古事記・日本書紀・万葉集を読む

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猿田毘古神と猿女君 其の二

2017年03月07日 | 論文
(承前)
訓蒙図彙(朝倉治郎監修『訓蒙図彙集成第三巻』大空社、平成10年、78頁)
 ひらぶ貝は、タイラガイのこととされる。タイラガイはタイラギともいう。タイラガイという言い方は重言かとも言われる。白川静『字訓 新装普及版』(平凡社、1995年)に、「たひらか」は、「ものに高低がなく、広やかであること。『ひら』は『ひろ』と同系の語で、『ひら』は高低のないことをいい、『ひろ』は広がりを主にしていう。『た』は接頭語。土地などの状況から、ことのありさまに及ぶまで、その事態のおだやかで静かなことをいう。『たひらぐ』はその動詞。」(479頁)とある。中村惕斎・訓蒙図彙(1666)に、「玉珧 今按ずるにたいらぎ 海月、馬頬、江跳、並びに同じく西施舌は盖し其の肉柱の名也」とある。馬頬とは、馬の横顔のように、鋭角の三角形に近い形をしている点に由来するようである。そして、馬に食わすほどという比喩があるほど馬は大食いである。動詞の「平(たひ)らぐ」の用法の後代に使われた例に、大量の食べ物を馬のように完食してしまう意がある(注13)。つまり、ひらぶ貝に咬まれるとは、轡が馬の口に嵌められたことを指す。轡の啣は、馬の口のなかにあって、唾液の底に沈んだり(「其沈二居底一之時」)、唾液が粒立ったり(「其海水之都夫多都時」)、泡を吹いたり(「其阿和佐久時」)と、いろいろな目に遇わされる。馬の唾液に塩味が感じられることは、体感していたことによると考えられる。以上、猿田毘古神が何を表わしているのか検討した。
 他方、猿女君については、猿女が登場する宮中の儀式から推測されよう。鎮魂祭である。古来、伊勢国の地名との関係が取り沙汰されている記述である。古事記では、地名を借用して馬具について物語っている。
 鎮魂祭は、天皇の霊魂が身体から離れないように強化するお祭りである。神祇令にオホムタマフリと訓があり、ミタマシヅメとは衰える霊魂を奮い起こすことだからという(注14)。貞観儀式等によると、神座に大臣以下が列になって入り、いっせいに八回手を拍つ。そして、御巫(みかんなぎ)が一人舞を舞い、さらに、宇気槽(うけふね)を伏せてその上に立ち、桙で槽を十回撞く。そのたびごとに神祇伯が木綿(ゆう)を結んで葛箱におさめる。このとき、女蔵人(にょくらうど)が御衣を振動させる。つづいて御巫、猿女が倭舞を舞い、中臣、忌部、侍従等も榊を手に庭で舞う。終了後、もとの座に戻って酒肴を賜って終了となる。古語拾遺に、「鎮魂(たましづめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。
 猿女に関しては、延喜式・大嘗祭式に、「大臣、若しくは大・中納言一人、中臣、忌部、中臣は左に立ち、忌部は右に立つ、御巫、猨女(さるめ)を率(ゐ)て、左右に前行せよ、大臣は中央に立ち、中臣・忌部は門外の路の左右に列す」とあり、鎮魂祭式に、「縫殿寮(ぬひとののつかさ)は猨女をして参入(まい)らせ……御巫、及び猨女等(ら)、例に依りて舞へ」と指示されている。猿女は、縫殿寮に所属しており、鎮魂祭のときだけ派遣されて舞を舞っている。天武紀十四年十一月条に、「天皇の為(おほみため)に、招魂(みたまふり)しき」とあり、そのころには行われていたと知れる。この日、法師が「白朮(をけら)」を献上してきたともある。ひょっとして天皇は、精力増強を思い立ったのかもしれない(注15)。いずれにせよ、この場で猿女君は、天の石屋を前にした天宇受売命さながらに、舞を舞う。
 舞を舞うに際し、髪に髻華(うず)を挿す。草木の枝葉や花を飾りに使った。「唯し元日(むつきつきたち)にのみ髻華(うず)着(さ)す。髻華、此には于孺(うず)と云ふ。」(推古紀十一年十二月条)とある。つまり、天宇受売命の、雲珠(うず)を連想させるストリップダンスを改め、同じ音のウズをつけた舞にしたのである。ウズだと聞いて楽しみにして集まった殿方は、とんだ猿芝居に付き合わされたと憤慨したであろう。天宇受女が猿女君の祖である由縁である(注16)
平野神社巫女舞(「京都時空旅行」様、平野神社・例祭・巫女舞の動画参照)
 記に、「猿田毘古大神は、専ら顕し申せる汝、送り奉れ。亦、其の神の御名は、汝、負ひて仕へ奉れ」とある。また、「猿女君等、其の猿田毘古之男神の名を負ひて、女を猿女君と呼ぶ」とある。紀一書第一には、「汝(いまし)、顕しつる神の名を以て、姓氏(うぢ)とせむ」とあって、「因りて、猨女君(さるめのきみ)の号(な)を賜ふ。故、猨女君等の男女(をとこをみな)、皆呼びて君と為(い)ふ、此其の縁(ことのもと)なり」とある。これらの記事は、天宇受売命とその子孫が、猿田毘古神の名から猿の一字をもらって猿女君というようになったという話と解釈されている。しかし、記には女と限定し、紀には男女ともという(注17)。君とは臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)のような称号の一つであるが、「姓氏」とあるから今の苗字に当たり、蘇我氏や秦氏、物部氏、大伴氏に当たることをいうようである。すると、例えば、中臣氏のような猿女君氏ということになり、傍訓にあるサルメキミと訓ずるのが良いのであろうか。何ともおさまりが悪い。名義において、カテゴリー錯誤を表明しているようである(注18)。名に負うことの意味合いをよくよく考えねばならない。
 猿女を管轄するのは、縫殿寮である。養老職員令に、「頭(かみ)一人。掌(つかさど)らむこと、女王(にょわう)、及び内外(ないぐゑ)の命婦(みゃうぶ)、宮人(くうにん)の名帳(みゃうちゃう)、考課(かうくゎ)のこと、及び衣服(えぶく)裁ち縫はむこと、纂組(さんそ)の事。助(すけ)一人。允(いん)一人。大属(だいぞく)一人。少属(せうぞく)一人。使部(しぶ)二十人。直丁(ぢきちゃう)二人」とある。実際の仕事は人事考課だけではないかと平安時代から疑問視されている(注19)。ところが、延喜式では、鎮魂祭のとき、「猿女」を出すようにと指示がある。いないはずの人がいるのはどういうことか。簡単である。人ではなくて猿だからである。
 猿の語源について確かなことはわからない。「戯(ざ)る」と関係するのではないかともされる。西郷信綱『古事記注釈 第四巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年)に、「猿女君の『猿』は猿楽の『猿』、つまり『戯(サ)る』であり、宮廷神事において職掌としてワザヲキ(俳優)を演ずるのにもとづく名だと思う。猿女というこの宮廷の呼称が先にあり、猿田毘古の名はいわばその説話的こだまとして生じたのである。」(86頁)とある。議論は本末転倒しているものの、言葉の関連性をよく捉えられている。ふざけ、たわむれる意味のザレルの変化した形である。子どもや動物がなれてまとわりつき、はしゃいでたわむれることである。サル山を観察してみれば、まさにそうした光景を繰り広げられている。親愛の情の深さゆえか、なかでもメスザルは、群れの順位の上位者に対してもよく毛繕い(グルーミング)をする。繕いものをしているように感じられる(注20)。よって、形式的に名前上、縫殿寮に所属することとなっている。言葉の上で違和感がない。
 また、猿は、「然(さ)る」、すなわち、そのようにあることを想起させる。したがって、猿女とは、それらしく振舞うこと、演じること、西郷先生ご指摘の通り、俳優を意味する名を負っていたと解釈される。「俳優(わざをき)」は、「隠されている神意……を『招(を)き』求める」(白川、前掲書、802頁)存在である。俳優は、ふつうの人なら王から死を賜るであろう諫言をさえ、その演劇的なわざのおかげで生き長らえ、王の側近くで裕福な生活もできた。猿芝居もはなはだしい。他の家臣からすれば、それは人に似ているが、人としての誇りを持たない一段劣る存在である。猿と呼んで過言ではない。
 江戸時代には、岡っ引の異称としても猿という言葉は使われた。奉行所の役人、今の警察官の手先として探索、捕縛にあたった。庶民の顔をしてなれなれしく振舞っておきながら、いざ事件となると情報はお上に筒抜けになっていた。仕事上の人事考課からふだんの素行までチェックしている。監察官は、人のようで人でない、小賢しい存在である。猿と呼びたくなる輩たちである。万葉集に一首だけ猿の歌が載る。

 あな醜(みに)く 賢(さかしら)をすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る(万344)

 記に、天宇受売女命について、「手弱女人に有れども、いむかふ神に面勝つ」とあるのは、王に対しては俳優であり、家来に対しては通信簿、いわゆる閻魔帳をつける係だからである。そうと知っていれば、怯み、口を慎み、おとなしくなる。まるで猿轡を食まされたかのように。

 大伴(おほとも)の 名に負ふ靱(ゆき)帯(お)ひて 万代(よろづよ)に 憑(たのみ)し心 何所(いづく)か寄せむ(万480)
 隼人(はやひと)の 名に負ふ夜声(よごゑ) いちしろく 吾が名は告(の)りつ 妻と恃(たの)ませ(万2497)

 「名に負ふ」という考え方について2首例示した。第1例の大伴氏は、靫負部(ゆげいべ)・舎人部など軍事集団を統率する氏族として、朝廷の王権確立のために戦ってきた。それは、名前のオホトモにも表れていて、トモとは鞆のことである。鞆は、弓を引く力が強すぎて、弦が弾けて左手の一の腕に当たって怪我をしないよう着ける防具のことである。したがって、オホトモは弓の名人なのである。また、隼人は、城門の外で夜警に当たるときに犬の吠え声を発することになっているが、名前のハヤヒトのハヤは、お囃子のハヤである。大声で囃さなければ、盛り上がるものも盛り上がらない。すると、猿女君の場合、名に負うとは、猿は人ではないから名前などはないのが本来で、女性を猿女君と呼ぶのも、男性を猿女君とするのも、偽の偽は真でいっこう差支えがないということになる。なにしろ、文献記録に、猿女君某を名乗った人は誰一人記録されていない。
 むろん、猿女君は名前であり、建前上は名負氏である(注21)。名に負う職掌を司っているとは、天皇に仕え奉る関係があることを示す。本居宣長に、政は祭事(まつりごと)ではあるが、本来は奉仕事(まつりごと)であって、天下の臣・連・伴緒(とものお)は、天皇の大命を拝してそれぞれの職を全うすることで仕え奉る、だから天下の政というとする(注22)。では、それを可能にした心性のベクトルは何であろうか。絶対主義国家の王権神授説になぞらえていうなら、それは、王権なぞなぞ説とでも呼ぶべきものであったろう。すなわち、天皇家の人に名がないのは、天孫が稲、つまり、ご飯ないしお酒を表し、おかず、つまり、菜(な)(魚)ではないからである。茶碗の飯(めし)を手に持ち、反対の手に箸を持って菜を取って食べる。飯が主、菜が副の関係である。これをパラレルに展開したのが古代の氏姓制であり、名のある人々は天皇の命(みこと=御言)に召されたわけである。なぞなぞの素っ頓狂な知恵によって煙に巻いて、古代の朝廷は支配の正当性を確かにしていたといえる。

(注1)日本書紀では、神代紀第九段一書第一に記載がある。
 已(すで)にして降(あまくだ)りまさむとする間(ころ)に、先駆者(さきはらひ)の者(かみ)還りて白さく、「一の神有りて、天八達之衢(あまのやちまた)に居り。其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背(そびら)の長さ七尺(ななさか)余り。七尋(ななひろ)と言ふべし。且(また)、口尻(くちわき)明り耀(て)れり。眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、赩然(てりかかやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり」とまをす。即ち従(みとも)の神を遣して往きて問はしむ。時に八十万の神有り。皆目(ま)勝ちて相問ふこと得ず。故、特(こと)に天鈿女(あまのうずめ)に勅して曰はく、「汝(いまし)は是、目の人に勝ちたる者(かみ)なり。往きて問ふべし」とのたまふ。天鈿女、乃ち其の胸乳(むなぢ)を露にし、裳の帯(ひも)を臍(ほそ)の下に抑(おした)れて、咲噱(あざわら)ひて向きて立つ。是の時に、衢神(ちまたのかみ)問ひて曰く、「天鈿女、汝為(かくす)るは何の故ぞ」といふ。対へて曰く、「天照大神の子(みこ)の幸(いでま)す道路(みち)に、如此(かく)居(を)るは誰そ。敢へて問ふ」といふ。衢神対へて曰く、「天照大神の子、今し降行(くだ)りますべしと聞く。故、迎へ奉り相待つ。吾が名は是、猨田彦大神(さるたひこのおほかみ)」といふ。時に天鈿女、復(また)問ひて曰く、「汝、将(はた)我に先(さき)だちて行かむや。将抑(はた)我や汝に先だちて行かむや」といふ。対へて曰く、「吾、先だちて啓(みちひら)き行かむ」といふ。天鈿女、復問ひて曰く、「汝は何処(いづこ)にか到らむとする。皇孫(すめみま)何処にか到りまさむとする」といふ。対へて曰く、「天神の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(くじふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に到るべし」といふ。因りて曰く、「我を発顕(あらは)しつるは汝なり。故、汝以て我を送りて致りませ」といふ。天鈿女、還り詣(いた)りて報状(かへりことまを)す。皇孫、是に天磐座(あまのいはくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯に到します。其の猨田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に到ります。即ち天鈿女命、猨田彦神の所乞(こはし)の随(まにま)に、遂に以て侍送(あひおく)る。時に皇孫、天鈿女命に勅したまはく、「汝、顕しつる神の名を以て姓氏(うぢ)とすべし」とのたまふ。因りて猨女君(さるめきみ)の号(な)を賜ふ。故、猨女君等の男女(をとこおみな)、皆呼びて君と為(い)ふ。此れ其の縁(ことのもと)なり。(神代紀第九段一書第一)
(つづく)
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