古事記・日本書紀・万葉集を読む

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井戸への呪詛話

2017年08月06日 | 論文
 雄略紀に、井戸(注1)を呪詛する話が載る。

 是月、御馬皇子(みまのみこ)、曾(いむさき)より三輪君身狭(みわのきみむさ)に善(うるは)しかりしを以ての故に、慮(みこころ)遣(や)らむと思欲(おもほ)して往(い)でます。不意(おもひのほか)に、道に邀軍(たふるいくさ)に逢ひて、三輪の磐井(いはゐ)の側(ほとり)にして逆(あひ)戦ふ。久(ひさ)にあらずして捉はる。刑(つみ)せらるるに臨みて井を指して詛(とご)ひて曰く、「此の水は百姓(おほみたから)のみ唯(ただ)飲(の)むこと得む。王者(ひとのきみたるひと)は、独り飲むこと能はじ」といふ。(雄略前紀安康十月是月)

 この話が何を表しているのか、昨日まで明らかにされていなかった。今日、本稿によって明らかとなる。
 この記事は、雄略天皇が他の皇位継承資格者たちを滅ぼしていった記述の最後に当たる。付けたり的で何のことやら意味不明になっている。御馬皇子は以前から三輪君身狭と親交があった。雄略天皇が暴れているので、身を守ろうとして頼ろうと出掛けてみると、想定外のことに、道に敵軍が待ち構えていて、三輪の磐井の側で戦う羽目となった。じきに捕らえられて刑に処せられることとなり、その井を指差して呪詛したというのである。タミ(百姓)は飲めるが、キミ(王者)だけは飲めないからな、と言ったのである。
 何のことやらわからないのは、何より文字として見ているからである。当時は無文字時代である。人は声としてしか言葉を知らない。ならば、声に出して読みあげてみればいい。漢文訓読調のお堅い文章で、イムサキ(曾)などと聞くと面食らうが、いちばん不思議な言葉は、タフルイクサ(邀軍)である。この「邀軍」は、他に考えられる候補がないから、即位前の雄略天皇の軍勢であろう。軍隊は、軍事作戦が展開されてはじめて出動する。なにゆえすでに進軍して「道」にいるのか。御馬皇子も想定外のことで、お供している護衛兵程度の軍勢で戦わざるを得ない。すると、ヒサニアラズテ(不久)身柄を拘束されてしまう。卑怯ではないか。処刑されるに至って、呪詛の言葉を吐くしかなかった。
 「道」に「邀軍」がいた。だいたい、三輪の磐井のところと思っていいであろう。三輪の磐井のところに、軍勢が集結して待ち構えていた。そのような軍勢のあり方は、「聚居(いはみゐ)」という。水分補給休憩がてらに集まっている。イハムという語は、軍隊の集結の意に限らないが、圧倒的に軍隊の集結、駐屯の意味に用いられている。

 復(また)、兄磯城(えしき)の軍(いくさ)有りて、磐余邑(いはれのむら)に布(し)き満(いは)めり。賊虜(あた)の拠(を)る所は、皆是れ要害(ぬみ)の地(ところ)なり。(神武前紀戊午年九月)
 我が皇師(みいくさ)の虜(あた)を破るに逮(いた)りて、大軍(いくさびとども)集(つど)ひて其の地に満(いは)めり。因りて改めて号けて磐余(いはれ)とす。(神武前紀己未年二月)
 是の時に、磯城の八十梟帥(やそたける)、彼処(そこ)に屯聚(いは)み居たり。〈屯聚居、此には怡波瀰萎(いはみゐ)と云ふ。〉……故、名けて磐余邑と曰ふ。(神武前紀己未年二月)
 時に官軍(みいくさ)屯聚(いは)みて、草木を蹢跙(ふみなら)す。因りて其の山を号けて那羅山と曰ふ。……埴安彦(はにやすびこ)と河を挟みて屯(いは)みて各(おのおの)相挑む。故、時の人、改めて其の河を号けて挑河(いどみがは)と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛(よこなば)れるなり。(崇神紀十年九月)
 一(ひとり)を鼻垂(はなたれ)と曰ふ。妄(みだり)に名号(な)を仮りて、山谷に響(おとな)ひ聚(あつま)りて、菟狭(うさ)の川上に屯結(いは)めり。(景行紀十二年九月)
 蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・国津神等、竹水門(たかのみなと)に屯(いは)みて距(ふせ)かむとす。(景行紀四十年是歳)
 則ち軍(いくさ)を引きて更に返りて、住吉に屯(いは)む。(神功紀元年二月)
爰に武内宿禰等、精兵(ときつはもの)を選びて山背(やましろ)より出づ。菟道(うぢ)に至りて河の北に屯(いは)む。(神功紀元年三月)
 乃ち諸の虬(みつち)の族(やから)、淵の底の岫穴(かふや)に満(いは)めり。(仁徳紀六十七年是歳)
 兵(つはもの)を執れる者、多(さは)に山中に満(いは)めり。(履中紀八十七年正月)
 天皇、産(あ)れまして、神(あや)しき光、殿(おほとの)に満(いは)めり。(雄略前紀)
 高麗の王(こきし)、即ち軍兵(いくさ)を発(おこ)して、屯聚筑足流城(つくそくろのさし)〈或本に云はく、都久斯岐城(つきしきのさし)といふ。〉に屯聚(いは)む。(雄略紀八年二月)
 爰に小許(すこしばかり)の遺衆(のこりのともがら)有りて、倉下(へすおと)に聚(いは)み居り。(雄略紀二十年冬)
 百済国、属(やから)既に亡びて、倉下(へすおと)に聚(いは)み憂ふと雖も、実(まこと)に天皇の頼(みたまのふゆ)に、更(また)其の国を造(な)せり。(雄略紀二十一年三月)
 乃ち相(あひ)聚結(いは)みて、傍(ほとり)の郡(こほり)を侵冦(あたな)ふ。(雄略紀二十三年八月)
凌晨(ほのぐらき)に起きて曠野(ひろの)の中を見れば、覆へること青山の如くして、旌旗(はた)充満(いは)めり。(欽明紀十四年十月)
 是の時に大雨(ひさめ)ふる。河の水漂蕩(ただよ)ひて、宮庭(おほみや)に満(いは)めり。(推古紀九年五月)
 是に、船師(ふないくさ)、海に満(いは)みて多に至る。(推古紀三十一年是歳)
 五つの色の大きなる雲、天(あめ)に満(いは)み覆ひて、寅(とらのところ)に闕(か)けたり。(皇極紀二年正月)
 是に、渡嶋(わたりのしま)の蝦夷(えみし)一千余(ちあまり)、海の畔(ほとり)に屯聚(いは)みて、河に向ひて営(いほり)す。(斉明紀六年三月)
 各(おのおの)一所(ひとつところ)に営(いは)みて、散(あら)けたる卒(いくさ)を誘(をこつ)り聚む。(斉明紀六年九月)
然して後に、別(こと)に多臣品治(おほのおみほむち)に命(みことのり)して、三千(みちたり)の衆(いくさ)を率て、莿萩野(たらの)に屯(いは)ましむ。(天武紀元年七月)
 将軍(いくさのきみ)吹負(ふけひ)、乃楽(なら)の山の上に屯(いは)む。(天武紀元年七月)
 復(また)佐味君少麻呂(さみのきみすくなまろ)を遣して、数百人(ももあまりのひと)を率て、大坂に屯(いは)ましむ。(天武紀元年七月)
 更に還りて金綱井(かなづなのゐ)に屯(いは)みて、散(あか)れる卒(いくさ)を招(を)き聚(あつ)む。(天武紀元年七月)
 則ち軍を分(くば)りて、各上(かみ)中(なか)下(しも)の道に当てて屯(いは)む。(天武紀元年七月)
 以余(これよりほか)の別将等(すけのいくさのきみたち)、各三つの道より進みて、山前(やまさき)に至りて、河の南に屯(いは)む。(天武紀元年七月)

 軍勢は井のあるところに集まる。ふだんより重い衣(甲冑)を着ているので喉が渇く。喉が渇いたら人は井のあるところへ行く。一度戦って敗走した兵を再編成するには、将軍は井のところで待って居ればいい。つまり、戦において、井は、軍を「いはむ(屯・聚・満)」むための根拠なのである。そんな意味の井でお偉い天皇軍がイハムむのだったら、呼び名として、イハミヰ(屯井、ミは甲類)でなければならないと想定される。それなら、イハ(磐)+ミヰ(御井、ミは甲類)と聞こえて納得できる地名である。
 日本書紀の表記に、イハムに「屯」字を当てている。この字は、「屯倉(みやけ)」に用いられる。そして、「屯田(みた)」(御田)とも使う。

 ……将に倭の屯田(みた)及び屯倉(みくら)を掌るらむとして、……(仁徳前紀応神四十一年二月)

 「屯田」はただの田ではない。イハミタほどにたてまつられてふさわしいということらしい。
 ところが、通称される「三輪の磐井」は、イハヰであってイハミヰではない。ミヰ(御井)ではないのだから、敬称がつかないのだから、丁寧語にならないのだから、(ひとの)キミ(たるひと)(「王者」)、天皇になりそうな人は飲むに当たらない井であると呪詛している。だって、卑怯ではないか。そうならそうと、最初から、「三輪の磐御井(いはみゐ)」と言っておいてもらわないと困る。無文字文化なのだから、音声言葉を頼りに生きている。地名も地名譚が裏にあると思って暮らしている。そんな世の掟を無視するかのような振る舞いは、断じて許されてはならない。最後の手段だ、のろってやる。
 これは、話(咄・噺・譚)である。地名を端緒として譚をもっていると思ったところから、言=事であるとする言霊信仰に従って、イハヰは(ひとの)キミ(たるひと)は飲めないはずだと主張している。その主張が、主張としては筋が通っているよね、と当時の人たちに認められ、それどころか当たり前のことと思われて何ら注釈めいた解説が施されていない。どこまでが本当でどこからが嘘か、といったことには関知しない。話の次元が違う。史実かどうか、それはわからない。なにしろ、今日言う“史実”という発想が、雄略朝にも日本書紀の編纂者の頭の中にも霞んでいる。「天照大神」はいたのか。知らないとしか言えない。神武天皇とされる人は、127歳まで生きたのか。知らないとしか言えない。知らないけれど、いたり生きたりしたことにしていていけないかといえば、別に不都合なことはない。今日の人とは、頭の使い方とものの考え方が違うだけである。
 すべてはお話なのである。昔語りが先んじている。昔語りはカタリだから、騙られているかもしれない。そこをよくよく検討してみると、あまり大きな嘘偽りはないとわかる。語りは音声言語にすべてを委ねている。誰でもが納得する事柄だけが伝えられる。一人が一生懸命に伝えても、次の人が伝えなければ、その話は継がれない。無に帰す。大きな嘘偽りは、その次へ継ぐことができない。嘘で塗り固めた人生は、その一代限りで破綻する。人生は一代限りであると考えるのは、今日の人のものの考え方である。上代の人のものの考え方では、イハミヰ(磐御井)でないからお偉いさんは飲めません、と呪詛が行われ、なるほどと周りに納得されて継がれた。だから記事として残っている。音声言語として話を聞いた時、当たり前だと思われている。呪詛の効果のほどは知られない。また、それをどこまで信じて当時の(ひとの)キミ(たるひと)が飲まなかったか、それとも飲んだのか、不明である。お話が先行して了解事項とされている。それ以上でもそれ以下でもない。

(注1)「磐井(いはゐ)」は、岩で囲った掘り井戸ではなく、山の裾のようなところで、岩から水が浸みだして来ているような場所と考えられている。井戸の桁が岩石で組まれたものは、イシヰと呼ばれたと考えられている。
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