古事記・日本書紀・万葉集を読む

コピペで学位は自己責任で。広告収入を得ていません。「上代語ニュース」もどうぞ。

トーハクくんと滑石製刀子のこと

2017年08月01日 | 無題
 トーハクくんはゆるキャラグランプリにエントリーしています。本日、8月1日から投票開始です。トーハクくんの本業は、ダンサーではなくて馬引きです。馬子(まご)とも言います。孫のようにかわいがってください。


 さて、新指定の重要文化財、世田谷区の野毛大塚古墳出土品(http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1870)に、滑石製のミニチュアがあります。①水の祭祀に関係があるものとして、水槽や下駄、②器として、坩(かん)と呼ばれる器やお皿、③生産用具として、斧や鎌、刀子が模造されています。なかでも、刀子、つまり、小刀は、革製の鞘に納めた鉄製の刀子がモデルです。革製の鞘を表現するために、革を糸で縫っていったように、糸の穴を2列に開けていくほど手が込んでいます。
滑石製刀子(野毛大塚古墳出土、古墳時代中期、5世紀、東博展示品)
 滑石製の刀子は出土点数がすごく多くて、野毛大塚古墳の第2主体部から232点以上も出土しているそうです。縫い合わせた跡を再現するなんて、何がしたかったのか興味津々です。なにしろ、生産の祭祀に関わるものであるとの括りに、斧、鎌がちょろっとあって、残りはみな刀子です。ナイフを革袋に納めた姿を石で作る気持ちが面白くて仕方ありません。
 月例講演会「古墳時代の石製宝器と儀器」(2017.7.29)で丁寧に教えたいただいた河野正訓先生にお尋ねしたところ、刀子は、それで木を削ったり、包丁として使ったり、埴輪の穴を開けたりといろいろできるとのことでした。要するに、河野先生の専門書にある古墳時代の農具(鋤や鍬)は、この刀子で木部を工作したのです。刃先は鉄でも、羽床(風呂)と柄の部分は木でできています。それをどうやって作ったか。伐り出してきた粗材を刀子で整えていく。だから、刀子は、稲作に使う農具を作る道具、今風の言い方で言えば、機械の機械、マザーマシンなわけです。国の産業にとって、工作機械メーカーの重要性に思いを致せば、なるほど、刀子ばかり模造してお墓に入れる理由も頷けます。工作機械の性能の優劣が、生み出される製品の品質を大きく左右し、ひいてはその国の工業力全体にも大きく影響を及ぼすため、工業立国を目指す国では工作機械産業を基幹産業と位置づけています。
滑石製刀子群(野毛大塚遺跡、古墳時代中期、5世紀、東博展示品)
左:滑石製斧、右:滑石製鎌(同上)
実際の刀子(鉄製、高崎市綿貫町出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品、写真は左右反転)
鍬羽床部分(木製、静岡市清水区長崎遺跡出土、弥生時代中期~後期、前2~後3世紀、静岡市教育委員会蔵、東博展示品)
 おおよそはそんなことであろうと思いますが、では、なぜ、滑石製鋸はないのでしょうか。いくつか考えられると思います。鋸があまり普及していなかった、木材が豊富にあったから無駄を考えずに手をかけることができて、叩き切ったり削いだりする方が早かったから専ら刀子が用いられていた、結局のところ最終的な仕上げ加工には刀子を用いていた、ほかいろいろです。下駄が鋸ではなくカッターで作られていたのか、私にはわかりません。
 モノが出土したから考えているだけですから、説得力のある議論に至りません。鞘に納められている姿で模造されていることの方が、重要なのかもしれません。刀子を表したいというよりも、鞘を表したいのではないでしょうか。他のところからは、鞘を縫った糸目を表現したものもあります。和名抄に、

 刀子 楊氏漢語抄に云はく、刀子〈賀太奈(かたな)、上、都穻反〉といふ。(細工具)
 剣鞘 郭璞方言注に云はく、鞸〈音旱〉は剣鞘也といふ。唐韻に云はく、鞘〈私妙反、佐夜(さや)〉は刀室也といふ。(弓剣具)

とあります。新撰字鏡に、

 鞘 思誚反平謂成刀剱室失知乃乎又佐也

とあって、「思誚反、平、刀剣の室を成すを謂ふ、失知乃乎、又佐也(さや)。」と読むのでしょう。中ほどの「失知乃乎」は、「失知のヲ(緒)」、備忘の用となる紐(手掛かり)という意味だろうと思います。つまり、刀子には大きさもそれぞれ、先の尖り方や反り、刃の幅もそれぞれで、それらを使い分けていたということではないでしょうか。使い終わってしまう時、それぞれぴったりくる専用の鞘に納め、刀子のセット一揃えが確かめられるわけです。
 「失知の緒」とある点はとても興味深いです。忘れないようにするための手掛かりだというのです。鞘とは“忘れ形見”なのです。カタナ(刀)を鞘に納めるということは、カタナは片名ですから、名(號)の半分です。もう半分は、人々の記憶の中に納めるのです。
 人は2度死ぬと言います。実際に当人が死ぬときと、その人を覚えている人が死ぬときです。生きている人に記憶されているうちは、その人は心のなかに生きていて、ありありと語られます。その記憶をたどる緒、思い出すよすが、それが「失知の緒」、鞘だというのです。あなたのこと覚えているからねぇって、お墓に副葬されたのではないでしょうか。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 吉備の反乱?(女相撲と闘鶏... | トップ | 井戸への呪詛話 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

無題」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。