普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

電車の遅れるわけ

2017-06-21 00:21:33 | 気づいたこと
最近、とある印刷会社に詰め切りで、校正の仕事をしている。物販会社のカタログ(これが数千ページにも及ぶ分冊で、いつ果てるとも知れぬ作業)を校正するのだが、8時頃に出かけて10時頃に着くという、多分我が家から都内で最も遠隔地にある場所と言えなくもないところに出向いている。

その作業や、出かける距離や時間にはなんの文句もない。楽しく通い、果てのない作業も結構楽しんでいる。

だが、一つだけとても我慢ならないことがある。

通う道のりは、2度乗り換えて3路線を使うのだが、毎朝必ず遅れる。どこかの路線で必ず何か出来して遅れる。

ここでも一度電車が遅れることに文句を書いた記憶があるが、最近は当たり前のように遅れる。まるで遅れることを見越して出かけなさいね的な空気すら感じる。

日本の鉄道は、かつては時間通りに運行されることが当たり前だったが、今は違うらしい。そして毎朝聞かされる、遅延の理由がほとんど理解不能だ。

曰く。

・線路内に人が立ち入った
・線路内安全確認
・信号機故障
・車両故障
・車両点検
・混雑のため
・急病人発生
・客対応
・客同士のトラブル

酷いときには、雨天のためだの、朝間混雑だの、ホームからの客の転落だのと、本当に頭をかしげたくなる理由だらけだ。

このまま放っておくと、運転するのが怖いので遅れますなどと言い出しそうだ。

こうした理由の多くはおそらく符牒で、例えば「線路内への人の立ち入り」は「痴漢」のような別の意味がある気がする。

さらに、車掌がことに声高に理由をアナウンスするのが、客に問題があると思われる理由の場合。こんな時は、鬼の首を取ったように大きな声ではっきりと、「私らは悪くありませんが…お客さんが」的なニュアンスで理由を述べる。

電車が遅れることのすべてが悪いというのではない。マニュアルのテキストを読み上げているような理由説明にイラつくのだ。

正直、付き合いきれないなと思う。なぜなら、ボクらのような日雇い労働者と変わらない仕事をしている者は、一度の遅刻でクビになることだってあるのだ。

だから余計に、あの適当な理由にかこつけた遅延が、許せないのだよ。

だからと言ってどうにかなるものでもなさそうだがね。




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東京「昭和な」百物語<その28>音楽を聴く2

2017-06-15 22:43:08 | 東京「昭和な」百物語
ボクの稚拙な音楽体験の中でも、エポックメイキング(古!)な出来事はいくつもあった。

小学校の低学年の頃、第一回のレコード大賞曲、水原弘の「黒い花びら」を親戚の宴会で歌い大好評だった。

中学高校時代に、当時日本の若者の心をきっちりと虜にしていたアメリカのキャンパス・フォークの雄、キングストン・トリオのコピーバンドを演っていた。ローファーズ。大学生のバンドは、ニューフロンティアーズ、フロッギーズ、キャッスル&ゲイツ、ザ・リガニーズなどなど、後のグループサウンズなどに連なるバンドが幾つもあったけれど、中坊のバンド、高校生のバンドはボクらぐらいだった。地元では人気があった。

それからしばらくして、ボクは芝居の世界にのめり込んだが、その中で歌が大きなファクターになる芝居があった。日野原幼紀という作曲・アレンジャーが曲を作った。その芝居でボクはほとんどの歌を歌い、芝居を紡いだ。その芝居が縁で、レコードを出さないかという話になった。レコード会社は当時できたばかりのテレビ局傘下の〇〇レコード。その打ち合わせに何度か赤坂に出向いたが、突然プッツリと連絡がなくなった。潰れていた。

S-Ken(当時、ボクは「ただし」と呼んでいた)の結婚式で、アニマルズの「朝日の当たる家」をYAMAHAに連なる音楽関係者を前に熱唱した。好評だった。

編集者になって廣済堂で雑誌を作っていた時、川内康範先生が編集長になってこられた。その時に社員旅行があって、歌合戦のようなものが大宴会場で繰り広げられた。ボクは野坂昭如の「黒の舟歌」を歌った。そして康範先生から「グランプリ」を頂いた。そして「歌ってみるか」と言われたが断った。

すべては昭和という時代だからこその、ゆるさゆえに巻き起こった話の数々。

変な話、ある日突然歌手になるなんてことが、普通にあった時代だったのだよ。

まあボクは、なに一つ成就することはなかったけれどね!
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東京「昭和な」百物語<その27>音楽を聴く

2017-06-15 00:30:27 | 東京「昭和な」百物語
昭和を通して、音楽は、自分の意志で聴くものではなかった。

ことにボクが少年の頃は、ラジオから流れてくる音に耳を傾ける……。それが音楽を聴くということだった。

もちろん蓄音機を持っていた裕福な人たちもいたのだろうが、少なくともボクは、音楽はラジオから流れてくるものだと思っていた。

だから、誰がその音楽を選び、ラジオの電波に乗せるのかは、とても大事なことだった。新しい音を聴かせる奴、流行りの音ばかり聴かせる奴、意味を持った音楽を聴かせる奴、楽しきゃいいじゃんと音を聴かせる奴、そして気に入らない音ばかりを聴かせる奴と、さまざまな奴がいた。

彼らはいつの間にか、音楽のスペシャリストとしてDJと呼ばれたり、パーソナリティと呼ばれたり、はたまた音楽評論家などと呼ばれ始める。そしてそれが職業になりさえした。もともとはラジオ放送局の職員だったはずの人間が、プロとしてもてはやされたりもした。

音楽は、誰かにリードされて聴くものだった。だから、流行がありその流行は誰かが作ったモノだった。

それは音楽を伝える媒体がテレビに移ってもしばらくは同じだった。音楽番組も隆盛を極めた。

音楽が、誰のものでもない、ただ聴く個々の人々の営為であると捉えられ始めたのは、昭和も末の末、1980年代後半の事だった。

音源がレコードからCDに代わり、ウォークマンなどのパーソナルな再生機が誕生し、その傾向は一気に加速した。そして、音楽評論家も職業として廃れた。

聴かされる音楽から、主体的に聴く音楽へ。それが昭和から平成への大きな転換のキーワードだった。

そしてそこでは、音楽を聴く喜びの質さへも変化した。

簡単に言えば、選択肢が5つしかない中から自分に最もマッチした音源を、誰かに選んでもらって聴いていたのが、何十何百という中から、自分の好みでチョイスして聴くという姿勢に、大転換した。

だけど本当はね、昭和の頃の方が音楽は面白かった。平成に移行し自分で聴く音楽を選ぶようになって、逆に画一化が始まったといっても良い。その理由は、昭和の頃の評論家ほどには、誰も音楽に対して成熟もしていないし他の誰かに伝えられるほどにはエキスパートでもないということによる。単なる好き嫌いというレベルの音楽の選別は、音楽を育てはしない。

(この続きはまた…)
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奥さんの誕生日

2017-06-05 00:53:20 | 夫婦連載
6月4日は、奥さんの誕生日。マリリン・モンローと一緒。というよりアンジェリーナ・ジョリーと一緒といった方が、今どきは通りがいいかもしれない。いずれにしてもどちらも世界を席巻したハリウッド女優というのが良い!

以前にも書いたのだが、我が家の4人家族は、誕生日がほぼ一カ月に集約されていて、その初っ端が、奥さんの誕生日。時として面倒くさいので一緒に祝ってしまうなどということもあるのだが、今年は奥さんのためにボクが手料理でお持て成しということにした。

枝豆豆腐にはじまり、いんげんの胡麻味噌和え、タコのお造り、赤魚の粕漬焼き、口直しに豚の生姜焼き(要は娘・息子用)、卵焼き、そしてチェリーとアイスで締め。

なぜこんな献立になったかと言えば!

金曜日に息子君が母のために吟味して超絶にうまい日本酒と誕生日ケーキを買ってきてくれたのだ。

それに合わせた献立というわけ。

超絶にうまい酒が、こちら。

新潟県南魚沼塩沢の青木酒造謹製、新潟県産「越淡麗」100%の純米大吟醸酒「鶴齢」。



うまい。

というわけで、6月4日は幸せに過ぎていったのだった!

ちなみに、お嬢は6月26日で奥さんの父上と同じ誕生日。息子君は7月4日でアメリカ合衆国と同じ誕生日。ボクは7月12日で、中村珠緒さんと同じ誕生日! って……。

なんだかなぁ……。嬉しいような、そうでもないような……。
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ローファーズ! 中・高等学校時代のバンド!

2017-05-22 00:42:43 | 音楽にまつわる話<的>な
5月9日! もっと早く書こうと思っていたのに、時間がしっかりと過ぎてしまった。

およそ半世紀ぶりに、中・高等学校時代のバンド仲間と酒を飲んだ。

50年! 時はまさに「矢の如く」に飛び過ぎ去ったのだ! だが、会えば50年など昨日のことのようで、「じゃ、また明日練習な!」とでも言って別れた翌日に、会ったようで……。

柴山、内野、二人とも昔の儘で、まるで違和感がない。

楽しい酒だった。良い酒だった。

バンドの名前、忘れていた。ローファーズ。ROFER'S!

もう、当時としてはど真ん中の名前だ。キャンパス・フォークの雄、キングストン・トリオのコピー・バンドだったボクらは、縦ストライプのボタンダウンのシャツに、コッパン、それにローファーというアメリカの東部アイビーリーガーの学生のファッションまで、しっかりコピーしたもんだ。

このスタイルのバンドはたくさんいたが、中学生のバンドは、ボクらだけだった。

柴山が、その後も早稲田大学でバンド活動(二代目のザ・リガニーズ!)を続けていて、彼の仲間が作ったHPに、当時のボクらのステージ写真(Copyright 2003 RAMBLERS)があったので、ちょっと拝借。載せます。


ボクは右端。ネアンデルタール人のようだ。みんなイイ男だな。

どうやら、地元杉並公会堂で自主イベントをやったみたいだ。

高校時代の写真みたいだけれど、なんだか懐かしくて、不細工なのも許せるな。

それにしても! 50年は凄いな。

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東京「昭和な」百物語<その26>唄

2017-05-15 00:55:41 | 東京「昭和な」百物語
子どもの頃、まだ松江で暮らしていた頃だから、4歳前の話。

その頃はまだ、ラジオを聞くこともままならなかった。戦後10年も経ておらず、米穀通帳などがまだ存在し、お米は配給だった頃だから。父親は島根新聞(いまの山陰中央新報)の編集局長というそこそこの仕事をしていたが、貧乏だった。母はモダンな人だったけれど、普段は着物を着ていたような、まだ西洋文化も日本の隅々には浸透し切っていない、そんな頃。

ボクはどうしたわけか、いまでも童謡や唱歌の類をほとんど覚えている(曲の一部は少なくとも歌える)のだが、どう考えてもこの時代に覚えている。

なぜならば、家族でボクが4歳の時に上京したのだが、上京後はラジオが常設され、耳に入ってくる音楽は少なくとも童謡でもなければ唱歌でもなかったから。

なぜ童謡、唱歌の類がボクの記憶に鮮明に残っているのか? 答えはいとも簡単で、母が歌って聞かせてくれたからだ。それ以外には思い至らない。

数十曲はあるだろう。ただし中には奇妙な言葉として記憶しているものもある。

例えば「赤い靴」。「良い爺さんに連れられて」と記憶していた。本当は「異人さんに連れられて」。こんな勘違いは山ほどある。

それと、戦後すぐの頃の日本は、まだまだ明治を引きずっていたという事実。

「一列ランパン破裂して 日露の戦争始まった さっさと逃げるは露西亜の兵 死んでも尽くすは日本の兵 五万の兵を引き連れて 六人残して皆殺し 七月八日の闘いに 哈爾濱までも攻め入って クロパトキンの首を取り 東郷大将万々歳」

こんな日露戦争を題材にした手毬歌(ちゃんと数え歌になっている)を覚えているから。

もっと遡る歌もあった。

「あんた方どこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 仙波さ 仙波山には 狸がおってさ それを猟師が 鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉で チョッとおっかぶせ」

手毬歌。これは幕末の薩長連合軍の兵隊と付近の子どもたちとのやり取り、と言われているそうだが、詳細はわからない。

同じ頃のじゃんけん数え唄に、こんなものもあった。

「一かけ 二かけ 三かけて 四かけて 五かけて 橋をかけ 橋の欄干手を腰に はるか向こうを眺むれば 十七八の姉さんが 片手に花持ち線香持ち 姉さん姉さんどこ行くの 私は九州・鹿児島の 西郷隆盛娘です 明治十年の戦役に 切腹なされた父上の お墓詣りに参ります お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます お墓の前には幽霊が ふうわりふわりと ジャンケンポン」

まだまだ多くの唄が、蘇ってくる。思い出したらその都度原稿にしてみようかな、と。
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東京「昭和な」百物語<その25>芸能(続き)

2017-05-07 01:12:41 | 東京「昭和な」百物語
というわけで、また嘘つきハンスになった。ボクの「明日」はおよそ普通の人の「2週間後」に相当するわけで……。そんなことは、まぁいいか!

日本の音楽業界が、まだやくざに仕切られていたという典型的なシーンは、美空ひばりと小林旭の結婚記者会見に見て取れる。その時の映像はおそらくどこのテレビ局にも資料として残っているだろうが、二人の脇にまるで後見人然として映っているのは、山口組の三代目・田岡一雄組長だ。それまでの美空ひばりの所属事務所は「神戸芸能社」。早い話が田岡組長が設立した美空ひばりのための芸能プロだった。そしてこの時の田岡組長は、その後に設立した「ひばりプロダクション」副社長の肩書だった。なによりひばりの父親代わりだったのである。

この当時の芸能関係の8割方は、やくざの息がかかっていて、それは可笑しなことでも不思議なことでもなかった。映画界も音楽会も、相撲界も、もっと言えば政財界も、やくざと関わるのは当たり前のことだった。なんとなれば、昭和30~40年代はまだ、社会の表と裏が誰の目にも見える形で存在していたからだ。表を支えるためには裏が必要と、誰もが知っていた時代だったのだ。

歴史を紐解くと、芸能そのものがやくざと密接な関わりがあった。有体に言えば、同じ穴の狢だった。もっと言えば被差別民の生業の一つだった。歌や芝居は「河原者」の生業であり、彼らの受け入れ側で庇護者であり搾取者であったのが、同じように無宿者、社会からのはみ出し者=やくざだったのだ。それは江戸期から続くwinwinの関係だった。

この図式も、昭和40年代後半に入ると変化し始める。やくざへの風当たりが強くなり、芸能にも「普通な人々」が参入し始める。その典型が中津川のフォークジャンボリーだった。おそらく世界で初めての大規模な野外コンサートである。あのウッドストックより1年も前に開催された。このコンサートは、労音(日共系音楽鑑賞団体)の制作メンバーが高石ともやなどと企画し始めたイベントだった。

芸能の興行が、徐々にノーマルな商業行為として成立してくる。その結果、やくざは表舞台から排除されることになった。いやいや、排除されるほどやわではない。表向きの顔、会社形態をきちん設えて、プロダクション経営などを引き続き行っていくようになった。

いまある芸能プロダクションがやくざの表向きの顔だなどと言っているわけではない。昭和という時代にそうしたプロセスを経て、いまの芸能界もあるのだというお話し。





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東京「昭和な」百物語<その24>芸能

2017-04-27 23:50:24 | 東京「昭和な」百物語
昭和は、いまある音楽のすべての要素が生まれ、育ち、完成し、打ち壊された時代。

所謂ポピュラー・ミュージックは、そのすべてが昭和に生まれ、完成した。歌謡も同様だ。

いまや日本のポピュラー・ミュージックは、それが面白かったり、なにか影響力を持っているかどうかは別問題としても、さまざまな形で世界へ進出し、世界のミュージックシーンのある重要な部分を占めるまでになった。

昭和40年代から50年代後半の日本は、それまでの進駐軍経由のジャズや、アメリカン・エンターテインメントの王道・スタンダード・ミュージックに代わり、ラジオ(FENな!)やテレビを媒介にした新しい音楽が日本に流れ込んだ。一つは、アメリカのアイビーリーガーを中心に人気となったアメリカン・カントリー&フォークから誕生したキャンパスフォーク、それと並行にベトナム戦争への抵抗を歌に託した反戦フォークがあり、その一方でヨーロッパからは「イングリッシュ・インベンション」と呼ばれた、ビートルズやストーンズを中心にしたアメリカン・オールド・ミュージックともいえるブルースやカントリーをルーツにしたイギリスのグループの、アメリカへの進出を契機とした世界的な音楽潮流が生まれ、日本でも数多く聞かれるようになった。

いやに回りくどい物言いになったが、音楽にとっては爆発的な時代だったから。

それぞれが相互に影響し合い、新しい音楽の萌芽を生み出し続けた時代だった。当然日本の音楽シーンも影響を受けたのだが、まだ日本には興行主(有体に言えばヤクザ)が存在し、音楽の利権を独占していた時代で、彼らが良しとする作られたミュージシャンだけが、表に出ていた時代。

細かな記述は避けるが、音楽がヤクザときっぱり縁を切るのは、昭和50年代後半以降の話になる(いまでも興行主的存在は居続けているけどね)。

(時間切れ。この続きは明日書きます)
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雀の子

2017-04-21 19:46:10 | 心に残ったSomething<的>な
今朝、仕事に出かけるのでバタバタと玄関を出て、ごみを出してマンションへの車の出入り口付近で、なにか違和感を感じ地面をよく見ると、雀の子がいました。

立っているのかうずくまっているのか、コロンと横になっているわけではないので生きているのだとは思いましたが、まったく動く気配がありません。

本来雀はちょこちょこと動き回るものですから、何かおかしいと思ってそっと近づいても、まったく動く気配がありません。

あまりにも可愛い姿に、遅刻しそうな塩梅だったのですが、ちょっとしゃがんで見入ってしまいました。そこは車の出入り口で、このままにしておくと確実に車に轢かれそうです。

そこで、そっと親指と人差し指で羽の付け根を挟むようにして持ち上げて、場所を移動することに。

ボクの記憶の中では、雀は籠のわなを仕掛けても一度たりとも捕まえることのできなかった生き物で、まさか手で触れ持ち上げることができるとは、思いもしませんでしたが、雀の子は暴れることもなく、少しだけボクの方に顔を向けただけで、されるがままにしていました。

写真に撮ろうかなと思いましたが、やめました。もしこの子が鳥インフルエンザだったり、車か何かにぶつかって動けなかったり、あるいは何らかの理由で死の瀬戸際だったりするかもしれない可能性を考えると、何か生命の尊厳を犯すような気にもなり、やめました。

気にはなるけれど、時間がありません。その時のボクにできるたった一つの事だと思い、そっと通路の端っこに移動して、元気でいるんだよと心で伝えながら、その場を離れました。

今帰宅しましたが、雀の子はいませんでした。

元気で飛び立った姿を、想像することにしました。
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記事が飛んだ。カモメも飛んだ。布団も吹っ飛んだ。

2017-04-17 00:12:22 | 気づいたこと
昨日書いた記事が、途中で消えてしまいました。結構長文でしたので落ち込みました。自動バックアップ機能は生きていたはずなんですがね……。

しかしながら、一度書いた文章というものは、これまではそこそこ忘れないものでしたが、今回はほぼほぼ忘れてしまいました。

内容は、風が吹けば桶屋が儲かる式のお話しでした。

どうかそれで想像しちゃってください。今回は、再度記事化の挑戦、できません。なぜなら割りに複雑な内容で、自分でも面白がってあちこち飛びまくっていたもので。

残念!
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3人の恩師

2017-04-10 01:05:53 | こんなことを考えた
ボクには3人の恩師がいます。いま、そのどなたとも音信がありません。恩師を裏切り続けるボクがいます。

高校の演劇部で顧問をしてくださっていた井関義久先生。以前このブログでも少し触れたことがありますが、桜美林大学の教授になられ、日本の古典芸能である狂言の世界では、大きな存在でもありました。高校卒業以来、一度お宅にお邪魔させていただきましたが、それ以来お手紙すらお出ししていません。

川内康範先生。廣済堂出版の「週刊時代」編集長としてボクを引き立ててくださいましたが、なんの恩に報いることもできないまま、亡くなられました。葬儀にも伺っていませんが、ボクはとても大きなものを頂いたというか、お預かりしたという思いで生きています。

そして3人目は、父・加藤千代三です。いまの若い人たちには「?」でしょうが、ボクには父というよりも、人として大きな存在です。なんの宣揚もできていません。

こういう存在を、恩師と呼べるのか否か、甚だ疑問ではありますが、齢68年を積み上げてきた加藤某にとっては、どう思われようと、恩師です。
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夢の言葉

2017-04-05 01:53:10 | 普通な人々<的>な
昨日、夢を見ました。

ボクはほとんど夢を見ません。というより、起きた瞬間に忘れているというのが正解かもしれません。

それが、昨日は夢を見たことをはっきり覚えていました。ただ、内容は皆目わかりません。それは覚えていません。

それならなぜ、夢を見たと断言できるのかといえば、たった一つの言葉だけ、鮮明に覚えている、というわけです。意味が分かりません。

「スプータスクー」
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東京「昭和な」百物語<その23>生きていたもの

2017-04-02 03:04:26 | 東京「昭和な」百物語
ボクの幼い頃、東京にもまだ小川というものが存在した。

一番記憶にあるのは、上板橋の我が家から子どもの足で30分ほども歩く距離にあった城北高校(?)に向かう道すがらに広がる、野原の真ん中を流れていた小川。よく網をもって魚や虫取りに行った。ボクが5~6歳頃の話だからかれこれ60年以上も前の話だ。
川縁をコンクリートで護岸工事などしていない、小川。それがどの川から流れ来るものか、あるいは流れ込んでいくものなのかなどは知る由もなかったが、清流で岸辺の流れの緩やかな辺りには、メダカが群れを成していたし、流れから取り残された水の溜まりにはアメンボが競って走り回っていた。ヤゴの姿だって見ることができたし、ゲンゴロウも泳ぎ回っていた。

一本の木の橋が両岸をつないでいた。それは見た目は同じ野原なのだが、まったく異なる世界をつなぐ一本の生命の橋のようにも感じられた。

両岸の春の野原は一面のレンゲソウだった。そこには少し早い時期のシジミに、モンシロチョウ、モンキチョウが続き、春を謳歌していた。晩夏になれば無数の赤とんぼが夕焼け空を埋め尽くした。

梅雨時の家の壁はナメクジが這いまわり、夜にはその跡が仄かに光っていた。夏には裸電球に鬱陶しいほどの虫たちが群がっていた。その中には驚くほど美しい色彩を持った玉虫がいたし、巨大なスズメガもいた。

明け方の空には郭公の鳴き声が響き、軒下には毎年燕が巣を作った。

一体全体どのタイミングですべてが搔き消えてしまったのだろう。

ボクが少し大きくなり、興味の先がそうした生きものたちではなくなったということもあるだろうが、それにしてもあまりにも急激に生命の数々を見失ってしまった気がする。

昭和という時代は、そうした生き物たちを失っていくことに、なんの痛みも感じない時代の始まりを予感させる幕開けの時だったかもしれない。その原因の多くは農薬であり、環境汚染に違いなかったのだが、そうしたことに、大人でさえ気づかなかった。

もうどれ一つも取り返すことはできない生命。いま、そんな生命の息吹があちこちにあったことなど少しも知らない子どもたち(いや彼らの親世代の大人たちも知らないのだろう)が、この世界のなにかを作っている。

少し、不気味だ。

小川という概念もすでに失われている。水辺は危ない場所で、人がコントロールしているつもりの、コンクリートで固めた川岸が当たり前になっている。そこに昭和の昔ほどには生命など存在しない。

生きていたものたち……多くの生命の生きる舞台となった流れや野原も共に、昭和の頃には確かに生きていた。そして、気づけばそうした舞台もまた幕を下ろし、生命を育むこともできなくなっている。

生あるものは、変化し滅するとわかっているけれど、なお惜しい、昭和の頃の生あるものたちの、生命の営み。
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迷走、妄想、寒そう……韓国

2017-04-01 02:19:28 | 極端な人々<的>な
韓国は、踏まんで良い虎の尾を踏んだのではないか?

朴槿恵前大統領を罷免し、その上逮捕までした。

これまでにも全斗煥、盧泰愚といった大統領経験者が、辞めた途端に逮捕され犯罪者になってきた国だ。

もっと言えば、傍から見ればお馬鹿に見えるけれど、なんだか国のために頑張ってるように見えた大統領経験者、廬武鉉が自殺せざるを得ないような国だ。

そしてそのことに、国民が痛みを感じていないという、まったくもって不思議なお国柄だ。

そしてさらに、そうした過去の歴史を忘れたかのように、朴槿恵氏を逮捕し血祭りにあげようとしている。彼女がまともな神経を持っている女性であったら、おそらく逮捕された上、自殺せざるを得ない深みに追い込まれるような気がしてならない。

逮捕され自殺する初の大統領経験者ということになるのかもしれない。

問題は、民度の低さだ。韓国は民主主義国家でも何でもない。似非民主主義国家だ。気が付けば、北の似非社会主義国家と、似非同士の良い勝負をしているとしか思えない。

他の人の言葉に耳を傾けるという度量と、人を許すという人間としての器量、寛容の心がまったくない。

ボクは決して韓国が嫌いではなかったのだが、いま嫌いになり始めている。

踏まんで良い虎の尾とは、八門遁甲で言えば北東の鬼門を開けて逃げ場を作るという策を施すこともなく、囲い込んで徹底的にいたぶるしかできない、要は人の悲しみを助長し、恨みを生むことしかできない、無能で無策の、発展性も何もない空漠とした国家であることを世界に示した事を指す。そういう理解のされ方しかしなくなるということだ。

おそらくそんなこと、分かっていないのだろうな。きっと誰かが苦言を呈し助言したとしても、聞く耳はないのだろうな。

こんなこと書きたくないけど、つい書いてしまう。悪い癖だな。

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450000PV Over

2017-04-01 02:03:35 | 普通な生活<的>な
先ほど、このブログを訪れてくださる皆さんが眺めてくれた記事の総数(とは限らないか…)が45万を超えていました。

すごい数です。ありがとうございます。

そのお礼にといっては何ですが、さらに目標を高みに設定することにしました。

死ぬまでに200万PV、です。

あと155万もあるぞと言われればその通りですが、これまでのおよそ3倍強頑張れば良いわけです。

これまでに6年半を費やしてきましたから、およそあと20年。

結果僕は88歳の米寿、善き歳を迎えている計算になります。

それは2037年。巷で2036年から来た未来人という方が話題になっていましたが、そこを超えるわけですね。

その歳までは、物が考えられ、書けるようでありたいという思いも込めて……。
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