古事記・日本書紀・万葉集を読む

コピペで学位は自己責任で。(つまり、そちらの問題なのだ。「上代語ニュース」もどうぞ。)

灯明台ふたつ

2017年05月15日 | 無題
 いずれも灯明台である。
灯明台(平城宮跡資料館展示品)
緑釉熊形灯(中国、後漢時代、1~3世紀、横河民輔氏寄贈、東博展示品)
 灯明の油を入れるお皿を上に乗せて使っている。古代には胡麻油のような植物性オイルが使われたように思う。荏胡麻などは今、健康食ブームで食されている。菜種油登場まではとてつもなく高くて、庶民はおよそ使うことができなかった。蝋燭となればさらに高い。徳川吉宗の頃でも輸入していたらしい。鯨油や石油(「燃水(もゆるみづ)」(天智紀七年七月条))がどのように使われてきたのか、勉強不足でわからない。植物オイルを搾った絵は絵巻物に見られる。
 平城宮跡資料館の図示では、明るくするための反射板か風除けの覆いのようなものが灯明皿にめぐらされている。何を使ったのであろうか? 不燃性の紙などなかったであろう。疑問が湧いた。小学校の机と椅子のようなものが“復元”されていて、ホンマかいな? と思った。当然、机の高さ以上に灯明の明かりが灯っていなければならない。ひっくり返らないか心配になる。民具にはまれに高火鉢というものもあるから、その台かもしれない。それなら椅子に腰かけていて、ちょうど手があぶれる高さになる。奈良時代の官吏に残業が多くて過労死するものがあったのか、知らない。
デスクとチェア復元品(平城宮跡資料館展示品。Googleのストリートビュー範囲内
 中国後漢時代の灯明台は緑釉の焼物である。漢代から魏晋南北朝期には、物の支えの部分に、熊のデザインが施されるのが流行していたという。熊は大きくて存在感があると解説されているが、私にはわからない。むしろ「かわいい」タイプに見える。クマさんの灯明台は、さほど大きなものではなく、30cmくらいであった。いずれにせよ、重心を低くしたいがために熊があしらわれている。中国にいるクマは、ツキノワグマ、ヒグマ、マレーグマの仲間であるが、漢民族の目にはツキノワグマが卑近であったようである。すると、喉元のV字形の出っ張りは、月の輪を示したものと思えてくる。どうなのであろうか。
石山寺縁起の灯明台(小松茂美編『日本の絵巻16 石山寺縁起』中央公論社、昭和63年)
 日本では、ウルシを塗った台が多いように思われる。三脚式も見られる。台からまるごと陶器というのはもう少し時代が下らないと見られないような気がする。火鉢が焼物として見られるのは、戦時中に、刳物の火鉢の内側にはられた銅板を供出させるために生産が奨励されたとも聞く。お寺さんには金属製の灯明台がある。日本において陶器の灯明台はどのくらい見られるものなのか、ご存知の方はお教え下さい。

(2017.5.27追記)
高燈台(木製漆塗彩色、法隆寺献納宝物、鎌倉時代、13~14世紀、東博展示品)
 絵の描いてある反射板の真ん中に、鉄輪が出ていてそこに灯明皿を載せる。高さを調節できるということなのであろうが、ガラス越しでは裏側を少しも見ることができず、どのような塩梅になっているのか窺い知ることができなかった。斜めから見て少しは立体感をもって捉えられるが、完璧にガラス面に対して平行に陳列されていた。裏側の仕掛けを知られたくない特別な事情でもあるのだろうか。
(2017.6.6追記)
 春日権現験記絵に、風除けに紙をしぼり巻いてある灯明が見られる。縁の中央部に置かれて外側を240°ほど巻いてある。行灯への発達過程にあると説かれている。鎌倉時代の終わり頃、延慶二年(1309年)に描かれている。照明の技術史の点から言って、平城宮跡資料館の復原図、奈良時代に高価で貴重な紙が巻かれていたのかやはり疑問である。残業などせず、火の用心に努めていたと考える。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「飛鳥」と書いてアスカと訓... | トップ | 挿絵本の楽しみ(静嘉堂文庫) »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。