古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集の「幄」について(大伴家持作歌)―万3965・4089番歌―

2017年06月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大伴家持には、「幄」字を使った前文、題詞の歌がある。

  掾(じょう)大伴宿祢池主(いけぬし)に贈れる悲しびの歌二首
 忽ちに枉疾(わうしつ)に沈み、旬を累ねて痛み苦しむ。百神を祷み恃みて且(かつ)消損(せうそん)を得たり。而も由(なほ)身体疼み羸(つか)れ筋力怯軟(けふなん)にして、未だ展謝に堪(あ)へず。係恋(けいれん)弥(いいよ)深し。方今(いまし)春朝には春花、馥(にほひ)を春苑に流(つた)へ、春暮には春鴬(しゅんあう)、声を春林に囀(さひづ)る。此の節候に対(むか)ひて琴罇(きんそん)翫(もてあそ)ぶべし。興に乗る感(おもひ)有れども、杖を策(つ)く労に耐(あ)へず。独り帷幄(ゐあく)の裏(うち)に臥して、聊かに寸分の歌を作り、軽(かろがろ)しく机下(きか)に奉り、玉頤(ぎょくい)を解かむことを犯す。其の詞(うた)に曰く、
 春の花 今は盛りに にほふらむ 折りてかざさむ 手力(たぢから)もがも(万3965)
  贈掾大伴宿祢池主悲歌二首
 忽沈枉疾累旬痛苦祷恃百神且得消損而由身體疼羸筋力怯軟未堪展謝係戀弥深方今春朝春花流馥於春苑春暮春鴬囀聲於春林對此節候琴罇可翫矣雖有乗興之感不耐策杖之勞獨臥帷幄之裏聊作寸分之歌軽奉机下犯解玉頤其詞曰
 波流能波奈伊麻波左加里尓仁保布良牟乎里氐加射佐武多治可良毛我母

  独り幄(とばり)の裏に居て、遙かに霍公鳥(ほととぎす)の鳴くを聞きて作れる歌一首 并せて短歌
 高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と すめろきの 神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥(ももとり)の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別きてしのはむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥 あやめぐさ 珠貫(ぬ)くまでに 昼暮らし 夜(よ)渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし(万4089)
  獨居幄裏遥聞霍公鳥喧作歌一首 并短歌
 高御座安麻乃日継登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久尓能麻保良尓山乎之毛佐波尓於保美等百鳥能来居弖奈久許恵春佐礼婆伎吉乃可奈之母伊豆礼乎可和枳弖之努波无宇能花乃佐久月多弖婆米都良之久鳴保等登藝須安夜女具佐珠奴久麻泥尓比流久良之欲和多之伎氣騰伎久其等尓許己呂都呉枳弖宇知奈氣伎安波礼能登里等伊波奴登枳奈思

 今日まで、万3965番歌の「帷幄(ゐあく)」と、万4089番歌の「幄(とばり)」とが同じものであるという解釈が通行している。万3965番歌の前文は、漢詩だからヰアク(帷幄)であり、万4089番歌は題詞だからトバリ(幄)と読み違えているだけで、実質的に同じであると考えられている。
 「帷幄(ゐあく)(の裏(うち))」については、大系本萬葉集に「とばりの中。室内。」(202頁)、古典集成本萬葉集に「寝所を囲う布製の衝立(ついたて)。」(74頁)、完訳日本の古典本万葉集に「張りめぐらした幔幕。地方官が任地の居館内に垂したカーテンをいうことが多い。」((五)357頁)、新編全集本萬葉集に「張り巡らした幔幕(まんまく)。ここは任地の居館内に垂らしたとばり、病室のカーテンをいう。」(179頁)、新大系本万葉集に「……は部屋の垂れ幕。」(123頁)、橋本1985.に「幕(とばり)のこと。大きな室内を区切り隔てる几帳の類。」(140頁)、武田1957.「……は、織物の幕。ここは室内の几帳の類。当時は家屋は、室は大きく、へだてを立てて使用した。室内に臥して。」(十一・416頁)、澤瀉1967.に「……は、とばりとあげとばり。共に幕の類で、ここは室内の意に用ゐた。」(十七・104頁)、土屋1970.に「帷は囲、幄は幕で、引きめぐらした幕の意である。帷幄を軍営の意に用ゐるのは古いが、かうした用法もあるのである。」(八・435~436頁)、多田2010.に「寝所を囲む布製の帳(とばり)。几帳(きちょう)の類。」(6・268頁)、中西1983.に「とばり。」(96頁)、伊藤2009.に「布製の衝立。寝所の囲い。」(53頁)、稲岡2015.に「部屋の帳の中」(194頁訳文中)とされている。
 「幄(とばり)(の裏)」については、古典集成本萬葉集に「垂れ幕の中、部屋の中、の意。」(139頁)、完訳日本の古典本万葉集に「「帷幄(ゐあく)」とも。カーテン。ここは地方官が任地の居館に張りめぐらした幕をいう。→(五)三九六五前文。」((六)46頁)、新編全集本萬葉集に、「三九六五前文(帷幄)。」(254頁)、新大系本万葉集に「……は「帷幄の裏」(三九六五前文)に同じ。」(218頁)、伊藤1992.に「……は垂れ幕の内側。すなわち部屋の内。」(129頁)、武田1957.に「幄(あげばり)は、帷幕で張り廻らして作つた家。しかし、疾に沈んで詠んだ歌(巻十七、三九六五)の前文にも「独臥帷幄之裏」とあつて、ここもそれと同じく、室内の几帳(きちよう)の類をいうのだろう。室内にいての意。」(十二・84頁)、澤瀉1967.に「……は倭名抄(六)に「四声字苑云、幄〈於角反、阿計波利〉大帳也」とある。前にも「独臥帷幄之裏」(十七・三九六五前文)とあつた。部屋の内、の意。」(十八・79頁)、土屋1970.に「(作者及作意)家持が一人室内にこもつてほととぎすの鳴くのを聞いての歌である。」(九・58頁)、多田2010.に「「帷幄(ゐあく)」(三九六五の前)。寝所を囲む布製の帳(とばり)。几帳(きちょう)の類。」(7・50頁)、中西1983.に「今のカーテンの類。仕切り・蔽いに布を垂らしたもの。」(168頁)、伊藤2009.に「ここは、部屋の中の意。」(118頁)、稲岡2015.に「(「幄の裏」は三九六五前文の「帷幄の裏」に同じ)」(293頁訳文中但書)とされている。
 これまで、部屋の使い方、布の仕切りの用途について、きちんと説明されてこなかった。

 獨臥帷幄之裏(万3965)
 獨居幄裏(万4089)

 両者の違いは一目瞭然である。上は寝ている。下は座っている。当然、「帷幄」と「幄」は何かが違う。小泉1995.に、「古代の貴族住宅の大きな特徴は一棟一機能で、これが敷地の中にそれぞれ独立して建っていたことである。つまり寝るための寝殿(正殿(しょうでん))、炊事をするための厨屋、穀物を納めておくための倉、脱穀・精米するための臼屋(うすや)等々と、機能ごとに建物が分かれていたということである。」(75頁)とある。寝室と居間は別の部屋であった。大伴家持は越中国の国司として派遣されている。昼間は国衙に勤め、夜は国司館に帰って寝る。つまり、3965番歌は、病臥していているから出勤しておらず、官舎の国司館にお休みしている。国司館については出土例が少ないながらも存在は確かである。官舎を与えられる国家公務員の転勤は今に伝わる。他方、4089番歌は、国庁の役所、国衙に出勤してそこで歌われている。
 病気でもないのに、昼間も着替えないでベッドに座る生活をしてしまったら、なかなか難しい事態に陥る。また、江戸時代の長屋や今のワンルームマンションのように、「臥」と「居」とが同じ場所というのも、はたして良いものなのか判断が分かれるであろう。畳敷きに押入から布団を出して敷き、朝には仕舞って卓袱台にお皿を並べてご飯を食べる。そういうことは日本的な生活であると思われているが、少なくとも奈良時代にはなかったことである。奈良時代の庶民がどうだったか。おそらくほとんど竪穴式住居に暮らしていたのではないかと思われ、大伴家持の「帷幄」、「幄」とは無縁の生活であったろう。仮に先行研究のように、いずれも部屋の仕切りの布の「裏(うち)」で歌われたとしても、歌われた場所は違う。官舎の寝間と官庁の居間とでは、張り渡す布帛の色等が同じであろうはずはない。センスの問題である。そこらじゅうに同じ柄のカーテンを懸け吊るしていては、日常生活に区別がなくなりメリハリも潤いもなくなる。
 文字の義についておさえておく。幄は、新撰字鏡に、「幄 於角反、入、大帳也と謂ふ。覆帳は之を幄と謂ふ。即ち幕也。」、和名抄に、「幄 四声字苑に云はく、幄〈於角反、阿計波利(あげはり)〉は大帳也といふ。」、帷は、新撰字鏡に、「帷 於佳反、平、□也、唯也、帳也、林に連ねて布を張る也乎」(注1)、和名抄に、「帷 釈名に云はく、帷〈音は維、加太比良(かたびら)〉は囲ひ也、以て自から障へ囲ふ也といふ。」とあり、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「按依釈名所一レ云、則帷後世軍営施之自囲、呼幕者之類、非加太比良也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438478(65/83))と断っている。軍陣に「帷幄」をめぐらしているのは、カタビラとは言わないという意味である。万4089番歌の「幄」をアゲハリ(アゲバリ)と訓む解説書も見られる(注2)
 では、国司館の「帷幄」、国衙の正殿の「幄」とはそれぞれどのようなものであろうか。寝所の「帷幄」に関しては、参考例がある。天寿国繡帳の銘文に、「繡帷二張」とある。天寿国繡帳は、刺繡を施した「帷(かたびら)」であり、それは、横木を渡した木製の台、几帳台に掛けられて几帳とし、寝所の目隠し、音隠し、といった遮蔽幕として使われた。繡帳は、横臥する身体の両側に設置された。よって2枚必要とされている(注3)。大伴家持の万4495番歌題詞に、「六日、内庭假植樹木以作林帷而為肆宴歌」とある。樹木を列にして並べて植えて、柴垣のようにしている。垣根版の几帳のようなものと理解できる。他方、大伴家持の万3965番歌の前文の「帷幄」は、「幄」字が添えられている。「幄」字は、テントのことを指す「幄舎」と言われるように、天井を覆う点に特徴がある。和名抄に、「幄」は、アゲハリと訓んでいる。白川1996.は、「〔釈名、釈牀帳〕に「幄は屋なり。帛を以て板に衣(き)せて之れを施す。形、屋の如きなり」とあり、蒙古包(パオ)のような天幕の家をいう。」(9頁)とする。寝所に頭の上を覆うほどの布製のシートとは、帳台にほかならない。
御帳台(源宗隆・鳳闕見聞図説、人文学オープンデータ共同利用センター・日本古典籍データセットhttp://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200020290&pos=14&lang=jaをトリミング)
帳台のある光景(左:板橋貫雄模・春日権現験記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287490?tocOpened=1(15~16/17)をトリミング接合、右:類聚雑要抄巻二 宝禮指図、江戸時代、元禄17年(1704)跋、東京国立博物館研究情報アーカイブズ http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017672)
 帳台は、浜床(はまゆか)と呼ばれる一段高くした床(ゆか)の上を設け、四隅に柱を立てて構とし、帳を垂れて中に貴人が入って寝たり座ったりするところである。建物内テントの様相がある。万3965番歌で、大伴家持は病臥している。心地よく安静にしてもらわなければならない。この帳台は、やがて周囲が屏風や障子(襖)で囲まれるようになっていく(注4)。建物自体の建具が発達、改良されたおかげで隙間風も少なくなり、障子や蔀戸によって光が採り入れられるようになった。そして、やがて帳台自体が姿を消すことになる。それでも、清涼殿には夜御殿に御帳台、母屋(もや)にも御椅子が中にあって狛犬と獅子が番をしている御帳台が伝わっている。夜御殿ではその帳台の中に入って寝ていた。国庁のあり方は、都の大極殿や朝堂院の様を模したものであり、儀礼、饗宴、政務の場として同じように機能していたとされている(注5)
(源宗隆・鳳闕見聞図説、人文学オープンデータ共同利用センター・日本古典籍データセットhttp://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200020290&pos=31&lang=ja をトリミング)
 つまり、国衙や国司館であっても、都の宮殿の真似事が行われていたと考えられる。国司は、任地においてはいちばん位が高く、いちばん偉いのである。国司館の建物は平城宮と比べると貧相であっても、わざわざ国司館が建てられて暮らしているのだから、帳台のなかで寝るのは当然であろう。「独臥帷幄之裏」とあって、「独○○」というところが中国の独坐詩に通じるところがあると指摘されている(注6)。しかし、大の大人が一人だけ病気になったら、自主隔離的に一人で寝ていてもらうしかない。奥さんの看病があったとしても、咳でゴボゴボされているのに一緒に寝るのは誰でも嫌であるし、無理強いする人はいない(注7)。これは別に病室のカーテンといった類のものではなく、貴人は日常的に帳台を使っていたからその垂れ幕のことを言っている。帳台は柱部以外のところは開いていて、そこに几帳が立てられるケースもあった。いずれにせよ、寝所は帳台であり、それを覆う垂れ幕こそ「帷幄」である。
 昼間居る国衙の正殿の「幄」は、「幄舎」の「幄」に当たるから、座ったところの頭上に布製の覆いがあることになる。上にだけ翳される天蓋のようなものも想定はできるが、「裏」に「居」るとなると、やはりこれも帳台であると考えられる。平城宮にあるものの簡略化した姿の昼御座が越中国の国衙の正殿にあり、そこから中央政府の意向を伝えるのである。中央集権的な構図はここに固まる。椅子があったかどうかはわからないが、あったとするとわかりやすい。一人掛けの椅子なのだから、「独居」なのは当たり前である。四方の幕を垂れているのではなく、前面は開けて政務を掌っている。部下が言ってきたことに対して答えて指示を出したり、ハンコを捺いたりしていたのであろう。ホトトギスの鳴き声を「遥聞」のは、縁側(庇)に出ていたのではないことを表わしている。部屋の中心にしつらえられた帳台の中である。後に暖簾となる戸のところに懸けられる垂れ幕や、部屋を仕切る間仕切りのための几帳などではない。帳台の覆いに使われている幕ということになる。もし建物の戸の代わりの幕や几帳の内側であったならば、ヤ(屋・舎)と言えば済むことで、「幄」と断る必要はない(注8)。部屋は広く、国司さまは真ん中に座って居る。
 大極殿のような建物がまずある。そのミニチュア版が各国庁にある。国家が国家たらんとして建物が先行している。日本古代国家は形から入って威厳を保ったようである。そして、とても広い部屋の中に、帳台というテントを設営して、いちばん偉い方はその中に鎮座された。越中国の冬、広い部屋の中にテントでも設けなければ寒くていられたものではなかったであろう。高橋1985.に、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった。」(9頁)とある。建具として空間を仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのないワンルーム建築が行われていた。間仕切りに敷居があって引戸や襖障子が走るのは平安時代になってからである。旧藤原豊成の板殿についての文書から推定し、「ほとんど伝統的在来工法によっているなかで、「閾・鼠走・方立・楣・扉」からなる扉口や連子窓、つまり開口部にのみ大陸的な技術が使われている。このことは開口部をつくる伝統的技術をもっていなかったことを示唆するのであろうか。」(10頁)ともある。竪穴式住居のことを思えば、家屋に開け放つという発想がなかったことは頷ける。そんな状況のところへ極端に大きな倉庫式の建物を住居棟としたのだから、いろいろと難点が出てくる。前近代の土蔵住まいや現代の巨大物流倉庫に住むことを想像すればわかるであろう。中は暗く、天井もなくて寒い。ずっと居続けなければならない国司さまは、威儀を整えるためにも帳台の中に居るしかない(注9)
 新大系本萬葉集の解説に、「初めの四句[「高御座 天の日継と すめろきの 神の命」]、天皇の御代を讃める表現だが、以下のホトトギスの声を聞く内容から見れば、やや事々しく大げさな感が否めない。「賀陸奥国出金詔書歌」(四〇九四)には、宣命第十三詔と関わりある表現が多いが、その二日前に詠まれたこの歌にも、宣命が意識されているか。「天皇が御世御世、天つ日嗣高御座に坐して」(第十三詔)。」(218~219頁)とある(注10)。宣命を意識していたかどうかはわからないが、宣命を念頭にしてホトトギスの歌を詠うのは怪しい。筆者は、国衙正殿の帳台のなかで詠われた歌であるから、平城宮大極殿の立派な帳台、高御座のことを思い浮かべたものと考える。題詞から初句へのつながりが素直に理解できる。
 以上のことから、万3965番歌の前文の「帷幄」は国司館の寝所の帳台のこと、万4089番歌の題詞の「幄」は、国衙正殿の国司が居ます帳台のことであると検証できる。それぞれをどのように訓んだかについては、万4098番歌の場合、題詞であるから、ヤマトコトバに訓んでしかるべきで、その場合、和名抄に同じく、「幄」はアゲハリが正しいのであろう。トバリは戸張りの意であり、部屋の内外を仕切る暖簾の前身や、部屋を間仕切りにする几帳の様相が強いから合わない。大伴家持は国司である。平安女流文学の作者であった女官が部屋の隅っこの御簾のたもとや衝立の陰に控えて居たのとは異なる。天皇や中宮などと同じく、トバリからは離れて部屋の真ん中に御座るものである。
 万3965番歌の前文の「帷幄」は、国司館の寝所の帳台である。手紙文である。漢語が漢語のままに使われても不自然ではないから、ヰアクでかまわないであろう。あえてヤマトコトバとして訓むには、孝徳紀大化二年三月条の、「帷帳」をカタビラカキシロに倣い、カタビラアゲハリなどと訓めば良いのであろう。都に天皇がお休みになられる御帳台の布帛ともども、どのような染織品であったかについては後考を俟ちたい。

(注)
(注1)新撰字鏡は読むのが難しい字書である。ここも疑問なしとしないが、一応こう呼んでおく。
(注2)布帛のカーテンの類について、呼び方は厳密に分けられていたようではなさそうである。和名抄では、ほかに、「幌 唐韻に云はく、幌〈胡広反、上声の重、止波利(とばり)〉は帷幔也といふ。」、「帳〈几帳附〉 釈名に云はく、帳〈猪亮反、俗に音は長、今案ずるに之の属に几帳の名有り。出る所未だ詳らかならず。〉は張也、床上に施し張る也、小帳を斗〈俗に斗帳と云ふ。一に屏風帳と云ふ。〉と曰ひ、形は覆斗の如き也といふ。」、「幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗名字の如し。本朝式に班の読みは万不良万久(まふらまく)〉は帷幔也といふ。」、「幕 唐式に云はく、衛尉寺の六幅幕、八幅幕〈音は莫、万久(まく)〉といふ。」、「帟 周礼注に云はく、平張を帟〈余古反、比良波利(ひらはり)〉と曰ふといふ。」とあって、音読みを交えながら解説されている。新撰字鏡に、「幌 窓簾也。止波利(とばり)」ともある。このトバリとは、白川1995.に、「大きな布を、室の中や外部との境に張り垂らして隔てとし、区切りとするもの。類義語の「かいしろ」は垣代の意。〔孝徳紀大化二年〕に、葬礼のときの帷帳(かたびらかいしろ)に白布を用いたことがみえている。壁代(かべしろ)・几帳(きちょう)ともいう。寝所や高御座(たかみくら)にもこれを垂れて用いる。仮名書きの例がなく、トの甲乙を定めがたい。〔大言海〕等に、「戸張り」の意であるとする。……〔戦国策、秦(しん)策〕に「樂(がく)を張り、宴(えん)を設(まう)く」とは、帳をめぐらしてその場所を設ける意。戸にかえて、布を張るのである。」(542頁)とする。
太子を科長陵に葬る場面の「帷帳」(聖徳太子絵伝第四幅、談山神社蔵、奈良地域関連資料画像データベースhttp://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y06/taishieden/pages/taishieden_4.htmlをトリミング)
 建具に「扉(とびら)」しかなかった時代である。扉はひらひら開くからトビラというのであろう。カタビラ(帷)は片方から見て図が図としてある文様ということである。表裏があって袷にしていないから、帷を張って中に入ると生地の裏が見えてしまう。綴れ織りではないから仕方がない。トバリ(帳、幌)という語が戸張りとして認識されていたとすれば、戸にかえて布を張ったものと想定されて然るべきである。簾や暖簾は戸にかわるものとは言い難い。戸にしたいが、戸に「扉」しかないのだから布で代用せざるを得ない。その扉は法隆寺に残るもののように分厚いものが多く、トバリも冬用には、現在考えているカーテンよりもずっと重厚感があるのではないかと推測される。貴人の側近くにある帳台の垂れ布に、裏地が見えているカタビラを使うのかわからない。また、幄という字は屋外のテントにも使われる字だから、布製品の良し悪しと字義との間に関係はないであろう。
 なお、「幔」字の和名抄、マフラマクなるものは何かわからないとして、狩谷棭斎は二十巻本をとって、本文を「……俗名如字本朝式斑幔読万太良万久……」と考え、マダラマクとしている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3438478(66/83))。筆者は、十巻本諸本の「……俗名如字本朝式班之読万不良万久……」で正しいと考える。「俗名、字の如し」とあるのは、「幔」の音読みのマンは「万(萬)」に通じ、「万掛帳(よろづかけちゃう)」とは帳簿の大福帳(大帳)のことである。和名抄に「幄……大帳也」とあったように、垂れ幕の意味と帳簿の意味とで同じことを指していると面白がっているのである。そして、訓み方のマフラマクとは、マ(間)+フラ(振)+マク(幕)の意であると考える。広い空間を間仕切りする幕である。間を振り分けているし、ふらふらと振れている。そんな幕という意味で、「班」のワカツ(アカツ)義の具現化を示している。
(注3)拙稿「天寿国繍帳銘を読む」参照。
(注4)中世には、壁として塗られたものがあり、塗籠(ぬりごめ)と呼ばれている。戦乱の時代は、宝物を納戸に入れてそこで寝ていた。
(注5)山中1994.参照。
(注6)芳賀2003.に、「独居」とあるのは漢語にいう「独坐」に相当し、六朝・初唐の詠物詩などで発展した技法で、花鳥を擬人化して感情移入しているのであるとする。
(注7)上宮聖徳法王帝説に、膳大刀自(かしはでのおほとじ)が聖王の看病疲れで一緒に寝ていて先に逝ってしまったことが記されているが、「得労」て「臥病」したのであって、一緒に寝なければならないという決まりなどなかったであろう。
(注8)山口1996.には次のようにある。

 「帷幄」という語を単に「とばり」とのみ解釈するのは軽率ではなかろうか。中国典籍の用例を見ると、諸例は「帷幄」が主として軍陣の「帳」の意で用いられていることを示す。『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』服飾部には、帳・屏風・幔などの項があるが、そこには帷幄の項及びその語を含む詩文はなく、武部戦伐項に、帷幄の語を含む作品は採録されている。
 張庸吾氏は『漢書』張良伝を挙げて、「帷幄」は中国では「軍帳」すなわち陣営の帳を意味することを指摘、「文人である家持が『帷幄』を使うのは、いささかの違和感を中国人には与えると思う」と述べている。また小野寛氏は「帷幄」は戦場の陣営に張り巡らしたものであることを言い、「その『帷幄』を病室に用いた例は見られず、家持は都を遥かに離れて『遠の朝廷』である越中国府の国守館に臥す身を、戦場の『帷幄』の内にある思いで記したのだろうか」とする。
 張氏の意見は、家持の越中における立場の認識不十分からの意見であり、小野氏の見解は、結論としては正しいのであるが、なぜ国守館に臥す身を戦場にある思いにすり替えることができたのかの説明がなされていない。前述のごとき遠の朝廷である越中に、「ますらを」として赴任した家持にとっては、国庁は「帷幄」として表現する以外になかったのである。(184頁)

 かなり以前の論考である。「帷幄(ゐあく)」を戦場の本陣の意に用いた例は、本邦では軍記物に見られ、芸文類聚・武部の戦伐項に載る「籌策運帷幄」の和文化であろう。戦場に陣幕をめぐらせるのと作戦をめぐらせるのとを懸けた言葉らしい。芸文類聚では、「兼稟帷幄之謀」ともある。芸文類聚は初学書であり、雑多な百科事典である。編集者が見つけた用例として、武部の戦伐項にふさわしいテントであったからそこへ載せている。恣意的な項目立てにとらわれてはいけない。本邦で、年中行事絵巻に見られるような儀式の際に設営するテントの幄舎について、そういった文例があれば、あるいは「禮部」にでも収められるであろう。
 漢籍に見える「帷幄」が必ず軍営を表すかといえば、そのようなことはない。司馬相如・長門賦に、「飄風迴而起閨兮 挙帷幄之襜襜」、曹植・冬至献袜決頌表に、「情繫帷幄 拝表奉賀」などとある。また、大伴家持が特に武に優れていたとは知られない。彼はたまたま大伴氏に生まれ、オホトモという名前だから弓を射る時の防具の「鞆(とも)」と関係づけて自らを考え、「名に負ふ」者として自負していたに過ぎない。だから「ますらを」と言っている。「ますらを」精神に貫かれていたから、国庁の建物を「帷幄」(戦場のテント)と思っていたという想定は困難である。なぜなら、そこは、都から離れてはいても、「遠の朝廷(みかど)」である。「朝廷(みかど)」は安泰で、「遠の朝廷」も安泰で、けっして戦場ではない。国衙や国司館がボロ屋であると愚痴をこぼすために、漢語で「帷幄」と形容しているとも思われない。
(注9)鉄野2007.は、万4089番歌について、「「独居幄裏」とは、ねやに夜独りあることを言うと見られる。……ねやの内から、山に鳴く春の鳥の霍公鳥を想起する当該歌も、……閉塞された状況から、その埒外へと向かう情を敷き並べるように歌うのである。家持は、退屈な毎日を振り返る。そして無為な生活をつらつら思っている現在もまた、無為の時間である。その現在のとりとめのない思いがそのまま言葉になって流れ出ている。」(141頁)とする。寝所に入って眠れない夜間、ホトトギスが鳴いていると想定するのであろうか。
(注10)この考えは、小野1980.による。伊藤1992.では、「今の家持にとって、遥かに鋭く鳴きわたるあわれの鳥、時鳥は、単なる風物ではなく、代々の天皇によって統治され来った国のまほらを象徴する鳥として写っている。それは尊き風土の申し子なのである。それ故にこそ、家持は、時鳥には一見不似合いな「高御座天の日継と云々」の六句をもって、一首を歌い起こしたのだと思う。歌は時鳥を通しての国ぼめで、家持の強い官人意識に支えられていると見なしうる。」(132頁)とある。

(引用・参考文献)
伊藤1992. 伊藤博『萬葉集全注 巻第十八』有斐閣、平成4年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版万葉集四』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系 萬葉集(四)』明治書院、2015年。
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澤瀉1967. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第十七』・『同 巻第十八』中央公論社、昭和42年。
完訳日本の古典本万葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『完訳日本の古典 万葉集(五)』小学館、昭和61年、『同 万葉集(六)』昭和62年。
小泉1995. 小泉和子『室内と家具の歴史』中央公論社、1995年。
古典集成本萬葉集 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集五』新潮社、昭和59年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
新大系本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注・訳『新日本古典文学大系 万葉集四』岩波書店、2003年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集 萬葉集4』小学館、1996年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集四』岩波書店、昭和37年。
高橋1985. 高橋康夫『建具のはなし』鹿島出版会、昭和60年。
武田1957. 武田祐吉『増補萬葉集全註釈 十一』・『同 十二』角川書店、昭和32年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』・『同7』筑摩書房、2010年。
土屋1970. 土屋文明『萬葉集私注八』・『同九』筑摩書房、昭和45年。
鉄野2007. 鉄野昌弘『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、2007年。
中西1983. 中西進『万葉集全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年。
芳賀2003. 芳賀紀雄『萬葉集における中国文学の受容』塙書房、平成15年。
橋本1985. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
山口1996. 山口博『万葉集の誕生と大陸文化―シルクロードから大和へ―』角川書店、平成8年。
山中1994. 山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房、1994年。
小野寛氏 小野寛「大伴家持の漢詩文」『上代文学と漢文学 和漢比較文学叢書2』汲古書院、昭和61年。
張庸吾氏 張庸吾「『万葉集』における題詞左注―主に漢詩文の影響について―」『古典の変容と新生』明治書院、昭和59年。

(English Summary)
In this paper, we will examine the "幄" found in Man'yōshū(8th century anthology of Japanese poetry). "幄" in Man'yōshū №3965 and №4089, made by Ōtomo-no-Yakamoti(大伴家持), has the same shape but different usage. One(帷幄 №3965) is the canopy bed at night and the other(幄 №4089) is for the throne in the daytime.

※本稿は、2017年6月稿を2020年10月に改稿したものである。

引っ掛けられた鞍覆(二条城行幸図屏風)

2017年06月22日 | 上古・中古・中世・近世
 馬に乗るときの鞍は、室町時代には実用しているけど工芸品になっていました。大切にしたいから、外出して馬を下りてしばらく乗らない時にはカバーをかけました。鞍覆(くらおおい)と言っています。その鞍覆について、毛氈が舶来していたのでそれを使い出し、赤い緋毛氈の鞍覆は足利将軍専用ものとして外出の際の権威の象徴にしていました。他の人の使用は原則、禁止です。きぬがさの袋の白いのも同じ扱いで、自分たちだけが使える特権であると定めました。もちろん、それは建前で、お金を積めば使わせてあげると免状を出してみたり、政治的な駆け引きの道具にされました。各地の大名から本願寺の派閥長まで、幅広く認めてしまっています。最終的に徳川の世になって、寛永三年(1626年)に後水尾天皇が二条城へ来て下さる運びになったから、みんなでお出迎えするに当たっては格好つけて見せびらかせてしまおうよ、ということで、馬に跨って行列を作って行く時、白い傘袋に緋毛氈の鞍覆をひっからげて行進することとなったようです。このことは絵には描いてあるけれど、記録に書いていないようです。絵に見る傘袋に引っ掛かった鞍覆の質感としては、どれも何とも言えないものです。あくまでも「絵」ですから、深く考えない方がいいと思います。二条城行幸図屛風の楽しい図録に、泉屋博古館編『二条城行幸図屏風の世界─天皇と将軍 華麗なパレード─』サビア発行、2014年があります。
二条城行幸図屏風、江戸時代、17世紀、泉屋博物館蔵、同館「屏風にあそぶ春のしつらえ」展チラシ
洛中洛外図屏風の一部としての二条城行幸図、「海の見える杜美術館(http://www.umam.jp/blog/?attachment_id=7325)」
二条城行幸図屏風、京都国立博物館「皇室ゆかりの名宝」展チラシ
『寛永行幸記 上巻』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288403)
『御行幸次第 上』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286856)
鞍覆姿の馬(上杉本洛中洛外図屏風、米沢市上杉博物館ミュージアムショップHPhttps://www.uesugi-museum.jp/?pid=66552993をトリミング)
洛中洛外図六曲一双のうち左隻(部分)(岐阜市歴史博物館蔵、二条城前パネル)
洛中洛外図屏風歴博F本(部分)(二条城近くパネル)
 群馬県立歴史博物館・米沢市上杉博物館・林原美術館・立正大学文学部編『三館共同企画展 洛中洛外図屏風に描かれた世界』(同プロジェクトチーム発行、平成23年)に、鞍覆とは、「鞍橋の上から鐙にかけて覆うもので茜染の絹糸で組み、総を長く垂らす。室町幕府体制における権威の象徴の一つである。馬上に付けられた華やかさが想像される。上杉本洛中洛外図屏風の画面にも複数確認できる。……謙信は天文十九(一五五〇)年にこの使用を室町幕府十三代将軍足利義輝に認められた。白傘袋使用の特権とあわせて、越後国主の地位を認められたのである。……」(106頁)、また、「足利義輝御内書」の「為白傘袋毛氈鞍覆/礼太刀一腰鵝眼三千疋/到来神妙猶晴光可申候也/二月廿八日(花押)/長尾平三とのへ」(38頁)という文書を載せています。白い傘袋と緋毛氈の鞍覆を使う代わりとして太刀一腰、青銅(銭)三千疋を献上してくれて有難うという意味です。これによって謙信は、事実上、越後国主としての地位を買ったことになります。
 江戸時代の有職故実書、伊勢貞丈『貞丈雑記』(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771949/65)をほとんどそのまま引きます。

一 赤き毛氈の鞍覆の事、又火毛の鞍覆とも云ふ。京都将軍の御物なる故、その時代禁制なり。赤からず外の色をも猥(みだり)に不用なり。この毛氈と云ふは、今世のもうせんにあらず。今世、羅紗と云ふ物なり。異国より渡る物ゆゑ、平人は用ふる事をゆるされず、御免あれば用之となり。御内書引付に云く(此ノ引付ハ伊勢守貞忠調進ノ引付ナリ)、
是れは赤もう     就白傘袋赤毛氈鞍覆御免之儀太刀一腰(家助)
せん御免の御     馬一疋(葦毛、印、雀目結)青銅五千疋到来目出候也
内書なり           八月十一日(大永二年ナリ)
                         三雲源内左衛門とのへ
是れ赤毛氈に     為白傘袋毛氈鞍覆赦免之礼太刀一腰(貞守)
て無之たゞの     馬一疋(河原毛、印、両目結)鵞眼五千疋到来目出候也
もうせん御免         六月十三日
の御内書なり                   浦上掃部助とのへ
一 松浦壹岐守先祖へ義教公より火氈の鞍覆御免にて、今に緋羅紗にて包みたるくらおほひを在所にて用ふると云ふ。宗五大双紙に云く、「赤きもうせんの鞍おほひは、公方様御物の外は、大名随分の衆ばかり古はかけられ候つる。色の替りたるをも誰もかもひげ被申候云々」。

 「赤い」とか「毛氈」とか「称する」ものにもいろいろあり、時代とともに変わって行っているようです。室町幕府は滅んで権威づけにならなくなり、赤くする必要性はもはやなくなっています。御行幸次第に見られるように、懐の事情なのか、赤いものに限られていないし、きぬがささえ持たなかった人もいたようです。
 大名が馬に乗るときは鞍覆は侍者が持って行くものです。ちょっと綺麗だったから白い傘袋にかけて行きました。馬から降りたらすぐに鞍を覆ってしまえるように準備しているのでしょうか。天気が悪くなって降りだしたら傘を開きたいし、良すぎても開きたいのに、こうなると単なるお飾りです。遠くからはまるで旗か梵天のように見えるから、朝廷に見せびらかすというよりも、京の民衆に見せつけるためだったようにも思われます。傘という人を覆うものを覆う白い傘袋を、人が座る馬の鞍を覆う赤い鞍覆で覆わせてしまうというのは、きつい洒落としか言えません。まことに恐れ多いことです。
 なお、馬の博物館編『ホースパレード─華やかなる日本の行列─』(財団法人馬事文化財団、2008年)に、後水尾天皇行幸図屏風(馬の博物館蔵)、二条城行幸図屏風(個人蔵)、洛中洛外図屏風(和泉市久保惣記念美術館蔵)、寛永行幸記 上巻(鶴見大学蔵)、御行幸次第(国立公文書館蔵)の図版が載り、引っ掛けられた鞍覆を確かめることができます。
 また、初期狩野派の手になる二尊院縁起絵巻下巻(二尊院蔵、室町時代、16世紀)の第五段の行列のシーンに、四頭の馬に乗る分の赤い鞍覆が白い傘袋にそれぞれ掛けられて進む姿が見られます。傘袋のてっぺんではなく低い位置に掛けられています。金糸で縁取られた感じは上杉本洛中洛外図屏風に近いものです。雑事覚悟事に、「次、傘袋ハ白きもあさぎも有之。是又くらおほい同前の趣なり。」と見えます。

※春日大社の御造替に携わった絵師の手になる絵馬(帥公尊眺筆、室町時代、天文22年(1553))には、緋毛氈と思しき鞍覆が掛けられた馬の絵を描いたものがあります(2022年12月追記)。
※一乗谷朝倉氏遺跡博物館には復元展示があります(2024年3月追記)。

「日下」=「くさか」論

2017年06月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 クサカさんという方がおられる。「日下」と漢字表記されることが多い。その歴史は古い。

 然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録。即、辞理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。(記序)
 然れども、上古(いにしへ)の時、言(こと)と意(こころ)と並びに朴(すなほ)にして、文(ふみ)を敷き句(をち)を構ふること、字(つら)に於きては即ち難し。已に訓(よみ)に因りて述ぶれば、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全く音(こゑ)を以て連ぬれば、事の趣(おもぶき)更に長し。是を以て今、或は一句(ひとをち)の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或は一事(ひとこと)の内に、全く訓を以て録(しる)しぬ。即ち、辞理(ことわり)の見え叵(がた)きは、注(しるし)を以て明らかにし、意況(うらかた)の解(さと)り易きは、更に注せず。亦、姓(うぢ)に於きて日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此くの如き類は、本の随(まにま)に改めず。(書き下し文(注1)

 古事記の序文で太安万侶は、「日下」とする姓にクサカということはもともとそうしているからそれに随って改めない、と記している。和銅五年(712年)正月廿八日に上奏している。
 クサカの表記には、記では「日下」、紀ではもっぱら「草香」、風土記には「日」と「下」を合字した国字、飛鳥京木簡には「日下」、万葉集には「草香」といった用字がとられている。このうち、「日下」と書いてどうしてクサカと訓むのかについて、長い間人々を悩ませてきた。江戸時代の研究については割愛し、戦後のおもな見解を紹介する。

 ……「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」……「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」……「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」……の如く、枕詞的に用ひられた修辞句……「日下(ひのした)の草香(くさか)」……があつて、それが地名の訓を獲得してしまったと見るのである。……当地からすれば太陽の出を山麓から仰ぐのであり、大和からすれば……太陽の下る所に当るのである。此の様な環境が自ら、「日下の→草香」の如き枕詞的修辞法を生み出したのではないだらうかと考へるのである。……「日下(ひのした)の」の如き枕詞が……歌謡にも和歌にも残らなかつたのは、当時既に極端に不可解になつてゐた事と、枕詞として活かすほどの新鮮味か必然性が無かつたのであらう。(西宮一民「日下と記紀萬葉(其の一)」『ひらおか』第5号(河内郷土研究会、1959年3月、7~8頁)
 [日下]の日は草の簡体字、草冠(くさかんむり)と十の部分を省略した簡体字と見れば説明ができるではありませんか。……例えば木簡では、「マ」は「部」であるという例もあるからです。『行基年譜』に[「菩薩」の簡体字である]草冠を二つ重ねた「𦬇」という字が、たびたび使われています。……『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述によって成ったという経緯があります。この経緯が、「速記」を要し、簡単な文字を必要としたという解釈はどうでしょう。(足利健亮『地図から読む歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年、242~243頁)

 近年になって、平林章仁『「日」の御子の古代史』(塙書房、2015年)に論じられている。そこでは、古事記には難しい字も多数見られ、速記ではなく、また、行基年譜には、地名のクサカを「早」一字で表わしていることを指摘する。そして、「早」ではクサカの音を表現できないから、「日」+「下」の合字の誤写ではないかとされている。そして、もともとの「日下」表記については、「[神武記の地名の]『日下』が日神信仰に関わる、漢字の表意性を重視した用字(表記)であることは間違いない。」(24頁)とする(注2)。しかし、これは間違いである。

 故、其の国より上り行きし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊つ。此の時、登美能那賀須泥毘古(とよのながすねびこ)、軍を興し待ち向へて戦ふ。爾に御船に入れたる楯を取りて下り立つ。故、其地を号けて楯津(たてつ)と謂ふ。今には日下(くさか)の蓼津(たでつ)と云ふ。是に、登美毘古(とみびこ)と戦ひし時、五瀬命、御手に登美毘古の痛矢串(いたやぐし)を負ふ。故、爾に詔ひしく、「吾は日神(ひのかみ)の御子と為て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴の痛手を負ふ。今よりは行き廻りて背に日を負ひて以て撃たむ」と、期りて南の方より廻り幸しし時、血沼海(ちぬのうみ)に到りて其の御手の血を洗ふ。故、血沼海と謂ふ。(神武記)

 日神の御子が日の出る方向、東を向いて戦うのは正しくないという小理屈話である。その地は楯をたてた津だからタテツ(楯津)とされたのが、訛ってタデツ(蓼津)となっているという。ろくでもない駄洒落である。蓼津は今のクサカ(日下)のタデツ(蓼津)のことであるとしている。小理屈話として、日、それも朝日に向かって戦うのはいけないから紀伊半島をぐるりと熊野へ迂回し、東から大和の地へ入ったとする物語になっている。それと駄洒落話の余談の今の地名の説明とは別の話である。仮に両者を同列の話とし、五瀬命が痛手を負った楯津の現在地表記、「日下之蓼津」が日神信仰と関係させた表記とすると、話に齟齬が生じる。「日下」とあるからには、日(太陽)は高いところにあるであろう(注3)。お昼の戦いである。「日に向ひて戦ふこと」とは、切り立った城壁の上の相手と戦うことを意味する。敵の登美毘古は天守閣から矢を下に放っている。また、熊野から宇陀、忍坂方面へ回って来ても、夕方の戦いでは「日に向ひて戦ふこと」になってしまう。戦は朝に行うものという決まりがあったとは知られない。日神信仰の「日」は朝日のことが念頭にある(注4)から、「日下」という用字とは無関係と考えられる。
 「日下」をクサカと訓む問題は、「下」はカと訓めるから、「日」をどうしてクサと訓むのか、また、行基年譜の「早」字一字でどうしてクサカと訓むのか、という問題である。
 「草」という字は grass の意味である。その「草」という字の冠の「艸」も grass の意味である。grass の下の部分は「早」という字である。上下(うへした)のしたのことを表す「下」という字は、漢音にカと音読みする。つまり、草の下部の「早」字は、クサカと訓むことができる。行基年譜に見える「早」=クサカは、これにより解決した。「日」+「下」の合字の誤写ではない。ここに何か思想的背景があるかといえば、何もない。漢字を見ていて面白がっているだけである。
 「日下」はなぜクサカと訓めるのか(注5)。「日」がクサに当たるはずである。クサは漢字で、「草」、「種」のほか、「卉」とも書く。いまでも「花卉(かき)」という言い方をする。説文に、「卉 艸の総名也。艸屮に从ふ。」とある。新撰字鏡に、「卉 許謂反、衆也、百草物名。」の「物」とあるのは、「惣」字の誤り、ないし通用であろう。「卉」の字はもともと、「屮」が三角に構成された「芔」で、「屮」の略字の「十」字が三角形に配される「𠦄」字のはずであるが、略体となって「卉」と書かれている。上の「十」字の縦棒が下に突き抜けた「𠦃」字は、説文に、「𠦃 三の十の并ぶ也。今卅に作り三十の字と為(す)。」とあって、「𠦄」字と「卅」字と「卉」字とは通用している。そのほかにも、「世」と同字の「卋」や、「代」の通字の「𠦄」にも通用して「卉」は使われる。「卋」を「卅」と考える場合、「十」と「廿」の合字とする説もある(注6)
 三十という数は、ひと月の日数である。太陰暦である。大の月は30日、小の月は29日で、ひと月は30日目にしてめぐることになっている。その最終日は、晦日である。晦日とは、つごもり、月が籠もることをいう。月が姿を現わすのは太陽の影だからであることぐらい、古代の人も知っていたであろう。日中に月が見えることもあって、それが段々と太陽に近づいていけば、夜間は月が見えなくなり、最終的に晦日になる。すなわち、晦日とは、日の下に月が隠れてしまうことを言っている。閏月を含め、その月が終わりになって、また新しい月が始まる。その月はお亡くなりになって、再びよみがえることを指している。月が草葉の陰にいる状態が晦日のこと、それは三十日、「十十十」と書いた日、卉日、その「十」の書き方を上に2つ下に1つにして中に「日」字を入れたのが「草」字である。「草」も「卉」もクサとなれば、「日」もクサでなければ納得できないこととなる。
クサビ(左:清水寺、右:日本民家園)
 どういう日に当たるかといえば、晦日の日、すなわち、月と月とをまたがらせてつなぐ日のことである。「世」や「代」の通字とも通じていた。草が伸びる時、節ができて葉の出る部分と、ただつるんと伸びている部分とがある。そのいずれも、ヤマトコトバに混同されてか「よ」と言っている。ササ類で考えれば、葉が出る節の部分となかが空洞になっている部分とが交互に現れる。節目となるのが晦日の日に当たるようである。
 人間が物を作る場合にも、木材と木材をつなぐために入れるV字状の小材は、楔(くさび)という。どちらも木材である。新撰字鏡に、「輨轄 上古緩反、上又◆(囊のような上部に下部が牛、筆者には不明)鎋同二形、鍵也。下胡𦟈反、二字訓同じ、久佐比(くさび)也。」とある。あるいはクサヒと清音であったかもしれないが、それらヒ・ビは甲類で、日のヒも甲類である。どこにでも転がっていそうな端材である。同じように、ひとつひとつは端材が一部分となってつながり合って一続きになるものは鎖(くさり)である。新撰字鏡に、「琑鏁 同じく思果・思招二反、鏁月字、久佐利(くさり)、又、止良布(とらふ)、又、保太須(ほだす)。」とある。その部分部分の種々(くさぐさ)のような、どこにでもありそうな小さな破片のようなものをクサ(雑)と言っている。クサ(草)とクサ(種)は名義抄にアクセントが違い別語とする見解もあるが、白川静『字訓』(平凡社、1995年)には、「くさ〔草・種・雑(雜)〕」(287頁)と同じ項にあげられている。
 記紀には、「うつしき青人草(あをひとくさ)」(記上、応神記)、「国内(くぬち)の人民(ひとくさ)」(神代紀第五段本文)とある。どうだっていい有象無象の輩は、クサなのである。自分のことをクサではないと主張している近代人は、近代社会の殻の中に暮らしてそう信じているが、たやすくクサ化されてしまう。俺が、私が、の人生が道徳を越えて俺様がとなると、人ではなくなる。あるいは、全体主義のなかで、人はクサとして統計的に処理される対象に過ぎない。
 筆者は、飛鳥時代にクサカを「日下」と書き表そうとした人と知恵比べをしているに過ぎず、語源は問うていない。上代に、いわゆる語源をもって言葉を考える風潮があったとは、記紀歌謡や万葉集の言葉遊びにしか思われない歌を聞くにつけ、まったく感じられない。そして、日常生活においての「日(ひ、day)」という単位は、現在でこそ週という単位が設けられていて、今日は月曜日、明日は火曜日、毎週水曜日は定例会見日というように確固たるものとしてあるが、江戸時代まで、藪入り以外はすべてが勤務日で、月末の〆を区切りとしているぐらいであって、「日(ひ、day)」は特段代わり映えのしないものであった。今日でも、ラストフライデーの実施が空回りしているのは、月末の会計処理繁忙にそぐわない失策だからである。どこにでもある代わり映えのしない時間単位、そして必ずつながれる連続もの、それが「日(ひ、day)」である。更新されるのは晦日を経た月ごとである。「日(ひ、day)」はクサ(雑)と呼んで適当であった。
クサ
 以上が、クサカという名(人名・地名)に「日下」という字を“深い”理由である。「日出づる処の天子」や「日本(ひのもと)」などの「日(ひ、sun)」とはほぼ関係がない。当たり前ではないか。クサカはクサカと言い、ヒシタとは言わないのである。西宮先生の推測に、「日下(ひのした)の草香」のような枕詞的修辞句の可能性を指摘されていたが、実例がないものは証明のしようがない。むろん、そうでなかったことも証明できない。悪魔の証明はできない。悪魔に付き合っている「暇(ひま、ヒは甲類)」はない。クサ(草・種・雑)というヤマトコトバの本質と、そのクサに「卉」という字があること、「日(ひ、day)」とは何かを見極めればわかることである。草葉の陰のニュアンスもあるから、「日本」という書き方と同列のものではなさそうである(注7)


(注1)この書き下し文は、筆者の独自見解を交えている。文字を一字書くのはフミ(文)、それを連ねるのはヲチ(条)、それをひとつの紋様と見ることができるのはカホ(顔、皃)やツラ(面)、この場合、連なっているからツラが妥当、「辞理」は言葉の意味する筋道のことだからコトワリ(道理)、「意況」は意味の状況のことだからウラカタ(占状)と苦し紛れに峻別している。
(注2)平林、同書には、次のようにある。

 関連史料が僅少なこともあって諸説の当否を判ずることは困難だが、漢語の「日下」についても一瞥しておこう。『大漠和辞典』(諸橋轍次・修訂第二版)は漢代に編纂がはじまった中国最初の訓話の書『爾雅』などを引用して、漢語日下に次のような意味があったとする。①日が照らす下。天下。②京師をいふ。③遠い処。日の下。④東方の荒遠の国をいふ。⑤日が下る。
 格調高い駢儷体の『記』序文を書いた太安万侶が、右の漢語日下の意味を知らなかったとは考えられない。……最初にクサカに日下の表記をあてた人物は、案外、漢語日下の意味を踏まえていたのかも知れない。国号「倭」に「日本」をあてた『紀』が、「日下」の表記を採用することができなかった理由も、その辺りにあるのではないかと推察される。おそらく、太安万侶は右の知見に加えて、以下に述べる河内日下の歴史上の重要性を強く意識していたのではないかと考えられる。(29~30頁)

 日本書紀の編者がクサカを「草香」と記した理由は、日神信仰から憚られたからではなく、そう記したらわかりやすいと思ってそう記したに過ぎないであろう。万葉集にどうして「草香」と記して「日下」と記さないのか、それは、そう記したかったからそう記したのであろう。また、河内日下の歴史がとても重要であることは、他のどこの歴史もとても重要なことと同等で、河内日下の歴史がさほど重要でないことは、他のどこの歴史もさほど重要でないことと同等であろう。まず先に、音としてのヤマトコトバがあり、それにどのような漢字を当てたか。好字令(和銅六年(713年))を遡る飛鳥時代において、どのような用字にするかは、人々が本質的に“わかる”ことこそ求められていた。なぞなぞとしてわかること、それが当時の人々の思考回路に合致していた。そうでなくてどうして、楯を立てたところだから「楯津」、今は訛って「蓼津」などとくだらないことが言えるのだろうか。漢語「日下」はジツカのことであり、クサカとはおよそ縁がないと考える。
 山田純「『日下』をめぐる神話的思考―『古事記』序文の対句表現―」(『古代文学』48、2009年3月)は、古事記の序文に、「亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。」とあるのを曲解されている。古事記本文に「日下」“姓”の人は確かには出て来ないから、漢語の「日下(ジッカ)」=「天下」という意味を表わしていて、天皇版の中華観を「帝国の言語」で示しているとされている。
 ふつうに読んで、「亦、姓に於きて日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、此くの如き類は、本の随に改めず。」である。本文に登場する「日下」さんはクサカ、「帯」の字を帯びるのはタラシです、と、洒落を言いながら語っている。もし仮に倭語のクサカが「天下」をとるような意味とするなら、壬申の乱で勝利して平定した天武天皇は、さしずめ「日下帯天皇(くさかたらしのすめらみこと)」とでもなっていないといけない。
(注3)「日下」の「下」をシタ、ウヘシタ(上下)と考えると三次元のこととなる。シモ、カミシモ(上下)と考えると河川の上下のように平面的に考えることが可能である。朝日のある方向が上流で、そこから流れ出した日差しによって西方向が下流であるとの考えもできなくはない。東西を向いた切通しの場合に当てはめる試みである。けれども、同じ場所で夕方を迎えると、日差しは逆流することに当たるのであろうか。やはり日光を流れとして捉えていたとは考えにくい。東を向いていればカミ(上)で、だから伊勢神宮は都からみて東にあるとすることが共通認識とされていたのか、管見にして文献用例を知らない。また、東国(あづまのくに)はどう認識されていたのかや、「日に向ひて」という形容に「日の下(しも)に当りて」といった言い回しがあるのか、総合的に判断されなければならないであろう。
(注4)飛鳥時代に、「日出づる国」としてやけに早起きして勤務のため出廷しなければならなかったことからそう言える。ただし、因幡国伊福部臣古志に見える記事から、天磐船から「日下」を見たら国があったので降臨したとする話と、地名クサカの記述の「日下」とを混同させて考えるのには無理がある。文字の記号としての連想である。記号的な考え方としても、飛鳥時代後期に流れ込んできた五行思想に遠く及ぶものではない。
(注5)本居宣長・古事記伝・十八(神武)に、「日下と二字連ねてこそ久佐加とは読め、 ノ字のみを久佐と ムべき由なし、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805(477/600))、同・四十一(雄畧)には、「 フ ノ ノクラ坂の意にて、を日下と クは、日のクダればクラきものなるを以てにやなほよく考べし、師[賀茂真淵]はヒク坂にてそのを日と書き、を省きサガると云訓を借リて坂を下と書るにや、と云れつれどイト物遠し、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(433~4/577))とある。
(注6)名義抄(高山寺本、鎌倉時代初め)に、「卅 先合反、三十 𠦄 同」とある。異体字、ないし通用として実例があるのか管見にて調べたところ、経覚私要抄・第三に、「卉人出仕了」(康正二年(1456年)三月条)、和漢三才図会(正徳2年(1712年))に、「卉は三十也。字彙に、孔戣の墓誌(はかしるし)に孔世卉八と云へり。孔戣は乃ち孔子三十八世の孫也。今省きて卅の字に作る。」などとあった。時代の下った出土木簡では、「観世音卉三所遭礼同道数四人」(長浜市鴨田遺跡、宝徳四年(1452年))とある。
 なお、正倉院文書や藤原京木簡、平城宮木簡、平城京木簡には、二十のことが「廿」の略字で「廾」(にじゅうあし)に記し、その縮まった「艹」(いわゆる3画くさかんむり)に見える字も多く使われている。「艹」は「艹」(いわゆる4画くさかんむり)や「艸」の異体字である。すると、20も30もクサの意味ではないか、雑多に多いものだからクサの義ではないかとも考えられるが、草(grass)は案外一定の間隔でもって節目でつながって伸びていっている。月という単位でもって継がれる30という単位こそ、クサというに値するであろう。
(注7)けっしてないとは断じ切れない。ヤマトを「日本」と書いた人の気持ちに、ブラックユーモアがあったかもしれない。歴史学などでは、「日本」は国号として、その字面とニホン、ニッポンという音として検討されているが、ヤマトという音に「日本」という字を当てたのが始まりである。「日本、此には耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に効(なら)へ。」(神代紀第四段本文)とあり、「日本武尊」(景行紀)はヤマトタケルノミコトである。絶対にニホンブソンではない。本邦のいわゆる国号なるものの最初は、〔yamato〕(発音記号表示)であった。無文字時代にヤマトであり、文字文化が始まってもヤマトであり、その表記に「倭」、「日本」、「山跡」などと記されていた。後に漢字の字面がひとり歩きをし始めて、いわゆる国号なるものがニホン、ニッポン、ジッポン、ジャパン、ヤーパン、ジパングなどとなった。筆者は不勉強で、天武天皇の時代に音読みの「日本」がいわゆる国号と決められたという今般流行の議論の根拠を知らない。国の正式な歴史書である日本書紀(日本紀)に、「日本(夲)」と書いてヤマトと訓んでいるのだから、撰上された奈良時代の養老四年(720年)に、本邦の国の名はヤマトであったと考える。