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記紀の「諺」 其の八「堅石も酔人を避く」(其の一)

2017年10月23日 | 論文
記紀の「諺」の連載は、「其の七「神の神庫も樹梯の随に」(はしご論序説 其の四)」(2016-12-29)からお休みしていました。「D.さばあま」が難航しております。宿題にして、先に進めることにしました。

E.堅石も酔人を避く
 又、秦造(はだのみやつこ)が祖(おや)・漢直(あやのあたひ)が祖と、酒を醸(か)むことを知れる人・名は仁番(にほ)、亦の名は須須許理(すすこり)等と、参ゐ渡り来たり。故、是の須須許理、大御酒(おほみき)を醸みて献れり。是に天皇、是の献りし大御酒にうらげて、御歌曰(よ)みたまはく、
 須須許理が 醸みし御酒に 我(われ)酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(ゑぐし)に 我酔ひにけり(記49)
如此(かく)歌ひて、幸行(い)でましし時、御杖以て大坂の道中(みちなか)の大石(おほしは)を打ちたまへば、其の石(いは)走り避(さ)りにけり。故、諺に「堅石(かたしは)も酔人(ゑひびと)を避く」と曰ふ。(応神記)

 従来の解釈では、酔っぱらいを相手にするなという諺(?)とされてきた(注1)。本稿で述べているように、記紀に「諺」と称される言い方は、コト(言=事)+ワザ(技・業)の謂いそのものである。言葉自体が意味を語ってしまい、すなわち、言辞の次元に飛躍があって、論理階梯を無視した洒落が存在する。よって、わざわざコトワザという名称をつけてそう呼ぶ。「諺」が記されているからには、「堅石」と「酔人」という2つの言葉の間の「避」く関係に、矛盾や齟齬、亀裂、自家撞着が起こっているはずである。
 歌謡を受けて「如此歌……」とあって、「其石走避……堅石避酔人也」と話が進んでいる。口語的感覚からすれば、歌謡に状況が活写されていると思われる。歌を聞いて地の文へ流れて行っているから、地の文に対応があろうと認められよう(注2)。地の文も稗田阿礼のような語り手によって語られている話し言葉だからである。歌の要点は「我酔ひにけり」である。
 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』(岩波書店、1974年)に、助動詞「「けり」は、「そういう事態なんだと気がついた」という意味である。気づいていないこと、記憶にないことが目前に現われたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。……「けり」は、見逃していた事実を発見した場合や、事柄からうける印象を新たにした時に用いられるもので……、真偽は問わず、知らなかった話、伝説・伝承を、伝聞として表現する時にも用いる」(1440頁)とする。新鮮な驚きを表明している。良い酒には知らず知らずのうちに酔いが回ることがある。さして酔っていないと思って飲んでいて、トイレに行こうと立ち上がろうとしてみたら足を取られていたという経験がある。だから杖が必要になっている。逆に悪い酒は、すぐに頭にあらわれる。飲むほどに頭痛が増す。そのとき、飲んでいて酔っていると気づいている。そんな場合、「我酔ひにけり」という表現は行われない。「酔ひき」となる。記49歌謡の表現が違ってくる。
 『岩波古語辞典』は続けて、「「来有り」の転であるという説がおそらく正しいのであろう。「事態の成り行きがここまで来ている」と認識するという意味が「けり」の基本であり、また「来(き)」と「あり」との複合の音変化 kiari→keri も極めて無理なく説明できるからである。」(同頁)とする。ふと気づくと酔いがまわって来ていたんだ、ということである。

  湯原王(ゆはらのおほきみ)の打酒(ちゃうしゅ)の歌一首
 焼刀(やきたち)の 稜(かど)打ち放ち 大夫(ますらを)の 祷(ほ)く豊御酒(とよみき)に 吾酔(ゑ)ひにけり(万989)

 記の話は、新しい酒造法をめぐってのものと考えられる。諺を語り始めるにあたっての設定として、「御杖(みつゑ)」、「大坂」、「大石」が登場している。杖は歩行補助具であるが、ツヱタラズという枕詞は「八尺(やさか)」にかかる。「…… 朝霧の 思ひ惑ひて 杖足らず 八尺の嘆き 嘆けども ……」(万3344)とある。一丈(つゑ・じょう)に足りないからという。長さの単位、一丈の1/10が尺(さか)である。また、丈(つゑ)、尺(さか)には、布地の面積の単位も言う。そして、同じサカには、サカ(石・斛・積)という量の単位もある。十升で一斗(はこ)、十斗で一石(さか)である。容量の単位も視野に含めてサカという語が媒介されているらしい。なにしろ、お酒の話である。一斗、二斗といった量ではなく、一気に一石、二石と醸造してしまうらしい。この話に、「御杖」、「大坂」、「大石」は縁語らしい。「御杖」と話に出てきたら、さぞかしりっぱな杖であろう。ひょっとすると長さが一丈に達しそうな勢いで、それは尺(さか)の単位ではとても大きいから大坂を示唆している。大きな石(斛・積)(さか)のものがその道中にあるとしたら、大坂は山道のうちでもしっかり作った道、切り通しのことのようである。したがって、法面を岩石が崩落してきて通行の妨げになっていたらしいと知れ、大石が思い浮かんだのであろう。行く手を拒む障害物となることはままある。なにしろ、場所は「大坂の道中」なのだから、「大石(おほしは)」なるものが、「大石(おほさか)」を表すほどに「逆(さか)ふ」こと、「逆(さか)る」ことは尤もなことである。また、サカという音には、「釈迦(さか)」という音の訛った語もある。
一升枡・大枡(木製、室町時代、15世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
 法面を転がり落ちても塊がバラケないところを見れば、堅い石なのであろうと察しはつく。そんな堅い石を杖で打ったら、転がって行ったので避けたものと考えた。割れた、壊れた、砕けたといったことで通せんぼが解消したのではなく、走って行ったことで問題が解決している。酒(さけ、ケは乙類)の話なのだから、「避」字は、四段動詞のサルではなく、下二段動詞のサクの未然形・連用形・命令形のサケ(ケは乙類)の形を呼んでいるものと思われる(注3)。離れる、よける、の意である。三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「【考】自ら離れることを、対象を押し離すように表現するところから成立した意味か。結果として自動詞サカルの意に近い。」(325頁)とする。下二段動詞の連用形を承けて、助詞ニと助動詞ケリが下接している。歌謡に対応する形として、「其の石走り避けにけり」と言っていると考えられる。
 この場合、道中は坂を登っている途上であると推測される。最高点まで行ってから下るところで「大石」を打って向こう側へ行ったと仮定すると、それは避けているのではなく去っていることになる。逃げ方、まぬがれ方が違う。その可能性がゼロなのは、「大石」が向こう側へ転がり落ちて行っていたら、「行幸」の一行は歩を進めると再び遭遇してしまうからである。他の考えに、切り通しではなく片側の山肌を削いだ道で、反対側の斜面を転がって行ったとする見方もできる。山の閣道のことである。和名抄に、「碊道 文字集略に云はく、碊道〈士輦反、上声之重、漢語抄に夜末乃加介知(やまのかけぢ)といふ。〉は山路の閣道也といふ、」とある。ガケ(崖)という語の源と考えられている。崖を削って桟道を作っている。しかし、その場合、「大道」のイメージと食い違うように思われる。そうではなく、行幸の列の横を後ろへと回り込んで転がって行ったとするのがふさわしい。良い酒だから避けた。酔いが足に来ていたから杖を使っている。その杖で打ったら、酒(さけ)の力で避(さ)けた。そのようなことは、洒落だとわかって初めて気がつくものである。ケリという助動詞がいかんなく発揮されている。悪い酒ならぶつかって来ただろう。この洒落こそが上代の人の言葉のあやとりである。以上が状況設定である。
 つづく諺の“捻り”の部分は、助詞モに集約されている。命題として諺が記されている。助詞モについては、現代の併立の用法とは異なることが指摘されている。大野晋『係り結びの研究』(岩波書店、1993年)に、「古典語のモを見ると題目をそれだけと限定・特定しないだけでなく、不確定として提示するところに特質がある。」(64頁)として、次のような例をあげられている。
 其の葉も枯れず(万4111)
 せむすべも無し(万804)
 雨も降らぬか(万520)
 浜の沙(すなご)も吾が恋いにあにまさらじか(万596)
 逢ふこともあらむ(万3745)
解説に、「これらは、「其の葉なども」「なにもするすべも」「もしできるなら雨でも」「たぶん浜の砂ですらも」「もしかしたら逢うことも」の意を表わすものである。つまり、……併立肯定の例は上代にはむしろ少なく、上代ではその題目は、不確定、非限定、仮定的なものであり、他に多くのものが潜在的に存在する中からの不特定の例としての提示であることの方が多い。」(同頁)とある。
 古代に一般的な助詞のモの使い方として「堅石も酔人を避く」にあるモを捉えるなら、「堅石なども」「たぶん堅石ですらも」「堅石もなにも」といった漠とした提題をしていると考えられる。さらに、「堅石などと仮定されるものも」といった比喩表現もあるのかもしれない。「堅石」は、「堅磐、此には柯陀之波(かたしは)と云ふ。」(雄略紀七年是歳条)と訓注にあるカタシハのことである。カキハ、カシハ、カチハ、トキハなどとも言われるが、「諺」として提示されているのだから、カタシハと必ず訓まなければならない。一語一語一音一音、言葉の持つ意義は大きい。「大石」が“諺”に「堅石」へと変わっている点はよくよく留意されるべきである。そして、助詞モによって「堅石」以外に示唆される他の多くのものとは、堅く大きな磐ではなく、小さな石ころ、礫である。それが無数にあることを前提にして、この諺は諺として面白い表現となっていると言えそうである。細石(礫)のことは、サザレイシ、サザレシ、サザライシと言う。「硝 佐々良石(さざらいし)」(新撰字鏡)、「細石 説文に云はく、礫〈音歴、佐々礼以之(さざれいし)〉といふ」(和名抄)、「信濃なる 千曲(ちぐま)の川の 細石(さざれし)も 君し践みてば 玉と拾はむ」(万3400)、「砂礫(さざれし)を以て檜隈陵(ひのくまのみさざき)の上に葺(し)く」(推古紀二十八年十月条)とある。後の和製漢語、砂利に当たる。
 古代の道路事情は、文献からはほとんど知られない。「細石(さざれいし)に 駒を馳させて 心痛み あが思(も)ふ妹が 家のあたりかも」(万3542)は、道路上を馬で走ったのかわからない。「信濃道(しなのぢ)は 今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に 足な踏ましなむ 履(くつ)はけわが背」(万3399)は、新道は踏み固められておらず、草が生えては鎌で刈ることを繰り返したことを表すものかもしれない。いま問題とすべき個所は、坂の道についてである。
 山道の切り通しを作ることについて、その作業を古代の人がどう把握していたのか。紀では、神功前紀に灌漑用水路を造る際に、丘を掘削して墾いたとする記事が見られる。

 迹驚岡(とどろきのをか)に及(いた)るに、大磐(おほいは)塞りて、溝を穿(とほ)すこと得ず。皇后、武内宿禰を召して、剣(たち)鏡(かがみ)を捧げて神祗(あまつかみくにつかみ)を祷祈(いの)りまさしめて、溝(うなで)を通さむことを求む。則ち当時(とき)に、雷電霹靂(かむとき)して、其の磐(いは)を蹴(ふ)み裂きて、水を通さしむ。故、時の人、其の溝を号けて裂田溝(さくたのうなで)と曰ふ。(神功前紀仲哀九年四月)

 「雷電霹靂(かむとき)」という神秘譚になっているが、やっていることは土木工事である。丘に生えている樹木を斧で伐採し、鋤を使って土を掘り取ってよそへ運び、水が流れる高さにまで低くした。木の根があれば斧を使うばかりでなく、鋸も用いたであろう。根が土のなかを延び這っている場合、いかに刃先が鉄製の鋭利な鋤や斧であれ、伸びて弾力がついてしまうとなかなか切断できないことがある。それぞれのところでそれぞれに適うやり方で掘削したであろう。「石析神(磐裂神)(いはさくのかみ)」・「根析神(根裂神)(ねさくのかみ)」(記上・神代紀第五段一書第六)と呼んでいる。
 結果、最後に岩盤が露出して立ち塞がった。今なら発破をかけるところ、雷が落ちて磐が裂けて開削に成功したらしい。和名抄に、「……霹靂……釈名に云はく、霹靂〈霹は音辟、靂は音歴也、和名は加美渡計(かみとけ)〉は、霹は坼也、靂は歴也、歴する所は皆破れ坼る也といふ。……」とある。科学的事実かどうか不明であるが、磐が裂けている。「堅石も酔人を避く」とかなり近い状況が生じていると考えられる。白川、前掲書に、「国語の「さく」には「開く・咲く・割く・裂く・疎く・放く・離く・避く」などの義があり、みな一系の語である。」(358頁、旧字体は改めた。)とある。
 山の高いところを道路にする場合、切り通しにする。切り通したところは、雨による浸食やぬかるみのための進行困難を防ぐため、石を敷き詰めた側溝をきちんと設けている。通行する道には、いわゆる波板状凹凸となるように方々掘っては石を入れ、その上から黒い土を被せて突き固めている。排水と滑り止めとを両立させる技術があったようである。路盤や側溝に、小石が使われていた(注4)。どこでもかどうかはわからないが、坂道の道路工事の技術に、路面を安定させて雨水を排水しやすくしながら浸食を防ぎ通行しやすくしていた実例があった。楕円形に地面を掘っておいて礫を入れ、その上に客土して固めている。もとの粘土でついたのではぬかるんで意味がないから、浸透性の高い土を持って来て入れている。この道路築造技術は、特に傾斜地において有効であったろう。平坦地では路面を高くし、側溝を設けるだけでも永続的に利用可能な安定した道路を築くことができる。他方、坂道の場合、馬を走らせたり、牛車や修羅に重い荷物を運ばせる場合、路面のぬかるみやV字形の浸食を避けるためには、側溝だけでなく、路面自体のえぐれることを防がなければならない。車やコロがめり込んだり滑ったりしてはならない。側溝の砂利敷きと楕円形の斑点様の排水の仕掛けはうまく機能していた。
 諺に、「堅石も……」とあって、小石、礫は当たり前にあったものと前提されている。坂道の道路敷設状況に基づいて語られているとわかる。そして、記の記述で、応神天皇が「幸行(い)でましし時」とあって、その時に「御杖」が使われている。天皇が徒歩(かち)で坂を登ることは考えにくい。輿か牛車に乗って御幸していたと考えられる。酒を飲んで騎乗することは危険なので誰もしない。「酔人」とあるところは、車酔いのことも含意したうまい表現になっている(注5)。大きな石が法面などから崩落してあり、鹵簿が一時停止した。そのとき、「御杖」が用いられた。あしからず下車して歩いて下さいという次第の時、杖で岩を打ったら避けて転がって行った。そして再び乗車して酔うことになっている。いつまでも酔いが続く。堅石さえも酔いを醒ますことはできない、それほどたくさんの良い酒を造る技術が渡来したということを物語っている。あくまでも話のレベルにおいてであるが、うまく創作されている。
 近世に造語された砂利という語については定かではないが、ヤマトコトバにサリと呼ばれる舎利と関係がある語に違いあるまい。舎利とは、仏舎利、つまり、釈迦の遺骨のことから始まって遺骨一般のことをいい、それに形状、色彩がよく似ていて、米粒のことも舎利という。空海・秘蔵記に、「舎利 天竺、米粒を呼びて舎利と為す。仏舎利、亦、米粒に似たり。故、舎利と曰ふ也、」とあり、以後、引用されて今日に至っている。本邦に、空海まで米粒を舎利と言わなかったかといえば、そんなことはあるまい。日本書紀では、仏舎利の意味で、「舎利」(敏達紀十三年是歳条、崇峻紀元年三月条、推古紀元年正月条・十四年五月条・三十一年七月条)と記されている。細かい石粒と細かい骨と小さな米粒を似たものとして考えたとして違和感はない。
 舎利の堅く固まっているものとは何だろうか。大きな骨といえば、髑髏が思い浮かぶ。髑髏には実物の迫力がある。散乱する骨の中に、頭骨の髑髏が歴としてあれば、それは他の動物ではなくて確かにヒトの遺骸であるとわかる。大きな頭骨はウマなどにもあるが、形が、丸い石のようになっているのは人間のものに特徴的である。髑髏のことは、シャリコウベ、サレコウベという。土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』(岩波書店、1980年)に、「Docuro.ドクロ(髑髏)」(186頁)、「Xaricobe.シャリカゥベ(髑髏)髑髏」(743頁)、「Xari.シャリ(舎利)死体の骸骨.多くの場合,ゼンチヨ(gentios 異教徒)が非常に大切な聖遺物と考えている,釈迦(Xaca)の骨の意に解せられる.」(742頁)とある。舎利の頭(かうべ)であり、曝された頭である。
骨相(九相図巻・第十紙、鎌倉時代、14世紀、個人蔵、山本聡美・西山美香編『九相図資料集成―死体の美術と文学―』岩田書院、平成21年、20頁)
 古代の人が人間の髑髏を知ったのは、太古の昔である。「膿(うみ)沸き虫(うじ)流(たか)る」(神代紀第五段一書第六)などと、遺骸の朽ちていく様が描写されている。行き倒れの人の腐敗の状態を見る機会があったり、白骨化したものを発見することもあったであろう。獣を狩って肉食していたから、骨を目にし、またその中に詰まっているみそを食べていたであろう。そして、頭骨の中には特にみそが多いことを知っていたに違いない。なかでも人間の頭は大きく丸い器状になっていて、中にはみそがたっぷり貯まっている。新撰字鏡に、「脳 奈豆支(なづき)」、「髄 宣累反、上、骨の中の脂也。保祢乃奈豆支(ほねのなづき)」、和名抄に、「脳 説文に云はく、脳〈奴道反、和名奈都岐(なづき)〉は頭の中の髄也といふ」とある。脳みそも骨の中の髄と同一に見てナヅキという一語に集めている。そんなナヅキをたっぷり納められるような骨の形状は、球状の頭の形に基づいていると悟られよう。
 頭骨が抜きん出ている。和名抄に、「顱〈髑髏附〉 文字集略に云はく、顱〈落胡反、字亦體に作る。加之良乃加波良(かしらのかはら)〉は脳の蓋也といふ。玉篇に云はく、髑髏〈独婁二音、俗に比度加之良(ひとかしら)と云ふ〉は頭骨也といふ。」、「額 楊氏方言に云はく、額〈五陌反、和名比太比(ひたひ)〉は東齊に之れを顙〈蘇郎反〉といひ、幽州に之れを顎〈五各反〉と謂ふといふ。」とある。また、名義抄に、「顱 音盧、ヒタヒ、カシラノカハラ、亦髗」、「額 五百反、和ガク、ヒタヒ、ヌカ」とある。記紀万葉に、ヌカとよむことが多く、やがてヒタヒと呼ばれることが増えたとされている。興味深いことに、ヌカという語は、額であり、また、糠でもある。ヌカツクとは、額衝くこと、頭を地面につけて礼拝することである。そして、ヌカツク仕草の額を地に着ける様は、杵の頭で舂いて糠をとる様に同じである(注6)。米舂虫とはよく命名したものと感心させられる。ヒタヒを動詞化する形は見られない。

 相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後(しりへ)に 額(ぬか)衝(つ)くが如(ごと)(万608)
 …… 天神(あまつかみ) 仰ぎ乞ひ祈(の)み 地祇(くにつかみ) 伏して額(ぬか)拝(つ)き ……(万904)
 肥人(こまひと)の 額髪(ぬかがみ)結へる 染木綿(しまゆふ)の 染(し)みにし心 我忘れめや(万2496)
 秔 俗に粳に作る。加衡反。黏(ねば)らざる稲也。志良介(しらげ)米、又米志良久(しらぐ)、又奴加(ぬか)。(新撰字鏡)
 叩頭虫 伝咸叩頭虫賦に云はく、虫の細微なる者、之れに触れて輙ち頭を叩くを叩頭虫〈沼加豆岐无之(ぬかつきむし)〉と云ふといふ。
 糠〈麁糠附〉 尓雅注に云はく、糠〈音康、沼賀(ぬか)〉は米の皮也といふ。唐韻に云はく、糩〈音会、阿良奴加(あらぬか)〉は麁糠也といふ。(和名抄)

 礼拝方式がいつからヌカツク形態になったのか定かではない。土下座の歴史は未解明である。仏教には五体投地といったやり方がある。カシラノカハラという言い方は、現物として人の頭蓋骨を見て瓦のように思えることと、瓦葺き建物が寺院において先んじて行われてからの命名を思わせる。火葬の風習の広まりが絡んでいるのかもしれない。そして、お祈りするところの寺のことが額(ぬか・ひたひ)を明示している。ただし、万葉集に、「祈(の)む」対象は神様が専らである。やまと歌を集めている万葉集に、漢語は非常に稀である。「寺(てら)」という語さえ、万608・3822・3840・4113の4例に限られる。「仏神(ほとけ)」(敏達紀十四年二月条)、「蕃神(あたしくにのかみ)」(欽明紀十三年十月条)、「他神(あたしかみ)」(用明紀二年四月)とも言われて理解されてきた。仮にヒタヒツクなる言葉があったとして、その語感からはお熱を測る仕草しか思い浮かばない。他方、ヌカツクの形に動詞化している点は、上代特有の、希求・願望をあらわす連語ヌカ(打消の助動詞ズの連体形ヌに疑問の助詞カのついたもの)という語の使用から理解されよう。万葉集には、25例見られ、そのうち23例で、「も……ぬか」の形をとっている。定着した慣用表現であると言える。

 我が命も 常にあらぬか(万332)
 黒馬の 来る夜は 年にもあらぬか(万525)
 またも逢はむ よしもあらぬか(万708)
 人も無き 国もあらぬか(万728)
 辺に寄せむ 風も吹かぬか(万1223)
 我が待つ月も はやも照らぬか(万1374)
 ほととぎす 今も鳴かぬか(万1470・4067)
 遊ぶ今夜は 明けずもあらぬか(万1591)
 たな霧らひ 雪も降らぬか(万1642)
 天霧らし 雪も降らぬか(万1643)
 来し今日の 日は暮れずもあらぬか(万1882)
 ほととぎす 来居も鳴かぬか(万1954)
 君待つ夜らは 明けずもあらぬか(万2070)
 我が思ふ 妹ははやも死なぬか(万2355)
 さし曇り 雨も降らぬか(万2513)
 ひさかたの 雨も降らぬか(万520・2685・3837)
 宜寸川 よしもあらぬか(万3011)
 我妹子は はやも来ぬかと(万3645) 
 海辺より 迎へも来ぬか(万4044)
 との曇り 雨も降らぬか(万4123)

 万葉集ではこのヌカという語に、借字として「額」(万1223・3011)、「糠」(万520・525・728・1882・2320)が用いられている。万332の例は、吾が命もいつまでもずっとあって欲しいなあと希求している。誰しも死んでしまう運命にあって願っても無理なことを承知のうえである。提題している「命」の不確定性を表す助詞モが使われている。そうはならない非現実的な祈り、または、ほとんどその可能性のない希望について、モ……ヌカという言い方は使われている。天に向かってそうしてほしいと声を張り上げ、でも叶うものではないから、ぬかついて祈ることをしていたということに当たるのかもしれない。
 祈る際には、いくつかの動作を伴う。手を合わせること、天を仰ぐこと、頭を下げて拝むことなどである。そのうち、首を垂れて祈ることは、「祈(の)む」という。その動作は、液状のものをゴクンと食道から胃へと通すときの「飲む」という動きに似ている。いずれも四段活用、ノは乙類である。紀の訓注に、「叩頭、此には迺務(ぬむ)と云ふ。」(崇神紀十年九月条)とある。降参して頭を下げて服従を誓うことで、命乞いをしているから「祈(の)む」の意でありつつ、要求を全面的に受け入れることだから「飲む」の意である。これらの点から、ぬかつくことは飲むこと、それは特にお酒を飲むことにおいて関係し、酔人とも関連する語であると語学的に理解され得る。「叩頭」して「祈(の)む」動作と、酒を飲んで酔っ払って頭を倒したり持ちこたえて立て直したりする様はよく似ている。言葉のサプライ・チェーンが成立している。話の冒頭部に、須須許理が大御酒を献ることが記されている。
 ノム(飲・呑)という語について、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「酒・水・乳などの液体を喉を通して胃に収める意。液体を通すところを古くは「喉 ノムト」〈名義抄〉といった。」(957頁、この項、西郷喜久子先生)とし、「①水・酒・乳など、液体を喉に流し込む。……②固形物をかまずに胃に収める。蛇などが獲物をかまずに腹に送り込む。……③かまないで一口にのみ込む意から、相手を包み込んで、取り込む。圧倒する。」に細分している。②に、「八岐大蛇(やまたのをろち)有りて来て呑む」(神代紀第八段一書第二)の用例をあげている。それはそのとおりなのであるが、固形の食べ物を口に入れてから何回か咀嚼し、唾液と混ぜてねばねばした半液体状にしたものを飲み込む場合、ノムと言わなかったのか疑問である。
 三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「のむ【飲・呑】(動四)飲む。特に飲酒を意味することがある。」(568頁)、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)でも、「のむ〔飲(飮)・呑〕四段。ただ「のむ」といえば、今でも酒を飲むことをいう。」(600頁)としている。筆者は、現代の語釈に失われた古代の人たちの生活実感を、このノムという語にみる。ノムことが直ちに飲酒を意味するのではなく、そもそも酒というものは、口に入れて噛んでから一度吐き出して、貯めておいて発酵させたものである。長期にわたることだが、米を咀嚼して飲んでいる。固形の食べ物を噛んで液状化してから飲むという順序は、酒においても守られている。
 それに対して、噛まないで飲み込むだけの八岐大蛇を退治する話は、摂取の方法が間違っているとの戒めともなる。「八塩折(八醞)(やしほをり)の酒(さけ)を醸(か)み」(記上・神代紀第八段本文)とあり、何度も念を入れて醸造した酒を8つの酒船にいっぱいに入れておいて飲ませ酔わせている。よく噛んでから食べなさいという躾のための教訓話となっている。それが証拠に、酒を入れておく容器は、甕(かめ)である。「噛む」の已然形はカメ(メは乙類)である。既に噛んでしまったものを入れておいて、発酵してお酒になったら、後は飲むだけでいい。甕(かめ)のメ音は、仮名書きの例がないため不詳であるが、「瓫(か)」+「瓶(へ)」の複合語とする説が有力で、「瓶(へ、ヘは乙類)」の音転とするとメも乙類と推測される。「酒八甕(やはら)を醸め」(神代紀第八段一書第二)とある。甕(かめ)の腹部が膨らんでいるからハラと呼びながら「醸め」=「甕」と上手に洒落ている。
 酒を貯蔵するのに最も多く利用された容器は、甕(かめ、メは乙類)であったに違いない。須須許理が新しい酒造法を伝えたとするのには、貯蔵法も一役買っていたのかもしれない。甕というものは、「陶人(すゑひと)の 作れる甕を」(万3886)とあるように、須恵器製の口の窄まった底の深い容器のことを指しているように思われる。液体を保存するためには、どうしても器肌に滲みだしてしまう土師器の同形のものより好都合である。そのような技術的な進展によってできた容器であるから、「か(瓫)」や「へ(瓶)」や「け(笥)」といった1音の語ではなく、2音を連ねた“複雑な”語となっていると考えられる。さらに複雑な語にモタヒがある。「神戸の郡に瓜有り。大きさ缶(もたひ)の如し。」(推古紀二十五年六月条)、「甕 方言に云はく、関より東は甖〈烏茎反、字亦罌に作る〉は之れを甕〈烏貢反、字亦瓮に作る、毛太比(もたひ)〉と謂ふといふ。」(和名抄)とある。3音も連ねて勿体をつけている。かなりの意図をもって企てられた語であろう(注7)
 この須恵器製造の技術は、渡来人によってもたらされた。窖窯(あながま)で高温焼成されている。瓦の技術と同様で、還元焼成する。よって灰白色をしている。瓦は、葺く時など互いにぶつかるとカラカラ高い音が出る。その様子は、人間の頭部の額(ひたい)によく似ている。甕の中に濁り酒の入っている様は、まるで、人間の頭蓋骨の中に脳(なづき)が収まっているようである。骨の中が空洞化していて髄だらけなのは不思議であり、分厚かった頭骨が糠に舂かれて発酵して濁り酒化したようにも思える。髑髏杯という発想は、類推思考が幾重にも層を成した末の賜物であるのかもしれない。
(つづく)
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