も全国に偏在していた。

だが、戦争という出来事を前に、性に対する規制や観念的な忌避が生じた。すべては国家によってコントロールされた。

だから昭和の恋愛事情は、そもそもの出発点から国家のコントロール下にあるものという、歪んだものであったわけだ。

女性は何より「貞節が一番」的なコントロール。その割には「産めよ増やせよ」と夫婦の尻は叩いた。

日本人はそのコントロールから戦後もなかなか抜けられなかったが、前述の通り、外国からのフリーセックス等という呼水で、1960年代後半に一気にタガが外れた感がある。元に戻ったといったら言い過ぎか?

その受け皿というか、大義名分というか一つの役割を担ったのが「同棲」という概念だ。

それまではお見合いを通じて家単位での婚姻が一般的だったが、男女の個のつながりでプレ婚姻、お試し婚が広く認知された。上村一夫のマンガ「同棲時代」がその先鞭をつけた。

かくいうボクも1970年に同棲した。3年間だったが充実した日々だった。なにが? と聞かれても答える気はないが……。

とにもかくにも、昭和の後半は婚姻の形もお見合いは一気に廃れ、自由恋愛が当たり前の時代に移行した。手を握ることなどに躊躇している暇もないほど、事は先へ先へと進んだわけだ。

1970年頃には、ディスコなどに行くとトイレでその場しのぎのセックスに興じる男女を見かけることも普通だった。

恋愛を時代でひとくくりにするのは、無理があるなといま感じたが、もう遅いな。
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また、UFO

2016-11-24 01:07:04 | 超常現象<的>な
なぜかこの時期になると、UFOが現れます。

今回は11月22日の夕方。西北の空をゆっくりとした流れ星のように流れていきました。

今回はスマホで動画を撮りました。ただデータとして重いので、ここには載せません。

少し経ったら写真でもアップします。お好きな方はこうご期待。

ついでに、その時に前のものも掲載しておきます。

なぜかというと、どうも同じもののような気がして。

一応ご報告。
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クラス会

2016-11-22 13:30:14 | 極端な人々<的>な
それも小学校の。

以前にも、この歳になるまで続く小学校のクラス会は大したものだよな、というようなことを書きましたが、まったく同じ感慨を抱いております。

クラスの同級生はおよそ50人ほどいた団塊の世代ですが、幹事のS藤君の話を聞けば、連絡のつくクラスメートがまだ30人前後いて、出したハガキに30人弱が返事をくれたとのこと。

実際参加したのは20人弱でしたが、物凄い参加率だなと感心します。

担任のK澤先生は、お歳がお歳なので、前回で最後と言っていましたが、お近くまで行ってまたやりたいと、全員が賛同しておりました。

場所は麹町のイタリアン。同級生のご子息のお店「麹町カフェ」。これがまた良い店で土曜日のオフィス街にも拘らず、クラス会開催時間は4時間もあったのに、ずっと満席。料理も良いお味でした。普通にまた行きたいお店です。

さらに凄いのは、二次会に行こうと入ったのが「タリーズ」。もうお酒を飲もうということにはならないわけです。

素晴らしい一時でしたy。

幹事さん、ありがとう! 感謝です。

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なかなか

2016-11-21 17:59:14 | 普通な生活<的>な
なかなか仕事は見つからないものですね。それでも引き続き就職活動中です。

いろいろ書きたいことがありますが、お隣の韓国に関する日本のマスコミのアプローチは、確かに自分のことではない他人事ではありますが、なにかいけ好かない感じがあります。

あの出来事を韓流ドラマ、イベントであるかのように論じている。他の国からどう見えようが、当事者は苦しんでいるのだろうと推察します。その苦しみは、おそらく明日は我が身なのであり、丁寧に伝えるべきものだろうと思います。

朴槿恵大統領を選んだのは韓国国民であり、そのことに痛みを感じて退陣を要求しているということなのだろうと思うのですが、日本のマスコミの論調を見聞きする限り、まさにイベントの紹介。ちょっと切ない感じです。

今日ニュースを見ていたら、韓国の高校生が朴大統領の退陣を要求する傍から「われわれが主役だ」というような意味のことを言っていました。

それが何を意味するのか? 日本のマスコミは取り立ててそのことに触れもしませんでした。若い世代が自分たちの可能性を口にしているのでしょうが、ただ、それは違うかなと。高校生は主役にはなれないしなってはいけない。SNSの弊害としか映りませんでした。むしろ朴大統領擁護派の発言の方が、まともに思えました。

正直、海を隔てているとはいえ最隣国である韓国は、好き嫌いという感情論はありますが、いまの韓国に対しては冷静かつ沈着に判断、対応することが求められるのではないでしょうか?

ただ韓国の政治家、司法に携わる人々、当事者すべてから醸し出される「民度の低さ」には、あきれるばかりです。なにか、思い込みと自己主張だけが人々の体の向きを決めている。要は、自分が発言することで関わりの生まれてくるであろう人々への配慮や思いがどこにもない。一方的発言のオンパレードですね。 

朴大統領もこれまで一貫してそうした姿勢でした。

韓国は国際社会の中では、明らかに日本の盟友、同盟国であってほしい国です。このままでは、アメリカやフィリピンとは別の意味で、日本にとっては危機的な状況を招きかねない結果も想像できます。

どうにかならないものかな?

感情論的にはボクにとってはどうでもいいことなのだけれど、結構、いまの韓国、心配です。


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おーい、アメリカ!?

2016-11-12 23:33:09 | 極端な人々<的>な
反トランプ・デモがあちこちで行われているアメリカ。

木村太郎と、共和党の熱狂的トランプ支持者以外、ほとんど誰も予想すらしていなかったトランプ大統領の誕生。

今から考えてみれば、なるほどさもあらん的な納得の仕方はできる。

いくつかの要素の内、ボクがつくづく思うのは以下のこと。

大統領はエスタブリッシュメントの代表、あるいはエスタブリッシュメントそのものでなければならないという、勝手な思い込みが招いた結果だということ。

少しは頭が良さ気で、何か聞かれたら立て板に水、気の利いた答えが即座に口をついて出る。そんな人間にしか物事は任せられないと勝手に思い込んでいること。ことにメディアのそうした思い込みが顕著だった。

実際は、そういう奴は鼻持ちならない。もういい加減「俺」より「私」より優れている的なアピールにはうんざりだ、と労働者階層の白人たちは思っただろうが、実はそう思ったのはこれまで民主党支持者然としていたリベラル、高学歴、移民支持、寛容性の高さをもった連中も同様だった。WASPはもちろんのことだ。

クリントンが嫌われたのは、政策に瑕疵があるからでも不安を感じさせる要素があったからでもない。ただただ、鼻持ちならずうんざりさせられただけ。

ボクはクリントンが勝つと思っていた。だが、投票日の朝ふと「クリントンがなったら、アメリカはどこに向かうと言っていたのだっけ?」と思った。よく考えたら、そうした指針は何もなかった気がした。むしろ頭も悪い、金のことにしか頭の働かない、女好きのスケベおやじで、思ったことをつい口走ってしまうろくでもないトランプの言っているの方が、内容の良し悪しは別にして確実にこちら側に届いているという事実に思い至り「ひょっとするとトランプが勝つかも」と奥さんに言ったのだった。

アメリカは、抜けることのできないカオスに突入したように思う。

どう考えても、トランプの政治力は低次元で、国家を壟断するということになりそうな気がする。

だが民主国家アメリカは、まぎれもなくトランプを自分たちのやり方で選んだのだ。

はたから見ていると「アメリカ人の阿保さ加減にはつける薬はない」と思うのだが、そうも言っていられない。なにしろこれまでのアメリカは「世界の警察」「世界経済の牽引役」だったのだから、そのレベルに至らない大統領の誕生は、世界を混乱に陥れるしかない。

ISIS、アルカイーダ、ボコ・ハラム、タリバン……イスラム過激派は大喜びだろう。打てば何かが返ってきそうだから。テロのやりがいもあろうというもの。

どちらかといえば、アメリカ人をボクは好きだ。だが、つくづく阿保だと思う。その落とし前は、自分でつけるしかないのだが、おそらく周りには思いもかけない大迷惑をかける結果になるだろう。

アメリカの大統領選挙。

世界の何かが、変わった日だった。
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あちらこちらと経巡って、最後はゴールデン街

2016-10-23 02:27:11 | 普通な生活<的>な
今日は奥さんと二人で、あちらこちらと経巡りました。あちこちといっても、新宿のあちらこちら。

新宿はボクの青春の町だし、若い頃に奥さんと飲み歩いた町でもあります。

新宿三丁目の「HUB」でポテサラをつまみに少しだけビールを飲み、これからの日本の行く末を論じていたのですが、となりに30歳くらいの女性軍団がいて、やたらにでかい声で気勢を上げるもので、気分が削がれて早々に出て散歩。

そして奥さんが前から行きたかったという、花園神社傍のビルのB1階「酛」という日本酒専門のお店に行ってみることに。

なぜか、奥さんの故郷・灘の酒は一つもなく、ボクの故郷の島根の酒が4種類(一つも知らなかった)もあり、結構テンション上がりました。「出雲富士」という、相撲取りのような銘柄の酒が、悪くなかった。

そして、なんとなくいい気分で外に出ると、急に、その昔「はみ出し劇場」で外波山文明氏と一緒に東北・北海道を角付けして廻ったことを思い出し、ゴールデン街で「クラクラ」というバーを経営しているという話を聞いていたので、ちょっと寄ったりしてみました。

かわいらしい女性がカウンターの中にいましたが、外波山氏はおらず、残念ながらビールを一本だけ飲んで引き上げました。

ゴールデン街ですから、カウンターだけのお店でしたが、なんの帰りか数人の「おじさん」がビートルズやらモンキーズの話に興じていました。ドンピシャの世代感で、聞き耳が立ちました。

こういう感じは悪くないですね。

またいつか奥さんと、新宿を散歩してみたいなと思いましたが、果たしてそれは可能なことなのか? ひょっとすると、できない相談なのかもしれないと……実は「HUB」で論じていたのはそんな話でした。だから、ゴールデン街に行っちゃったのかもしれません。

ボクの故郷のすぐ隣りの鳥取県で大きな地震がありました。今年の5月に、もう故郷を訪ねることができなくなるのではと、強行軍で神戸から鳥取経由島根行きを敢行しましたが、実はこんなことを予見していたんですね。

大きな地震でしたが、それほど大きな被害はなかったようですが、友人が避難所生活を始めたことを知り、心のどこかが痛んでいます。ただ彼女のFBはやたらに明るく、そこだけは「いいね」したくなりました。

それにしても、新宿界隈を徘徊する楽しみに関して、この続きはいつ書けるのかなと。
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東京「昭和な」百物語<その15> 254円? 本当は240円!

2016-10-18 14:47:00 | 東京「昭和な」百物語
ボクが生まれた1949年には、戦後という言葉もリアルで、まだまだ労働の現場も混乱し、大の大人も仕事にありつけなかったらしい。

就職ができたのはエリート、手に職を持った人間の類で、復員してきた一般労働者はその日暮らしを余儀なくされていた。

そこで東京都が打ち出した施策が、職業安定所の支払う日雇い労働者への日給の定額化だった。その額は240円。当時は今のような百円硬貨はなく、百円札2枚と十円札4枚が支給された。

つまり百円が2個に十円が4個。縮めてニコヨンというわけだ。このニコヨンという言葉は結構長く使われていて、ボクが物心つく頃にも、日雇い労働者の別称として言葉としては生きていた。同じころ、タコ部屋という言葉もよく聞いた。

ただ就学年齢に達する頃のボクは、ニコヨン=254と勝手に解釈していて「たったの254円で働くのか!?」と自分の将来に暗澹たる思いを抱いていた。
それが百円2枚と十円4枚と知ったのは、20歳を過ぎてだいぶ大人になってからだ。

当時はニコヨンという言葉はどちらかというと使われ始めた頃より、だいぶ侮蔑的なニュアンスが与えられ、ドヤ街と呼ばれた簡易宿泊所の集まる地域(ドヤは宿をひっくり返した言葉だ)で暮らす日雇労働者に対する蔑称となっていた。

1970年頃はまだ三大ドヤ街と呼ばれた、関西の釜ヶ崎(いまの西成あいりん地区)、横浜の寿町、そして東京南千住の山谷が普通に存在し、当時の学生運動・労働運動で政治犯的扱いを受けた者が逃げ込み紛れる場所でもあった。

高度経済成長の陰で、多くの日雇い労働者がこのドヤ街で生活していた。

それでもいまではドヤ街も、外国のバッグパッカーのための安宿の提供などで、かなりその存在理由も変化している。

いまでもやっているか未確認だが、西成の飲み屋でジャズコンサートが開かれているという、ちょっとにんまりするようなニュースに接したこともある。

それにしても。

なにやらいまの社会の労働の質が、昭和のニコヨンという言葉を使っていた時代相と、妙に似ているような印象をボクは持っている。

ブラック企業やら派遣などという言葉にも、ニコヨンと似たようなニュアンスを感じる。

労働という尊い行為が、一部の金持ち連中を太らせるだけ太らせているという事実にはうんざりするが、ニコヨンなどという言葉が使われる世の中には戻らないようにと願うだけだ。


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東京「昭和な」百物語<その14>閑話休題「2.26事件」

2016-10-16 18:34:10 | 東京「昭和な」百物語
いまや2.26事件など、歴史の中の一事件としてすら、覚えていない人の方が多いのだろう。

昭和11年の出来事で、立派な昭和の一事件。もちろんボクは生まれてはいないけれど、よく考えたらボクの生まれる「たった」13年前の出来事だということに、改めて驚くわけだ。

ざっくりいうと、所謂戦前の皇道派と統制派の主導権争い(本当はそれほどの争いをしていたわけではなく、軍主導の皇道派に対するアンチテーゼが統制派の実態のような……)の果てに、北一輝や西田税等の民間煽動家にたきつけられた形で、皇道派青年将校が企てたクーデターが2.26事件だが、(このあたりの理解とニュアンスはそれぞれに異なるだろうが……)映画やドラマで再現されることも、今の世相下では最早ありえないといってもいいかもしれない。

そうした歴史に埋没しかけている一事件だが、僕には結構身近な歴史的案件で、時々ふと思い出すことがある。

何の前触れもなく思い出すのだが、今日もなぜか思い出した。

その理由は、以前にもどこかで書いたかもしれないが、ボクの母が2.26事件の時に間近にいたという事実による。

ボクの母は、旧姓を田中茂子といい、昭和11年当時勧銀でタイピストをしていた。後にタイピストとして海を渡り、ボルネオの陸軍前線基地で過ごすなどしたハイカラなおふくろだった。

その彼女が2.26事件当時のことを時々話してくれたのだ。

当日は雪が降っていたこと。出社するとなにやら勧銀も不穏な空気に包まれたこと。なにが起きたかわからないまま、仕事にならず、当時家族と住んでいた中野まで雪の中を歩いて帰ったことなどを聞かされた。途中多くの将校が行きかう姿を見たらしい。

当時の勧銀がどこにあったかは聞き漏らして定かでないが、大手町とか内幸町とかの辺りだったのではないだろうか。

2.26事件は、総理官邸、蔵相私邸、教育総監私邸、侍従長官邸などを中心とした10数カ所を舞台に1400名に上る皇道派青年将校が一斉に蹶起し要人の暗殺を謀ったもので、多くは午前6時前には決着がついていた。その後、新聞社などの報道機関を抑えにかかり、蹶起は一応の成功を収めたかに見えたが、頼みの天皇陛下は激怒し「賊軍」とみなした。

そして急速に事態は収束に向かい、29日には「討伐命令」が下り、クーデターは終焉した。

こうした歴史は、今や日本という国家においては全く意味のない歴史といっていいのかもしれない。軍部のクーデターなどという言葉を、リアルに受け止めることのできる日本人など、もはやほとんどいないだろう。だが日本は確かにそうした歴史を刻んだ国家ではある。

ここで2.26事件を取り上げる意味は皆無だ。ただ目の前に母の写真があって、急に母の話を思い出したに過ぎない。
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伊東昭義美術館

2016-10-15 04:42:02 | 心に残ったSomething<的>な
お題「美術館へは行きますか?」に参加中!
皆さんは、伊東昭義というアーティストを知っているだろうか?

おそらく知らない人がほとんどかもしれない。ただし、知る人は誰よりも知っていると思っているのではないか……。

世界のユネスコが、アーティストとして認めた伊東昭義。
2015年6月にはユネスコの本部で作品展が開催され、多くの人々が詰めかけた。
ユネスコが特別なわけではない。スミソニアン美術館が、イタリア・アリナリ国立写真美術館が、フランス・ポルトドレ水族館が……。
とにかく世界は伊東昭義を知っているばかりでなく、待望している。

その伊東昭義のフォトアート(単なる写真作品ではない。ばりばりに加工した写真ではさらにないのだ)を展示する伊東昭義美術館に行ってきた。目黒の大鳥神社の斜め前、ヤマハのほぼ真ん前にある3階建てのモダンな外観の美術館だ。

そして僕は、すっかりと伊東昭義の世界にはまってしまった。

美しい。とにかくその海の中の世界を切り取った作品群は、ただただ美しい。
そのビビッドと言うにはあまりにも美しい色彩が、目の前にあると、人は、と言うより僕は色を失う。ただ見つめるしかなくなる。

もとより海の底は無音の世界なのだが、突然頭の中で音が鳴り響く。はっきりとしたメロディーを奏でるわけではないのだが、リズムやハーモニーを感じるのだ。

なんなのだろうか?

地下1階の展示スペースには、大型の透過光作品が展示され、いやまして色彩があふれる。だが、その中に、大型の色彩を失ったかのような作品がある。「海底砂漠」と題されたその作品の前で、僕はしばし時も空間も忘れたように、立ち尽くした。

また来たいと心底思った。

残念ながら、伊東昭義作品をここでは著作権の関係もあり紹介はできない。
だから美術館のあらあらを書いておく。時間を作って観に行ってみてください。

【伊東昭義美術館】
〒153-0063 東京都目黒区目黒3丁目11番3号
(目黒駅から権之助坂を降りて、山手通りを超えた大鳥神社の斜め向かい)
☎03-6451-2123
営業時間 10:00~17:00(毎月休館)
HP http://www.ito-art.com/
入館料:大人800円 大・高生600円 中・小生・65歳以上400円

一度行ってみると良いと思います。特に子供さんと。
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6月20日の原稿への返答

2016-10-15 00:11:52 | 普通な人々<的>な
今日、奥さんと言い争った。

若いな、と思う。

要は、この世の実相とパラレルな世界観の認識の相違についての議論の果てのこと。

「の」ばかりが続く。申しわけない。

それはそれで……。

互いに聞く耳があればいいのだが、聞くより言いたいことの方が勝るのが一般的な議論。互いの主張は主張として、とはならない。

6月20日に「もう一度。僕の認知しない世界は存在しない」というタイトルで、概ね「~僕の知らない世界は、存在しない。この言葉には、二つの意味がある。一つは、僕が知りえない世界は存在しない世界も同然という意味であり、もう一つは僕はすべての世界を知っているという意味としても理解できる~」
というような内容だった。

これを思い出しながら、奥さんと話していたのだが、議論は決裂してしまった。

しかし……。

こんな話で熱くなれる夫婦って、嫌いじゃないなあ。


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