古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

轜車について

2017年12月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 本邦では、皇族や位の高い太政大臣が亡くなった際、葬儀に特別な霊柩車が用いられることがあった。それは「轜車」と呼ばれる。日本書紀や続日本紀、養老令に明記されている。

 夫れ王(みこたち)より以上(かみつかた)の墓は、……其の葬(はぶ)らむ時の帷帳(かたびらかきしろ)の等(ごとき)に白布(しろぬの)を用ゐよ。轜車(きぐるま)有れ。(夫王以上、墓……。其葬時帷帳等用白布、有轜車。)(孝徳紀大化二年三月)
 其の轜車(じしゃ)・霊駕(れいか)の具(よそひ)に、金玉(きむぎよく)を刻み鏤(ちりば)め、丹青を絵(ゑが)き飾(かざ)ること得ざれ。素(しろ)き薄(うすもの)に是れ用ゐ、卑謙(ひけむ)に是れ順へ。(其轜車・霊駕之具、不-鏤金玉、絵-飾丹青。素薄是用、卑謙是順。)(続日本紀・養老五年十月)
 凡そ親王(しんわう)一品(いちほむ)。方相(はうさう)轜車(にしや)各(おのおの)一具、……。(凡親王一品。方相轜車各一具。……)(養老令・喪葬令第廿六)

 この轜車がどのようなものであったか、はっきりとはわからない。平安京遷都以後、轜車についての記述は見られず、江戸時代になって復古されたものらしい。そもそも乗物の歴史は、今日の我々が考えるほど、技術的な向上にそのまま従うものではない。それは本邦に限ったことではないが、特に本邦では現代の常識からは理解に苦しむ歴史的変遷を遂げている。大陸に、メソポタミア文明が今のイラン北部の遊牧民との交流、ないし敵対の結果、ロバに曳かせる戦車として乗用車が生まれ、発展を遂げて馬車へと進歩したにも関わらず、列島では、平安貴族の牛車文化へと定着して行っている。同時に輿も使われており、やがて駕籠という、人が人を運ぶことが普及して、江戸時代には市中や街道でタクシーとなっていた。車両の通行を抑制する方向に道路整備事業が行われている。軍事的意味からの政治的圧力ばかりでなく、雇用の安定といった経済的な側面からも車が発展して行っていない。技術的に知らないわけではないことは、牛車が荷車にも活用していたことから明らかである。明治時代になっても、人を動力とする人力車を発明して得意になっている。文化の違いとしか言えないところがある。それは、霊柩車についても同様らしい。中国に「轜車」といわれるもの(注1)を取り入れたのであるが、中国のものとはその当初からちょっと違うものとして認識されていたらしい。令の解説した令義解には次のように注されている。

 謂、方相者、蒙熊皮。黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚楯。所-以導轜車者也。轜車、葬車也。

 さらに、令集解には次のように注されている。

 釈云、方相、周礼、方相氏蒙熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚楯、所-以導轜車也。相、音息良反。轜車、喪車也。或云。轜、謂葬屋也。車、謂載之車。下文見。轜、音如之反。古記云、方相謂蒙熊皮黄金四目、玄衣朱裳。執戈揚楯。所-以導轜車也。此間俗、大人方也。轜車、謂送屍車也。音如之反。一云、轜、謂葬屋也。車、謂載轜之車。下文見也。跡云、轜、謂喪屋造-載於車。々載轜行車也。又説云、轜、謂喪屋。抑合礼記也。朱云、額云、轜与車二色者。私同。見下文也。或云、轜、俗云小屋形也。轜与車二色也。在釈背

 稲田2002.に、「中国の轜車は、「轜」と「車」とが別々に意味を持つことはなく、もちろん『礼記』にも「轜」を「喪屋」としている記述は見られない。喪屋については天若日子(天稚彦)の神話に詳しい描写があるが……、古記・跡記はそうした死体安置施設(葬屋・喪屋)を車に載せたものを、轜車と認識していたと推測される。同条或説では、……「轜」を「小屋形」と俗称したことが知られるが、『西宮記』臨時八天皇崩事……に見える棺は、大輿の上に竹の台と絹の覆いで作った小屋形を載せ、その内に須々利、さらに中に槨が置かれるという構造であった。一般に輿の屋蓋を「屋形」といい、これは車の屋蓋についても使用される語なので、或説では轜車から車を除いた部分として「轜」=「小屋形」と考えたのだろう。『西宮記』の小屋形は、大輿とともに遺体の安置されている殿舎に運び込まれ、遺体を中に入れて運搬するだけの役割であり、喪屋としての機能は全くない。」(304頁)としている。
 では、令集解のいうように、「轜」は棺のことで、「轜車」はそれを載せた車のことをいうとして正しいのか。今日ではそういう説を採る人も多い。時代別国語大辞典の「き[棺]」の項に、「【考】……(孝徳紀大化二年)のキクルマは、柩をのせる車(令義解……)で、上代では、四品以上の皇族、および一位および大臣の葬送に用いた。」(237頁)とあり、岩波古語辞典には、「ひつぎ【棺】《櫃(ひつ)城(き)の意。室町時代まではヒツキと清音》人の死体を入れる木の箱。棺(かん)。……†ғitukï 」(1089頁)、「き【城】まわりに垣を構えめぐらして、内と外とを区切った所。敵を防ぐためのもの。また、墓所。奥つ城(き)。……▷キは百済の語か。三国史記、百済の条に、「潔城」を「結己」、「悦城」を「悦己」と書いており、「己」は kï の音で、キ(城)と一致する。†kï 」(349頁)とある(注2)。集解の説に「轜」は喪屋とするから、それは棺、城の意でキは乙類 kï ではないかと捉えられそうである。けれども、令集解に載せられているくだくだしい解説は、かえって「轜車」とは何かについて、当時から質問の絶えなかったことを物語るようである。先生、本当ですか? という意味である。
 有職故実大辞典に次のようにある。

きぐるま 轜車 棺を納めて輸送する葬儀用の霊枢車。御入棺後、御在所から御葬場までの路次巡行の牛車(ぎっしゃ)。車は、臨時に絲毛や八曜を用い、ときに生絹の引掩(ひきおおい)や雨皮をかけて喪礼の意を表した。近世は、特に網代の無文片物見として大形に仕立て、寛延三年(一七五〇)の桜町院の轜車は「長柄長二丈四尺五寸、横ガミ長サ一丈二尺二寸五分、車輪指渡六尺一寸」という。乾燥した木を組み合わせて悲鳴を響かせ、『幸充日次記』享保四年(一七一九)正月九日条にも「禁裏御葬送之節、御車之音、末細鳴而物悲敷聞様拵、反常車作之故実ト云々」という。牛は位牌びたい・蓮花まだら・四足白毛一頭のほかに、頸木(くびき)の両端に長緒を副えて、飴簾(あめすだれ)牛二頭と黒毛牛一頭を加えた四頭立てでひかせた。天保十一年(一八四〇)の光格上皇の御葬送には、御入棺所から御座所までは台車、御葬場まで轜車、御鎮座龕前堂までの山頭行列には葱花六角蓋の宝龕(ほうがん)、そこから御廟所までは御棺に白絹をかけ、長柄の輦代(れんだい)に奉載するとしている。 (参考文献)『古事類苑』礼式部二、『寬延三年御葬送御車指図』(『乗車図巻』)、『光格天皇御凶事』(旧儀式図)(鈴木敬三)(193頁)

 この解説に従えば、キグルマは、キーキー鳴るからキグルマというのであると考えられる。それがいつからのことか不明ながら、江戸時代に発明したものとは考えにくく、昔からそうであったと伝えられてきていたものと思われる。言い伝えられてきてはいたけれど、実際に特別に霊柩車を作っておくということもなかなか出来かねるものである。天皇と皇族などのほんの一握りの方のために、轜車は定められている。いざというときのために常備しておくことは、どうにも縁起が悪い。祇園祭の山鉾でさえ年に1度は曳かれるが、葬礼の車がそうたびたび活躍されては弱るのである。また、天皇に凶事があっても、牛に曳かせる轜車ばかりが永続的に用いられたものではなく、輿によって運んでしまうことも多かった。すなわち、轜車は、使われる時にのみ作られて、1回きりで使い捨てられたり、部品は転用されたものと考えられる。令制では、喪儀司(さうぎのつかさ、もてありきもの)の規定があり、「正一人。掌らむこと、凶事(くじ)の儀式、及び喪葬(さうさう)の具のこと。……」とある。葬儀に随行する人員で、大同三年に兵部省鼓吹司に併合されている。そこが管理して倉庫に格納していたと考えられないことはない。といって、取って置いて次の方が使うとは考えにくい。大衆が使って一時期隆盛を誇った宮型霊柩車は葬儀社が管理していたが、回転率が高いから用いられたものである。今般少なくなったのは、流行が廃れたからである。平安時代にはすでに轜車を特注して作ることは行われていない。いつも使っている牛車を利用している。清水寺縁起・下巻には、二条天皇の遺骸を乗せた八葉車(はちようのくるま)が見られる(注3)
 明らかに轜車として製作されたものを使っている例が、大正天皇のご葬儀の折、また、江戸時代の絵画として残されている(注4)。江戸時代は有職故実研究が盛んであり、その成果として復元されたということであろう。
葬送の行列(旧儀式図画帖第24巻(孝明天皇御凶事〔御出車御行列〕)本文12~17、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0036618~E0036623)をトリミングのうえつなぐ)
轜車(同本文15単品、E0036621をトリミング、クリックで拡大可)
 この図を見ると、大工頭が葬列に付き従っている。葬列に不釣り合いな人物である。その視線は車輪に向けられている。なにしろ大役である。天皇の霊柩車の製作に当たっている。うまく行ってもらわないと困る。帯刀しているのは、うまく行かなかったとき刀で微調整するためではなく、切腹する覚悟なのであろう。特に説明書きがあるわけではないが、これを見る限り、これはきいきい軋ませることをねらっている。きいきい泣くように鳴る仕掛けに作っている。上代に、きいきい鳴ることからキグルマといったのであれば、キは甲類( ki )である。きいきい、きしきしと刮(きさ)ぐような音ではないかと推測されるからである。刮ぐとは、木地轆轤のようにこそぎ削ることで、記上に「岐佐宜集而(きさげあつめて)」とあり、キは甲類である。そのキサグは擬音語に発していて、キイキイやキシキシといった音に由来すると推定されるから、それらのキは甲類のキと捉えられていたと考えられる。音を聞く場合のキクのキも甲類である。音の耳に鋭いことを示す所以かと思われる。山口幸充の観察は正しい。記録としては、彼の日次醜聞という日記の、「御車の音、末細く鳴きて物悲しく聞ゆる様に拵へ、常に反し車を作るは之れ故実なりと云々」に限られるかもしれないが、令集解の質問攻めに答えるのに、きいきい言うからキグルマだよ、の方が、よほど論拠に確かで誰も疑問を持たず、質問が繰り返されることはない。上物がキ(棺)で、下は車であるなどという小理屈は、小理屈にすぎる。
 葬儀に泣女(なきめ)を同伴させることは、民俗に大陸とともに行われた(注5)。つまり、泣女と同じ役割のために、わざと車が軋んできいきい泣く音を発するように作っている。素晴らしい技術である。そもそも牛車の木製車輪の構造は、羽(は)、輻(や)、轂(こしき)と呼ばれる材を組み合わせて作られている。安定的に常態としてあるわけではなく、メンテナンスを必要とした。木は乾燥すると狂うから、ときどき車輪を水に浸けておく。水に浸けている様は、描かれて図案となり、片輪車模様の蒔絵手箱などに見られる。これは実に文化である。実用に馬車へと発達させることのなかった本邦の前近代の車文化は、実は鋭く文化技術的な逸材として用いられていたと言える。物質文化と精神文化とを分けて、あるいは、対立概念として考察されることが多いが、そんな近代の考え方の枠組をあざ笑うかのように、古代から、車をわざと軋ませて用いる事象が存在していた。人間の想像力≒創造力のスケールの大きさを目の当たりにすることができる。
輻のはずれかかった車(神田明神山車(須田町)、江戸末期に古川長延が復元したものを江戸博開館(平成5年)時に1/1で複製カ、約21年経過、江戸東京博物館展示品)
片輪車蒔絵螺鈿手箱(木製漆塗、平安時代、12世紀、東博展示品)
 以上、轜車の文化性な高さについて検討した。

(注)
(注1)釈名・釈喪制に、「輿棺之車曰轜。轜、耳也。懸於左右前後、銅魚揺絞之属、耳耳然也。其蓋曰柳。柳、聚也。眾飾所聚、亦其形僂也。亦曰鼈甲。以鼈甲亦然也。其旁曰牆、似屋牆也。」、礼記・檀弓下の「塗車、芻霊、自古有之。明器之道也。」の注に、「帷帳、蔽棺之帳。轜車、葬車矣。車載喪屋之疇也。」とある。用例としては、芸文類聚・后妃部に、「梁任昉王貴嬪哀策文曰、游衣戒節、轜車命服、永去椒華、長辞嘉福、……」と見える。車輪が小さくて背が低いもので、本体には銅でできた揺れる飾りを前後左右に着けたものであったらしい。
(注2)釈日本紀・巻十四・述義十に、「轜(キ)車 私記ニ曰、如祇反、説文、喪車也。釈名、輿棺之車ヲ曰轜ト、其盖ヲ曰柳ト、或曰鱉甲ト、其旁ヲ曰𨍰ト。」、谷川士清・日本書紀通証・巻三十・孝徳天皇紀に、「轜車(キクルマ) 岐(き)ハ謂棺也、令ニ曰、親王一品ハ方相轜車各一具、字書ニ轜又作輀、喪車也。」、近藤芳樹・標注令義解校本・巻十に、「轜車。釈云。轜音如之反。一云。轜謂葬屋也。車謂轜之車。或云。轜俗云小屋形也。轜与車二色也。これ棺郭を容るゝ屋形也。其轜を載る車ゆゑに、轜車といふ。釈名云。轜耳也。懸於左右前後。銅魚揺絞之属耳々然也。」(『故実叢書第四巻』426頁)とある。
(注3)八葉車は“一般車両”であり、平治物語絵巻にも描かれている。
喪葬の車(土佐光信、清水寺縁起絵巻下巻、室町時代、15世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0031426)をトリミング)
(注4)明治天皇の御葬儀においては、御車師西村七三郎に製作が依頼されるも、「京都御所に御保存あるものを御用い遊ばさるるはず」(大正元年八月四日、東京日日新聞、『大正ニュース事典第一巻』727頁)とある。また、実際の葬列では、「この時しも遥かに主馬寮のあなたより、堪えがたき一種の哀音は軋り来たりぬ。これ霊轜を納め奉るべき轜車の轍の泣くにぞありける。……その霊轜が緩やかに廻転する黒漆の轍よりは、一回転ごとにギーッギーッと堪えがたなき哀音出でて、……」(大正元年九月十四日、時事新報、同上733~735頁)とある。大正天皇の御葬儀においては、運搬途中で天災にでも遭ったら取り返しがつかないからと、拝命した西村麟太郎が東上して製作した。「工人約七十人、一カ月昼夜兼行 轜車の大きさは全長二十三尺、高さ十二尺、幅十二尺、車輪の高さ五尺九寸、総重量二百八十貫(内車輪の重さが二個合わせて八十貫)、材料は骨組みの大部分が桧、車輪には欅、車軸には樫が用いられ、それに網代(あじろ)が張り廻らされて、前後には御簾が垂れられ、塗色は木部は全部黒漆で、金かな具でつつましやかな御装飾が施されるのであるが、この轜車一台を謹製するのに要する工人の数は御車大匠(だいく)四十人、網代師十人、塗師十二人、外に畳、御簾師、表具 師など合わせて六人、合計七十人近くの工人が夜を日についで工を急いでも一カ月の日子を要する予定であるが、轜車謹製に当って最も骨の折れるのは、車輪の回転とともに車軸から発する七種の哀音を出すようにすることで、この点が一番工匠の苦心を要する点であると。」(昭和元年十二月三十日、大阪毎日新聞、『昭和ニュース事典第一巻』365頁)と報ぜられている。そして、「四牛あゆみ出で御車の輪一回転、キー、コー、キーと哀音を発する刹那、……キー、コー、キ、キーときしむ御車の哀音は耳に突きささる錐のように痛みを覚ゆる。」(昭和二年二月七日、大阪毎日新聞(号外)、同上367~368頁)とある。
(注5)記の天若日子、紀では天稚彦の死に際して、「哭女(なきめ)」、「哭者(なきめ)」が登場している。谷川士清・日本書紀通証・巻六・天孫降臨章に、「今按、甞聞、紀ノ熊野、若シ家ニ有死者、傭饒舌ノ婆子之哭。告郷党、随価ノ高低、有ト哭泣ノ軽重云。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917890(15/220))、河村秀根・益根・書紀集解・巻二・神代下に、「嘗テ聞、辺俗有一升哭二升哭、声以米ヲ量ル之ヲ。事雖渉ト猥ニ、傭テ哭者ヲ哀ヲ、猶存ス古ノ之風ヲ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219485(58/220))とある。

(引用・参考文献)
稲田2002. 稲田奈津子「喪葬令と礼の受容」池田温編『日中律令制の諸相』東方書店、2002年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
『故実叢書第四巻』 『新訂増補故実叢書第四巻 標注令義解校本 坤』明治図書出版、1993年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1990年。
『昭和ニュース事典第一巻』 昭和ニュース事典編纂委員会・毎日コミュニケーションズ編『昭和ニュース事典第一巻』毎日コミュニケーションズ、1990年。
『大正ニュース事典第一巻』 大正ニュース事典編纂委員会・毎日コミュニケーションズ出版事業部編『大正ニュース事典第一巻』毎日コミュニケーションズ、1986年。
有職故実大辞典 鈴木敬三編『有職故実大辞典』吉川弘文館、1995年。

(English Summery)
 About "轜車"
This paper discusses the exact meaning of the word "轜車きぐるま" in March 2nd year (AD 646) of Taika period in Nihon Shoki. In the ancient times of Japan, a hearse "轜車" pulled by cows pointed out not to mean a car with a coffin 〔kï〕, but to indicate that the mechanism of the wheels was set like a cry 〔ki〕 to express sorrow. That is, in ancient special syllabary spelling, each sound is different.

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