普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その番外編>クラシックという喫茶店

2016-07-19 21:14:32 | 東京「昭和な」百物語
 その昔、中野に「クラシック」という名曲喫茶があった。ブロードウェイに入る手前を左に入った左手にあった。
 1930年創業のその店は、そう、まるで絵に描いたような絵描きスタイルの、モダンな感じのオーナーが切り盛りしていた。当時既に相当のお歳だった。確かお名前は「美作」さんといった。おそらく岡山出身なのだろうと思っていたが、聞き損なった。
 古びた(アンティークと言った方が良いのだろうか?)椅子とテーブルが並んで、いかにも「クラシック」と言ったイメージ通りの内装だった。
 1970年代初頭は、メニューは紅茶とコーヒーと、ミルクだったかジュースだったか忘れたが、いずれにしても3品だけで、一品100円以下、80円くらいだったような覚えがある。なぜか食券と言うか、丸いプラスティックの札を渡されるのだが、それを手元においておくのはほんの数分で、何のための儀式なのか不思議に思い続けていた。
 そして、その100円ほどのコーヒーか紅茶かミルクを後生大事にチビチビとすすりながら、本を読んだり原稿を書いたり、客の大半は、短くともおよそ半日はそこで過ごした。紅茶は独特で、行平の鍋で茶葉を煮立てて出したもの。だから渋いほどに濃い紅茶だった。それでもなぜか紅茶を頼む人が多かった。
 いまにもくずれそうな階段で二階に上がり、一階を見下ろすことのできる端っこの席に座るのが常だった。ただその席は、寄りかかるとグラリと下に落ちそうなほど不安定な手摺で、いつも緊張しながら座っていた。
 名前の通り、クラシックの名曲が一日中かかっていた。その店ではマーラーの「四季」を聴くのが好きだった。
 聞くところによると、「クラシック」は2005年まで続いていたらしい。不覚にも1990年代で終わったに違いないと、勝手に思い込んでいた。80年代90年代は一番仕事の忙しかった時期で、まったく行くことがなかった。だから、通い詰めた70年代前半までの「クラシック」しか知らない。
 だが、クラシックの名曲はほとんどここで聴いた。なぜかワグナーもよくリクエストした。モーツァルトやベートーベン、ショパンなどはほとんど聴かなかった。そういう時代だったのだ。店の雰囲気が、大仰な曲に良く合った。
 思えば、こうして思い出を書ける喫茶店があることなど、今の若い人には理解できできるだろうか?
 なぜ、わざわざ喫茶店などに出向いて音楽を聴いたのか?
 昔はただただ貧しかったのだ。オーディオを買うお金などなかった。そんなものは社会的ステイタスを獲得した後に手に入れるものだった。高価だったから。その代わり、喫茶店などがオーディオ機材を揃え、レコードもかなりコレクションして、良い音で客に聴かせてくれた。
 昭和。音楽との接点は、ラジオと、そこにしかなかったのだ。
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

度を越したインターバル

2016-07-04 00:47:53 | 普通な生活<的>な
お久しぶりです。

最近は、本当に原稿のインターバルが開きます。

6月には、書きたいことは山ほどあったにもかかわらず、たった1日しか書いていません。

怠けているわけではないのですが、書けません。

なにか書くに至らない理由が、僕の肉体・精神の中に巣くっているようです。

端的に言うと、疲労感みたいなものなのかもしれません。

少しあれやこれやを試みて、再びせめて週1くらいの更新をしていきたいと思います。

その節は、またよろしくお願いします。

それは、明日のことかもしれません。それはそれでまた、よろしくお願いします。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

もう一度。僕の認知しない世界は存在しない

2016-06-20 23:33:50 | こんなことを考えた
有体に言うと、僕の知らない世界は、存在しない。

この言葉には、二つの意味がある。

一つは、僕が知りえない世界は存在しない世界も同然という意味であり、もう一つは僕はすべての世界を知っているという意味としても理解できる。

同じ言葉なのに、まるで正反対の意味を持つ言葉になるな。

一つ前の原稿は、当然「僕が知りえない世界は存在しない世界も同然」という意味合いで書いている。知らなければないのと一緒ということ。

こういう言葉の遊びのような認識の窓口、理解のとば口は、人を惑わすね。そして、言葉の曖昧さは、人間の認識の曖昧さとほぼ同義で……。

誤解を恐れると、何も書けなくなるのだが、ことその点に関しては僕は恐れがない。

どう理解してもらっても構わない。

なにせ、誰かに説教するつもりもないし、何かをわからせようとも思わない。分かって欲しいとも思わない。一つだけ書く意味があるとすれば、共鳴を呼び覚ます音叉のようでありたいとは思う。

それは意識の問題で、誰かの意識に僕の中のなにかが呼び覚まされたいとも思うし、響きたい。同様に、自分が発したことが、どこかで誰かを震わせていたら面白いなとも思うし、そうあって欲しいとも思う。

だがそれは、誰かを説き伏せたり、納得させたいという営為とは違う。

もっというと、まったく知らない世界で、僕が発した事柄が、誰かを震わせていて欲しいとは思う。

だから、こうして誰が読むのかまったく知りえないブログで、僕は言葉を綴っているのだ。

と、小難しいなあ……。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

世界は僕の「点」なのだ……なんて

2016-06-20 19:08:03 | こんなことを考えた
端的に言えば、僕が認知していない世界は存在しない。

だが、認知・認識のプロセスが実際の体験で得たものでなくとも、世界は存在し得る。
ただし歪んだ形で。
なぜなら、経験したもの以外は想像や思い込みで不足部分や死角部分を補うのであって、歪まざるを得ない。

ただし、実際に体験したところで歪みはあり続ける。
なぜなら想定できる世界が1000の構成要素でできていたとするなら、体験というプロセスではその内の100も獲得などできない。すべてを獲得などできないのだ。
そういう意味では、例えば読書であったり映像で観たりという実体験・経験以外の疑似体験の方が、獲得できるファクターは、断片的だが、多いのだ。

この、断片的という言葉が実は、世界の相貌の実相なのだ。

本当なら体験というプロセスはアナログであり、すべてが連続している。途切れるところがない。線あるいは多少の面で認識されるのだ。一方の疑似体験は、デジタル的だ。
端的に言えば、断片の連なりだ。

ところが、体験という線での連なりも、大きな視点から見れば断片化された、線の集合体としての点でしかない。
どういうことかと言えば、より高次の視点から眺めれば、様ざまなファクターが複雑に積み重なった世界と雖も、点でしかないのだ。細胞核の中のDNAの二重螺旋のようなものなのだ。
世界を認識する方法は、アナログか、デジタルかという二つに集約される。

実は世界の認識の方法は、パラレルな次々と生まれる点が描き出す重層する世界として認識されていく。
ある意味、フラクタルなのだ。ここまでくると点で描かれた世界なのか、線で結ばれた世界なのかなどは、認識の埒外になる。要は世界は点なのだ。

仏教の数の概念に登場する、恒河沙、つまりガンジス川の砂粒の数、あるいは塵点劫という塵芥の数、言ってみれば点の世界こそが、世界の実相なのだ。
その点の原点・原風景は、結局自分でしかない。
だから、自分の世界は具体的に見えようが想像の産物に見えようが、自分が形づくるものでしかありえないのだ。言い換えれば誰にも手伝ってもらえない世界を創造しているのだ。
要はどんなプロセスであろうが、体験であろうが、責任を自分で負えるのだ。
はっきりさせておくが「自分でしか負えない」のではなく、「自分で負える」のだ。
それは、すべてを変えられることを示している。望み通りに世界を創れることを示している。
逆に言えば、良くも悪くも自分が望んだ世界にいま生きているということなのだ。

世界は、望んだようにしかそこにない。
ただし、望むということの意味は「そう思う」ということではない。
時々書くが、仏教的な六識を越えた、末那識、阿頼耶識、阿摩羅識の領域での生命の渇望なのだ。
その領域で、世界の無数の人々の無数の経験・疑似体験としての点は、共鳴し通奏低音を奏でる。
そして世界は、1人の思いがすべてを変えることのできる可能性をもったものとしてあるのだ。
もっと言えば、一番最初に書いた通り。

僕が認知していない世界は、存在しないのだ。

別の言い方をすれば、世界は僕が認知した通りに存在するのだ。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

小保方さん、踏ん張れ!!

2016-05-28 15:39:23 | 極端な人々<的>な
いつも同じタイトルで恐縮ですが、こう言わずにいられない。

あまり政治向きのことと、社会的なことには言及すまいと思っているのですが、このスタップ細胞をめぐる人模様は、なにか言わずにいられないわけです。

ことに小保方さんに対するマスコミの「いじめ」にも似た対応が、あたかも正義でもあるかのようにマスコミが自己宣伝を繰り返し、洗脳される人々が普通にいることに、一種の恐怖を感じるわけです。

瀬戸内寂聴さんが「婦人公論」で小保方さんと対談をされましたが、この時の他のマスコミの論調に、開いた口が塞がりませんでした。

ことにネットマスゴミですね。彼らにとっては、小保方さんの対談当日のファッションが問題で、白を基調とした小保方さんのファッションが「純潔」を表象するものでそぐわない的な論調。

とことんバカとしか思えませんでした。

勝手な「白」という色の解釈と、こじつけのような心理学者の解説は、もはや笑い話にもならず、ひょっとしてそれを信じる人がいるかもしれないと思わずにいられない、僕自身の不用意なロクでもなさと、まるで自分だけは常に正義だと思い込んでいる哀れなライターの顔を想像するだに不愉快な気分になるという、いまひとつよく分からないカオスに落ち込んでいくという残念な結果もまた、バカバカしいものでした。……なにを書いているかわからなくなりました。

どうやら、先の本は自分で書いたような話になっていますが、僕にはやはりそうは思えない。彼女の思いの幾許かはきちんと書かれているのでしょうが、彼女が書いたとは思えない。彼女が対談で言っているように、彼女は精神的に弱り切っていたようですから。

どちらでもいいのです。真実であれば。

ナイナイの岡村隆史さんが、ラジオで小保方さんのことに触れ、自分の経験から病気の間は「何かを書く気力はなかった」というようなことを言っていました。

そう思います。

誰が書いたなどは、どうでもいいことで。

ただ、小保方踏ん張れ! と、変わらぬエールを送りたいなと。

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

ある暇は お孫に会いに 軽井沢

2016-05-28 15:16:39 | 普通な人々<的>な
暇があって、先方の都合がつけば、車を駆って軽井沢です。

半年ぶりくらいのお孫クンは、すっかり背も伸び、お兄ちゃんになっていました。

ちょっと、久しぶりすぎて、ハンセツでした。

? 半分切ないという意味ですよ。半分は大喜び、歓喜ですが……。

ハンカンハンセツ、です。

でも、ハンカンの方が圧倒的ですがね。

子どもの成長は、思う以上に早いもので、月単位だと追いつけないほどです。

もう少し頻繁に会えたらいいのになと、思う今日この頃。

です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ご無沙汰しました

2016-05-07 19:45:00 | 普通な人々<的>な
今年のGWは、なかなかに緊張の連続でありました。

車で1600㎞を走破しました。何年か前にもほぼ同じ距離を走りましたが、今年はさすがに一人での運転はきついものがあり、半分は息子君がしてくれました。

奥さんの84歳になるお母さんに会いに神戸へ。お元気そうで安心しつつ、その足で鳥取経由、ボクの生まれ故郷・島根に。

あれこれと神戸でも島根でもやることはありましたが、ひょっとすればもう二度と足を向けることができないかもしれない、奥さんとボクの故郷の風景を瞼に焼き付けに行った、そんな感じです。

もちろん奥さんの故郷・神戸は、母親はじめ親戚兄弟もいて、風景だけではない人の温もりのある故郷ですが、ボクの故郷はボクの郷愁の中にしかありません。それでも、自分の生家跡を訪ねたりもしました。泣けました。

その話はまた別立てで……。

とにかく、行っておかなければいけないという衝動にも似た思いが奥さん共々にあって、無理を承知の強行軍でしたが、これを旅というのであれば、非常に充実した、楽しい旅でした。

無事、事なきを得て(同じことだ!)帰京いたしました。

また、よろしくお願いします。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

熊本に

2016-04-24 01:23:47 | 普通な人々<的>な
何も言うまいと思っていたのだけれど……。

熊本には思い出がある。

阿蘇の五岳の雄大な眺めは、とても日本のものとは思えない景色だった。中岳は噴煙を上げていて、大地が生きていることを教えてくれた。

博多のラーメンとは違った、独特の熊本ラーメンもうまかった。

カルデラの中にある街を車で通り過ぎたときに、そばの栽培が盛んになっているという話も聞いた。

もう30年も前のことだが、まるで昨日のことのように思い出す。

なにか妙に懐かしい印象を持った記憶がある。

よかところだった。

手毬歌を思い出した。

「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ 船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと隠せ(「おっかぶせ」と覚えているが)……」

もう一つ思い出した。五木の子守歌

「おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと(「ど」と覚えているが……) 盆が早よ来りゃ 早よもどる……」

幼い頃に母が歌ってくれたのを、空で覚えた。いまでも歌える。

熊本の歌は、まだあった記憶がある。「おてもやん」。

こんな歌を思い出し、通りすがった風景を思い出すうち、熊本は、決してなににも負けないだろうと思った。もちろん地震になんぞ負けたりはしないだろうよ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

しんねりむっつり

2016-04-22 00:14:27 | こんなことを考えた
面白い言葉だよね。

結構ニュアンスも意味合いも、マイナスのイメージが強い言葉だけれど、意外と好きです。

一般的には「ネクラ」とか「態度・性質などが陰気で、心に思うことをはっきりと言わないさま」という意味だそうですが……。

なんとなく、もっと痴れっとした感じがしませんか?

どちらかというと、暗くはないニュアンス。

しんねりだけだと「ねばっこい感じ」「陰気な感じ」を指します。むっつりは「口数が少ない」とか「愛嬌がない」といった意味。

それが合わさると、「ネクラ」「陰気で根に持つ」みたいな印象になっていく。

なにか違うな? どうせそんなに使ってないんだから、もっと面白い言葉として再登録してあげようよ!?

たとえば「ちょっと引き気味?」「なにかこっそり面白いこと考えてるんだろう?」みたいな感じ?

なぜこんなこと書いているかといえば、今日あるところで、自分が話すべき時なのに、ちょっと言葉が出てこなくて、でも腹の中では、なにか結構クリアに自分のことが分かっているような瞬間があって、その時にふと心の中で「しんねりむっつり」という言葉が頭をもたげたのだよ。ひとり心の中でクスリと笑ってしまったのだった……。

そう! 上の文章の最後にくっつけた「……」これが、「しんねりむっつり」の正体なのだと思う!!

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

法華経の宇宙観 あれから1年5ヵ月 その②

2016-04-12 19:46:14 | ちょっと宗教<的>な
2014年11月18日に「法華経の宇宙観」という原稿を書いて、すぐに続きを書こうと思っていたのに、気がつけばあれから1年5ヵ月もたっているという、時間感覚の不埒さ……。

追いつきませんが、それがどうしたということで……。あの続きを。

あの時、二処三会ということを書きましたが、最近少し違う印象を持ち始めています。

二処三会って、本当は一処三会だったのだろうという認識。

つまり、映画館に入って椅子に座ってポップコーンをつまみ隣りの友達と喋っている内に、場内が暗くなって映画が始まり、映画が終わり場内に明りが戻る……みたいな。ボクはどこへも行っていないのですね。

ただ、そこに集ったあらゆる生あるものが、同じ映画というイリュージョンを体験するわけで、そうでなければ成立しないことなのですね。そのイリュージョンを仏は見せてくれたということです。仏は名映画プロデューサーか⁉ ということですね。

もし一処三会であっても、法華経の価値は微動だにせず、むしろさらに深い認識へと誘われるわけです。

どういうことかと言えば、世界はあらゆる生あるもの一つひとつに、それぞれの世界として備わっているもので、生あるものの数だけ世界は存在しています。パラレルに。

その世界はそれぞれに独立しているのだけれど、横断的に共通項を持っているわけです。その共通項は幾つもあるのですが、代表的なものは「言葉」です。

ことに宗教的な概念は、体験という強力な認識の道具・方法はありますが、概ね言葉で共通認識を持ちます。

例えば先ほどの映画館の話ですが、映画という共通項、その共通項=イリュージョンを理解するための映像と言葉(音も含めて)、それがそれぞれ一つひとつの世界と映画の世界とをリンクさせます。

観ているイリュージョンはたった一つですが、リンク先ごとにその相貌を変えていきます。つまり理解が少しずつずれてくるわけです。ところがそれこそが仏の狙いなのですね。受け取る生命の相貌(境涯)にあった理解しかなされない。そのズレの隙間に仏は入り込み、一つ一つの生命と向き合っていくのです。

十界互具論はそこで発動します。

十界互具は、ただ一念三千の百界を説明するためにあるものではなく、今様に言えば「フラクタルな世界」の説明なのですね。無限に生滅する世界とその世界を支える一つひとつの生命の形です。常に変化しているけれど、生命という本質的な形を生み続ける源。百界どころの騒ぎではないのです。無限界です。

そうなんですね、生命は際限もなく生滅し、永遠なんです。

法華経は、その生命を説明している経典。最近ボクはそう思っています。成仏の記別とは、生命が永遠であることを知ることなのではないか。それだけなのではないか、です。

だから仏とは永遠の別名、法華経はその解説書、ボクは最近そう理解しています。

何度でも言いますが、これはボクの勝手な理解ですからね。なにかを下敷きに書いていることでもなく、あくまでボクの勝手な解釈。

それだけは、理解しておいてくださいね。

あ~! スッキリした。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

東京「昭和な」百物語<その12>あれ、とかこれの3 この際、省線のこと

2016-04-11 23:33:53 | 東京「昭和な」百物語
JR線のことを、その昔、昭和の20年代半ば頃までは「省線」と言いました。

大正期から、国家機関である鉄道省・運輸通信省・運輸省等の管轄下で営業された鉄路の総称だったようです。調べると昭和24年まで「省線」の名称が使われ、「国鉄(日本国有鉄)」に変更になりました。やがて1987(昭和62)年にはJRになりましたが、その前に一時「E電」などという呼称も存在しました。なんだか今風な感じですが、「良い電車」の後尾呂合わせだったような気がします。

省線という言い方は、ボクの両親や親戚の叔父・叔母などが使っていました。国鉄という言い方はなじめないと言っていたのを覚えています。ボクも省線と言っていた記憶があります。小学校の時、友達と省線、国鉄どちらが良いか論争をした記憶もあります。

省線ですが、ボクは山手線を指してそう言っていました。なぜでしょう? 理由は分かりません。コーヒー色をしたしかつめらしい外観の電車でした。乗り込むとすぐに今で言えばポールダンスに使うようなステンレス(?)製の棒がありました。座ることもできず吊革につかまることもできない人は、そこに掴まるわけですね。床は10㎝幅くらいの板材を貼り合わせてありました。そしていつも頭が痛くなるほど、ワックスの臭いがしていました。

座席は固いけれど、まるでビロードのような素材のカバーだったような気がします。昭和30年頃はまだ、対面式の座席の車両もあったのではなかったかという気がしますが、記憶違いかもしれません。

どんな満員電車でも、煙草の煙が充満していました。混雑時に煙草が禁じられたのは、1960年代に入ってからではないでしょうか。それでも普段は喫煙可でした。新幹線が禁煙車両を設けたのは70年代の半ばだったと思いますね。

子供の頃は、初乗り運賃、というより山手線一周どこまで行っても5円だったと思います。ボクが山手線を使うのは、代々木、のちに原宿に転居した母方の叔母の家に遊びに行くときでした。

中学に入学した頃からは、あちこち行きましたが……。

昭和30年代までは、子供を抱いた若い母親が、電車内で授乳するのも普通の光景でした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今日は、ブレヒト

2016-04-11 00:00:26 | 普通な生活<的>な
昨日は能楽だったが、今日はブレヒト。

東中野の演劇集団「風(KAZE」)の公演を観にいった。久しぶりに見るブレヒト。この劇団の創立メンバーの一人が、50年近く前にともに同じブレヒト劇団のペーペーだったのだ。いまでは主要メンバーとして芝居を作っている。

舞台の印象は、少しボクの抱いていたイメージとは違った。

なぜか、ボクだったらどうするだろうという思いで観ていた。不思議な感覚だった。

すっかり忘れていた芝居を形づくっていくプロセスと、その結果への憧憬のようなものを、心のどこかで追いかけながら観ていたのだ。

さあ、これはやばいな! 虫が蠢き始めている感じがするな……。

お芝居はブレヒトが1930年にオペラ的に書き上演された「マハゴニー市の興亡」。一連の教育劇などの前に書かれたもので、叙事演劇という理論武装をすでにまとった脚本だ。クルト・ワイルのオペラ作品として、最近になって人気が出始めた。

ブレヒトによって描かれた世界観が、90年近くも経って今と全く重なるからか……。

演劇集団「風」の舞台に関しては、もう少し咀嚼してからここに書こうと思う。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今日は仕事で、能楽

2016-04-10 00:56:30 | 普通な生活<的>な
それも、能・狂言を2連荘。

ボクの高校時代の恩師である井関義久先生は狂言の役者でもあり、のちに桜美林大学の教授に転じ新作狂言の台本も書かれている。とは言えお便りもせず、まったく不詳の生徒である。

演劇部でお世話になったのだが、今日観た狂言「棒縛り」の演者方は、和泉流野村万蔵家に連なる皆さんで、井関先生はその中でも野村万作さんのお弟子であったと記憶している。野村萬斎さんのお父上だ。

本当に久方ぶりに狂言の舞台を観たが、やはり良いものだ。ことに「棒縛り」は面白い演目で、今どきのコントよりも、ボクには面白く感じられる。

さらに、狂言と併せて「船弁慶」「土蜘蛛」二題の能舞台まで観ることができた。

「船弁慶」は落語や歌舞伎でも扱われるほどポピュラーな話。「土蜘蛛」も同様。で、囃子方も地謡もそれはそれは完成度の高いもので、仕事とは言え、すっかり堪能しました。

どちらも仕掛けのある華やかな舞台ですが、是非奥さんやお嬢に観せたいものだと思いました。少しだけでも、世界観が変わる契機になるかもしれませんから。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

最遊記 第1回 西に向かって1歩を踏み出すの記

2016-03-25 20:03:24 | 最遊記
この混沌とした大八嶋=世界に生を受け、28年が過ぎる頃、いまの伴侶に出会いそれから5年後、共に暮らすことになった……。

我が夫婦、天地開闢の時だった。

あれから幾星霜……僕ら夫婦は色々ありながら……そうほぼ毎日のように喧嘩をし、周囲の人間の誰一人として、僕らがまともに結婚生活を送れるなどと思ってもおらず、子どもたちでさえ、僕たちが離婚せずにいることを訝しんでいた節もあるほど。本人たちでさえ、と言いたいところだが、どっこい二人だけは、別れを考えたこともない。

いまでも揉め事の種は尽きないのだが、過去のそれらはすべてが今考えれば必然で、むしろ楽しかったことだらけなのだ。だから、僕ら夫婦は意外にも、周囲の人々の期待を裏切り続けて33年ということになるだろうか。

考えて見れば齢66年を積み重ねてきた僕は、人生のちょうど半分を奥さんと、毎日喧嘩をしながら過ごしてきた計算になる(細かくみれば多少の誤差はあるのだが)。

有難いことだ。奥さんに感謝しかない。……気取ることもないか⁉

なぜ喧嘩を日常としながら33年もの長きに亘って別れを考えもせず共に暮らせたのか?

謎のようだが、謎でも何でもない。それはおいおい書くとして……。

そんな僕ら夫婦だが、過日お伝えしたように、少し遊ぼうということになった。さんざん遊んできたような気もするが、それはそれ、意識して遊ぼうということになったのだ。奥さんの提案だった。

そして、その提案の骨子が「西に向かっていこう!」という、ざっくりとしたもので、そのざっくりさ加減に僕は大いに賛同した。いずれは海外に雄飛するぞ! という決意表明も、お互いの心の中でしている(はずだ)。

そして栄えある第1回を、できるだけ早くに書きたかったのだが、宣言以来なぜかどこにもいかず、なにも書けなかったのだが、先週の日曜日、以前にもご紹介させていただいた「小澤酒造」に行ってきた。……海外リポートはおあずけで。

酒呑みの僕ら夫婦に相応しい第一歩ということで、その時のリポートを近々に。

今回は、プレリポート、プロローグということで……。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

記憶は彼方へ。思いは鮮烈に。

2016-03-11 19:50:13 | 思いもよらない未来<的>な
1月17日も、3月11日も、忘れられません。

阪神淡路大震災。以前も書きましたが、おそらくボクは近畿圏以外で最も早く地震を知った人間の一人です。後に全壊指定地域となった神戸市灘区天城通に居住していた義母が、短縮ダイヤルを三木に居住していた義姉の電話と押し間違え、地震から1分も経たずに東京のわが家へ電話してきたからです。5時47分頃、寝ぼけ眼で義母の電話を受けたボクは、それほどの大事とは思わず、一言二言義母が叫ぶように話した声を聞き終えて「分かりました、後で電話かけさせます」などと、そっけなく電話を切ったかもしれなかったのです。寝ぼけていたせいか記憶はあいまいです。

東日本大震災。家で仕事していたボクの他に、娘も息子もなぜか家にいました。強い揺れに襲われましたが、揺れの方向が良かったせいか何一つ落ちることもなく、ただ地震の大きさに驚いていたのを思い出します。テレビを見れば、それから丸一日以上に渡り、恐ろしい惨状を映像として流し続けていましたっけ。その間に、仕事で日野市の豊田近辺にいた奥さんを車で迎えに行きました。後にとんでもない渋滞だったと知るのですが、ボクは裏道から裏道を華麗に走り抜け、立川駅によりながらも、いつもより(普段は往復40分程度)1時間多くかかった程度で無事帰りつきました。

阪神淡路大震災後、ボクは神戸に何度か入りました。取材でも個人的にもです。地震直後の惨状はいまだに脳裏から離れません。1階部分だけぺしゃんこになったマンションの1階で潰れている何台もの車、道を覆うように倒れ掛かっている家屋、波をうつアスファルトの道路、倒壊した阪神高速道路の傍まで行きました。カタストロフの巨大さはこの世のモノとも思えませんでした。
奥さんの実家まで、どこからでしたか(西宮北口からだったかな)歩いていきました。あまり覚えていません。あの風景は忘れられないのですが、具体的な風景は忘れています。記憶にあるのは風景から受け取った驚愕と恐怖の感情と、それを呼びさます幾たりかの印象としての風景です。

東日本大震災。毎日のように津波の映像を見続けていました。当たり前ですが、驚愕はありましたが恐怖はありませんでした。そして一度も被災地に足を踏み入れたことはありません。誘われましたが断りました。なにかとても怖いのです。東日本大震災の惨状を見るのが怖いのではなく、阪神淡路大震災の惨状を思い出すのが怖いのです。

最近、台湾、インドネシア、ニュージーランドと地震が起こったのを記憶していますか?
ボクは予言者ではありませんが、なにかざわざわとします。実は、日本のいずれの大震災の前後にも、同じ地域で地震があったのを覚えていませんか?
この地域以外に、カムチャッカ、アラスカ、そしてアメリカの西海岸で、同じ時期に大きな地震がありました。それがまだ起きていないと思っていたので、少し安心していたのですが、実はこれらの地域で、今年の初めに8000回を超える微細な地震が起きていたことを知り、足が震えました。

ひょっとすると、近いかな。日本を襲う大きな地震が近いかなと思う、今日この頃なんです。どこかは分かりません。でも年内に起きそうな気がします。
生き延びる準備だけは整えておいてください。お互い様に。


 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加