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「春日大社」展の籠手(こて)+板橋区立郷土資料館「武具繚乱」展

2017年02月19日 | 無題
籠手(鎌倉時代、13世紀、春日大社蔵、「義経籠手」、東博「春日大社展」2月12日迄展示。写真は『春日大社古神宝宝物図録』春日大社社務所発行、昭和48年)
両方の手に嵌める両籠手(もろごて)です。
南北朝時代から戦闘形態が接近打撃戦に変化して、両方の手にするようになったとされています。
その最古の残存例とのことです。

盛装の男子(埴輪、栃木県下都賀郡壬生町ナナシ塚古墳出土、古墳時代、6世紀、高山政之助氏寄贈、東博展示品)
古墳時代の埴輪でも、両方の手にしているように見えます。
その際、左手(弓手)に鞆(とも)を着けている例も見えます。
(埴輪には、鞆を腰にぶら下げているものもあります。鞆“単独”の作品がありますが、籠手“単独”のものはあるのでしょうか。)
その後に、籠手を左手だけにするようになったらしいのです。
絵巻物の絵でも左手だけに着けている例があります。
どうして左手だけになったのか、専門家による解説があったら教えてください。

古墳時代の甲冑の様子が展示されている横浜市歴史博物館にてお尋ねしたところ、
籠手については「ミッシングリンク」ではないでしょうか?
とお答えいただきました。
さすがプロの使う言葉は違い、英語が登場してきて驚きました。
“歴史”博物館だから“歴史”的にみることに貫かれています。

鞆はどこへ行ってしまったのかとか、
古墳時代の埴輪にありながら遺物としては鉄器でたまにしか見られないとか、(ほぼほぼ革製だったから残らなかった)
その辺までは良しとしても、物がないものを考えても仕方がない、というか
資料の途切れているものは科学的には考えようがないということのようです。
籠手(岡山県倉敷市真備町天狗山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、團伊能氏寄贈、東博展示品)

思うに、(=非科学的に)
弓を持った人が馬に乗るようになって騎射になったとき、
右手で手綱を操りたいから籠手を嵌めていては動かしにくくて邪魔なので、(落馬しては意味がない)
籠手は左手だけにするようになった……、とか、
当てて音を鳴らして楽しむ(「ますらをの 鞆の音すなり」(万76))ために鞆をつけることがあった……、とか
戦以外の武装する必要のない芸事の弓の場合は鎧も兜も籠手もしていない……、とか、
それでも弓弦が左手に当ったら痛いから素手に鞆をつけることがあった……、とか
いろいろ考えては楽しんでおります。

小手先では謎が解けそうもないので本格的に研究(=道楽)しようと思っております。
(大いなる疑問→「籠手単独埴輪はなく、鞆単独埴輪があるのはなぜか?」)

なお、春日権現験記絵を絵巻大成などで予習してから行けばよかったと後悔しております。
その巻十三に描かれている灯火の燃料は、さて何でしょうか。胡麻油でしょうか?
灯明皿(横浜市金沢区上行寺東やぐら群遺跡、鎌倉時代、玉川文化財研究所所蔵、横浜市歴史博物館展示品)
さらにわからなかったのは、琴箱(緑地彩絵琴箱、本宮御料古神宝類、平安時代、12世紀、春日大社蔵)です。檜板の曲物で樺で綴じられていると説明されていますが、つなぎ目が見えませんでした。曲物は塗られてしまうととてもわかりにくいです。そして、その職人技について、人に聞くのも憚られます。愛好家にとっては「国宝」ですし、職人さんにとっては当たり前のことのようです。
(以上が、2017-01-30に記したことです。)

(以下は、2017-02-19に記したことです。)
板橋区立郷土資料館「武具繚乱」展(~3/26)へ行ってきました。
関谷弘道氏の遺された甲冑刀剣類コレクションが寄託されてたくさん展示されています。
江戸時代のものがほとんどです。

左から、鉄黒漆塗五本篠籠手(細長い鉄板を並べたものを篠といいます)、鉄黒漆塗三枚筒籠手(一の腕の筒のところが紅糸菱綴で繋がれています)、鉄錆地三枚筒籠手(3枚の筒板を蝶番繫としています)、鉄錆地七本篠籠手(四入り鎖で繫いでいます)です。
揃えで陳列されているものに、
 
左から、展示されていた鉄黒漆塗萌黄糸威五枚胴具足、鉄錆地塗紺糸威菱綴桶側二枚胴具足、鉄錆地縹糸威腰取五枚胴具足、ならびにポスターに使われている鉄潤色塗紅糸威二枚胴具足、金箔押仏二枚胴具足のそれぞれ籠手部分を撮ってみました。甲冑と小具足がもとからセットとして残るものは少なく、また誰が着用したのか(いま、籠手のことばかり考えていますから、誰が袖を通したのか、と言った方がふさわしいでしょう)、確かなものは少ないそうです。

鉄に漆が塗ってあるものを保存するとなると大変だろうと思って伺ったところ、湿度が高いと鉄が錆び、逆に低いと漆が剥げるとのことでした。昔の高床式倉庫や土蔵の知恵はすごいそうです。

江戸時代も末になると、鎧の着方がわからないお侍さんがたくさんいたようです。籠手は、褌を締めてから始めて最初のほうで着けます。
甲冑着用備双六(歌川芳貞画、江戸時代、安政年間、板橋区立郷土資料館所蔵)

展示解説」なるギャラリートークが、次回は3月11日(土)に13:30~(公称40分程度)予定されています。まず15時まではするだろうと思ってご参加ください。歴史が大好きだということは、トークができることが嬉しくて仕方がないわけでありましょうし、それがまた素人にもとてもわかりやすく的確に説明していただけますし、素朴な疑問、質問も大歓迎でいくらでもお話しされてしまうというとても有り難い事態が出来していました。聞きたいことがあったら箇条書きでたくさんメモしておいてどんどん聞いてしまいましょう。閉館時間は17時ですから、それまでならいくらでも、関係のあまりないようなことでも日本史のことなら何でも教えてくださると思います。
入館無料です。質疑応答も際限なく無料です。日本甲冑武具研究保存評議員の、甲冑を見ながら歴史を研究されている方のお話を聞くことのできる格好の機会と思います。

なお、常設展示は外の民家のみです。白い毛のテンの剥製などが甲冑展示により隅に追いやられていて、ガラス越しでなく見れて嬉しいものがありました。源氏物語・末摘花に「ふるき」(たぶん、古着の謂い。和名抄に「黒貂」)などとあるのは、渤海などからの輸入品らしいとのことです。日本に棲息しているテンの毛が、古くなったものと思っての命名ではないかと考えられるのです。籠手のことばかり思い詰めていると、テンの胴を抜いて筒にすれば、アームウォーマーにそのまま行けるのではないか、などと宜しくないことを考えてしまったのでした。
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