三輪山伝説 其の六

2016年10月18日 | 論文
(承前)
(注11)釈日本紀・巻第七・述義三に、備後風土記逸文を所引する。

 素戔嗚尊、宿を衆神に乞ふ。
 備後国の風土記に曰く、疫隅(えのくま)の国社(くにつやしろ)。昔、北の海に坐しし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子(むすめ)をよばひに出でまししに、日暮れぬ。彼の所に将来二人在りき。兄の蘇民将来は、甚く貧窮(まず)しく、弟の将来は富饒(と)みて、屋倉(いへくら)一百(もも)在りき。爰に、武塔の神、宿処(やどり)を借りたまふに、惜みて借さず。兄の蘇民将来、借し奉りき。即ち、粟柄を以て座(みまし)と為し、粟飯等(あはいひども)を以て饗(みあ)へ奉りき。爰に畢へて出でませる後に、年を経て、八柱のみ子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、将来に報答(むくひ)為む。汝が子孫(うみのこ)其の家にありや」と問ひたまひき。蘇民将来、答へて申ししく、「己が女子と斯の婦(め)と侍ふ」と申しき。即ち、詔りたまひしく、「茅の輪を以て、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔の随に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民の女子一人を置きて、皆悉(ことごと)にころしほろぼしてき。即ち、詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疫気(えやみ)在らば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以て腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。
○先師申して云ふ、此れ則ち祇園社の本縁なり。○大きに仰ぎて云ふ、祇園社三所は、何の神ぞや。○先師申して云ふ、此の国記の如くは、武塔天神は素戔嗚尊、少将井は、本(もと)御前、奇稲田姫と号するか。南の海の神の女子は、今御前か。○重ねて之を問ふ、祇園を異国の神と号すること然ならずか。○先師申して云ふ、素戔嗚尊、初め新羅に到りて、日本へ帰(もど)る趣、当記に見ゆ。之に就きて異国の神の説有るか。祇園は行疫の神と為り、武塔天神の御名は、世の知る所なり。而して吾は速須佐雄の神也、云々。素戔嗚尊、亦の名速素戔嗚尊、神素戔嗚尊の由、此の紀に見ゆ。仰て信を取るべき者なり。御霊会の時、四条京極に於て粟御飯を備へ奉りし由、伝承す。是、蘇民将来の因縁なり。又、祇園神殿の下に龍宮に通ふ穴有りし由、古来申し伝へし。北の海の神、南の海の神の女子に通ひし儀、符合するか。(筆者の訓読は怪しいので、文献を当たられたい。)
(注12)大森志郎「茅の輪行事の起源と意義」『東京女子大学論集』第9-1号(東京女子大学学会、昭和33年12月)には、次のようにもある。

 大神神社で、茅の輪の行事を、本社の祭としないで、その境内にある綱越神社の祭と認めてゐるのは、なぜであろうか。綱越神社は茅の輪行事を司る社である。このやうに茅の輪行事の司会の神を祀った例が他にもあるかどうかは知らないが、少くとも大神神社においては、茅の輪行事が極めて重要な行事であったために、その行事を職掌とする神が祀られることになったものと思はれる。境内の小社の小さな祀であるのではなく、特に司会する神の社がたてられるほど、重大な行事であったと見るのである。その社が一の鳥居の外にあるのは、そこが茅の輪行事が行はれて来た位置であることを示してゐる。茅の輪くぐりが祓であるかぎり、祓は本殿からなるべく遠いところで行はれるべきで、鳥居の外がその場所に選ばれるのは、順当である。……
 ナゴシは夏越とも記され、語源もその文字に即してゐるやうに思はれがちであるが、〈夏を越す〉とはどういふことか明らかではない。これは夏の行事であるために音の類似から夏の字があてられたまでであって、ナツコシがナゴシになるといふ音韻変化も解しがたい。名越・夏越ともに宛て字であらう。
 ナゴシをナゴスといふ動詞と関係があると見て、「神を和す」意味であるといふ解釈があり、和儺といふ記載法を作り、大言海などもその説を掲げてゐるが、これも行事の実際とは合はない。和儺はシナの儺・追儺に対する造字で、茅の輪の行事は、家家で個人個人の祓除をすること節分・大晦日の追儺に類してゐるけれども、これらの行事は、狭義の〈まつり〉とは言ひがたい。……みそぎはらへは、神へ近づく過程であり、手段であって、神への奉仕そのものではない……。……三輪を除いては、茅の輪行事は、人間のためにあるもので、神神をナゴメるためにあるとは言ひがたい。拾遺集に
 さばへなすあらぶる神もおしなべて今日はなごしのはらへなりけり
といふのは、語呂あはせに類する駄じゃれにすぎない。
 神を和ごすといふ言葉づかひも問題かと思ふが、さうした意味をこの行事が直接に負うてゐることはないのである。この解釈も言葉が先にあって、それに類似した言葉をおしあてた机上の解釈にすぎないと思はれる。(6~8頁)

 後半部において、ナゴシの祓の語源について論究されている。およそ語源などというものは確証が得られるものではない。上に批判されているナゴスという動詞との関係は、あながち間違いともいえないように思われる。八雲御抄に、「邪神をはらひなごむ祓ゆゑになごしと云也」、書言字考節用集に、「名越祓(ナゴシノハラヒ) 和儺(ナゴシ) 荒和(同)〈或いは夏越に作る〉」などとある。暴れる鬼のような存在を和ませることが、祓の本質に近いかもしれない。ケガレ(穢)という語が、ケ(褻)+カレ(涸・枯)の意ではないかとする説が有力な説としてあり、ハレ→ケ→ケガレを時間軸に据えて循環過程として論じられる方もある。褻が涸れて来たら、祓をして元気を更新しようというのである。どうして元気がなくなるかは、日常生活がルーチンワークで、マンネリ化してつまらないからであろう。特に梅雨時の田んぼの草取りなど、嫌になって逃げ出したくなる。それは、心のなかの鬼がつまらない考えを起こしているともいえる。鬼というものを実体としてどう考えるかは難しいが、自分の中に在るのは、自分がどこから来たかにかかっているはずである。形而上学的な宗教でいかに考えるかはさておき、動物として生れて来たからには、自分は、親から生れてきている。親が亡くなってご先祖様になると、そんなつまらない考えを起こした原因も、ご先祖様が引き起こしたとして納得がいく。それを鬼と呼び、人神と言っている。今日と大きな違いは、前近代の平均寿命が40歳ほどである点である。親から“独立”して、などと悠長なことを言っている場合ではなかった。(注4)の老子・河上公注にも、「治身者、当除情去慾、使五蔵空虚、神之帰之也」、「腹中有神、畏其形之消亡也」などとあった。大物主神とは、そんな鬼なのだから、つまらない考え方を起させる心の鬼を和ませることを、卆(90)日÷半割(はにわり=1/2)=180日でもって行うことに、計算上不自然さはない。儺という鬼やらいの字を当てて「和儺」と表記した人には、それなりの知恵があったと筆者は考えている。
 田んぼの雑草のなかには、鬼のような葉をしたクワヰも生えている。クワヰは抜かずに放置することもある。えぐいながらも塊根は食べられるからである。それはまた、水田稲作農耕を始める前のご先祖さまの時代、ヱグ(クワヰ)はふつうに食べていたからでもある。雑草として扱うなど、バチが当たるというものである。祓の対象となる罪かもしれない。お節料理として永らく残ってきたのには、正月に米を隠して里芋を食べる風習の残っていた地域のあったこととの関わりから探るべき課題であろう。坪井洋文『イモと日本人―民俗文化論の課題―』(未来社、1979年)参照。
 なお、三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「わ【輪・曲・勾】」の「考」に、「なお『尾張国阿育知郡片蕝(ワ)〈和(ワ)〉里』(霊異記上三話)『愛知郡片蕝(ワ)〈和(ワ)〉里』(霊異記中二七話)のワは未詳であるが、『蕝』は子芮切または子悦切で、茅(ちがや)を束ねて立て、酒をしたたらせてこすものをいう。ワの訓は茅をたばねたもの、すなわち、茅の輪の意によるものであろうか」(812頁)とある。茅の輪に一の茅の葉をたどっていくと、捩じれ回りながら輪に回ってもとに戻っている。ヤマトコトバにワという語意が、転回することを含意した曲郭であることから、まことにふさわしいものと考えられる。どこかへ行くかと思えば戻っていていらいらするもの、道徳的に悖るものであるかに思われながら、老子のいう無用の用を果たすのが、ワということに当たる。蘇民将来の話は、情けは人の為ならずの考えに通じるところがあり、世の中は巡り巡って戻ってくる因果応報的な循環、すなわち、ワがあると説いているのかもしれない。しかも、酒を釃(した)むことと関わるらしい。説文に、「蕝 朝会束茅表位に曰く、蕝 艸に从ひ絶声といふ。春秋国語に曰く、茅蕝表坐に致すといふ」とあるのは、円座(藁座(わらうだ))状にしたものを指すのであろうか。
(注13)一条兼良(1402~1481)・公事根源・百四「大祓(オホバラヘ)同日」条に、

 大ばらへといふは、百官ことごとく朱雀門にあつまりて、祓をし侍るなり。六月十二月二たびあり。天武天皇の御時より始まる。解除(ゲヂヨ)は觸穢などの時もあり。神事を行ふ時は、臨時にも常にあれども、この大祓は百官一同にあつまりて、祓をするなり。またけふは家々に輪をこゆる事あり。
 みな月のなごしの祓する人は、千年のいのちのぶといふなり。
此の歌をとのふるとぞ申し伝へ侍る。然るに法性寺関白ノ記には
 思ふ事皆つきねとて麻の葉をきりにきりてもはらへつるかな
此の歌を詠ずべしと見えたり。

とある。実隆公記(文明七年(1475))条にも記載がある。
 大麻の作法については、丸山顕誠『祓の神事―神話・理念・祭祀』(三弥生書店、平成27年)参照。
(注14)櫻井敏雄「建築」大神神社史料編修委員会編『大神神社史料 第八巻 続拾遺編坤』同会発行、昭和56年に、「三ツ鳥居及び瑞垣は昭和三十四年に修理され、墨書及び発見文書より明治十六年に再建されたことが判明した。なお、三ツ鳥居の石製唐居敷には、使用されていない扉軸受穴があり、修理工事報告書では類例から推して、唐居敷の使用年代は鎌倉から平安時代まで遡りうるかとしている。」(827~830頁)とある。扉軸受穴がどの位置に当たるかわからず、戸(扉)の設置位置が推定できないのが残念である。
三ツ鳥居(文化庁監修『重要文化財15 建造物Ⅳ』毎日新聞社、昭和49年、75頁)
三ツ鳥居図面(櫻井敏雄「建築」大神神社史料編修委員会編『大神神社史料 第八巻 続拾遺編坤』同会発行、昭和56年、829頁)
三ツ鳥居図例(鶉功『図解社寺建築 社寺図例篇』理工学社、1993年、93頁)
三輪山絵図(室町時代、大神神社蔵、上田正昭・佐伯秀夫編『神道大系 神社編12―大神・石上―』神道大系編纂会、1989年、口絵)
三輪山(南都名所集・巻第九、平井良朋編『日本名所風俗図会9 奈良の巻』角川書店、昭和59年、287頁)
(注15)六月(水無月)の祓が一般化しているのは、この三輪山伝説に発端があると考えられる。三輪山は紡錘車に糸を撚りあげた形になっている。ミナツキのミナ(ミは甲類)には、同音にミナ(螺、ミは甲類)がある。今のカワニナやタニシの類である。その貝殻の形は、ぐるぐるっと巻いて積み上がるようになっている。形がよく似ていることにより、言葉と行為とを合致させるべく言霊信仰下の人々は動いた。その結果が、ミナ(螺)月はツミ(罪・紡錘車)な月だからお祓をするのがふさわしいことだと考えられるように発展していったと考えられる。なお、六月(みなつき)の対義語は、十月(かむなづき)である。カミナ(ガウナ)(寄居子)と呼ばれたヤドカリには、髪がないと洒落られていたらしい。本ブログ「十月(かむなづき)について」参照。言うまでもないが、万葉人の語感の問題で、“語源”とは無関係である。科学的(?)な語源探究など、上代の人の解することではない。
(注16)本邦には、奴婢はいたが、宦官は存しなかったらしい。三田村泰助『宦官 改訂版』(中央公論社(中公新書)、2012年)参照。とはいえ、三宝絵詞に見られるように、そういう人があり得ることは認識されていたであろう。そして、それを“人(ひと)”と呼んでよいのかについての論理矛盾について、面白がったのが上代の人であったというのが、いわゆる三輪山伝説に通底するモチーフであると考える。“人でなし”概念が導入された。なお、「人でなし」という言い方は、現代的な言葉遣いとして不適切かもしれないが、上代語研究のために用いているのでご寛恕願いたい。
(注17)宮中で平安時代に行われた大祓の場所、「祓所(はらへど・はらへどころ)」が、朱雀門や、まれに建礼門のところであったのには、古くからの言い伝えとして黄門のことがあったからではないかと推測はされるが、実証は困難である。三宅和朗『古代国家の神祇と祭祀』(吉川弘文館、1995年)参照。また、半分に割れる門戸を、時に観音開きという。内に納められる仏像が観音像であったことに因むのであろうが、観音像の印象として両性どちらともつかない点があげられよう。半月(はにわり)の話と絡めて認識されていたのかもしれない。
(注18)中川ゆかり『上代散文―その表現と試み―』(塙書房、2009年)に、「古事記の文章に漢訳仏典の影響がみられることが指摘されており、……古事記編者は大智度論や経律異相などの漢訳仏典の、阿難が神通力によってカギアナを通るエピソードをヒントにして、〝神壮夫(カミヲトコ)〟―美和山の大物主大神―の霊威を示すために、三輪山神話において、カギアナをもち出したのではないだろうか」(166~167頁)とある。中川先生の仰る「古事記編者」とは、誰のことを指しておられるのだろうか。また、仏教という壮大な思想体系のなかの断片を切り取ってきたとして、単に「霊威」を示す表現に活用しただけで、その出来上がった話を聞くヤマトの人の側が理解できたのか不明である。仏教思想のバックボーンなしにカギアナを通ることは、すなわち、霊威あることであると感じることはできない。聞く側が納得して了解しなければ、後世に伝えようとするものではないであろう。稗田阿礼誦習とは、文字を持たないまま口づてに伝えたことを意味する。人々になるほどと思われて腑に落ちる話でなければ、話(咄・噺・譚)として伝わること、伝えることはできない。カギアナを話の焦点に持ってきていることの根幹を探る必要があろう。稗田阿礼の話(咄・噺・譚)が先、太安万侶の表記は後である。
(注19)合田、前掲書参照。同書に、「鏁子の[助数詞の]『具』は牡・牝で一体となる錠前と鍵とが一組みになっていたであろうことが想定され、鎰(鑰)[の助数詞]に『勾』が付されていることは、その形状が鈎型に大きく折れ曲がっていることを想起させることや、『柄』の場合は鉤(クルル鉤)の木質の把手部分を指したであろうことが容易に想像される」(108頁)とある。
(注20)なぜ杉が登場してくるのか、大神神社にしるしの杉となるのかについても、語学的には、罪のことを示す過失の「過ぎ(ギは乙類)」と「杉(すぎ、ギは乙類)」との洒落、ないしは、言霊信仰にあっては同じ言葉は同じ意味をもつに違いないとする考えに基づいているものと考えられる。万葉集ではほかに、次のような例が見られる。

 三諸の 神の神杉(ギは乙類) …(訓未定)… 寝(い)ねぬ夜ぞ多き(156)
 何時の間も 神さびけるか 香山(かぐやま)の 鉾椙(ほこすぎ)が本 薜(こけ)生すまでに(259)
 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(422)
 御幣帛(みぬさ)取り 神(みわ)の祝が 鎮斎(いは)ふ杉原 燎木(たきぎ)伐(こ)り 殆(ほとほと)しくに 手斧取らえぬ(1403)
 神南備(かむなび)の 神依板(かむよりいた)に する杉の 念(おも)ひも過ぎず 恋の茂きに(1773)
 石上 布留の神杉 神びにし 吾やさらさら 恋にあひにける(1927)
 石上 布留の神杉 神さびて 恋をも我は 更にするかも(2417)
 神名備の 三諸の山に 隠蔵(いは)ふ杉 思ひ過ぎめや 蘿(こけ)生すまでに(3228)

 「杉」と「過ぎ」との洒落が、第3・5・8例目に見える。いずれも「思ひ過ぎ」の意として使われ、思いが消えて忘れてしまうことを表している。ヤマトコトバのスギ(過)は、変化の程度が限度を超えて消えてなくなることを表し、人の場合、死ぬ意味に用いる。常訓とする漢字「過」は、論語に、「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし(過猶及)」、「過(あやま)ちては則ち改むるに憚ること勿れ(過則勿改)」などとあるように、行き過ぎてよろしくないことである。悪意をもってなされた犯罪ではなく、つい過って犯してしまった過失、軽犯罪に近い。(近代に、「重過失」という概念がある点については、法と人とのいたちごっこの結果かと思われる。)死罪、流罪、笞罪にあてるべきではなく、示談、説諭、訓告で解決してかまわない。祓の対象領域である。
 万712番歌に、下級神官の「祝(はふり)」が「忌(いは)ふ」のは、祓の対象となる程度の罪を祓うお祓いをするということである。大宮司は神を祀ることが仕事である。また、「石上(いそのかみ)」には「布留(ふる)」という地がもともとあり、それが「古(ふる)」とも、「振る」とも通じるから、古くから大麻(大幣)(おおぬさ)を振るって祓っていたに違いない。言霊信仰における言行一致につながっていったということであろう。万2417番歌に「更にする」とあるのは、フル(布留)というフル(古)の事柄をフル(振)ことによって更新させようということである。同様に、万1927番歌に、「さらさら」とあるのも、サラ(更)にすることによる言い回しであろう。そして、酒造にはお米を蒸すために甑が必須で、杉板の上で麹米を作ることが言葉の上でめぐりめぐって合致するようになっている。澱粉を糖にしなければアルコールはできないから、麹を使って糖化するのであるが、そのためには米は蒸さなければならない。その際、シタミ(箄)が要にある点については、本文に述べた。また、石の甕=イシノカメ→石上=イソノカミという音訛を楽しんでいたと考えられる点については、本ブログ「『石上(いそのかみ)布留(ふる)』の修飾と『墫(もたひ)』のこと」というスケッチを参照されたい。
(注21)É・デュルケーム、小関藤一郎・山下雅之訳『デュルケーム ドイツ論集』(行路社、1993年)に、

 道徳も法と同じ対象をもっている。道徳もまた社会秩序を確保する機能をもつ。それ故にこそ道徳は、法と同じく、必要に応じて拘束が義務として課す命令によって、構成されている。ただこの拘束は、外的で機械的な圧力を本質とするのではなく、もっと内面的で心理的な特性をもっている。それを行使するのは国家ではなく、社会全体である。その基本条件である力は、明確に規定された何人かの手に集中しているのではなく、全国民社会に分散したようになっている。それは、社会的地位の上から下まで、何人もそれから免れられない世論の権威にほかならないのである。道徳はきちんとした明確な方式に固定化されていないから、法よりも柔軟で自由な何物かをもっており、またそうであることが必要である。国家は、人間の心の余りにも複雑な動きを規制するには、余りに荒削りなメカニズムである。反対に、世論が行使する道徳的拘束はいかなる障害によっても阻止されることはない。それは空気のように微妙で、いたるところに浸透し、「家族の団欒にも王座の階段にも」はいりこむ。それ故に、法はたんに外的特性によってばかりでなく、内的差異によって道徳と区別されるのである。(108~109頁)

とある。(あるものとしてあげたにすぎない。)
 上代において、社会秩序のために、中国に範をとった律令を導入しようとする以前から、道徳の内面化こそが必要なのだと気づいていたらしい。年2回の祓という儀式へとまとめ上げていたように思われる。祓とは、心の問題であり、その人の内面の秩序化が実はいちばんの基礎なのだと理解していたということである。良心というものが欠落していたら、何をしでかそうと呵責を起こすことがなくなる。社会に無益なら命が奪われても構わないとして実行したり、仕事がはかどって成績があがるなら何をしてもいいと思ったり、相手の気持ちを考えずに独りよがりな振る舞いを続けたとしても、悪いことをしているという自覚がなければ対処のしようがない。これを、“人でなし”と考え、あるいは「鬼」として対処した。筆者は、人間へのこの深い洞察からみて、古事記の三輪山伝説を創作したのは、例えば聖徳太子のような偉大な人物であったと推測している。
(注22)竹内晶子『弥生の布を織る―機織りの考古学―』(東京大学出版会、1989年)に、紡錘車を使った糸撚りの方法が解説されている。

 紡錘を使っての撚りのかけ方を図示すると、図13のようになる。右利きの人が右手で紡茎を持ち、時計の回転方向に回すものと仮定する。まず、紡茎の紡輪直上部分に糸の端を結ぶ。紡茎の上端部分で糸をひとひねりして輪を作ってから上端にからませ、紡錘ごと吊り下げる。こうすると紡茎上端に鉤をつけなくても糸は固定される。紡茎上端の30~40㎝ぐらいの部分を左手の指2本で押える。そして右手で紡茎を回すと、紡錘の回転が紡茎の上端から糸に伝わり、下から順に糸に撚りがかかり、左手で押えた部分まで撚りが行きわたる。好みの撚りの強さになるまで、適当に右手で回転を続ける。撚りがかかったら紡茎上端の糸の輪をはずし、紡輪上端に接して出来上がった糸を巻く。そして先ほどのように紡茎の上端で糸をひとひねりしておくと、紡茎に巻きつけた糸はズルズルと出てくることはない。このような動作を繰り返し、続きの糸に順に撚りをかけてゆく。なお、S撚りの糸が必要なら紡茎を左に(逆時計回り)、Z撚りならば右に(時計回り)回す。撚りをかけ終って紡茎に巻きつけた糸玉は「三角錐」の形をしている。糸はあらかじめ湿らせてあるので、半湿りの状態の糸玉をそのままにして乾燥させると撚りを固定させることができる。このとき連続して撚りかけを行うためには、複数の紡錘を所持していなければならない。(12~13頁)
図13「紡錘」の使い方

 紡錘車の出土例が数多いのは、半湿りのままにして置いておきながら、次々と作業をして行くためであったからとされている。
(注23)白川、前掲書に、「底(てい)は氐(てい)声。〔説文〕九下に『山居なり』とするが、『止居なり』の誤りとみられ、建物の地を平低にすることをいう」(433頁)と、説文に対するテキストクリティークでは異議を唱えておられるものの、解釈では、「底は到りつくことであるから柢(いた)るといい、至(し)・致(ち)・臻(しん)などもその系列に属する字。国語でいえば『そこひ』『そこへ』というのに近い」(同頁)とある。三輪山伝説に、至り止まったのが山だったとするのは、厳密な学としての哲学ではなく、口語のお話(咄・噺・譚)なのだからそれでかまわないと考える。稗田阿礼の記憶は、“字書”ではない。太安万侶が説文の誤字(?)について掘り下げたとも思われない。万葉集に、

 古の 七(なな)の賢(さか)しき 人どもも 欲りせしものは 酒にし有るらし(万340))

とある。竹林の七賢人に見られる隠遁の思想も伝えられていた。彼らは好んで酒を飲んだ。徹底的な賢さは、山居して飲酒することにあると考えていたかもしれない。
(注24)律令時代に、調(みつき)は、絹・糸・布・鉄・塩・農水産加工品・手工業製品などのさまざまであるが、その輸送には、地方の公民が、貢調使引率のもと、食料自弁で当たった。庸調の脚夫は、帰りは勝手に帰るように放任されたため、途中で餓死、病死するものが多かったと、続紀以下記されている。五畿七道を整備する政策の当初の主眼は、徒歩での運送のためではなく、船や馬、荷車をもって行わんがために企図されたものではなかったかと筆者は推測する。本邦の乗物史では、後世、車を捨てて駕籠へと退化している。大陸と違い、陸路を進むには必ず河口に程近い場所で、川の急流を横切らなければならない。そんな国土の特色も影響するのであろう。ミツキ(調・貢)なのだから、上に論じたヤマトコトバの洒落からすれば車を使って運ぼうという理念があったに違いないと考えられる。語学的推測である。しかし、そんなヤマトコトバ上のコンセプトは、五畿七道のグランドデザインまでは行き、古代のアウトバーンは各地に出土するものの、実地段階において失敗したように思われる。他方の、車の側の問題、エンジンとなる牛馬の不足もあったのであろう。生産性からいって、農耕に用いた方が効率的であった。列島にヒツジやヤギ、ロバがいなかったのは、移入されても高温多湿の環境に適さなかったから途絶えたのではなく、牧畜よりも水田稲作農耕や麻栽培の方が、単位面積当たりの食料供給、繊維獲得の面で圧倒的に有利であったからであろう。羊毛が得たいからとヒツジを飼い、田んぼに勝手に入られてイネを食べつくされたのでは堪ったものではない。人が多くて雑多に扱われて脚夫が帰路に餓死したという国と、人が少なくて異民族を狩ってきて隷人(宦官を含む)として扱ったのとでは、人とは何かという根本的な思想基盤に違いが出てくるように感じられる。人口が過剰だから、駕籠を使って人が人を運んでいる。雇用が確保されている。本稿とは趣旨が離れていくのでこれ以上は言及しない。
(つづく)
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