古事記・日本書紀・万葉集を読む

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記紀の「諺」 其の九「堅石も酔人を避く」(其の二)

2017年10月26日 | 論文
(承前)
 さて、和名抄「額」に、付属して地方の謂い方に、「顎」との関わりをする記事があった。額から歯並びへと関心が移っている。髑髏を見ての連想であろう。この、歯並びについては、ヤマトでは瑞歯についての話が名高い。反正天皇は、瑞歯別天皇と呼ばれた。歯並びがきれいであったかららしい。

 弟(おと)、水歯別命(みづはわけのみこと)、多治比(たぢひ)の柴垣宮(しばかきのみや)に坐(いま)して、天の下を治めき。此の天皇、御身(みみ)の長(たけ)、九尺二寸半(ここのさかふたきなかば)ぞ。御歯(みは)の長さ一寸(ひとき)、広さ二分(ふたきだ)、上下(かみしも)等しく斉(ととの)ひて、既に珠に貫けるが如し。(反正記)
 瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)、去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)の同母弟(いろど)なり。去来穂別天皇の二年に、立ちて皇太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ。天皇、初め淡路宮に生れませり。生れましながら歯(みは)、一骨(ひとつほね)の如し。容姿(みかたちすがた)美麗(うるは)し。是に、井有り。瑞井(みづのゐ)と曰ふ。則ち汲みて太子(ひつぎのみこ)を洗(あむ)しまつる。時に多遅(たぢひ)の花、井の中に有り。因りて太子の名とす。多遅の花は、今の虎杖(いたどり)の花なり。故、多遅比瑞歯別天皇(たぢひのみつはのすめらみこと)と称(たた)へ謂(まを)す。(反正前紀)(注8)

 記に身長が9尺2寸半と、もう少しで一丈になるほどの高さを示している。上に「堅石も酔人を避けにけり」の諺譚が度量衡と関係がありそうである点を解いた。上代の人のヤマトコトバ上での考えでは、2つの話が通底するものと受け止められていたようである。反正天皇の名前譚において、通説に、タヂヒという語について、記紀で別個の話と捉えられている。小学館の新編日本文学全集本に、「イタドリはタデ科の多年草。七~十月に白色の小さな花を開く。『和名抄』に「本草疏云、虎杖、一名武杖、和名、伊太止里(いたどり)」。記にはタヂヒの花にまつわる命名説話はない。そして「蝮(たぢひ)之水歯別命」と「蝮(まむし)」の字を用い、「蝮部(たぢひべ)」を定めた(仁徳記)とあり、タヂヒをめぐって記紀の所伝は全く異なる。」(②96頁頭注)としている。同、古事記には、「タヂヒは河内国の地名。水歯別命はこの地に住み、この地名を名に負う。」(286頁頭注)とする。三省堂の時代別国語大辞典上代編には、「虎杖(いたどり)をタヂヒというが、おそらく形が蝮[(たぢひ)]に似ているのでつけられた名であろう。」(426頁)とする。形がイタドリとマムシとで似るとするのは、茎が節々に屈曲しながら伸びている点を示したのであろうか。理解しがたい。筆者は、いわゆる“語源”を探るという立場に立たない。上代において、マムシのこともイタドリのことをヤマトコトバにタヂヒと呼んでいたこと、そこを出発点として物事を考えたい。
イタドリ開花時
イタドリ若芽時(「ちいつもblog(http://blog.chiitsumo.com/recipe/post_541.html)」様)
 植物のイタドリのことを、中国でどうして虎杖と書き表したのか、確かではないが、陶弘景・本草経集注に、「虎杖根 微温。主通利月水、破留血癥結。田野甚多此、状如大馬蓼、茎斑而葉円。極主暴瘕、酒漬根服之也。」とある。イタドリの春苗の芽吹きの細竹の子かアスパラガスのようなとき、赤い斑点のあるのを譬えて見ているらしい。若茎は食用となる(注9)。新撰字鏡に、「虎杖根 伊太登利(いたどり)」、和名抄に、「虎杖 本草疏に云はく、虎杖は一名武杖〈伊多止利(いたどり)〉といふ。」とある。本草和名に、虎杖根の一名に「武杖」をあげ、「虎の諱故也」と注しているが、訳がわからない。枕草子に、「見るにことなることなきものの文字に書きてことごとしきもの。……いたどりは、まいて虎の杖と書きたるとか。杖なくともありぬべきかほつきを。」(154段)とある。清小納言は花を観賞したのであろうか。山菜を味わうことはあっても採りに行ったことはなく、スカンポ、ゴンパチの赤斑を見たことはなかったのであろう。
 漢語で虎杖と記される植物を、ヤマトコトバにイタドリ、またタヂヒと言っている。イタドリとは疼取、痛みを取る薬効があったからそう呼ばれていたとの説もある。いったんそう呼ばれたら、板+取り、つまり、材から板を取ることが連想される。すなわち、鋸である。鋸は古語にノホギリである。和名抄に、「鋸 四声字苑に云はく、鋸〈音據、能保木利(のほぎり)〉は刀に似て歯有る者也といふ。」とある(注10)
正倉院の鋸(いちばん下、白牙把水角鞘小三合刀子 第34号のうち。「宮内庁正倉院HP(http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000012141)」様)
 ここに、どうして瑞歯別天皇の「歯一骨」の話に虎杖の花が登場しているのか悟ることができる。顔を見れば、横にきれいに並んだ歯ばかり印象に残る。この、鋸野郎め。それを直接綽名とするわけにはいかず、ごまかしながら頓知話にしている。そして、イタドリは、路傍、堤防、山地の崩れた崖に先駆的に生える植物である。歯茎が崖のようであったということであろう。「大坂の道中」のことが思い出される。切り通しの道路が作られていた。イタドリに囲まれた道ということになる。漢語に虎杖と書くから、「杖」の話になっていて然りなのである。
 切り通しに作られた道は、銭型のような斑点模様となっている。楕円形に掘った個所に小石を入れ、黒土をついて固めている。結果、波板状凹凸と呼ばれている。そして、律令時代に直線道が好まれたのとは異なり、ゆるやかにくねっている。蛇行しているわけである。マムシが這い登っていくように道がついている。マムシ(蝮)のことを古語にタヂヒという。
島根県松江市朝酌町魚見塚古墳に隣接した古代の坂道跡(「続・古代の直線測量の新事実(巨大古墳の謎に迫る(http://simomura-nobuo.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html/)」様)
マムシ(「四条畷市HP(http://www.city.shijonawate.lg.jp/machi_kankyo/1470357276843.html)」様)
 記には、タヂヒを地名のことであるとしている。紀でも、「大道を作りて京(みやこ)の中に置き、南門(みなみのかど)より直(ただ)に指して、丹比邑(たぢひのむら)に至る。」(仁徳紀十四年是歳条)とある。廿巻本和名抄に、「丹比〈太知比(たぢひ)、為丹南為丹北〉」とあるのがそれであろう。現在の松原市付近と推定されている。筆者は、地名に語源を求める立場にも立たないので、その付近に「大坂」があったかどうかについて検討しない。そうではなく、「大坂」と呼ばれるようなところは、行幸に耐えるような道を作るべきで、排水や路面の安定を目指した本格的なものであったろうと思われ、切り通しとして整備されていたと考える。見た目はマムシの登って行くようであり、また、鋸で切ったような横の斜面の崖の法面には、イタドリが生えていたと想像される。
 つまり、「堅石」をカタシハと訓むとき、より正確にはカタシハを「堅石」と表記したとき、堅い歯をしているものとは、瑞歯なる鋸、イタドリ(板取り)のことを思い浮かべることになる。イタドリは虎杖と漢語にある。杖をもって打った話と合致する。イタドリ(虎杖)の杖と「酔人」の杖とが対決することになった時、イタドリの方は早々に走り去っていったという話となっている。なぜか。堅い歯はいま噛んでいるが、酔人はかなり前に已に噛んでしまって発酵したものを飲んでいる。そして、出来上がっている。酒としても、酔人としてもである。先に出来上がった方が勝ちであることは、飲み会に理解できることであろう。酔っぱらいのことを「大虎」という。上代に酔っぱらいを大虎と呼んだか議論されるべきである。

 初めて、天皇、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥(ひき)ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃ひ蕩(とらか)せり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲(ここ)に起れり。(神武記元年正月条)
 日夜(ひるよる)常に宮人(をみなども)と酒に沈愐(ゑひさまた)れて、錦繍(にしきぬひもの)を以て席(しきゐ)とす。(武烈紀八年三月条)
 酩酊 上莫回反、下丁梃反、並上、恵比佐万太留(ゑひさまたる)(新撰字鏡)

 「蕩(とら)かす」という他動詞、溶解してばらばらにして締まりをなくさせ正体を失わせることである。tiger は本邦にいたことはなく、聞いた限りの動物で、知っているのは毛皮だけである。縞縞模様の錦繍相当のゴージャスな毛皮を目にしていて、ガオーと大きく吼えると伝えられ、肝をつぶして腰を抜かすのだとわかっている。そして、ネコに似ているけれどずっと頭が大きくて、歩くたびに揺らしているのだと聞けば、張り子の虎を作ってみたくなり、酔っぱらいが頭を上下に大きく揺らしながら大声をあげている様とよく似ていると感じたことだろう。「蕩く」ことは、「沈愐(酩酊)(ゑひさまた)る」状態に等しいと判定できる。その本物の大虎の杖に対するに、イタドリのような矮性ともいえる枝ぶりを杖にしていてはとてもかなわない。だから、走り去って避けて行ったのであった。それで、諺に、「堅石も酔人を避(さ)く」とある。
 諺は、言葉のワザとして機能している。カタシハが「堅し」+「歯」の鋸ならば、「酔人」たる大虎でさえ、その皮を取るために利用されるであろう。大きな虎の皮を剥ぐために鋸歯が使われた。だから逆に「堅し歯も酔人を割(さ)く」である。何でも有りだから、助詞モが使われ、いずれの場合でも、の意に活躍している。そのような複線的な解釈を可能にしているところが、上代に諺と呼ばれた言辞のゆえんである(注11)


(注1)西宮一民校注『新潮古典文学集成 古事記』新潮社、昭和54年、頭注に、「この諺は、「堅い石も酔っぱらいだけは避ける」の意で「泣く子と地頭には勝てぬ」の類といわれるが、夜道を行く時に石に躓(つまず)き転ばぬための呪文かという(契沖)。」(193頁)との説をあげている。土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年、219頁に同様の指摘がある。「厚顔抄」『契沖全集 第七巻』岩波書店、昭和49年、573頁に、藤原清輔・袋草紙の誦文歌「夜行途中歌」カタシハヤ・ツカクリニ・クメル酒・手酔(ヱ)ヒ足酔(ヱ)ヒ・我レ酔ヒニケリ(カタシハヤワガセヽクリニクメルサケテヽエヒアシエヒワレエヒビケリ)をあげている。小沢正夫・後藤重郎・島津忠夫・樋口芳麻呂『袋草紙注釈 上』(塙書房、昭和49年)に、「道で百鬼夜行に会った時の歌―堅い岩だ。私がせっせと働いて作った酒を飲んで、手も酔った。足も酔った。私はすっかり酔ったよ。」(504頁)と訳し、「『袋草紙』の「カタシハヤ」の歌は、百鬼夜行から逃れるためのものとあるが、応神記の歌謡を参照すると、酒に酔った時の歌である。それが同条の「堅石も……」の諺と混同して、酔っぱらいを避ける歌と誤られ、再転して百鬼夜行を避ける歌になったのであろう。」(506頁)と穏当に解説されている。袋草紙の歌は誦文(呪文)と記され、記の「堅石も酔人を避る」は諺と記されている。「開けゴマ」は呪文であるが、諺ではない。
 管見にして、呪文でない諺としてきちんと認識された解説を知らない。本居宣長・古事記伝(大野晋編『本居宣長全集 第十一巻』筑摩書房、昭和44年)には、「かくて諺に云る意は、凡て酒に醉ヒ乱れたる人は、正心(マゴコロ)ならねば、如何(イカ)なるひがわざせむも測(ハカ)りがたければ、堅き石すら恐れ避(サク)るなれば必ズ恐れて避(サク)べきものぞとの譬ヘに引て、云りしなり、」(523頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。「意」の説明はされているが、それがどうして「諺」なのか、検討がない。現代の諸説に同じである。
 神田秀夫・太田善麿校注『日本古典全書 古事記 下』(朝日新聞社、昭和38年)に、「酔ひどれには用心せよ、けつして逆ふなといふ教訓を含んだ諺であらうが、ここでは教訓は目的になつてゐない。この種の諺は、地名起原伝説や故事縁起伝説における地名や故事と同様に、伝承する側からすれば、一種の見出し(置かれる順序は逆であるが、それが伝承の記憶把持のための重要な資料とされてゐる意味において)の役を担つてゐるものと言へる。」(329頁、漢字の旧字体は改めた。)とあって、さらに歪曲している。
(注2)「其石走避」、「堅石避酔人也」についての諸説に、現在までのところ、ひと言ひと言に意識して訓まれているとは思われない。「避」字をサク、サルなど適当に訓づけされている。本居宣長・古事記伝に、前者を「避(さ)りぬ」、後者を「避(さ)る」、岩波書店の日本古典文学大系本、同日本思想大系本、新潮社の新潮日本古典集成本、西郷信綱『古事記注釈第六巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年)、次田真幸『古事記(中)』(講談社(講談社学術文庫)、昭和55年)、相磯貞三『記紀歌謡全註解』(有精堂出版、昭和37年)、佐佐木隆『古事記歌謡簡注』(おうふう、平成22年)に、前者を「避(さ)りき」、後者を「避(さ)く」、小学館の新編古典文学全集本、武田祐吉訳注『古事記』(角川書店(角川文庫)、昭和31年)、中西進『中西進著作集2 古事記をよむ 二』(四季社、平成19年)、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』(おうふう、2015年)に、前者を「避(さ)りき」、後者を「避(さ)る」、中村啓信『新版古事記』(角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年)に、前者を「避(さ)りつ」、後者を「避(さ)く」、幸田成友校訂『古事記』(岩波書店(岩波文庫)、昭和18年)に、前者を「避(さ)りぬ」、後者を「避(さ)くる」、土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』(角川書店、昭和47年)に、前者を「避(よ)きき」、後者を「避く」、神田秀夫校注『新注古事記』(大修館書店、昭和43年)に、前者・後者ともに「避(よ)く」としている。神田秀夫・太田善麿、前掲書には、前者を「避(よ)けき」、後者を「堅石(かきは)も避(さ)くる酔人(ゑひびと)」としている。
(注3)万葉集では、サク(放・離)の活用形(未然形・連用形)サケの用字に、「酒」(万1402・3309・3346)が使われている。
(注4)木本雅康「地方の官道―駅路と伝馬―」舘野和己・出田和久編『日本古代の交通・交流・情報―遺跡と技術―』(吉川弘文館、2016年)に、「たとえば、佐賀県吉野ヶ原町の鳥(とり)の隈(くま)古代官道跡で発掘された切り通し状の道路遺構……には、底面に小礫を敷きつめ、さらにそれを粘土で固定するという入念な作りの側溝が存在する(佐賀県教育委員会―一九九五[『古代官道・西海道肥前路』])。」(63頁)とあって、側溝には小礫が敷かれていたことが記されている。傾斜する路面がどうなっていたのかについては、「長年月にわたる流水のため、当初の路面はまず残らないと考えられる。」(同頁)とある。
 中山晋「道路遺跡の調査方法」『古代交通研究』第10号(古代交通研究会、2001年)に、「……その凹凸面に充塡された土については、表土や地山とは明らかに異なる砂質の土壌で、場合によっては地山の土より硬く締まっていることがある。その組成は砂粒・小礫・ローム・黒色土等を含み、稀に多量の土器片が混入している場合がある。また、波板状凹凸面が発見される場所は、傾斜地、オープンカットされたような部分、堀や溝を横切る部分等に見られる点、硬化面に類似している。」(108頁)とある。
 近江俊秀『古代国家と道路―考古学からの検証―』(青木書店、2006年)に、「[波板状凹凸面の分布範囲は]地盤が軟弱な箇所で検出されている事例や……、緩斜面で検出される事例が目立つ……。また、……道路がカーブする部分で検出されているものもある。」(182頁)と指摘し、その成因として、「1 木馬道のように枕木の痕跡と考えられるもの 2 道路の基礎であると考えられるもの 3 足掛け 4 自然発生的なものの[ママ]……に東[和幸「波板状凹凸面に関する第三の見解」『四国とその周辺の考察―犬飼徹夫先生古稀記念論集―』(同刊行会、2002年)]の指摘による牛馬歩行痕跡説を付け加えれば、道路遺構に伴い認められるすべての凹凸痕跡はこれらのいずれかによって説明できると考える。」(187~188頁)とある。また、同書に波板状凹凸面検出道路一覧が表となっている。
 なお、古代の道路に律令時代の直線道のイメージが強いが、鹿野塁「道路」一瀬和夫・北條芳隆・福永伸哉編『古墳時代の考古学5―時代を支えた生産と技術―』(同成社、2012年)に、「古墳時代の道路遺構は、いずれも緩やかにカーブしたり屈曲しており、きわめて直線的なものは4~6世紀をみる限り認められない。」(220頁)とある。考古学における道路敷設の研究は、発掘調査例も限られており、道半ばである。文献にある「自南門直指之、至丹比邑。」(仁徳紀十四年是歳条)の「直」をどう捉えるのか、読みの勘所のようである。
(注5)酒に酔うことを「酔(ゑ)ふ」とする例しか上代には見られない。食中毒や車酔いのことを「酔(ゑ)ふ」とする例は、今昔物語に下って現れる。上代に船酔いなどを何と言っていたか難しい問題である。なお、乗物酔いと酒を飲んで酔うのとは生理的現象に似ているに過ぎず、体の中で起こっているメカニズムは異なる。
(注6)白川静『字訓』(平凡社、1995年)に、髑髏についての中国の思想が語られている。「辺(へん)はもと邊に作り、臱は自(鼻)を上にして架した屍の形で、辺境における祭梟(さいちょう)の俗を示す。いわゆる髑髏棚(どくろだな)で、出入りの要所に設けた。境界のところは異民族と接するところであるから、祭梟によってこれを守った。」(681頁)とある。また、白川静『白川静著作集Ⅰ 漢字1』(平凡社、1999年)に、「放は屍体をうって放逐の意を示す。敫も同様の字形で、いずれも塞外に通ずる辺徼の呪禁である。シャレコウベは白く、その色を皦(きょう)という。すでに白が含まれている敫に、なお白を加えて皦白の意とした。それはすでに、脳を失った空虚なものである。だから竅(きょう)(あな)という。これをたたくのは、悪霊をよび出す意味があったのであろうか。邀(よう)は「むかえる」とよむ字である。たたくことはまた、霊を激して、その呪力を発揮させることでもあった。のちそのような目的の文書を檄(げき)といった。敫に従う字には、一つの意味がこれを貫いているようである。」(50頁)とある。
髑髏棚(台湾、九族文化村、“敵首棚”「隨意窩日誌(http://blog.xuite.net/urolin/twblog/129497087)」様)
「髑髏叩きバラモン」像(ガンダーラ、平山郁夫シルクロード美術館蔵、田邊勝美「酔象調伏・髑髏叩きバラモン・樹に縛られた子供」『国華』1385号、PL.4)
 白川先生は、髑髏を叩くことに興味を持たれている。応神記でも、「打大石」とある。さらに、仏典にも髑髏を叩くことが見られる。増壱阿含経・巻二十・声聞品第二十八に、「是時[鹿頭]梵志即取髑髏反覆観察。又復以手而取撃之。」とあって、鹿頭(ろくづ)梵志という人は、髑髏を叩けばその人の因縁や男女の別などが答えられたという逸話が載る。シャレコウベの白さは、舎利とも呼ばれる米粒をよく精白することで酒造りに用いていることと関係するとしているのかもしれない。
 とはいえ、ヤマトコトバの「堅石も酔人を避く」という諺、すなわち、言葉のワザ、エッジを効かせた言い分は、海外の習俗を理屈っぽく伝えるものとは考えにくい。本邦で坂に髑髏棚があったのか、筆者は不勉強で知らない。髑髏叩きバラモンの逸話が古く広まってしていたのかも知らない。言語活動において、頓智の才が際立っているのが、ヤマトコトバの諺であると考える。つまり、この(注6)は不要ということである。
(注7)容器用語について、記述された言葉と実用とを対照させることは難しい。また、ヤマトコトバと漢字との対照も一対一対応とはならない。「甕(かめ)」の遺品とされているものについても、特に須恵器とは限らない。考古学に、カメとツボとをどのように区別しているのか、展示物のキャプションを見るに悩まされる。言葉の成立経路が違うから、ややこしいのである。和名抄では、瓦器に、「瓶子 楊氏漢語抄に云はく、瓶子〈賀米(かめ)、上、薄経反〉といふ。」、「坩 楊氏漢語抄に云はく、坩〈古耳反、都保(つほ)、今案ずるに之れを壷瓦と謂はず、之れを坩と謂ふとあんず〉は壷也といふ。或に曰く、甒甖〈武鸎二音〉といふ。垂拱留司格に云はく、瓷坩廿口一斗以下五升以上といふ。故に坩は壷と知る也。」とあり、漆器部に、「壷 周礼注に云はく、壷〈音胡、都保(つぼ)〉は飯を盛る所以也といふ。兼名苑に云はく、壷は、一名、𢀿也〈唐韻に壷は音謹、瓢を以て酒器と為(す)也〉といふ。」とある。漆器部にカメは見られない。万葉集には、「酒壺(さかつほ)」(万343)、「御墨坩(みすみつほ)」(万3885)とある。
 筆者の直感によるところでは、容器の口がつぼんでいるものをツボ、酒にするために噛んでしまったものを入れるものをカメとしたのであろうと思う。どちらもクチ(容器ならびに人間の口)が関わる言葉である。なお、平城宮には、酒の醸造用の須恵器甕が据え付けられた建物跡があって、造酒司の置かれていたところと推定されている。各人が飲むためには土師器杯を使っていたという。玉田芳英「平城宮の酒造り」『文化財と歴史学』(吉川弘文館、2003年)参照。
(注8)小学館の新編日本古典文学全集日本書紀頭注に、「「多遅」は「多遅比」の省略表記。」(②96頁)とするのに賛同する。神武紀に、「高倉」を「高倉下」の省略表記とする例がある。
(注9)虎と豹とが雌雄を成すとする説があった。狩野山楽の龍虎図屏風(紙本金地着色、妙心寺、17世紀初め)などに描かれる。李朝の絵画にも同様の例を見たことがある。古代中国に同様の思想があってイタドリの紅斑点を虎と見立てたのか、不明である。
楽山九峰郷石棺 白虎銜雀(中国画像石全集編纂委員会編『中国美術分類全集 中国画像石全集7 四川漢画像石』河南美術出版社、2000年、128頁)
白虎図(中国江蘇省徐州十里鋪画像石墓、林巳奈夫『漢代の神神』臨川書店、平成元年、附図6丁)
(注10)鋸の技術史の通説に不可解なものがある。縦挽きのための鋸が中世までなかったから、板は材木を割ってから手斧がけして作られていたと、因果関係に説かれている。道具が発明されずに不便であったと考えられてしまっている。筆者はそうは考えない。必要は発明の母という言葉は、歴史をかなり説明していると考える。木材がふんだんにあって、木を大量に消費しても困ることはなく、土砂崩れに弱ることも少なくて、温室効果ガスの知識もなければ罪悪感は浮かばない。古墳時代に現われた窖窯は効率が悪く、後の登窯で作られる焼物の同じだけ作るには6倍もの木材を必要としていたとか、1回焼くのに4畳半1部屋分の容量の木材を必要としていたとも言われる。製鉄のためにある場所で木炭を作ると、次回は5~60年後に再び森林が形成されるまで待つという要領であったらしい。塩を作るのにも大量の木材を燃料としたであろうが、雨水に恵まれた列島ならではのことかと思われる。それほどに木が多ければ、巨木を伐り出してきて割って分厚い“板”材として宮殿や寺院の建築に使って支障はない。縦挽き専用の鋸を使ってえっちらおっちら挽くことは、人口が増えて都市化が起こった江戸時代に専門職としてもてはやされたように、至難の業というよりも、ただただ体力と根性が必要である。需給の関係でモノの価値は変わる。材木が有り余っていたとき、どちらが楽か、板にしたときどちらが狂いのないものか、といったことを“経済的に”判断すれば、縦挽き専用の鋸は生まれる余地がなかったのではないか。また、大がかりな板を取るためでなければ、何も縦挽き専用の歯並びの鋸でなくても、挽くことは可能である。正倉院に伝わる変な木目の文欟木厨子をどうやって作ったのか教えてほしい。逆に板葺屋根用の榑を取るのに挽いていたのでは、水が浸みこんでしまってかえって役に立たない。庶民の家が土座に莚敷きでありつづけたのは、けっこう快適であったからであろうし、床を高くして板敷きにしたら畳も欲しくなって、そのためには掘立柱式では腐りやすくてコスパが悪かったからでもあろう。なにしろ材木はあるのだから、腐ったらまた建てれば良かったのである。
 考古学的に出土する古墳時代の鋸では、貝や骨角を細工するのに適しているようである。(「なぶんけんブログ(https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2015/03/tanken86.html)」様参照。)木材に対するに、作業現場では実際に携わる人の器量によって仕事は進められる。船や農具を加工するのに材を縦に少しとか、斜めに少しなど、鋸で挽くことが行われずに工作できようか。船の舳先の接合部分など、斜めカット部分に横挽き用とされる鋸を使うことは禁止されていたのであろうか。筆者は、機能的に仕上げることと直線的に仕上げることとは必ずしも一致しないと考える。幾何学的な精緻さを求めるよりも、木に教えられながら部材を取ったり、組み合わせて行った方が、長持ちすることも経験済みであったろう。経年変化を勘で計算に入れることは、乾燥の十分でない粗材をホームセンターで購入するぐらいにDIYにのめり込めば案外簡単なことである。木には節があり、また、捻れたり反ったり、割けたりするから、その癖を味方につけて作り上げればいい。なにしろ、うまくいかなかったらやり直せばいいのである。完成形を求める発想は、現代の工学的な考えに毒されている。それなのに、結局のところ古くなったら使い捨てている。世の中に販売されている有り物でしか生活できていないのは、人間が持っていた手先の器用さによる想像力をスマホゲームの術中に放棄しているのも同然である。
 吉川金次「古代・中世の縦挽鋸(1)」『金属』第48巻第7号(通巻701号)(アグネ発行、1978年7月)に、「まず鋸をつくってみると,「横挽き」と「縦挽き」では一般的に「横挽き」のほうがつくるのがむずかしい.手間もかかる.同一寸法の鋸なら一寸当りの歯数と歯形を見ただけでもそれは理解できよう.このことはいまも昔も決して変わるはずがない.むしろ昔のほうがより一層むずかしかったと思う.だから,つくるのにむずかしい鋸が存在して,やさしい鋸がなかった,とはなんとも納得がいかない不思議なことなのだ.つぎに職人の仕事を広く観察すると横縦併用のようなことは数かぎりなくある(唐木屋使用鋸には縦横はない).昔の建築用鋸には手曲りの伐木用鋸の歯を改造して縦挽きにして使用したのも見ている.その逆もある.民衆は生活の必要に応じてさまざまな智恵を働かせる.それだからこそ縦挽き,横挽きの専用鋸も生れた.縦挽鋸が存在したから縦挽きしたのではない.縦挽きしたから「縦挽専用の鋸」が生まれたのだ.」(66頁)とある。鍛冶屋さんは頼まれて作っているのであって、新製品開発競争に明け暮れていたわけではない。
(注11)本稿で積み残した課題がある。人名である。「須須許理(すすこり)」という渡来系と思われる人によって新酒造法が伝えられ、その造ったお酒で酔っ払っている。ススコリはマッコリなどと知られるコリと同じく朝鮮語に、漉す、濾過するの意とされている。本名は「仁番(にほ)」と言っている。ニホは、稲ニホのことであり、また、ニホドリ(鳰鳥)、すなわちカイツブリのことである。小さくて丸いから、米の粒のことが印象づけられている。
 小学館の新編全集本古事記頭注に、「須々許理らは百済王が献じた人間ではない。自ら朝鮮から渡ってきたのであり、朝鮮が天皇の秩序のもとにあることの証として、ここに並べて述べられる。」(269頁)とある。百済王が貢進した人は、「貢上人」と書いてあるから別であることが知れる。しかし、仮に天皇の秩序が朝鮮半島に及んでいたとして、その証の記事にこれほどお粗末な技術移転しか見られないのであろうか。亡命か難民か移民か出稼ぎで渡って来ていたのであろう。その前の文で、「亦、新羅人参渡来。是以……作百済池」とあって、新羅の人が百済池を作ったことになっている。不思議がられている記述であるが、出身地を示さない「仁番(須須許理)」が新羅からの渡来人であることを示唆する記事かもしれない。新酒造法がどのようなものかわからないが、酒を造るには米を精白しなければならない。つまり、精(白)(しら)ぐことが求められる。新羅(しらき、キは乙類。なぜシラキと呼ばれたのか不確かながら、キ(乙類)は城(き、キは乙類)を意味するとの説が優勢である。)と下二段動詞の精(白)ぐとの間に音の関連があるのかもしれない。枕詞タクヅノノ、タクブスマは、白や新羅にかかる。また、ニホドリは子育て中に浮巣を作ったり、雛を体に乗せて水面を進むこともある。カイツブリのツブリ的な極みがカイツブリの雛である。百済の船に便乗してやって来たことを示すものではないか。
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