三輪山伝説 其の五

2016年10月14日 | 論文
(承前)
(注1)荒川紘『車の誕生』(海鳴社、1991年)に、「人類は前五〇〇〇年ごろまでには橇を手にしていた。丸木舟と並ぶ最古の運搬具である。……純粋の橇から車への移行。その動機としてよくあげられるのはコロ説である。……人類は経験的に、丸い棒を並べその上を走らせるならば容易に動かせることを知った。コロは滑り摩擦係数を減ずるとともに、コロが回転すれば摩擦はさらに小さくなる。ただ、橇が移動すると同時に、コロを車の前部に並べ換えねばならないという面倒がつきまとう。この面倒さを解消するために、コロが車体から離れずに一定位置で回転するよう工夫したのが最初の車であったと考えるのである。それゆえ、この仮説によると、最初の車輪は車軸と一体であったのであり、その後車輪は車軸から分離、車体に固定された車軸のまわりを回転する形式に改良された、と想定される。この改良によって、摩擦が小さくなったのに加えて、両輪が独立に回転可能となり、そのため車の方向の転換が楽になる。とくに機動性が求められる戦車には有効であったにちがいない。コロ説は一つの仮説であって、それを証明する資料を提示することはできない。といって、コロ説以上に説得力のある仮説を捜し当てることはできないので、私も、いまのところはコロ説に従っておきたい」(16~17頁)とある。車以外の回転系の技術、紡錘車と轆轤についても言及されておられる。三輪山伝説について、本稿のとおり車輪と紡錘車をモチーフとしており、轆轤技術については、三輪山祭祀における陶邑の須恵器との関係が指摘されよう。言葉と技術とが相即的な関係にあるという、無文字文化であるなら当たり前のことが、現代の眼からも示されている。
ウルク粘土板ピーター・ジェームズ/ニック・ソープ、矢島文夫監訳『事典 古代の文明』(東洋書林、2005年、45頁)
(注2)荒川紘『世界を動かす技術=車』(海鳴社、1993年)に、「車の本格的な最初の改良は、シュメールに車が出現してからほぼ一〇〇〇年後、北メソポタミアに勢力を有していたミタンニ人が牛や驢馬よりも強力な馬を繋ぎ、そしてそれまでの円盤の車輪に代えて、輻(スポーク)つきの軽量な車輪を導入したときである。機動性に優れた戦車の追求から生まれたと考えられる。機動性ということでは、四輪車よりも小回りのきく二輪車が有利であるので戦車にはもっぱら二輪の馬車が使われた。軽戦車の出現である」(15頁)とある。
 本邦には牛車ばかりで、馬車の見られるのが明治維新に下る。乗用には二輪車ではなく飾り立てられた四輪の牛車が偏重されていた。荷車として石山寺縁起に見えるものも牛車である。どうしてそのような状況に置かれていたのかについては、とても興味深い課題である。本論とは別の事柄であるので深入りはしないものの、荒川、前掲『車の誕生』に、牛車や駕籠は「見栄をみたすための大道具」(144頁)であったこと、「急ぎの用ということでは騎馬があ」(139頁)ること、「労働事情[として]……過剰人口を抱いた国で……飼育や訓練に手間のかかる動物の利用に熱心にならなかった」(140頁)など、示唆に富む指摘が多くなされている。技術の歴史の一筋縄では説明できない不思議さを解き明かそうと試みた名著と言えよう。
馭者の乗らない馬車の絵(長恨歌図屏風、筆者不詳、紙本金地着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
(注3)荒川、前掲『車の誕生』、132頁を踏襲している。筆者には、日本の牛車が高句麗の人からもたらされたとする説に疑問が残る。通溝・舞踊塚古墳玄室奥左側の図は、狩猟図であり、牛車は幌付きの荷車である。そのような車は、牽引は馬ではあるが後漢の時代の画像石にも見られる。平安時代の貴族は、大陸に荷車であった幌付き牛車を乗用車にしたということであろうか。何が似ていて何が似ていないのか、よくわからない。
狩猟図(舞踊塚古墳、共同通信社・ナリタ・エディトリアル・オフィス編『高句麗壁画古墳』共同通信社、2005年、275頁)
一棚車(沂南漢墓中室北壁横額東段畫像、後漢時代、2世紀、中国畫像石全集編輯委員会編『中国畫像石全集1 山東漢畫像石』山東美術出版社、2000年、156頁。解説に、「一棚車、御者控轡、車中伸出二枝斜插的長矛」(68頁)とある。「棧車」とも記され、手荷物馬車のことである。
三彩牛車・馭者(陶製、中国、唐時代、7世紀、横河民輔氏寄贈、東博展示品)
(注4)老子・無用第十一に、「卅(みそ)の輻(や)共(とも)一つの轂(こしき)〈古は車、卅の輻あり。日の数に法(の)とる也。一つの轂を共にすれば、轂の中に孔有りて、故、衆(もろもろ)の輻、共に之れに湊(あつ)まる。身を治める者、当に情を除き慾を去り、五蔵をして空虚ならしめば、神、乃ち之れに帰る也。国を治める者、寡(とくすくな)くして能く衆を(もろびと)を惣(す)ぶれば、弱き共(とも)に扶(たす)けて強(こは)きこと之れ也。〉其の無なんことに当りて車の用有り。〈無は空虚(むな)しきを謂ふ也。轂の中(うち)の空虚しき輪にて転(めぐ)り行くを得たり。輿の中(なか)の空虚しくして、人の其の上に載るを得る也。〉埴(はにつち)を挻(せん)して以て器(うつわもの)を為(つく)る。〈挻は和する也。埴土也。土を和して以て食飲の器を為る也。〉其の無に当りて器の用有り。〈器の中の空虚しきこと、故、盛り受ける所有るを得る也。〉戸牖を鑿(うが)ちて以て室を為る。〈室屋を作るを謂ふ也。〉其の無に当りて室の用有り。〈戸牖の空虚しきを言ふ。人、以て出入りし観視するを得たり。室の中の空虚しき、人、以て居処するを得たり。是、其の用也。〉故に有(う)の以て利と為(す)〈物の形に利あるは、器の中に物有り、室の中に人有るは、恐らくは其の屋の破壊(やぶれこぼ)るにあり。腹の中に神有るは、其の形の消え亡せんを畏るる也。之れ〉は、無の以て用を為せばなり。〈言、虚空しき者、乃ち盛り受ける物を用う可き也。故、虚無の有形を制するは、道は空しければ也。〉」とある。(筆者の訓読はあやしいので原典を当たられたい。)阿部吉雄・山本敏夫ほか著『老子・荘子 上』(明治書院、昭和41年)に、「このような訳であるから、有すなわち存在するものが人々に利をもたらすのは、無すなわち存在しないもの隠れたるものが働きをなすからである」(28頁)と無用の用について訳されている。
 老子のあげている例が、轂、土器、住まいであるのと、本稿で見渡した轂、甑、橧とがとてもよく対応している。そこには何らかの関係があるのか、祓という実質を伴わない“無用の用”的儀礼の意義にまで及ぶことがらなのか、今のところ不明である。憲法十七条に、老子からの修辞に学んだ句が見える点に手掛かりが求められるかもしれない。後考を俟ちたい。(注20)参照。
(注5)樋口清之『新版 日本食物史―食生活の歴史―』(柴田書店、昭和62年)に、次のようにある。今日の考古学上の通説とは異なる点があるかも知れないが、示唆の多い指摘である。

 ……東洋ではイネやオオムギの伝播に伴いで粒食が好まれた。中国新石器時代土器に袋形をなした三脚を有する鬲(れき)や底部に若干の小孔を穿った甑(こしき)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあり、これは明らかに穀類を粒のまま蒸すのに使用したもので、それらは青銅器時代に入っても同形に鋳造盛用されている。このような穀物を蒸す技術は、米の流入と共に日本に伝わったらしく、弥生式土器の前期のものにすでに甑が存在している。わが国における甑(こしき)の用法は、この中に布で包んだり、篭・笊に入れた米を入れて固く蓋をし、火にかけて湯の沸き立っている甕や鉢形土器の上に載せ、水蒸気で蒸した。古墳時代には甑、釜、竈(移動性のもの)がセットになった遺物が存在し、蒸す方法が一層発達したことが知られる。甑の底の蒸気孔の上には木の葉(カシワ、シイ潤葉樹やサトイモ、ハスの葉、マコモ、アシなどの葉や竹の編物)を敷いた場合も多く、そのことからカシワは炊事の代名詞となりその専従者をかしわで[かしはで](膳部)とよぶようになったとする説もある。蒸す方法は古代の米の調理法の代表とされ蒸した米をいひとよんだ。(70~71頁)

 和名抄にある「箄(いひしたみ)」とは、蒸すためのシタミということになる。甑の中にセットされたものを指している可能性も残る。延喜式に、「籮」をカタミと訓んでいる。和名抄に、「笭簀 四声字苑に云はく、笭簀〈零青二音、漢語抄に加太美(かたみ)と云ふ〉は小さき籠也といふ」とあるもので、用途の違いではなく大きさの違いということである。小林行雄『続古代の技術』(塙書房、昭和39年)に、延喜式にある「煠籠[(あふりこ)]は『内膳司式』にいう漉籠[(したみこ)]と同一のものかと推定される。漉籠もまた、ゆで餅をゆでる時に用いたものである」(160頁)とある。今日、麺類の湯切りをする行為も、シタムということのようになっている。ただし、和名抄では、「烝」と「茹」は別項である。「烝」に、「火気の上へ行く也」と説明されており、もともとは水分の上下動のための調理用具をシタミと考えたと思うがどうなのであろうか。
瀬川、前掲書に、飯の炊き方として途中で湯取りをする方法が残っていて、煮え立った飯釜の中にノリトリ籠を入れて糊をしみ出させてくみ出したという。栄養面でもったいないし、しかも大陸にもその湯取りに似た炊き方がある点について不思議とされている。このノリトリ籠も箄の変形に見えてくる。
ノリトリ籠(瀬川、前掲書、60頁)
(注6)蒸し網(蒸し皿)
 今日、ふかしざるには、金属製でフレキシブルに大きさを変えることのできる商品が出ている。小泉先生のあげられている例は、大きさからして甑の底部に逆さまに伏せて入れて蒸気の通りを良くしながら米粒を落とさない仕掛け用のものである。蒸気の水分を「下」に通して「火気の上へ行く也」といえる。反対に、蒸すための笊としては、甑の大きさに合わせた竹籠を編んだものかとも思われる。和名抄の「籮(したみ)」の説明に、「底を方にして上の円なる者」とあった。そういった形に作った竹籠ならば、穴が一つの甑に落とし込んだとき、底の穴にすっぽりと納まって、蒸し上がった時、箄ごと取り出せて甑を洗う手間が要らない。竃に嵌め殺しの甕では甕が洗えなくて潔癖症にはつらかろうが、甑も洗わなかった可能性まであり得る。廣岡孝信「考古学からみた日本酒の歴史」『酒史研究』第30号(2014年9月)に、「[弥生時代の底部穿孔土器]の蒸し方では、土器内のコメを均一に蒸し上げることは期待できない。それが弥生時代の技術的な限界であったと理解してよいのではなかろうか」(10頁)とあるものの、山口昌伴「火まわりの道具立て 釜甑(ふそう)」『食の科学』№291(2002年5月)に、「蒸気エネルギーは穀粒などの隙間をまんべんなく通るので変成を均質にし、エネルギー効率が高い、というメリットがある」(64頁)とされている。何段にも重ねられた蒸籠のどの段でも粽が作られている。実験すればわかることと思う。特に酒造にとっては、蒸すことによってデキストリンとなった米澱粉を糖化してその糖を酵母菌がアルコールに変えるという同時進行の離れ業に有効であるとされる。てきぱきと作業するには箄内蔵方式が良いように思われる。(筆者には化学はわからないので研究書を当たられたい。)
 竈に嵌め殺しで築かれた甕に常に水が張られて湯が沸いており、そこへ甑を載せるとすると、どちらも土器である甕と甑の間の隙間から湯気が逃げて行くから、コシキワラノハヒ(甑帯灰)というものが、甕と甑との間の隙間を埋めるためにあてがった藁の焦げではないかとの想定もできる。いずれにせよ、現状では机上の論にすぎない。
液体を濾過(画像石、中国山東省嘉祥県出土、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
(注7)佐々木幹雄「三輪君と三輪山祭司」日本歴史第429号(吉川弘文館、1984年2月)、和田萃「三輪山祭祀の再検討」『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 下』(塙書房、1995年)。三輪山から出土した須恵器74点の大半は陶邑に由来しており、陶邑で焼成された須恵器を用いての三輪山祭祀は、5世紀後半から始まり、6世紀前半、6世紀後半がピークで、7世紀には急速に衰退したようである。この考古学的事実と、古事記に残る三輪山伝承とを勘案して、“歴史”的経緯を見出そうとするのは有りがちな議論である。佐々木先生ご自身、「伝承と史実とが混乱してくる」(27頁)ことを恐れられている。三輪山神婚譚は、「神と巫女との関係を神話的に表現したもの」として処理されている。話(咄・噺・譚)なのだという融通が利かなくなっている。筆者は、歴史学的なものの考え方をする立場にない。記紀万葉をありのままに読むことを念頭に読解を行っている。近代の歴史学や神話学というフィルターがいったんかかったら、もはや上代の人の心に触れることはできないと考える。
 和田先生のあげられている疑問点を記しておく。「[①]三輪山山麓集団の実態は何か、[②]須恵器が堅牢で祭器として優れていても、そのことが何故陶邑と三輪の集団を結び付ける機縁となりえたのか、[③]渡来系氏族を母体とする三輪君がどうして『君』姓のカバネをもつのか、[④]六世紀以降、三輪山祭祀が国家的祭祀として行なわれたものとすれば、どうして三輪の神が国つ神として位置付けられねばならなかったのか、等の疑問が残る」(45頁)とある。いま、筆者にすぐ用意できる回答としては、①は関知しない。②はスヱとミワという言葉が縁語だからである。③は「猿女『君』」と同等の事柄として研究すべき課題であろう。④は本稿の中心テーマである。ミワとは、半月(はにわり)、黄門、paṇḍakaと深い結びつきがある言葉で、交わることが禁忌とされてしかるべき祓えの対象、国つ罪であり、国つ罪に対するのは国つ神なのである。異種交配のタブーがついて回る場所がミワという地だから、誰が祭祀しようが、国つ罪であることに変わりはない。罪の種類によって神の種類が変わってくるということであろう。
(注8)田中保「絵巻物のなかに描かれている牛車(ぎっしゃ)の表現」『名古屋大学教養部紀要B(自然科学・心理学)』第28輯(昭和59年2月)に、「絵巻物のなかに描かれている牛車の輻は、刻明に1本ずつ描かれているものもあるが、他の物のかげになったり、疾走中の様をあらわすため輻が流してあったりして、その本数を数えられないものもある。ここでは数えることのできた8絵巻、28台についての調査結果を述べる。……輻数はすべて3の倍数になっている。……牛車の輪の構造から……部材の1片から3本の輻が出るので、輻数=3×(部材……の片数)が忠実に描かれているのではないかと考えられる」(30頁)とされ、実際に絵巻物の絵のなかの車輻の数を調査されている。それによると、
 伴大納言絵詞21本1台
 吉備大臣入唐絵詞24本1台
 年中行事絵巻(住吉本)21本7台、24本1台
 北野天神縁起(承久本)24本1台、33本2台
 西行物語絵巻21本1台
 駒競行幸絵巻24本1台
 平治物語絵巻18本1台、21本5台、24本5台
 小野雪見御幸絵巻24本1台(別場面で23本に誤る)
となっているという(31頁)。3の倍数である点は、作り方を知っていればそう描くであろう。そして、いちばん外側の輞の部品、大羽に3本ずつ、輻が対応するように装着させるパターンから、やはり輻を伴う車輪が「三輪」なのだと納得がいく。
「京町家はいま」サイト様より
 しかし、周礼・考工記に忠実な、ちょうど30本の例が見られないのは不思議である。(注9)に示すとおり、90は卆で縁起が悪いと言い伝えられて避けられているのであろうか。他の絵巻にも牛車は描かれているから、調査する価値はありそうである。なお、井上尚明「描かれた車と道」『古代交通研究』(第13号、2004年)は数え方が違うようである。
(注9)「卒」のシュツ(シュチ)の音は、ヲハル、ツキル、シヌの意である。爾雅に、「卒 尽也、已也、終也、死也、既也」とある。万葉集では、題詞に、「石田王卒之時丹生作歌一首」(万420)、「同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首」(万423)とある。「卒(みまか)りし時に」と訓むのが通例である。ほかに、「坂本財臣卒りぬ」(天武紀元年五月条)、「凡そ百官身(み)亡(まう)しなば、親王及び三位以上は薨(こう)と称せよ。五位以上及び皇親は卒(そち)と称せよ。六位以下、庶民に達るまでは死と称せよ」(喪葬令)とある。
 扶桑略記第廿九、康平三年(1065)条に、大僧正明尊の九十の賀の記録がある。「十一月廿六日、関白従一位〔経通〕於白河別業大僧正明尊九十之筭。図-絵釈迦如来像一鋪。書-写妙法蓮華経九十部。其詞曰。伏惟大僧正法印大和尚位。戒定瑩器。忍辱裁衣。一乗圓融之嶺、開顕之花春鮮。五部惣持之園、智慧之菓秋盛。旁究学海之波浪、早為佛家之棟梁。弟子従弱冠之始、迄携杖之今、依其護持之力、全此愚昧之身。方今和尚春秋之筭。九旬全盈、可喜可懼、正是其時也。仍掃白河之勝形、敬致丹地之懇念。彼姫公旦之在洛邑也。未花文於禅林之月。智法師之老蘇州也。誰賀松年於巨川之波。今日之事少超古人。又源亜相〔師房〕述和歌序、其詞云、三冬之仲、子月下旬。関白尊閤忽排白河之花亭。設緇素之宴席。盖賀大僧正法印和尚九十筭也。和尚戒定内明。智行外朗。早為一宗之棟梁。久経数代之朝廷。過八十八廻、如来猶以不尓、超九々九歲、筭師所量也。是以因无漏无為之功徳。證不老不死之妙文者歟。遂感希代之鶴齢、命佳会之鸚盞。〈已上〉左大臣〔教通〕以下皆参。
 如来がそうではなく、筭師も計算できない年齢まで生きることは、人の齢の概念を打破する。今までの考え方をヲハリ(卆)にしなければならないということか。霊異記・上・第五話に、「[大部屋栖野古(おほとものやすのこ)]春秋九十余にして卒(みまか)りき」とある。「よみがえりの連(むらじ)の公」のお話である。
(注10)木下武司『万葉植物文化誌』(八坂書房、2010年)に、「おそらく、古代から室町時代までは、シログワイとクログワイの両方を、クワイと総称していたと思われる。中華料理の食材にある黒慈姑は、……シロクワイの改良品である……。……『本草和名』、『和名抄』にクワイという名がありながら、万葉集ではなぜヱグと称したのだろうか。一つの考えとして、クワイは本草家の命名による烏芋という漢名に対してつけられた名であり、古くからある土名がヱグであったと思われる。ヱグイモすなわち『ゑぐい芋』の短縮形と考えられ、食べられるといってもかなりゑぐ味があり、かろうじて食べられるという程度のものであるから、正鵠を射た名といえるだろう。冬は食料の乏しい時期であり、米や雑穀の在庫が少なくなった場合、古代ではこんな芋でもご馳走であったにちがいない」(626頁)とある。筆者は、クワイがまずいかどうかについて、コメントを差し控えたい。命名については、クワヰという何とも元来のヤマトコトバ調でない点に、いわゆる和訓の臭いを感じている。
 また、日本風俗史学会編『図説江戸時代食生活事典』(雄山閣出版、平成元年)に、「クワイは地下の塊茎を食用とするが、昔から正月のお節料理や三月の節供料理には欠かせなかった。香気が高く風味も高尚で、今では高級料理に用いられている。また、クワイは性欲を抑制する効があると信じられて、ことに僧徒に食され、さらにこの俗説にちなんだ艶笑小話もいくつか作られている」(117頁、この項、植木敏弌先生)とある。本稿の主張する三輪山伝説半月説に関わりがあるように思われてならない。
 また、ヱグシイモ、クワヰのヱグ味については、灰汁(あく)の味も思い浮かべられる。
饕餮文甗(青銅製、中国、西周時代、前11~10世紀、坂本キク氏寄贈、東博展示品)
 甗(ゲン)は釜と甑が一体のものである。一説に、異民族を狩ってその頭部を蒸したともいわれる。「饅頭」にある「頭」字の由来なのだそうである。ところが、蒸すのに重要な蓋の仕方がよくわからない。蓋の素材が何か、また、把手を避けて蓋をするにはそれなりの仕方でなければならない。筆者の推測では、蓋は青銅ではなく木製で、落し蓋に見えるような入り方ながらご飯を炊く時に用いるようなある程度厚い蓋ではなかったかと思う。この、沸いている湯へ血が滴り落ちていたことをヤマトの人が伝え聞いて、とても野蛮な行為、“ひとでなし”であると感じていたとすると、(注25)に示した3つの波紋円の重なり合いによるクワヰの葉の形の出来上がりについて、甗の下部の鼎のような三脚のつくりからして、甗のなかを見るような思いがしたということになる。血の湯のアクの残り方が、蒸発により湯量が減るにつけてそのようになる。アクに関する語に次の例を見る。第一例は本文と重出である。

 醅〈釃字附〉説文に云はく、醅〈音典、盃に同じ、漢語抄に加須古女(かすこめ)と云ひ、俗に糟米と云ふ〉は醇(かたさけ)の未だ釃(した)まざる也といふ。唐韻に云はく、釃〈所宜反、又上声、釃酒 佐介之太无(さけしたむ)、俗に阿久(あく)と云ふ〉は酒を下む也といふ。(和名抄)
 灰汁 弁色立成に云はく、灰汁〈阿久(あく)〉は淋灰〈阿久太流(あくだる)、上、音林〉といふ。(和名抄)
 鐖 アグ(釣針の返し)
 悪 アク(三宝絵上(984年訓))

 酒をシタムと、漉す器の箄(したみ)のいちばん上に輪状に白くアクが残る。灰汁は、上澄みの水を媒染剤などに用いる。植物のなかに含まれるえぐみや、肉を煮た時の肉汁の表面に浮かぶ茶白い泡もアクという。冷しゃぶを作った後、鍋の水面すれすれに汚れの輪がついている。同じことが甗の鬲(レキ)の部分でも起こって、人でなしとは「三輪」なのだということである。釣針の返しの民俗用語にアグというのは、腸抉の矢の返しと同じ効果がある。魚は一度飲みこむと、吐き出そうとすればするほど引っ掛かって取れにくく刺さっていく。道徳的に悖ることが漢語の「悪(アク)」である。本稿で述べた事柄と合致する意味ばかり登場している。
(つづく)
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