古事記・日本書紀・万葉集を読む

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海幸・山幸のさち易 其の三

2017年11月11日 | 論文
(承前)
 では、どうしてこれが結論としてケチ(吝)な話なのであろうか。一方的にそう思えるのではなく、双方にとって、また、第三者が評価してケチだと感じられなければ、話して説得力を持たない。火遠理命が代わりに返した鉤元は、あえて鉤元を拵えない、とっかかりのないブリバリ様の釣針である。糸を付けるのが煩わしい。釣果は、準備が7割、実際が3割で決まると言われる。けれども、その針は、大物をターゲットにしている。釣れればたいへんな幸をもたらす。それを500個も1000個も作って、「盛一箕」して与えている。これは、延縄漁に使う縄をきれいに整え入れたものだったと考えられる。「箕」と言っているのは、延縄を入れる容器のことであろう。箕(み、ミは乙類)の廻(み、ミは乙類)にあたる縁の部分に鉤をかけ渡している。徴(責)(はた)ると言っていたのは、端(はた)のことを想起させる言葉遣いであろう。なにしろ、話は、「鰭(はた)の広物・鰭の狭物」を取る火照命のことである。延縄を入れる容器は、編み籠でも結い桶でも曲げ物でも用を足せばそれで構わない。縄籠、縄鉢、縄橧(なわこしき)などと呼ばれている。水気が溜まらないように、下に抜けるようになっていて、丸いものが好まれたようである。延縄漁を行う際、船で沖に出て釣縄を海に入れていくが、途中で絡んだりしないように、容器の縁に藁束やぼろを括りつけたところへ釣針をかけまわして枝縄を垂らし、幹縄は真ん中にまるく納めて用意しておく。釣り上げるときは、縄を引きあげながら大物がかかっていれば鈎やタモ網ですくっていく。竿釣のような繊細な細工ではなく、数多く仕掛けておいて大量に捕獲することを目指している。魚に釣糸を見られて避けられても、別の魚が食いつくのを待てばいい。竿釣のように当たりに反応して釣り上げるのではなく、食いついた魚が暴れても釣糸が縄で丈夫だからそのままにつながれてあって、しばらくして引き上げれば一斉に引き上げられるという発想である。そんな飛躍的豊漁、すなわち、サチ(幸)の方法にかなったやり方を伝授しようとしているのに、火照命は竿釣の一本釣りのことしか考えられなかった。融通の利かない人間は、ケチな考えから本当のサチ(幸)に至ることはできないというお話である。
延縄籠(アマダイ、マダイ、レンコダイ用、福井県大飯郡若狭和田港、「勝漁丸 今日の釣果(https://https://blogs.yahoo.co.jp/shintanikaturyoumaru/10145886.html)」様)
 延縄籠に枝縄の先に鉤がめくれるように広がっている様は、結えずに残ったおくれ毛の髦(のち)の剛毛化したもののように見えてくる。本邦に開発されたともいわれる延縄漁が、往古にどれほど、どのように行われていたか、不明な点が多い。記には、

 ……栲縄(たくなは)の千尋縄(ちひろなは)打ち延(は)へ、釣り為る海人(あま)が、口大(くちおほ)の尾翼鱸(をはたすずき)、さわさわに控(ひ)き依せ騰げて、打つ竹のとををとををに、天の真魚咋(まなぐひ)を献る。(記上)

とある。記述されているほどだから、行われていたことは間違いない。
 記紀に、失くした鉤が「赤海鯽魚(たひ)」(記上)、「赤女(あかめ)赤女は鯛魚(たひ)の名なり。」(神代紀第十本文)や「赤鯛(あかたひ)」(一書第一)、「鯛女(たひ)」(一書第三)、「口女(くちめ)は鯔魚(なよし)なり。」(一書第四)などから見つかっている。鉤元1点に力がかかり、針素が切れたのである。そこで、釣針の鉤元にとっかかりのないブリバリを使い、大物の大漁を目指して船で出て、延縄を行うことが斡旋された。農商務省「日本水産捕採誌 中巻」『明治前期産業発達史資料 別冊47(2)』(明治文献資料刊行会、昭和44年、国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/842746)参照)に、「鯛延縄 鯛延縄漁業は全国大抵為さヾるの地なし而して其漁具も各地概ね大同にして纔に彼此小異あるに過ぎす漁法に於ても亦著しき優劣あるを見ず」(356頁)、「鰤延縄 鰤を釣るには竿を用ゆるあり手釣を為すあり或は曳縄あり其漁法各前に述べたり然れども其利の多きは延縄約に在り此の漁法は各地に行はるれども殊に西海に盛んなり」(363頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
中層延縄(同書、第十六図版)
鯛縄(「鯛縄は、磯辺に道縄といふものを張り、長五百目尋に、鉤数凡十五本を付け、両端には、網袋に小石を入れ、其目方六百目、是に道縄をつなぎ、此処より凡二十尋ばかりの麻糸に、径七寸の空樽を浮となし、餌には鮋といふものをつけて釣るものとす、」河原田盛美『水産小学 上』錦森閣、明治15年、37~38頁、漢字の旧字体は改めた。国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/842629)(44~45/66))
 ブリについては、近世には網漁が盛んに行われていた。延喜式に貢献品として載らない。和名抄に、「魬魚 唐韻に云はく、魬魚〈扶板反、上声之重、又軽音、漢語抄に波利末知(はりまち)と云ふ〉は魚の名也といふ。」とあるのは、ハマチの別名とされている。ハリマチとは、延縄の釣針を待っているという意味なのであろうか。ただし、古代から網漁が行われていたと推測するに足るほど、網のための錘が出土している。木村孔恭・蔀寛月の日本山海名産図会には、網漁が紹介されており、「丹後与謝の海に捕るもの上品とす。」とある。塩漬けしたあと陰干ししたものが遠く運ばれていた。一方、タイの場合は、延喜式に「鯛」が和泉国から御贄として貢進されている。これは鮮魚であろう。ほかに、「楚割(すはやり)」、「腊(きたひ)」、「脯(ほしじ)」など干したもの、「舂酢」、「醬」といったものも貢進されている。

 醬(ひしほ)酢に 蒜(ひる)搗き合(か)てて 鯛願ふ 吾にな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの)(万3829)

 日本山海名産図会には、若狭の小鯛の延縄漁が記されている。「是延縄を以て釣るなり。又せ縄とも云。縄の大さ一握許、長さ一里許、是に一尺許の苧糸に針を附け、一尋一尋を隔てて縄に列ね附て、両端に樽の泛子(うけ)を括り、差頃(しばらく)ありてかの泛子を目当に引あぐるに、百糸百尾を得て一も空しき物なし。飼は鯵、鯖、蝦等なり。同じく淡乾(しほさし)とするに其味亦鰈に勝る。鱈を取にも此法を用ゆ也。ところにてはまころ小鯛と云。」(国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575828)(21/31)(句読点等適宜加え、フリガナはほぼ割愛した。)とある(注16)。今日と違い、鮮魚が求められるのではなく、賞味期限の長い加工品が作られていた。時間的に、ノチになって味わうことができるものである。竿で1匹釣って自分だけ食べるようなケチなことを考えず、延縄でたくさん取って加工して都へ貢納してもらいたいところである。ヤマトコトバの担い手は都に住んでいた。
 「五百鉤」、「一千鉤」が延縄の釣針であることは、問答に、「己がAB(A=B)」とあった点に確かめられる。用例に、「橘は 己が枝枝 生れれども 玉に貫く時 同(おや)じ緒(を)に貫く」(紀125)とあったように、延縄漁法は、1本の幹縄から何本もの枝縄が分かれ出ているけれど、枝縄の形状は均一である。すなわち、

 延縄(はへなは)は 己が枝枝 かかれども 釣り上ぐる時 同じ縄引く

である。
 ここに筆者は、本論の正しさを確かめることができた。新しい技術が開発されたら融通を利かせて取り入れること、それは、主義主張の問題ではなくて、融通の問題だから、考え方を柔軟にさえすれば事足りる。すべてにおいてそうする心構えが、多くの日本人には根づいているように感じられ、実際、世界的にみても、製品にちょっとした工夫を施すことが得意であるとされている。その伝統は、火遠理命に遡ることができるわけである。正しくは、そういう話として作りあげて人々に諭し示した人がいたらしいということである。そのようなことができる人物は、とても頭が良くて知恵が働く大人物であったと考えられる。筆者は、厩戸皇子(聖徳太子)その人であったと考える。


(注1)倉野憲司『古事記全註釈 第四巻 上巻篇(下)』(三省堂、昭和52年)に、「ここの山佐知・海佐知の佐知は記伝にいふやうな道具の意ではなく、獲物(さち)の意であり、己之(おのが)は記伝に「人々の己己之(オノレオノレガ)なり。〔俗言に、面々之(メンメンノ)、また手前手前之(テマヘテマヘノ)、など云が如し。火照ノ命の自(ミ)云フ己(オノレ)にはあらず。〕」とある通りである。下の佐知佐知は語を重ねて強調したのであつて、この佐知は道具(さち)である。つまりこの律語の意味は、「山の獲物(さち)(幸)も各自銘々の道具(さち)(弓矢)によつて得られる。海の獲物(さち)(幸)も各自銘々の道具(さち)(釣鉤)によつて得られる。」といふのである。言ひ換へると、他人の道具(さち)では自分の獲物(さち)は得られない、という意である。」(235頁、繰り返し記号は改めた。)とある。サチという語に「山」、「海」と冠すると獲物のこと、冠しないと道具のことであるとし、サチサチと続けるのは強調であるとしている。
(注2)「己がAB(A=B)」とする用例において、ABとする繰り返しのA=Bであることを意識した使い方が見られる。紀125番歌は、別々の枝に成った実を、再び1つの緒に貫いて1つの薬玉にすると歌っている。元の鞘に納まるというような気分を醸している。古今集の例は、「己がきぬぎぬ」という繰り返しを導く伏線として、予め「ほがらほがらと」と繰り返し言葉を用いている。文意の表明を技巧が襲っている。
 なお、上代に実例が1例しか見られない感動詞オノ「吁」について、この再帰代名詞オノ(己)と関係がある向きもある。

 針袋 とり上げ前に 置き返へさへば 吁(おの)とも吁や 裏も継ぎたり(万4129)
 吁 虚于反、疑怪之辞也、於乃(新撰字鏡)

 万葉集の例は、オノトモオノヤと繰り返し表現になっている。もともとは「吁」に当てるような擬声語から出発したものの、それが「己」と同音であることから、再帰にみる「↺」への驚きとも合わさって、うまく表現されると思われた関連語といえよう。
(注3)新編全集本や西郷、前掲書にそれぞれ、「火照命の方もうまくいかなかったのである。」(125頁頭注)、「もとより彼[兄]もまた不猟であったからだが、古事記はそのことは省いてある。」(130頁)としている。話のピントがぼけている。収穫としてサチが得られたかどうかではなく、漁猟具としてサチを失ったかどうかが問題である。筆者は、釣針に糸をつけなければ絶対に獲れないが、矢に糸を着けて絶対に獲れないとは思わないので、特に記していないのではないかという思いがよぎる。神代紀一書第三に、「弟則雖風雨、其幸不忒。」とあって、山幸彦は日常的に矢を失うことがなかったと記されている。その理由の一つに、弋射があげられる。「孔子去り弟子に謂ひて曰く、鳥は吾其の能く飛ぶを知り、魚は吾其の能く游(およ)ぐを知り。獣は吾其の能く走るを知る。走る者には以て罔(あみ)を為すべく、游ぐ者には以て綸(いと)を為すべく、飛ぶ者には以て矰(いぐるみ)を為すべし。(孔子去、謂弟子曰、鳥吾知其能飛、魚吾知其能游、獣吾知其能走。走者可以為罔、游者可以為綸、飛者可以為矰。)」(史記・老子韓非列伝)、「精衛(せいゑい)石を銜(ふく)んで繳(いぐるみ)に遇ひ、文鰩(ぶんえう)夜飛んで綸(つりいと)に触る。(精衛銜石而遇繳、文鰩夜飛而触綸。)」(文選・左思・呉都賦)とある。
 イグルミとは、射て包(くる)む意、すなわち、弋の字の字形にあるY字形の矢の股なり箆なりに糸をつけ、それを鳥に向けて射って糸を絡ませ、飛べなくして落ちたところを捕まえるというものである。和名抄に、「弋射 唐韻に、弋〈與職反、以豆留(いづる)〉は射るなりと云ふ。四声字苑に、矰〈音は曾〉は弋射の矢なり、繳〈之若反〉は矰繳、飛ぶ鳥を加する所以なり。(矰繳所以加飛鳥也)」とある。イヅルは、射蔓の意とされ、また、糸弓とも呼ばれる。ここにある「加」と同じ用法は、詩経・鄭風・女曰鶏鳴の、「将(は)た翱(かう)し将た翔し 鳧(ふ)と雁(がん)とを弋(い)ん 弋て言(ここ)に加とし(弋言加之) 子(し)と与(とも)に宜(そなへ)せん(将翱将翔 弋鳧与雁 弋言加之 与子宜之)」に見える。詩経の「加」については、鄭箋に、料理にするとき豆を加えること、集伝に、射て鳥に中(あ)てること、赤塚忠に、嘉に通じてよき御供えのこととするとの説があげられている。集伝の中ることとする説が日中とも有力視されているが、弋射において肝要なのは、矢が命中することではなく、矢についている糸が鳥の翼に絡まって飛べなくなって落ちることである。「騏驥(きき)・騄駬(ろくじ)は、天下の疾馬(しつば)なるも、之れを駆れども前(すす)まず、之れを引けども止(とど)まらざれば、愚者と雖も体に加(くは)へず。(騏驥・騄駬、天下之疾馬也、駆之不前、引之不止、雖愚者不加體焉。)」(淮南子・主述訓)とある「加」は、身を任す意であり、一体化することを言っている。詩経の例も、鳧と雁とを弋によっていぐるみに絡めて射者の手中に一体となることを言っている。そして、糸をつけて矢を放った場合、矢は確実に回収することができる。
弋射収穫画像磚(四川省大邑安仁郷出土、後漢時代、中国美術全集編輯委員会編『中国美術全集 絵画編18 画像石画像磚』上海人民美術出版社、1988年、158頁)
(注4)大野晋「古事記(一)海幸・山幸の話/倭建命の話」『国文学 解釈と鑑賞』第三十一巻第七号(昭和41年5月)に、「この神秘的な力を上代ではサチと言った。だから、サチが盛んならば当然、獲物が多くて幸福である。従つて、幸福であることをサチガアルというようになり、サチがすなわち幸福を意味するようになつたのである。」(205頁)と話を盛りながら、すぐ次にサチという単語に朝鮮語 sal(矢)との関係を見ている。サツヤという単語は石鏃から金属製鏃への発展の形跡をとどめるとして、「幸福という意味のサチの源は朝鮮語の sal であると思う。」(206頁)と述べられている。朝鮮語において、sal に幸福の義があるのか、筆者は知らない。また、釣針のほうは朝鮮語で何というのか。現代の辞書には、ナㇰシパヌル(낚싯바늘)とある。釣りのことをナクシというのだから、失くしたというのであろうか。そのようなことを言い出すと切りがないように思う。駄洒落比較神話学など論じても無意味であろう。
(注5)接頭語のサについては、「ほとんど実質的な意味はない。」(上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年、317頁)、「……単に語調を整えるものではなく、元来は何らかの実質的な意味があったと考えられる。」(大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年、527頁。この項、白井清子先生)とある。
(注6)漢字の「幸」は手械(てかせ)の形だから、「幸の義はおそらく倖、僥倖にして免れる意であろう。」(白川静『字通』平凡社、1996年、503頁)とする。藤堂明保『学研漢和大字典』(学習研究社、昭和53年)にも、「手かせをはめられる危険を、危うくのがれたこと。幸とは、もと刑や型と同系のことばで、報(仕返しの罰)や執(つかまえる)の字に含まれる。」(414頁)とする。蔡邕・独断上に、「幸は宜幸也。世俗、幸を以て僥倖と為す。車駕の至る所、民臣其の徳沢を被りて、以て僥倖となす。故に幸と曰ふ也。(幸者宜幸也。世俗以幸為僥倖。車駕所至、民臣被其徳沢、以僥倖。故曰幸也。)」とみえる。
(注7)人類は、食料確保の方法として、その誕生からついこの間まで、長らく狩猟、漁撈、採集の生活を送ってきた。農耕をしたり、遊牧をして“自炊”し始めたのは、せいぜい紀元前1万年ぐらいからである。縄文人がクリ、クルミ、トチなどの木を集落の近くに植えたことは、farming であって agriculture と区別される。いわゆるサンカ、マタギやアマの人たちは、農耕民からすれば異種の人たちであると目されていた形跡はあるものの、洞窟遺跡の発掘状況からは、農耕が一般化した弥生時代において、漁業専従者がいたとは確かめられていないようである。今日の半農半漁程度であったのであろう。中国の古代国家の塩鉄の専売ではないが、塩の製造が専業体制になることは、“国家”の成立と深くかかわる事柄らしい。山の奥深くに暮らした狩猟・漁撈民がどのような生活を送っていると考えられたのかについては、「吉野国樔部」(神武前紀戊午年八月条)といった記述が見られる程度で、特段の偏見は持たれていない。
 内田律雄、前掲書によれば、縄文時代の前期、日本海での漁撈は、船を使って沖に出て、ヤスで突き刺したり、錘のついた網を使って捕獲することが行われていたようである。釣針は確実とされる出土例がないという。縄文時代の後期になると、海浜部で釣針が出土している。人類の釣りの歴史については興味がそそられるが、列島においても、農耕が行われる前から、釣りが行われて魚が食された。刺身や、焼魚、煮つけなど、いろいろに食べられていたのであろう。すると白いご飯か酒が欲しくなるのであるが、長い間、穀物由来のものはほとんど得られなかった。
 釣針は、素材を骨格器などに頼っていたとはいえ、いったん釣りをするという営みを始めれば、餌は何が良いか、仕掛けはどうするか、返しや結び方は……、疑似餌は……、と盛んに知恵を絞ったに違いない。創意工夫の結果が、さまざまな形の遺物として出土する結果となっている。これは当たり前のことである。釣針の形に“最善”の形というのは見出せなくとも、魚の種類や大きさによって、相対的に良く釣れる形が知られるところとなり、自ずと使い分けるようになっていったと考えられる。もちろん、毎回毎回の釣りにおいて、餌をかえ、釣針をかえ、仕掛けをかえて試しながら行われるのは、現代の大間のマグロ漁に同じである。そんなわけで、海幸彦が「鉤」について選り好みすることそれ自体については、不自然さは感じられない。
(注8)万葉集には、「跡見(とみ)」という語を入れた歌が3首ある。万926番歌以外は地名で、序詞風に使われているに過ぎない。

 …… 野の上(へ)には 跡見(とみ)すゑ置きて み山には 射目(いめ)立て渡し 朝猟(あさかり)に 鹿猪(しし)履(ふ)み起し 夕狩に 鳥蹋(ふ)み立て 馬並(な)めて 御猟(みかり)そ立たす 春の茂野に(万926)
 射目立てて 跡見の岳辺(をかべ)の 瞿麦(なでしこ)が花 総(ふさ)手折(たを)り 吾は行きなむ 寧楽(なら)人の為(万1549)
 窺(うか)狙ふ 跡見山雪の いちしろく 恋ひば妹が名 人しらぬかも(万2346)

 岩波書店の大系本日本書紀の注に、「乾迹」のことを、「猟にあたっては、獣の通った足跡を見て、何時間位前にここを通ったかを調べ、その通路に待ち構えて射る。これを迹見(とみ)という。乾迹とは、乾ききった足跡の意。全然、獣の乾迹さえ発見できない意。」(ワイド版岩波文庫①167頁)としている。獣道に足跡を見分することは「跡見(迹見)」のすることであろうが、その結果をもって待ち構えていて射ることができるものなのか、いつまで待てば獲物が現れると知れるものなのか、筆者には不明である。
(注9)新撰字鏡の項目にあげる字は、「鈞」であり、度量衡の単位を表す。説明にある「鉤」字は「△(金偏に匂)」字かもしれない。それらの字と「鉤」字とは通用としているのか決しがたいものの、本邦にチという単位は、個数を表すツが十の倍数になったとき、チと言っている。「鉄(ねりかね)廿鋌(はたち)」(皇極紀元年九月条)とある。いかにも単位っぽい表現になっている。
 チイと長音としている。チ(乳、茅)も長音として聞き取りやすくしている。カ(蚊)もカアと長音化して聞き取りやすくしている。
(注10)顎の古語、アギトと関連のある言葉である。
(注11)現在のカツオ一本釣り漁に用いられる針には鐖がない。引っ掛けて釣り上げた後、引っぱりあげた船上で自然と外れて二の矢三の矢と投げ入れるためである。入れ食いなのだから回転を速くしたい。ただし、カツオ漁においても、延縄漁は行われており、その場合、釣針に鐖は付いている。状況に応じて工夫している。
(注12)モトノチについて、毛針(蚊針)である可能性は排除できないが、毛針は川釣りに蚊などの昆虫の疑似餌として考案されたものであろう。擬餌針自体は紐のようなものやイカ釣りに使われる「しらやき」と呼ばれるものなど、海釣りにも多様に用いられたであろう。(注9)に示すとおり、鉤をチイと長音化することは、蚊をカアと長音化することと相同であるものの、特段に両者を結びつけて考える根拠とはならない。疑似餌のついた釣針をもって「正本(もと)の鉤」と主張していたとは考えにくい。
(注13)春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』(勉誠社、昭和44年)に、「ケツ・ケス(銷・消) この語はタ行・サ行両活用が出てゐる。……共に仮名づけてあるから、訓方に誤はない。ケツは平安朝まで盛に用ゐられて、ケスは比較的後の文献に見え出すやうであるが、已に平安朝初期に成立つてゐたことが知れる。」(研究篇124頁、漢字の旧字体は改めた。)、大坪併治『石山寺本大智度論古点の国語学的研究上』(風間書房、平成17年)に、「漢文訓読文の世界では、ケツが衰へ、ケスが正統な訓として、支配的な位置を占めるやうになったやうである。他方、和歌・和文の世界では、平安全期を通じて、ケツを用ゐて、ケスを用ゐなかった。」(486頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注14)対する荒炭(あらすみ)は、新撰字鏡に、「𥰭 之阿反、平、籠也、炭籠也、阿良須美乃古(あらすみのこ)」とある。和炭、荒炭は、正倉院文書に数多く記載される。木炭の需要としては、炊事や暖房といった家庭用もあるが、絶対に要するのは金属の製造時である。炭窯を使って製造した荒炭の木炭には、黒炭と白炭があり、最終工程に窯のなかで酸素を断って消火するか、窯の外へ出して灰をかけて消すかの違いがある。
(注15)「失滅」をケツとする訓み方は、西大寺本金光明最勝王経古点に倣った筆者の試訓である。諸本に古訓を明記するものを見ない。
(注16)鹿児島県水産技術開発センター「鹿児島県の漁具漁法図集(http://kagoshima.suigi.jp/fukyu/zushuu.pdf)」(昭和62年)によれば、ブリもタイも延縄の漁具・漁法はよく似ている。季節の違いはある。
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