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仁徳天皇は「聖帝」か 其の二

2017年06月13日 | 論文
(承前)
 ◆(礻偏に咸)は、示偏(礻)であるが、衣偏(衤)の字は、「𧛡」という字である。「𧛡」は字書に載る字で、「旌旗之游也」、つまり、幡足(ばんそく)のことである。
ひるがえる幡足(東大寺慶讃法要・庭儀、昭和63年5月2日、井上博道『東大寺』中央公論社、1989年、69頁)
幡足(飛鳥~奈良時代、幅約15cm、法隆寺献納宝物、東博展示品)
 和名抄に見える「旒」に当たる。

 幡〈旒附〉 考工記に云はく、幡〈音翻、波太(はた)〉は旌旗〈精期二音〉の惣名也といふ。唐韻に云はく、旒〈音流、波太阿之(はたあし)〉は旌旗の末の垂物也といふ。
 此の時に当りて、綴(かが)れる旒(はたあし)の若く然なり。(雄略紀八年二月条)
 
 縦長の幡(はた)の下部に、小さな布製の垂を幾条かに下げているのを足(あし)と言っている(注8)。衣偏(衤)と示偏(礻)では、右腰のノ部分に違いがあるが、幡足を他に転用してしまえば、これはもはや幡足ではなくなり、衣偏に当たらないことを表わしているのではないか。絹製品の衣としての機能を捨て、社(やしろ)のために用いている。ヤ(屋)のシロ(代)とは、屋根の代用の意と捉えられる。すなわち、誤写などではなく、示偏への移行を“表意”した国字であると言える。そのような異体字の国字造字の例に、「蒲」字の異体字例がある。記に、蒲は稲羽の素菟に毛皮の復活を表わしていた。蒲の花粉に薬効があるとされている。ガマという水生の草本そのものではなく、そこから捕ってきた黄色い花粉に注目している。よって、ガマノハナの文字表記に、「蒲黄」改め「捕黄」という用字にしている。
「以◆受其漏雨避」(『古事記 国宝真福寺本』桜楓社、1978年、185頁)
「其水門之捕黄敷散」(国会図書館デジタルコレクション(22/46))
 これは当て推量ではない。その根拠は、「𧛡」=ハタノアシとは、アシだからである。河内の高津宮の屋根の素材はアシ(葦)であると推定してきた。アシ(葦)が破れたのだから、幡のアシ(足)をもって宛てがおうという魂胆である。ヤマトコトバに洒落となっており、無文字文化の人々に“わかる”仕掛けになっている。そして、仁徳天皇はアシ(足)が不自由だったから梯子に登れなかったことを暗示している(注9)。上にあげた速総別王(隼別皇子)との確執の末に、それら歌謡は定立されている。
 天皇は、祭式典礼用の幡を犠牲にして、雨漏り対策をしている。それが観念の上であり得るのは、すなわち、お話を聞かされている側としてもよくわかるのは、皆が幡の特別形態の灌頂幡の存在を知っていたからであろう。灌頂幡は、天蓋の中に幡が吊るされている不思議なものである。幡を保護するために、パラソルかアンブレラかに覆われている。その守られている幡はおシャカにして(無用にして)、人にさし懸けるようにしたという意味合いになる。すなわち、宮のなかでテントを張ったことと同じことになっている。法隆寺金堂に釈迦三尊像が天蓋に覆われているかの如く、仁徳天皇は破れ屋根の高津宮内に天蓋に守られていると強弁しているらしい。釈迦像と同じことなのだから、仁徳天皇は生きながらにしてホトケ様と同じお姿をされている。足が不自由で動けないのも、結跏趺坐しているところと見て、「聖帝」と諷刺されている。
金銅灌頂幡(飛鳥時代、7世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品、手前はレプリカ)
法隆寺金堂釈迦三尊像(「高岡市観光ポータルサイト『たかおか道しるべ』」様)
帳台(小松茂美編『続日本の絵巻13 春日権現験記絵上』中央公論社、1991年、15頁)
蓋高座(同上書、74頁) 
高御座(「《京都》御所と離宮の栞 其の十四」(宮内庁)様)
鳳輦(福山敏男編『新修日本絵巻物全集第24巻 年中行事絵巻』角川書店、昭和53年、オフセットカラー4図)
 人が天蓋の下に入って奉られている様子は、帳台に同じである(注10)。帳台の起源はわからないが、建築物の中にさらにテントがあってそのなかに御座りますその姿は、防災シェルターに暮らしているようなものである。話の初めに、「登高山」や「登高台」とあるのは、輿に乗って運んで行ってもらったか、人目に付かないように舎人におんぶされたか、エレベーター状のものがあったのかもしれない。
 以上、仁徳天皇の「聖帝」の話は、仁徳天皇のアシ(足、葦、◆(礻偏に咸)≒(𧛡))の揶揄話であったことが理解できてきた。「帝」についてはミカドであるから、角立って四角い蓋(きぬがさ)であることと対応する。◆(礻偏に咸)字に紛らわしい椷も四角い。どうやら仁徳天皇という人は、四角四面で冗談の通じないお人柄であったようである。雨漏(あまも)りの君だから、天降(あまも)りの君、降臨した天孫の末裔として奉っておけばいい。巨大な墳墓を築くことになったのは、オホサザキというその名ゆえそうしたまでである(注11)。この「烟」、「烟気」の話においても、紀には、「従事乎無為」とある。それを読み返せば、ほとんど無策の政治家像に描かれているふしがある(注12)。単にほめ殺ししておけばいいのだから、人民にとっては楽な為政者である。紀では6年遊ばせてもらった。巡察に来ないのだから昼間は烟が立たぬようにし、夜間に炊事をしておけば税金逃れができた。ありがたい話である。まあ欲をかいても仕方がないし、運動不足解消にも、自分のところでやっているDIYをやってあげよう。あっという間にできあがった。誠に安易なミカドである。よって、「聖帝(ひじりのみかど)」と言葉の上でも褒め殺している。

(注1)和歌は、 日本紀竟宴和歌のひとつで、藤原時平の作という。記紀の逸話は、一概に民の竃の話とされている。しかし、仁徳記紀にいずれも「竃」と記されずに「烟」、「烟気」としか出てきていない。歴史学は、いつからこの話が「竃」と直結させられたか探らなければならない。仁徳天皇時代に、いわゆる「竃」がどのような形式のものとしてあったのか、渡来人による竃技術の伝播の歴史と併せて考慮されなければならない。本稿は、火処(ほど)の場所がどこにあるのか、煙突によって煙はどのように排出されていたか、焚き木に代えて炭を使うことで煙は少なくなっていたのではないか、といった考古上の知見を必ずしも要しないと考えるので割愛させていただく。ひょっとすると、囲炉裏式の煙もうもうと、燃焼効率が良い竈に煙が少ないのと、茅葺き屋根の燻煙長持ち法との関係での試行錯誤が背景にあったのかもしれない。いずれにせよ、民の家の内部構造を知る由のない記述であり、人民の生活実態から遊離して話が進められていることにこそこの話の面白味があると言える。
(注2)仁徳記のこの話を、いわゆる聖帝記として徳政を語る話であるとするのが定説化している。子ども向けのお話に多く逸話化されている。大人向けでは、中国の儒教思想に基づいて虚構されたものであると言われている。議論は、津田左右吉『津田左右吉全集 第二巻』(岩波書店、昭和38年)に、「仁徳天皇が民の課役を除かれたといふ話について……これは政治的意義を有する物語の唯一の例であるが、『登高山見四方之国』とあつて、其の高山がどこであるかを説かず、『於国中烟不発』とか『於国満烟』とかいつてゐる『国』が、どこをさしてゐるかもわからぬやうに、すべてが抽象的ないひ方であるから、実は具体的な物語ではない。さうして、此の物語の精神が儒教式仁君の観念にあることは、物語そのものが明かに語つてゐるところであるのみならず、『聖帝』といふ用語が用ゐてあることによつても、それは確かめられるし、課役を除いた期間を三年とした点にも、シナ[中国]思想が現はれてゐる。」(38~39頁、漢字の旧字体は改めた。)とするのに則っている。具体的な物語ではない物語を創作したとして、当時の人が互いに理解し得なければ、言い換えれば、話(咄・噺・譚)として受けなければ、語り続けられるはずはないと考える。ただし、民の竃の話は巷間に定説とされているためか、取り立てて論じられることは少ない。山崎正之『記紀伝承説話の研究』(高科書店、1993年)、長野一雄『古事記説話の表現と構想の研究』(おうふう、1998年)参照。筆者は、課役免除三年という期間がどうして中国の思想なのか、三年の喪のこととのつながりなのか、理解できない。
 日本書紀の研究に、「黼衣絓履……以従事乎無為」とあるのは、六韜・文韜・盈虚にある文章に類似するとされる。岩波書店の大系本日本書紀に、「殊に北堂書鈔所引の古本六韜に……よく似ているから、六韜に拠って作った文であろう。」(ワイド版岩波文庫③237頁)とある。僭越ながら、筆者もそのとおりであろうと思う。“文”を作るのに漢籍に拠っている。手紙を書くのにアンチョコに拠るのと同じである。そこに籠める意図、すなわち、“話(咄・噺・譚)”は、別に中国思想に従う必要はない。手紙文の時候の挨拶の字面は、内容が問題なのではなく形式を踏襲しているに過ぎない。仁徳天皇の課役三年免除の「聖帝」の話は、そのような民の竃の煙の話がそのまま中国にないのであれば、中国思想に基づいて虚構されたとは決められない。PM2.5を含む排ガスが多いと中国の景気が好いことの指標になるからといって、日本にそのような経済指標はない。
(注3)現今、鉄筋コンクリートのビルで陸屋根があるが、屋上の防水塗装は肝要である。スクレーパーなどで古い塗膜をきれいに剥がし、亀裂にはコーキング材を注入し、シーラーを下塗りし、その上からペンキを塗る。断熱塗料など何回塗り重ねるのがいいか各社に問い合わせてほしい。また、都市部の狭小の土地に一戸建てを建て、屋上を造ってバーベキューを楽しんでおられる方も見られるが、10年ほどしかもたないシート上に屋上菜園を委ねる気が知れない。雨水が躯体に浸透したら、建物の疲弊は免れず、地震の際のリスクも増す。三角に屋根を葺いて軒を出すことは、雨が多く夏暑いこの国に最も適っている。見て珍しい家屋が耳目を集めてしまうが、平凡なものほど知恵の収斂した結論であることを忘れてはならない。
(注4)科学的現象については、福田清春「茅葺き屋根の生劣化」『しろあり』№158、2012年7月参照。
(注5)宮の地が、例えば雄略天皇の、長谷(泊瀬)朝倉宮のような丘陵地とおぼしき場所であれば、屋根材のカヤは、ススキが身近にあるからそれによって葺かれたと考えられる。江戸に茅場町があるのは、都市の屋根材供給業者が住んでいたからその名がある。すると、江戸の町の茅葺屋根は、もっぱらアシで作られていたのではないかと推測される。
(注6)真福寺本に「◆(礻偏に咸)」とある箇所、兼永筆本・寛永版本に「𥠆」、延佳本(鼈頭古事記)に「椷」とあり、本居宣長は「楲」としている。古事記伝に、「楲は、本どもに或は𥠆と作(カキ)、或は椷と作(カケ)るを、今は一本に依れり。【𥠆は誤なり、】椷【字書に篋也とも函ノ属也とも木篋也とも注して、波許(ハコ)なり、】も然(サ)ることなれども漏雨(モルアメ)を受るには篋(ハコ)の類は少(スコ)し物遠きこゝちするを、楲は、玉篇に、決ル塘ヲ木也と注して書紀武烈ノ巻にも塘楲(イケノヒ)とあり、其(ソ)は必しも細(ホソ)く長き樋(ヒ)ならずとも、水を受る物を云べければ、椷(ハコ)よりは、今少し似つかはしく聞ゆ、【此ノ字又虎子也とも注せり、虎子は、大小便を受る器にて、今云麻流(マル)なり。此(ココ)は、大小便には非れども、水の属(タグヒ)を受るなれば、由なきにあらず、】比(ヒ)と訓べし、和名抄には、楲ハ和名以比(イヒ)とあり、」(国会図書館デジタルコレクション(331/577))とある。消去法で考えている。部屋中おまるを置いてまわっているとの憶測によられては、◆(礻偏に咸)字を考案した太安万侶も弱るであろう。
(注7)“臨時”的な漏水対策としたが、本来的には、完成された完全な雨除け(屋根)というものは存在しない。点検補修を繰り返すのが必定である。比較的永続的な方法として、屋根瓦やガルバリウム鋼板などが開発されているに過ぎない。地下鉄の場合、地下水の滲出は宿命であるが、見えないようにすることは不可能ではないため、㈱メトロレールファシリティーズ による保守管理が密かに繰り広げられている。東京五輪へ向けてのキレイ化の一環かも知れないが、そのとき人は地下空間に漏水があることに気づかぬようになるのかもしれない。屋根とは何か、雨樋とは何かを忘れるのである。ゆゆしき問題であると思う。
(注8)本邦に、足の付いた幡がいつからあるのか、あるいは認知されていたかについて、大いに議論されるべきであろう。仏教公伝記事の欽明紀十三年十月条に、「幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこら)」とあり、蓋(きぬがさ)に覆われた幡が伝わっている。また、幡の用途についても議論されなくてはならない。法隆寺に伝わった金銅製の大灌頂幡という不思議なものがあり、仁王会、追善供養、葬儀などとの関係から造られたものではないかと考えられている。三田覚之「法隆寺献納宝物 金銅灌頂幡の再検討―造立典拠を中心として―」『MUSEUM』(第625号、2010年4月)参照。五来重『五来重著作集第11巻 葬と供養(上)』(法蔵館、2009年)では、葬送天蓋の機能は灌頂にあるとしている。
 筆者は、いま、幡足について、いつからあって何に使われどのように思われていたのかについては余所へ置き、それが仁徳天皇の故事に当てはめられていることにどのような頓智があったのかについてばかり時代考証している。雄略紀の例は、かがって垂らした幡足のように新羅が高句麗の思いのままに振り回されているという譬えとして、魏志などの文例にしたがって書かれている。幡と幡足(旒)では言葉の意味合い上扱いが違う。幡本体ではなく、幡の足について、かがって付けるものだから、ちぎって他に用いて何ら問題がないという思いがあったと考える。仁徳天皇時代に幡、幡足があったかどうか、不明である。その検討には、おそらく凧揚げ(烏賊幟、紙鳶(いかのぼり))の歴史についても検討を要するのでここでは差し控えたい。なお、美術史学に、幡頭、幡身、幡足という区分で“作品”を見ているが、ヤマトコトバの上では、ハタ(幡)とハタアシ(旒、幡足)の区別しかなかった。
(注9)仁徳天皇は即位前、宇遅能和紀郎子(菟道別郎子)(うぢのわきいらつこ)との間で皇位を譲り合っている。これもひょっとすると、仁徳天皇が足が不自由で、高御座(壇)(たかみくら)の階を登ることを躊躇ったことを暗示しているのかもしれない。
(注10)帳台のようなものに貴人が鎮座ましましている様子は、他にも描かれている。

 亦、其の山の上に、絁垣(きぬがき)を張り帷幕(あげはり)を立て、許りて舎人を以て王(みこ)と為て、露(あらは)に呉床(あぐら)に坐(いま)せ、百官(もものつかさ)が恭敬(ゐやま)ひ往来(かよ)ふ状(さま)、既に王子(みこ)の坐す所の如くして、更に其の兄王(えみこ)の河を渡らむ時の為に具へ餝(かざ)りき。(応神記)
 妾(やつこ)、性(ひととなり)交接(とつぎ)の道を欲はず。今皇命(おほみこと)の威(かしこ)きに勝(た)へずして、暫く帷幕(おほとの)の中に納(め)されたり。然るに意(こころ)に快(よろこ)ばざるなり。(景行紀四年二月)

 その帳台の究極の形態が高御座に当たるのであろう。高御座は八角形、寺院の蓋高座は六角形、帳台や御輿(神輿)は四角形が一般的に見受けられる。何か軌があったのか、筆者は勉強不足で確かなことはわからない。養老令・儀制令に、「凡そ蓋(きぬがさ)は、皇太子は、紫の表(うへ)、蘇方(すは)の裏(うら)、頂(いただき)及び四角(しかく)に、錦を覆ひて総垂れよ。」とあり、四角いきぬがさが定められている。
 また、蓋高座かどうかはわからないが、斉明紀に「高座」の記述がある。

 是の月に、有司(つかさ)、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて、一百(もも)の高座(かうざ)・一百の納袈裟(なふのけさ)を造りて、仁王般若之会(にんわうはんにや)の会(をがみ)を設(ま)く。(斉明紀六年五月是月)

(注11)拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」参照。
(注12)何もしない政治家は、失点が少ないために善政であったかのように誤解されることがある。仁徳紀六十七年是歳条に、「於是天皇、夙興夜寐、軽賦薄斂、以寛民萌、布徳施恵、以振困窮。弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣」とあって、天下太平を謳っている。淮南子・脩務訓にほぼ同じ記述があり、人名を「湯」→「天皇」、「民氓」→「民萌」、「百姓親附」を省いて「天下太平」を補っている。日本書紀編纂者は、潤色は潤色でも、仁徳天皇に対して、「百姓親附」ではなかったことを示している。巨大古墳を造ることは愚かしいことであり、公共工事で仕事にありつけばありがたいが、財政が豊かなら他に投資することはないのか、疑問である。「聖帝」とは皮肉の言であることを理解しなければならない。仁徳紀七年九月の諸国上奏ではないが、今日、長寿化して里に鰥寡が多くいるのは当たり前で、家に余儲が有り過ぎてゴミ屋敷と化している。きれいごとばかりでは、人心は老を扶ける気にならず、幼をうるさがることとなる。其れは罪を天に獲ることになるであろう。
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