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中大兄の第一妃(嬪(みめ))、蘇我倉山田石川麻呂の娘、「造媛(遠智娘、美濃津子娘)」について 其の一

2017年07月01日 | 論文
 大化改新後の政争において、大化五年(649年)、讒言によって左大臣蘇我倉山田石川麻呂が殺害された事件は、当時の政権の有り様を知る上で興味深いものがある。特にここでは、石川麻呂の娘で、中大兄に嫁いだ造媛(みやつこひめ)(遠智娘(をちのいらつめ)、美濃津子娘(みのつこのいらつめ))が父親の後を追って自殺した点にスポットを当てて検討する。
 事件を追っていくのではなく、造媛とは誰か、なぜ名前が変わって記されるようになったのかについて見ていく。したがって、掲げる日本書紀のテキストは前後することをお許しいただきたい(注1)。まず、父親の石川麻呂が斬首にされたことを聞き、造媛が、首斬りを実行した「塩」という人物の名を聞くのも嫌がるというところから見ていく。

 皇太子(ひつぎのみこ)の妃(みめ)蘇我造媛(そがのみやつこひめ)、父(かぞ)の大臣(おほおみ)、塩(しほ)の為に斬らると聞きて、心を傷(やぶ)りて痛み惋(あつか)ふ。塩の名を聞くことを悪(にく)む。所以(このゆゑ)に、造媛に近く侍(つかへまつ)る者、塩の名を称(い)はむことを諱(い)みて、改めて堅塩(きたし)と曰ふ。造媛、遂に心を傷るに因りて、死ぬるに致りぬ。皇太子、造媛徂逝(し)ぬと聞きて、愴然傷怛(いた)みたまひて、哀泣(かなし)びたまふこと極めて甚(にへさ)なり。是に、野中川原史満(のなかのかはらのふびとみつ)、進みて歌を奉る。歌(うたよみ)して曰く、
 山川(やまがは)に 鴛鴦(をし)二つ居て 偶(たぐひ)よく 偶(たぐ)へる妹を 誰(たれ)か率(ゐ)にけむ(紀113)
 本毎(もとごと)に 花は咲けども 何(なに)とかも 愛(うつく)し妹が また咲き出(で)来(こ)ぬ(紀114)
皇太子、慨然頽歎(なげ)き褒美(ほ)めて曰く、「善きかな、悲しきかな」といふ。乃ち御琴を授けて唱はしめたまふ。絹四匹(よむら)・布廿端(はたむら)・綿二褁(ふたかます)賜ふ。(孝徳紀大化五年三月)

 造媛の近侍の者たちは、奥方を憚ってシホと言わずにキタシと言ったという話である。小学館の新編日本文学全集本日本書紀に、「父を殺した人の名が『塩(しほ)』なので、娘造媛は『塩』という言葉を忌み、『堅塩(きたし)』といったというのである。キタシはキタシ(堅)シホ(塩)の縮約。キタシとカタシは音通。『堅塩(きたし・かたしほ)』は、塩のにがりを除くために土堝に入れて焼き、固い塊となるので『堅塩』という。」(③178頁頭注)とする。そういうこともあろうかと納得してしまっている。
堅塩(森泰通「古代美濃における堅塩の生産・流通・消費」木曽川研究協議会編『木曽川流域の自然と歴史―木曽川学論集―』同会発行、平成21年、2頁)
製塩土器(宮城県江ノ浜遺跡、奈良~平安時代、8~9世紀、「発掘された日本列島2017」展展示品。この薄手の曲物状の土器は、よく知られる厚手の円錐形をした製塩土器(写真下部に破片を集めてある)と併せて使われたものとされている。森先生の言われる「焼塩土器」か。)
 この考えについて、筆者は間違っているとは思わない(注2)が、思慮が浅いと思う。その程度のことをわざわざ後世に伝えようとするほど、上代の無文字文化のなかにある人たちの言語能力は低くない。言葉として、ずっと込み入った事情を伝えているものと思う。第一に、忌む言葉として有名な斎宮忌詞に関係する点があげられる。斎宮忌詞(注3)に、「涙」を「塩垂(しほたれ)」と言っている。延喜式に載る斎宮忌詞がいつからあるかわからないが、大化三年条に、「塩」←……←「涙」を流すことというつながりが感じられる。「傷心痛惋、悪塩名」という記述は、「塩」という名を聞くことはそもそもが斎宮忌詞にいう塩垂、涙を流すことを連想させるのに、さらに輪にかけて、物部二田造塩という名の人に父親が首斬られたのだから、悲しみが倍増している。造媛自身、困ったことに自分の名がミヤツコであって、物部二田造塩にあっては姓(かばね)に当たるが、悪い奴と同じ名に負うている。なぜ姓とが同じぐらいで深刻になるかと言えば、カバネとはシカバネともいうように、亡骸、骨の意だからである(注4)。お父さんは亡くなっていて、屍の骨がどうかされてしまった。物部二田造塩については、人斬り以蔵的なイメージがある。造媛にとって痛ましく辛かったのは、大化五年三月二十六日の出来事である。

 庚午に、山田大臣(やまだのおほおみ)の妻子(めこ)及び随身者(ともびと)、自ら経(わな)きて死(みう)する者衆(おほ)し。穂積臣嚙(ほづみのおみくひ)、大臣の伴党(ともがら)田口臣筑紫(たぐちのおみつくし)等を捉(かす)ゐ聚(あつ)めて、枷(くびかし)を著(は)け反(しりへでに)縛れり。是の夕(ゆふべ)に、木臣麻呂(きのおみ)・蘇我臣日向(そがのおみひむか)・穂積臣嚙、軍(いくさ)を以(ひきゐ)て寺を囲む。物部二田造塩(もののべのふつたのみやつこしほ)を喚(め)して、大臣の頭(くび)を斬らしむ。是に、二田塩、仍ち大刀(たち)を抜きて、其の宍を刺し挙げて、叱咤(たけ)び啼叫(さけ)びて、始(いま)し斬りつ。(孝徳紀大化五年三月)

 とんでもない話を聞かされてしまった。父親、家族、召使一家、首を括って自害している。それだけではない。凶暴な物部二田造塩を喚び寄せている。そやつは、息の絶えている父親の遺体を持ち上げ(注5)、大声を出して首を斬り落とした。それが律にいう斬首の刑(注6)に当たり、はじめての斬として公然と執り行われている。「叱咤啼叫」とあるのは、何と発語していたのか。周知のとおり、首を斬り落とした例は、大化改新の際の蘇我入鹿暗殺事件に見える。

 中大兄、子麻呂(こまろ)等の、入鹿が威(いきほひ)に畏りて、便旋(めぐら)ひて進まざるを見て曰はく、「咄嗟(やあ)」とのたまふ。即ち子麻呂等と共に、出其不意(ゆくりもな)く、剣を以て入鹿が頭肩(あたまかた)を傷(やぶ)り割(そこな)ふ。入鹿驚きて起(た)つ。子麻呂、手を運(めぐら)し剣を揮(ふ)きて、其の一つの脚を傷りつ。入鹿、御座(おもと)に転(まろ)び就きて、叩頭(の)みて曰(まを)さく、……(皇極紀四年六月)

 造媛が父親のために姉の代理で嫁いだ中大兄は、入鹿に斬りつけるに勢いをつけて、「咄嗟(やあ)」と言っている。大刀を揮う時の掛け声は、ヤアに決まっている。このたびは自分の夫が、実家の父親を殺させている。自決しているのにさらに死者に鞭打つどころか首を斬り落とさせている。夫がかつて人殺しを実行していた時の掛け声が聞こえてくる。おもちゃにするのもいい加減にしてもらいたい。心を持つまともな人であれば、とても生きてはいられない。そして、もはや三界にもどこにも帰るべき実家はない。造媛は気が狂って父親の後を追ったのではなく、まともだから生き続けることができなかったのである。
 この「造媛」という人は、蘇我倉山田石川麻呂の娘であるが、そのうちの2番目の子であろう。最初に登場するのは、中大兄に嫁ぐときのことである。今回、皇太子中大兄に讒言して蘇我倉山田石川麻呂を殺すように仕向けた首謀者、蘇我日向、字(あざな)を身刺(むざし)という人物は、そのときにも登場している。蘇我蝦夷・入鹿のいわゆる蘇我本宗家に対するため、蘇我氏の別流の倉山田石川麻呂の娘を嫁に迎えたらいいのではないかという中臣鎌足の提案に、若造にして前のめりにムラムラして喜んで受け入れ、鎌足が媒酌人として取り決めたところ、お相手に決まった「長女」は蘇我日向(身狭)に誘拐されてしまった。そこでピンチヒッターに、「少女」が立っている。親孝行な娘である。話として、2回とも蘇我日向(身刺)は、中大兄と蘇我倉山田石川麻呂との間の関係を壊す役柄として働いている。

 是に、中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)議(はか)りて曰(まを)さく、「大きなる事を謀るには、輔(たすけ)有るには如かず。請(こ)ふ、蘇我倉山田麻呂の長女(えひめ)を納(めしい)れて妃として、婚姻(むこしうと)の眤(むつび)を成さむ。然(しかう)して後に陳(の)べ説きて、与(とも)に事を計らむを欲(おも)ふ。功(いたはり)を成す路(みち)、茲(これ)より近きは莫し」とまをす。中大兄、聞きて大きに悦びたまふ。曲(ひばひらか)に議(はか)れるに従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きて媒(なかだ)ち要(かた)め訖りぬ。而(しか)るに長女(えひめ)、期(ちぎ)りし夜(よ)、族(やから)に偸(ぬす)まれぬ。〈族は身狭臣(むさのおみ)と謂ふ。〉是に由りて、倉山田臣、憂へ惶(かしこま)り、仰ぎ臥して所為(せむすべ)を知らず。少女(おとひめ)、父の憂ふる色を怪びて、就きて問ひて曰く、「憂へ悔ゆること何ぞ」といふ。父其の由を陳(の)ぶ。少女曰く、「願はくはな憂へたまひそ。我(おのれ)を以て奉進(たてまつ)りたまふとも、亦復(また)晩(おそ)からじ」といふ。父、便ち大きに悦びて、遂に其の女(むすめ)を進(たてまつ)る。奉(つかへまつ)るに赤心(きよきこころ)を以てして、更に忌むる無し。(皇極紀三年正月)

 結局、倉山田石川麻呂の「少女」の方が自ら進んで中大兄に嫁いでいる訳であるが、彼女の名前をきちんと記した報告書としては、天智紀の皇統譜によるしかない。

 二月の丙辰の朔戊寅に、古人大兄皇子(ふるひとのおほえのみこ)の女(みむすめ)倭姫王(やまとのひめおほきみ)を立てて皇后(きさき)とす。遂に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(めしい)る。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘(をちのいらつめ)と曰ふ。〈或本(あるふみ)に云はく、美濃津子娘(みのつこのいらつめ)といふ。〉一(ひとり)の男(ひこみこ)・二(ふたり)の女(ひめみこ)を生めり。其の一を大田皇女(おほたのひめみこ)と曰(まを)す。其の二を鸕野皇女(うののひめみこ)と曰す。天下(あめのした)を有(しらし)むるに及(いた)りて、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に居(ま)します。後に宮を藤原に移す。其の三を建皇子(たけるのみこ)と曰す。唖(おふし)にして語(まことと)ふこと能はず。〈或本に云はく、遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰す。其の二を大田皇女と曰す。其の三を鸕野皇女と曰す。或本に云はく、蘇我山田麻呂大臣の女を芽淳娘(ちぬのいらつめ)と曰ふ。大田皇女と娑羅々皇女(さららのひめみこ)とを生めりといふ。〉次に遠智娘の弟(いろど)有り、姪娘(めひのいらつめ)と曰ふ。御名部皇女(みなべのひめみこ)と阿陪皇女(あへのひめみこ)とを生めり。阿陪皇女、天下を有むるに及りて、藤原宮に居します。後に都を乃楽(なら)に移す。〈或本に云はく、姪娘を名(なづ)けて桜井娘(さくらゐのいらつめ)と曰ふといふ。〉……(天智七年二月)

 嬪4人のうちの2人が石川麻呂の娘である。「遠智娘(美濃津子娘、芽淳娘)」と「姪娘(桜井娘)」である。一般的には、「美濃津子娘」は「三野津子娘」などと記されていたのを誤って写して大化五年三月条の「造媛」のミヤツコ→ミノツコとなっていると考えられている。ミヤツコを「三野津子」などと表記したのが誤読されてミノツコに変じたとされている。筆者は、単なる誤写ではなく、意図的、作為的な改変ではないかと考える。彼女は、自分の父親を斬首した物部二田造塩(もののべのふたたのみやつこしほ)が許せない。血潮(ちしほ)にまみれて喜んでいた奴が死んでも許せないと感じていた。きっと物部二田造塩は、血潮のことを斎宮忌詞流に、いい仕事をして「汗」をかいたと笑っていたのであろう。だからこそ、シホという言葉が忌み言葉として侍者に扱われている。ならば、後を追って死んでしまった造媛は、名前を同じミヤツコ(ヒメ)と呼んでいてはかわいそうである。浮かばれないではないか。名前を変えてあげよう。ミヤツコヒメ→ミノツコヒメ(ミ・ノ・コはともに甲類)である(注7)
 確かに、「三野津子」などと記したことによって生じた訓から生じたものではあろう。しかし、それだけの理由で、積極的に名前を変えるかといえば、上代の言霊信仰下にあっては疑問である。大化改新前の騒動の時、「赤心」(注8)を抱いて自らをいわば犠牲にして政略結婚に応じて中大兄に嫁いだのは、嬪の筆頭にあげられている「遠智娘」としか考えようがない。そういう誠なる性根だから、父親の死にショックを受けて後を追っている。
 「遠智娘」という名がいつからあったか、それはわからない。女の子が何人もいて、最初の子は「長女」で、2番目の子の呼び名である。年下の子はオト(弟・娣)である。さらに3番目の子が登場してしまったので、2番目のオトを叔、オトヲヂ(叔父、伯父に対する語)と捉え直して3番目をそれに対するメヒ(姪)として定めた。すると2番目の娘は女の子だからヲヂではなくてそれに近いものとしてヲチとして落ち着かせたと推定することができる(注9)
 最初の婚姻の個所では、「長女」対「少女」という並びであった。名前などどうでもいい扱いと思われていた。より正確にいえば、呼ばれるもの、それが名前であって、どう呼ばれたかが問題なのである。結果的に、ヲチ(ノイラツメ)と呼ばれている。ヲチといえば、遠いところのヲチ(彼方)の意があり、彼岸へ逝ってしまった人であり、以後のことを示すヲチ(遠)の意があり、結婚騒動で善後策をとってくれた人であるし、元に戻って若々しくあることをいうヲチ(復若)の意があり、若い良い人を亡くしたのでそう呼んで悼んだものと思われる。つまり、死後に授けられた諱(いみな)である。イミナとは、忌み名の意である。憚ってシホ(塩)をキタシ(堅塩)という忌み名で呼ぼうと取り決めていた。天皇でもないのに諱で呼ばれている。「遠智娘」という名で呼ばれるとは、忌み名の人ということである。最初に「少女」として登場した時も、「奉るに赤心を以てして、更に忌むる無し。」とある。厭わなかった、寛容であったという意味である。日本書紀編纂者の通念として、彼女は「忌」の人、くだけて言えば、恨みっこなしの人として一貫していたと認識されている。最終的に恨みっこなしにはできないほど、看過できない事態に陥って、自らこの世から出て行った。自己循環的に名前がそのものとしてから名づけられているところからして、上代の言語論理に合致していて正しいと知れる。言葉の意味に依って立つ意味を自らに含めてしまう二重化が自己循環的に起こっている。
 ミヤツコ→ミノツコについては、ミヤツコが、ミ(御)+ヤツコ(奴)の約とされるため、ミノツコは、ミ(御)+ノ(野)+ツ〈助詞〉+コ(子)、つまり、野辺送りのノ(野)の意味合い、墓守の奴から、後追い自殺した人の名とするに相当である。それも、彼女の人生の節目の原因をことごとく作った人物、蘇我日向、字(あざな)を身刺(身狭)という人物が、ヒムカ(日向)、ムザシ(武蔵)という国の名を負っていることに対抗して、ミノ(美濃)という国の名を当てられたということであろう。追号されて美濃守を賜わっている。遠国の日向国や武蔵国ではなく、ずっと都に近い美濃国を与えられている。日向の方は、つまり、蘇我日向は、筑紫大宰帥(つくしのおほみこともちのかみ)へと「隠流(しのびながし)」(注10)になっている。大宰府は筑紫国にあり、昔の考えでは、日向も筑紫国の一部であった。神代紀第九段一書第一に、「筑紫の日向の高千穂の槵触之峯(くしふるのたけ)」とある。
 では、なぜ、美濃国が選ばれたか。ミヤツコを「三野津子」などと記されたのが契機となって、「三野」は美濃国の字に用いていた(注11)からそういう流れからそうなったことに違いはない。ただし、それを積極的に支持する上代人の思想がありそうである。野というのは、武蔵野というように台地のことである。それが3つあるのが「三野」である。3つ野があって間を川が流れていたり低地に湿地となっている。河岸段丘になっている。すると、川の流れや水のある所は、字形としてY字、または、人字である。造媛は無実の父親の死に殉ずるに準じている。漢字の国の儒教道徳に照らしてまことあっぱれな「人」であると認められる(注12)。万葉集でも、「人」という言葉は、立派な人のことを指して使われることがある。つまり、ミヤツコという名を表記するに当たり、「三野津子」というように記してミノツコへと改変しようとした書記者の意図が反映されてのことなのである。

 …… 吾(あれ)を措(お)きて 人はあらじと 誇(ほこ)ろへど 寒くしあれば …… (万892)
三野と人の関係地図
 実際の美濃国については、古代から紙が特産品として知られていた。美濃紙である。延喜式・内蔵寮式に、「年料に造るところの色紙四千六百張……毎年図書の長上一人を差し、美濃国に遣はして造らしめよ。」とある。古代の紙の需要に一番多かったのは、お経の書写である。蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いで追討されたのは、山田寺である。今日、興福寺仏頭として伝わるのが、山田寺の本尊、薬師如来像の頭部であるとされている。お経の書写には、染めた紙が使われている。防虫効果を狙ったものともいわれる。「染紙(そめかみ)」とは、やはり斎宮忌詞に、経のことをいう。忌詞つながりでも、ミヤツコヒメ(造媛)を改め、ミノツコヒメ(三野津子媛)として何ら不自然さがない。
 また、美濃国の特産品には絁(あしぎぬ)もあげられる。延喜式・大蔵省式に、「蕃客に賜ふ例 大唐皇。〈銀大五百両。水織絁・美濃絁各二百疋。細絁・黄絁各三百疋。……」とあって、渤海王や新羅王に渡す規定はない上等品扱いされている(注13)。唐への朝貢品に、名前にある粗悪な絹のイメージは払拭されよう。それがなぜか、アシギヌと言われて通っている。悪くないのにアシギヌである。そんなキヌと言えば、濡れ衣のことである。濡れた衣服を言うことから転じて、無実の罪のことを示す言葉である。決して悪くないのに、悪いように思われてしまった。蘇我倉山田石川麻呂の孝行娘を偲ぶのにふさわしいお国柄であるということができる(注14)
 そして第三に、美濃国という内陸国に塩を産する。森泰通、前掲書に、可児市宮之𦚰遺跡や関市重所遺跡から、美濃式製塩土器が出土していることが記され、「付近の土場で荷揚げされた粗塩を再加熱して堅塩を製作する『二次生産地』として機能していた可能性が高い。」(12頁)とする(注15)。つまり、「堅塩(きたし)」の生産が、美濃国で行われていたわけである。この堅塩については、今日まで伊勢神宮に清めの塩の作り方として続いている。粗塩を三角錐の土器に詰め込み、忌火を熾して5~6日かけて焼く。堅塩は、その実体そのものが忌みを表し得るものなのである(注16)。忌みの人、造媛に聞かれないように忌詞として「堅塩(きたし)」と呼んでいたのは、言葉が言葉へこれでもかと畳みかけるように言い表わす表現となっており、上代の言語感覚に合致した言葉遣いであると知れる。
伊勢神宮の塩づくり(「伊勢神宮・御朱印」様)
 以上が、本稿の主旨である。ところが、近年になって、大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは別人ではないかと大風呂敷を広げる方が現われた。「遠智娘(美濃津子娘)」の皇子とされる建皇子の年齢問題を取り沙汰されている。遠智娘の子の建王(建皇子)が斉明四年(658)に8才で亡くなっているとすると、生れたのが白雉二年(651)ということになり、造媛は大化五年(649)に父親の蘇我倉山田石川麻呂の死に落胆して亡くなったはずの記述と合わないから、その母親は別人であろうというのである(注17)
(つづく)
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