古事記・日本書紀・万葉集を読む

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熟田津の歌 其の六(附白村江の戦についての一考察)

2015年02月13日 | 論文
(承前)
海面情報表(単位:指示のないものはm。海上保安庁、上掲ならびに下掲の『潮汐表』による。*は潮汐のサイト釣りのサイトによる。)

        略最高高潮面 大潮升 大潮差 小潮升 小潮差 平均水面 平均潮差 平均高潮間隔

 難波津(大阪)   1.88   1.4   *0.96   1.1  *0.27   0.95   *0.62   7時間25分

 熟田津(松山)   3.85   3.3   *2.80   2.5  *1.17   1.90   *1.99   9時間07分

 娜大津(博多)   2.16   1.9   *1.61   1.4  *0.57   1.10   *1.10   9時間35分

 凡海郷(舞鶴)   0.38   0.3   *0.17   0.2  *0.08   0.19   *0.12   2時間27分

 続郊野      *2.43   2.1   *1.70   1.5  *0.66   1.20   *1.18   6時間23分
  (宇治山田)
 白村江(群山)  *7.1    6.3   *6.0    4.8  *2.8    3.41   *4.4    3時間10分

※略最高高潮面:満潮時などにこれより高くならないと想定される潮位、大潮升:最低水面から大潮の平均高潮面までの高さ、大潮差:大潮の平均潮差、小潮升:最低水面から小潮の平均高潮面までの高さ、小潮差:小潮の平均潮差、平均水面:潮汐がないと仮定した海面、平均潮差:満潮位と干潮位の平均潮差、平均高潮間隔:月がその地の子午線を経過してから高潮となるまでの平均時間。潮汐に関する用語については、「広島港の潮位関係図」の図を用いてわかりやすく解説された海上保安庁第六管区海上保安本部の海の相談室「潮汐に関する用語について」サイトに負っています。深謝いたします。
 大潮差は、日本列島沿岸では九州の東シナ海側が最も大きく、有明海の佐ノ江では4.6mにも達する。ところが日本海側ではほとんどなく、舞鶴で20㎝に満たない。問題となる松山では2.8m、博多では1.6mなのである。難波津の値を現在の大阪にとると、1m弱である。潮の干満の大きさに驚いたことであろう。油断して接岸したところ、干潮になると沖合いはるかに干上がっていた。一番大きな「御船」号は、干潟の奥に取り残されたのである。大海人皇子は皮肉られて仕方のない立場に立たされている。
 古代の船の運航については、上述のとおり、潮の干満を利用した座礁形式の停泊が行われていた。それがうまくいくためには、船が泊まる津となる場所が、安定的な潮の干満を繰り返していることが望ましい。古代によく利用された難波津(大阪)をみると、大潮の時の平均的な水面の高さ(大潮升)は1.4m、小潮の時のそれ(小潮升)は1.1mである。わずかに30cmしか違わない。つまり、大潮、小潮にあまり関係なく、日に2回、定期的に潮が満ちてくる。これは、船の発着便として、必ず日に2回チャンスがあるということで、時刻表ができていることを意味する。そして、海が荒れようとも、砂嘴によって守られているラグーン(潟湖)にある難波津は、天然の良港になっていたのであった。
 日本で最も干満差の大きい有明海の住ノ江では、大潮升5.1m、小潮升3.5mである。1.6mも差がある。古代には、水路を浚渫するなどということはなかった。大潮の時に船で陸地いっぱいまで来て座礁式に停泊をすると、概念的には、15日後、30日後、45日後、といった次の満潮を待たなければ、船は再び海水の上に浮かぶことはなくて出航できない。そこを、タイダル・フラット(干潟)と呼ぶ。熟田津も同じであった。 
 白村江の戦いの様子は、紀では簡潔に書かれている。天智2年(663)に戦局は急転回する。百済に擁立した豊璋は、6月になって近侍の者の讒言を聞き入れてしまい、将軍の鬼室(きしつ)福信(ふくしん)と内輪揉めを起こす。福信は滅亡した百済を孤軍奮闘し、どうにか再興にこぎつけた英雄であった。結局彼は、「腐狗痴奴(くちいぬかたくなやつこ)」と奸侫な輩を罵りながら死刑に処せられた。8月13日には、良将のいなくなったことを知った新羅軍が、百済の王城、州柔(つぬ)を目指して押し寄せる。三国史記・金庾信伝にも記載がある。豊璋はそのとき、牙城であるべき州柔城を抜け出して倭の援軍の来る白村江へ赴く。17日、敵軍は州柔城を包囲し、また唐の海軍も戦艦170艘が白村江に陣を堅固にして位置についた。
伝金庾信(595~673)墓護石十二支拓本のうち未(統一新羅(8~9世紀)、明治時代、19世紀、東博展示品)
 27日に倭の海軍の先発隊が白村江に到着し、緒戦に敗れて退却する。決戦は翌28日である。

 秋八月の壬午の朔甲午(13日)に、新羅、百済王(くだらのこしき)の己が良将(よきいくさのきみ)を斬れるを以て、直に国に入りて先づ州柔を取らむことを謀れり。是に、百済、賊(あた)の計る所を知りて、諸将(もろもろのいくさのきみ)に謂(かた)りて曰く、「今聞く、大日本国(やまと)の救将(すくひのいくさのきみ)廬原君臣(いほはらのきみおみ)、健児(ちからひと)万余(よろづあまり)を率て、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸の将軍等は、預め図るべし。我自ら往きて、白村(はくすき)に待ち饗へむ」といふ。
 戊戌(17日)に、賊将(あたのいくさのきみ)、州柔に至りて、其の王城(こきしのさし)を繞(かく)む。大唐(もろこし)の軍将(いくさのきみ)、戦船(いくさふね)一百七十艘(ももあまりななそふな)を率て、白村江に陣烈(つらな)れり。
 戊申(27日)に、日本(やまと)の船師(ふないくさ)の初づ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本、不利(ま)けて退く。大唐、陣(つら)を堅めて守る。
 己酉(28日)に、日本の諸将と、百済王と、気象(あるかたち)を観ずして、相謂りて日く、「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」といふ。更に日本の伍(つら)乱れたる中軍(そひのいくさ)の卒(ひとども)を率(ゐ)て、進みて大唐の陣を堅くせる軍を打つ。大唐、便ち左右(もとこ)より船を夾(はさ)みて繞み戦ふ。須臾之際(ときのま)に、官軍(みいくさ)敗続(やぶ)れぬ。水に赴きて溺(おぼほ)れ死ぬる者衆(おほ)し。艫舳(へとも)廻旋(めぐら)すこと得ず。朴市田来津(えちのたくつ)、天に仰ぎて誓ひ、歯を切(くひしば)りて嗔り、数十人(とをあまりのひと)を殺しつ。焉に戦(たたかひ)死(う)せぬ。是の時に、百済の王豊璋、数人(あまたひと)と船に乗りて、高麗(こま)に逃げ去りぬ。(天智紀二年八月条)

 豊璋は高句麗に逃げ、9月7日に州柔は落城する。百済側の内訌や王の単独行動も不可解であるが、倭の海軍も、戦術も何もあったものではない。白村江、錦江の河口を我も我もとただ進んで敗れている。唐の戦艦は10日も前から準備して待っているのである。そこへ「気象」を考えないで進軍し、両側から挟まれてすぐに負けている。退却しようにも、「艪舳不得廻旋」となってしまった。
 舳艫とは、もとは船の大きさを示す熟語であった。それを舳と艫とに分解して、船首と船尾とを表そうとした。ところが、どちらがどちらか混乱していく。新撰字鏡には、「舳 以周・治六二反、艪舳、止毛(とも)」、「艫 力魯反、舟前鼻也、戸(へ)」、和名抄には「舳 兼名苑注に云はく、船前頭、之を舳と謂ふ<音逐、楊氏漢語抄に云はく、船頭の水を制する処なりといふ、和名閇(へ)>といふ」、「艫 兼名苑注に云はく、船後頭、之を艫と謂ふ<音盧、楊氏に云はく、舟後に櫂を刺す処なりといふ、和名度毛(とも)>といふ」とある。少し後の名義抄では、あきらめて「舳 ヘ、トモ」、「艫 トモ、ヘ」と両訓をつけている。管見では、舳艫という漢語はよく目にするが、艫舳という語は仏典の辯正論に見られる。紀では、「舳艫」・「艫舳」の例は、全部で5例あり、傍訓ではそれぞれ、トモヘ、ヘトモ、また後者はフネとも附されている。

 ……皇軍(みいくさ)遂に東にゆく。舳艪(ともへ)相接(つ)げり。方に難波碕(なにはのみさき)に到るときに、……(神武前紀戊午年二月条)
 又、筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖(おや)五十迹手(いとて)、天皇の行(いでま)すを聞(うけたまは)りて、五百枝の賢木(さかき)を抜(こ)じ取りて、船の舳艫(ともへ)に立てて、……穴門(あなと)の引嶋(ひこしま)に参迎(まうむか)へて献る。(仲哀紀八年正月条)
 是歳、新羅の貢調使(みつきたてまつるつかひ)知万沙飡(ちまささん)等、唐の国の服(きもの)を着て、筑紫に泊れり。朝庭(みかど)、恣に俗(しわざ)移せることを悪みて、訶嘖(せ)めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請(まを)して曰(まを)さく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、後に必ず当に悔有らむ。其の伐たむ状は、挙力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまをす。(孝徳紀白雉二年是歳条)
 是歳、百済の為に将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖(つくりをは)りて、続麻郊(をみの)に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無く艫舳(へとも)相反(かへ)れり。衆(ひとびと)終(つひ)に敗れむことを知(さと)りぬ。(斉明紀六年是歳条)

 紀において、舳艫、艪軸の使い分けに意味があったかどうか、筆者には整理がつかない。斉明紀六年是歳条の例は、新造船を続麻郊、現在の宇治山田に近い三重県多気郡明和町まで航行させ、一晩浜辺に陸揚げしておいた。本稿其の一において、準構造船は船首を陸地側にして泊めるものと推測した。万4389番歌に読み解いた光景である。ところが、翌朝になってみると、船首と船尾とが反対を向いていたというのである。「其船夜中無故艫舳相反」と書いてあるが、何のことはない、夜中に潮が満ちて船が浮かび、くるりと向きを変えて朝には潮が引いていたということである。宇治山田の大潮差(平均高高潮-平均低低潮)は1.7mである。十分にあり得る値であろう。「無故」とは理由がないのではなく、潮汐という自然現象がわかっていないに他ならない。前後不覚に「艫舳」と反してしまった。敗戦の兆候を表す記事にふさわしい。
 天智紀二年八月条の、白村江の戦いで、「艫舳不得廻旋」とあるのは、みじめな敗戦記事を端的に表現している。実際に起ったのは、河口をいったん遡ったらUターンできずに壊滅したという事態である。引き返そうにも向きを変えられず、唐軍に殲滅せられたのである。百済を救うために新羅と戦うはずが、援軍の唐と戦って負けている。戦術的にも外交的にも方向転換が利かなかったことを、象徴的に表した記事である。大唐と戦って勝とうというのは、太平洋戦争でアメリカに勝とうというようなことではないか。
 「気象」とは、木や風向きなど大気中の変動を表すことばであるが、ここでは潮位の変化、干満の差の大きさを指し示しているように思われる。唐の海軍が陣を布いたのは8月17日である。中国浙江省杭州の有名な銭塘江の海嘯は、アマゾン川のポロロッカと並び称される潮津波、タイダル・ボアである。ポロロッカは春分の頃の朔月の大潮時、銭塘潮は秋分の頃の望月の大潮時に見られる。この現象については、春秋時代、呉越の争いの最中に、奸侫な者の讒言によって、呉王夫差から死を賜った伍子胥の怨念のせいであるという迷信があったらしい。1世紀、王充の論衡・書虚篇には否定的な見解が述べられている。「伝書に言はく、呉王夫差は伍子胥を殺し、之を鑊(かま)に煮て、乃ち鴟夷の橐(ふくろ)を以て之を江に投ず。子胥恚恨し、水を駆りて涛を為し、以て人を溺殺す。今時会稽の丹徒の大江、銭唐の浙江に、皆子胥の廟を立つ。蓋し其の恨心を慰め其の猛涛を止めんと欲するなりといふ。夫れ呉王の子胥を殺し、之を江に投ずと言ふは実なるも、其の恨恚水を駆りて涛を為すと言ふ者は、虚なり。……涛の起るや、月の盛衰に随ひ、小大満損、齊同ならず」などとある。月齢と潮汐の関係が、それも季節的な変化について経験的に理解されている。特に秋分点頃がいちばん上げ潮がきついと知っていたに違いあるまい。ちょうどその条件のとき、唐軍は白村江において、干満の具合を確かめながら、艦船はそれぞれの持ち場についている。
池大雅「西湖春景銭塘観潮図屏風左隻、江戸時代、18世紀、東博展示品)
 白村江、今の錦江(クムガン)の河口、群山(クンサン)では、大潮差は6.0m、小潮差でも2.8mに及ぶ。単純計算で熟田津の2倍以上である。天智紀2年は、元嘉暦で記されていると推定する一般の説によれば、閏月のない年で、8月は小月に当たって29日までである。つまり、朔の2〜3日前に河口で戦っている。熟田津の潮汐について、先に斉明7年(661)を2000年のデータを参照して検討した。白村江の決戦は、天智2年(663)8月28日である。同様に、海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第2巻;太平洋及びインド洋』(海上保安庁発行)によって、韓国、全羅北道の群山(緯度35°59′N、経度126°43′E)における、新暦の2002年10月4日(旧暦8月28日)の値を参考にする。月齢は27.0、月の南中時は10:25である。当日の潮位(潮時)を見ると、614cm(1:33)、136cm(8:30)、574cm(13:51)、83cm(20:40)となっている。5mほどもの潮位差がある。今日、セマングムという世界一長い防潮堤が築かれているところである。唐軍は、干満差の激しいことを17日に着いて知っている。2002年でいえば9月23日に当たり、612cm(4:29)、104cm(11:27)、606cm(16:41)、0.7m(23:30)とさらに激しい。なお、20世紀の朝鮮戦争、仁川(インチョン)上陸作戦において、国連軍(アメリカ軍)は潮の干満差の大きいことを十分に検討している。
 決戦の時刻が何時頃なのか記載がないが、昼間の戦いであったなら、朝、引いていた潮が、午前中にだんだんと上げ潮になっていって5mぐらいまで水位が高まり、その後は反対にどんどん引き潮に変わった。つまり、「艫舳不得廻旋」とは、午前中に川の逆流に乗って先を争って敵に進撃していったところ、両側に陣構えしていた唐の艦船は、次第に水位が低下するのに従って、川の中央へ向って並んで左右から流されるまま進み、乱れ進んできた倭の艦船を挟み撃ちにした。向きも変えられずに俎上ならぬベルトコンベア上状態にある倭の艦船を、火矢で射、次々と焼いていったのであろう。唐側の資料では、わずかに旧唐書・劉仁軌伝に、「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其舟四百艘。煙燄漲天、海水皆赤。賊衆大潰、余豊脱身而走」とある。実際の戦闘がいかなるものであったのか確かめられないものの、日本書紀のこの部分を書いた人の表現としては、そう考えるのが妥当であろう。錦江の逆流を起こす役割を果しているのは、伍子胥ならぬ百済の福信であったということらしい。海を知らない水軍が、海に敗れたのであった。
 もとより万葉集の編者がこの熟田津の歌を撰んだのは、極めて杜撰な参戦体制を伝えるためであったであろう。狂信的な斉明朝の本質に肉薄するには鋭い切り口である。しかし、それだけを伝えたかったのではない。都に残っていた有力豪族の中には、天智天皇が位につき、中臣鎌足が引き続き内大臣の座に座ることに反感を覚えていた者もあったであろう。天智称制は、6年5カ月に及んでいる。その後、近江遷都に批判的な勢力もいたはずである。しかし白村江の敗戦の責任は、司令官の中大兄1人にあるのではなかった。反旗を翻すにも、担ぎ上げるに足る皇子がいなかった。そういう政治力学を、編者は伝えたかったのではなかろうか。歌が予祝するもの、時代をリードするものと考えられたなら、斉明天皇の代の皇子どうしの力関係だけでなく、次の天智朝を占う意味にも解釈していたのではないか。
 万葉集の編者が日本書紀とかかわりをもっていると筆者は考えているが、紀が書かれたのは、早くても天武紀十年(681)三月条の詔以降のことである。額田王の熟田津の歌の斉明七年(661)から20年経っている。彼はこの歌の内実を知っていた。しかし、後の人のつけた左注は要領を得ていない。この額田王の歌は、歌われてからほんの少しの間だけ話題になり、しばらくしてからは決して人の口に上ることがなくなったのであろう。斉明天皇の崩御のこともある。戦時中にもかかわらず、政府の失敗からの解放を喜んでいる歌でもある。白村江の敗戦を迎え、熟田津のしくじりが後の戦況に大きく影響しているうえに、経験が教訓として少しも生かされていないとしたら、人々は口を緘したに違いない。潮の干満を、倭の朝廷が身に染みて知った最初が熟田津であったということである。そして、万葉集の当初の編纂とは、政治的に危険を伴う私秘撰であったらしい。
 なお、記紀のいわゆる神話部分に、火遠理命(ほおりのみこと)の塩盈珠(潮満瓊)(しおみちのたま)・塩乾珠(潮涸瓊)(しおひのたま)の話が載る。この言い伝えが何に基づいて記されているかについては、推古紀二十八年是歳条の、「皇太子・島大臣、共に議りて、天皇記と国記、臣・連・伴造・百八十部、并せて公民等の本記を録す」とある天皇記、国記、本記にすでに形作られていたものであると想定される。熟田津の歌や白村江の敗戦よりもずっと以前に物語られ、言い伝えられていたものであろう。無文字社会に暮らしていた朝廷の人たち、わけてもその中心人物であった斉明天皇や天智天皇が知らなかったはずはないと筆者は考えている。しかし、斉明7年から天智2年の間、その“知恵”はいっさい生かされなかった。その点も含めて、海佐知(海幸)・山佐知(山幸)の話とは何の寓話なのかが検証され、理解されなければならない。すなわち、そこに、いかなるなぞなぞが据えられているのかを粘り強く読み解いていかなければならない。お話としての歴史の、おそらくは今日考えるところの5世紀の、どのようなことがら、文化的事象に基づいて構想、展開されたものかを探究することが求められている。そのためには、物語の作者である聖徳太子の頭の中を探ることになる。たいへんなことである。今後の課題としたい。
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熟田津の歌 其の五

2015年02月11日 | 論文
(承前)
 「潮もかなひぬ」とある助詞のモについては、先にも指摘したとおり、古橋先生の主張される、「月待てば 月もかなひぬ 潮待てば 潮もかなひぬ」のような、単なる並立の意味とは考えにくい。何もかも順調という時に、これほど高揚した声は聞かれない。大野編、前掲書に、

解説モは他の係助詞カ・ゾと同じく、「何時(いつ)」「誰(たれ)」などの疑問詞の下に付いて使われる。このように、疑問詞に付くことは、モの受ける事柄が不確実なもの、あるいは不確実なことであることを示す役目をする。不確実とは、次のようなことを指す。・推量……・未定……・ 順望……・否定……このようにモは、受ける語を「これ一つではない」と、これと同類のものが他にも存在することを暗示して、掲げたものが不確定・不確実・非限定的・仮定のものとして扱うことを本質としている。これに対して、係助詞ハは、疑問詞に付くことがほとんどなく、数あるもののうちから、上にくる語を特に「これ一つ」として取り立てて、確実・確定的・限定的・既定のものとして扱う。『万葉集』で地名に付くハが多いのは、地名が「これ一つ」という最も明確なものなので、必然的に上の語を確実と扱うハの例が多くなることによる。以上のモの本質からすれば、普通モの文末には打消・推量・疑問など、いわゆる不確定性の陳述がくる。ただ中には「懸けまくも〔母〕 あやにかしこし 言はまくも〔毛〕 ゆゆしきかも」<万葉四七五>のように結びが肯定の場合もある。これは、「心にかけて思うのも何とも恐れ多い。口に出して言うのも忌みはばかられることだ」と訳せる一種の常套句で、続けて使われているモは、いずれも上の語を肯定して、「Aも…Bも…である」という、いわゆる並列の意を表している。同類の事柄を列挙するこの並列のモは、上代ではそれほど多くないが、時代が下るにつれて用例数が増加し、やがてモの用法の大部分を占めるよっになって、現代に至っている。こういう意味が生じたのは、モが「ある事」を確実であると確信できない意を示すところから「AもBも」と不確実なものを列挙する気持ちを表した結果である。つまり、並列肯定の用法は、モの不確定という本質の一つの相として現れたことになる。 そのほか、係助詞モには、上代から類例暗示、添加、強調・詠嘆、総括など多様な意味用法があり、通時的に盛んに使われている。(1194~1195頁)

とある。そして、上代に名詞を受けるモの語釈として、

①上にくる語を不確実・非限定・仮定・未定のものとして提示し、下にそれについての説明・叙述を導く。…も。下に打消・推量・願望などの表現を伴うことが多い。 >「多遅比野(たぢひの)に 寝むと知りせば 防壁(たつごも)も〔母〕 持ちて来ましもの 寝むと知りせば」<記歌謡七五>……②「AもBも」と不確実なものを列挙・並列する意を表す。…も。 >「千葉の 葛野(かづの)を見れば 百千足る 家庭(やには)も〔母〕見ゆ 国の秀(ほ)も〔母〕見ゆ」<記歌謡四一>……③一つを挙げて、該当する他の類例を暗示する意を表す。また、他の同種のものを類推させる意を表す。…も。…なども。…さえも。(…はもちろんのこと)…だって。 >「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮も〔毛〕かなひぬ今は漕ぎ出でな」<万葉八>……④一つの事柄の上に、同種の事柄をもう一つ加えるという添加の意を表す。…も。…もまた。 >「宮人の 足結(あゆひ)の小鈴 落ちにきと 宮人響(とよ)む 里人も〔母〕ゆめ」<記歌謡八二[81]>……⑤控えめな最小限・最低限の希望を表す。せめて…だけでも。下に仮定や願望の表現を伴うことが多い。 >「ぬばたまの夜渡る月をとどめむに西の山辺に関も〔毛〕あらぬかも」<万葉一〇七七>(1195頁)

といった用法があげられている。
 古橋説は、②の用例の省略形ということになる。モを不確実なものとする解説に反する。そして、筆者は、③の例に熟田津の歌が採りあげられていることに、疑問を呈する。月と潮について、「月待てば潮かなひぬ」と先にモが出ていれば、暗示や類推に該当するであろうが、そういう語順にはない。そして、「語釈」では説明不足ながら④の意味に着目する。記81番歌謡の用例は、「宮人は大騒ぎするけれど里人は決して大騒ぎしてはいけないよ」という意味である。「宮人」と「里人」とは、することの方向性が反対である。否定の意味が残っている。この意に近づけて熟田津の歌を考えると、「月を待っていると月はまだ出ていないのに、潮は船出に適う状態になってしまった」と解することができる。記の歌謡や初期万葉歌は、上代でも古い用例である。モの原義である不確実性の提示の意を含んでいると考えたほうが妥当であろう。予想に反して船がにわかに動き出そうとしていたことを指している。あれよあれよという間に、「潮もかなひぬ」と完了してしまっている。だから、みんなで早く、早く、と声を掛け合っている。「今は漕ぎ出でな」と、提題の助詞ハが付いている。いつ漕ぐか? 今でしょ!
 3句目の「月待てば」の「月」については、月の出を待つのか、満月になるのを待つのか、議論が分かれている。ほかに、雲から月が現れたとする珍説まである。万葉集に、「月」と「待つ」の出てくる用例を見ると、8番歌以外に、

 夕闇は 路(みち)たづたづし 月待ちて 行(い)ませ吾が背子 その間にも見む(万709)
 闇の夜は 苦しきものを 何時(いつ)しかと 吾が待つ月も 早も照らぬか(万1374)
 妹が目の 見まく欲しけく 夕闇の 木の葉隠(こも)れる 月待つ如し(万2666)
 あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 妹待つ吾を(万3002)
 能登の海に 釣する海人の 漁火(いさりび)の 光りにい往(ゆ)け 月待ちがてり(万3169)
 …… あしひきの 山より出づる 月待つと 人には云ひて 君待つ吾を(万3276)
 足姫(たらしひめ) 御船泊てけむ 松浦(まつら)の海 妹が待つべき 月は経につつ(万3685)
 月待ちて 家には行かむ わが插(さ)せる あから橘 影に見えつつ(万4060)
 秋草に 置く白露の 飽かずのみ 相見るものを 月をし待たむ(万4312)

の9首があげられる。このうち、3685・4312番歌以外は、月の出を待つ意である。この2例が暦としての月の意で、残りは天体として夜を照らす月の意である。月歴として用いられる場合は、「経(ふ)」や「日に異(け)に」など、時間の経過を示すことばとしてわかるように示されることが多い。3685番歌もその一例ではあるが、4312番歌と似た性質を持っている。4312番歌は、「七夕の歌八首」のうちの一首で、この場合の「月」は、来年の七月のことを指している。3685番歌も、帰国すべき予定月のことを言っている。
 8番歌の「月待てば」の場合、月歴として特定の月を言っているとは考えにくい。出航予定ならともかく、出航予定ではありえまい。また、ひと月、ふた月、み月と指折り数えて待つという言い方や、上弦の月が満月になるのを待つという言い方は、上代に見られない。よって、月の出を待っていると解すべきである。先に述べたように、助詞のモが不確実性を表すことも考え合わせれば、満月になれば大潮になってすべてうまくいくという予定調和を歌ったものでもない。例外の可能性がないわけではないから、蓋然性がはなはだしく高いと述べておく。月の出を待っていたら思いがけず潮が満ちてきて、さあ漕ぎ出そうと歌っている。
 8番歌は、座礁からの解放を喜んだ歌であった。「漕ぎ出で」ることが眼目で、「潮」に潮流の意味は含まれていない。難波からの出航当初は2日で約100km進み、岡山県の東部に達している。岡山県東部から松山付近まで6日で約150km進んでいる。松山付近から博多までは関門海峡を通って約250kmである。3月の望月頃の大潮で船が動き出したとして、到着は3月25日、10日ほどかかっている。途中で神功皇后ゆかりの穴門の豊浦宮旧跡地、山口県下関市長府豊浦町に立ち寄ったであろうから、日程的にはちょうどいい。紀の「還りて娜大津に至る」という表現は、座礁からの脱出を物語っている。「御船」は、陸から海に還ったのである。
 船の安全を祈った呪術的な意味合いは感じられない。2句目の「乗り」ということばは、乗物に乗って身を任せてゆくことである。安全無事を祈るというよりも、ようやく船出できる喜びを素直に表現している。乗組員一同の気持ちが一つになった時、この歌は歌われた。人々に共有されるような気持ち、共通する感覚が歌になってほとばしり出ている。
 左注の最後に、「但し、額田王の歌は別に四首あり」とあった。おそらくこの4首は、同じように船出を歌ったものであろう。天皇の石湯行宮の記事の後に続いているから、熟田津で歌われた歌と思われる。座礁した日かそれに近い大潮の日、2月朔日頃の大潮の日、2月望月頃の大潮の日、3月朔日頃の大潮の日。ちょうど4回あってそのたびに船出を予祝する歌が歌われたのであろう。したがって、4首なのではないか。むろん、大自然を相手にして、額田王の歌の力ではどうにもならなかった。最後に歌われた8番歌は、予祝する歌ではなく、実際に動き出して興奮して作った歌である。歌の出来がいちばんすぐれるのは当然である。左注を付けた人が「天皇の御製そ」と言っているのは、ほかの4首が冴えなかったから、同一の作者とは思われなかったのではないか。
 仮に、西暦2000年の松山(緯度33°51′N、経度132°43′E)の潮汐を、海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第1巻;日本及び付近』(海上保安庁発行)に見る(旧暦で閏月の現れる年の前年で、新暦の日付との対応が新暦に2月29日があるというだけでほぼ同じということで参照した)と、旧暦1月14日は新暦の2月18日に当たり、大潮の第1日目である。潮時と潮位を示すと、1:53に最低潮位2cm 、8:42に最高潮位333cm、14:44に90cm、20:21に289cmをつけている。翌日以降、日におよそ2回ある高潮と低潮のうち、潮時の最高を旧暦で示すと、15日344cm、16日348cm、17日345cm、18日337cm、19日324cm、20日308cm、21日288cm、22日265cm、23日245cm、24日232cm、25日236cm、26日255cm、27日276cm、28日294cm、29日309cm、1月30日319cm、2月1日(新暦3月5日)327cm、2日331cm、3日331cm、4日326cm、5日315cm、6日310cm、7日295cm、8日276cm、9日263cm、10日268cm、11日288cm、12日310cm、13日325cm、14日334cm、15日336cm、16日333cm、17日327cm、18日316cm、19日303cm、20日302cm、21日285cm、22日266cm、23日248cm、24日242cm、25日252cm、26日271cm、27日290cm、28日305cm、29日318cm、30日326cm、3月1日(新暦4月5日)338cm、2日343cm、3日340cm、4日311cm、5日329cm、6日312cm、7日291cm、8日277cm、9日278cm、10日290cm、11日305cm、12日315cm、13日321cm、14日330cm、15日334cm、16日332cm、17日326cm、18日316cm、19日282cm、20日302cm、21日287cm、22日271cm、23日259cm、24日260cm、娜大津に着いた25日の松山の最高潮位は271cmである。
 最高潮位に注目すると、1月14日(新暦2月18日)の333cmに達するのは、同15・16・17・18日を過ぎると、2月14・15・16日、3月1・2・3日、同月15日である。ずいぶん限られている。検潮所での平均的なデータと、「潟」湖の実際とではだいぶ開きがあろう。それでも大いに参考になる。また、1月16日の348cmを上回ることはない。潮の満ち方が多そうな日を見ると、

 2月13日(新暦3月18日) 高潮325cm(8:23)・294cm(20:18)、月齢11.9、月の出16:17、日の入18:19
 2月14日(新暦3月19日) 高潮334cm(9:00)・313cm(20:59)、月齢12.9、月の出17:22、日の入18:20
 2月15日(新暦3月20日) 高潮336cm(9:33)・324cm(21:38)、月齢13.9、月の出18:25、日の入18:21
 2月16日(新暦3月21日) 高潮333cm(10:03)・328cm(22:15)、月齢14.9、月の出19:26、日の入18:22
 2月17日(新暦3月22日) 高潮327cm(10:31)・324cm(22:51)、月齢15.9、月の出20:26、日の入18:22

 2月30日(新暦4月 4日) 高潮326cm(9:00)・326cm(21:19)、月齢28.9、月の出5:46、日の入18:32
 3月 1日(新暦4月 5日) 高潮330cm(9:38)・338cm(21:56)、月齢0.4、月の出6:20、日の入18:33
 3月 2日(新暦4月 6日) 高潮329cm(10:07)・343cm(22:35)、月齢1.4、月の出6:56、日の入18:34
 3月 3日(新暦4月 7日) 高潮323cm(10:38)・340cm(23:16)、月齢2.4、月の出7:35、日の入18:35

 3月13日(新暦4月17日) 高潮321cm(8:28)・319cm(20:47)、月齢12.4、月の出17:14、日の入18:42
 3月14日(新暦4月18日) 高潮322cm(8:59)・330cm(21:23)、月齢13.4、月の出18:13、日の入18:43
 3月15日(新暦4月19日) 高潮319cm(9:27)・334cm(21:58)、月齢14.4、月の出19:12、日の入18:44
 3月16日(新暦4月20日) 高潮314cm(9:54)・332cm(22:33)、月齢15.4、月の出20:10、日の入18:44
 3月17日(新暦4月21日) 高潮307cm(10:21)・326cm(23:07)、月齢16.4、月の出21:07、日の入18:45

となっている。旧暦2月望月頃は、午前中に最高潮位を示している。この傾向は、熟田津到着の旧暦1月望月頃にも当てはまる。月の出るはずもない朝っぱらから、「月待てば」とは歌わないであろう。また、旧暦3月朔日頃の月は見えなかったりか細かったりする。しかも、日中から天上にある月を「月待てば」とは歌わないであろう。旧暦3月望月頃を見ると、「月待てば」と歌いたくなるのは、日の入より後に月の出がある日であろうから、3月15日説が有力ではないかと感じられる。以上が、2カ月ほど足止めを食らっていたのではないかと推測できる状況証拠である。(なお、海上保安庁海洋情報部の「潮汐推算」サイトから、斉明7年(661)の松山の潮汐模様が検索できます。)
 この歌は、戦争に赴くときの歌ではあっても進軍ラッパではない。中大兄の「三山歌」(万13~15)と同じ道中でありながら、性質は全く異にしている。そして時代感覚の鋭い編者はこの歌を採録した。彼自身が新たに書き加えたのは、標目(「後岡本宮御宇天皇代」)と題詞(「額田王歌」)だけである。あとは紀と見比べて考えて下さいと願っている。そして、紀の方にはわずかな手掛かりが残された。そうまでしなければならなかった経緯を考えると、1つの疑問が浮かんでくる。
 紀が書かれたのは、天武朝である。書いたのは官吏である。その際、以前の政権の平凡な失敗については、あまり隠さずに書いている。つまらないニュースも結構載っている。ところが、この座礁の事件は語られることなく終わっている。空白の約2カ月が生じている。なぜ書かれなかったのか。それはひょっとして、座礁のきっかけを作ったのが大海人皇子、すなわち、後の天武天皇にあったからではないかという印象を筆者は懐いている。
 船上で大伯皇女が誕生したり、娜大津から名付けられたらしい大津皇子も生まれている。また、

 岡本の天皇[舒明天皇]と皇后と二躰(ふたはしら)を以て、一度と為す。時に、大殿戸に椹(むく)と臣木(おみのき)とあり。其の木に鵤(いかるが)と此米木(しめどり)と集まり止まりき。天皇、此の鳥の為に、枝に稲等(いなほども)を繋(か)けて養(か)ひたまひき。後の岡本の天皇[斉明天皇]・近江の大津の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇[天智天皇]・浄御原の宮に御宇しめしし天皇[天武天皇]の三躰を以て、一度と為す。(萬葉集註釋による伊予風土記逸文)

と、斉明・天智・天武の3天皇が一緒に来たと記されている。万6番歌の左注に記されるところである。しかし、紀の一連の斉明天皇西征の記事には、大海人皇子の名は出てこない。失敗があったから大海人皇子の動静が伝えられていないのであろう。天皇の崩御や白村江の敗戦を後から振り返った時、熟田津の不祥事はその前兆であったと人々は考えるに違いない。その原因は大海人皇子が作った。そう思われては、天武天皇としてははなはだまずい。
 万葉集では「兎道」(万7)という粉飾があり、「莫囂……」(万9)という難訓がある。その間に挟まれたのが、この熟田津の8番歌である。原文の始まりに、「◆田津尓」とある。「◆」という字は、紀・万葉集に現れる。「熟」の字の異体字とされるが、管見ながら中国に見られるものではないようである。おそらく、編者の謎掛けをもとにした造字であろう。よく使われる「熟」の字の下にある点4つ、レッカは火を表す。火がついたように赤く熟しているというのである。そこで、上の部分の「孰」に似た字の「就」をもってきて、字義を伝えるにふさわしい字をこしらえた。
「◆田津」(主婦の友社編『西本願寺本万葉集 巻第1』(おうふう、1993年)より)
 本稿では「就」の字をすでに見ている。「御船西に征きて、始めて海路に(ゆ)く」、「天皇の喪、帰りて海にく」とあった。動詞が1つしかないわざとらしい文も、「御船、伊予に泊て、火田津(ほたつ)の石湯行宮に就(つ)く」と訓めばよかったのであった。紀に記される漢語(「御船泊于伊予就火田津石湯行宮」)を無理矢理なぞなぞ訓みしたものである。伊予に stop してはいるが、きちんと計画通りに就いているとの体裁にも読める。ただしそれは、火田(ほた)、つまり焼き畑の、水のない状態の津にある石湯行宮であるという自己撞着した表現になっている。畑という字は国字であり、紀には、「田畝(たはたけ)」、「田圃(たはたけ)」、「田苑(たはたけ)」、「水陸(たはたけ)」、「陸田種子(はたけつもののたね)」などと記されており、当時はまだなかった。日下先生の「潟」の解説にあったように、天然の良港にもなり得る潟湖と、遠浅で広い干潟とは、区別しづらい景観であった。満潮時に潟湖と思って入港したところが、実はふだんは干潟のところであったということらしい。つまり、「就」は床に就いているような意味合いである。
 石湯行宮とは、座礁船自体のことを「行宮」としていたことを表すのではないか。船に缶詰というわけではないが、一番快適に過ごせるのは、「御船」という豪華船だったのであろう。斉明天皇は、神功皇后同様、「忿心」を得ていた。怒りを覚えていたのである。「御船」が干潟の上にあるとは、通常の停泊で碇を下すものが、碇を上げているという洒落が成り立つ。怒りがこみ上げてきて仕方がないような場所にいらっしゃるわけである。万葉集の用字に、イカリ(碇・忿(怒・慍))の用字には、

 近江の海 沖漕ぐ船の 重石(いかり)下ろし 忍びて君が 言(こと)待つ吾ぞ(万2440)
 大船の たゆたふ海に 重石下ろし いかにせばかも 吾が恋止まむ(万2738)
 大船の 香取の海に 慍(いかり)下ろし いかなる人か 物思はざらむ(万2436)
 はね蘰(かづら) 今する妹が うら若み 笑みみ慍(いかり)み 着(つ)けし紐解く(万2627)

とある。前3例は碇の意、最後の例のみ怒の意である。3例目は、 anchor の意に「慍」の字を用いた借訓文字である。碇には「沈石」(播磨風土記飾磨郡条)との用字もあり、通常は下ろして用を成すものである。怒りがこみ上げてきて仕方がなかった場所において、碇を下してというか干上がった畑のようなところに上げているのに用を足しており、船は流されることなく泊まっているというか、就いている。じっとしているから滞在しており、これは御在所と呼ぶに値する。それをイハユの行宮と命名した。イハという語には、石の大きなものの意のほかに、それを材料に使った船の碇の意味がある。大石に穴をあけたり、網状にしてそこへ大石を入れたり、木に括りつけたものなどがある。碇とイハとはよく似ているのである。つまり、イハ(岩・磐)+アユ(肖)→イハユ(石湯)と名づけたのである。所謂(いはゆる)行宮が止まっているから終止形を以てして、イハユと呼んでいる。聖徳太子の憲法十七条には、

 十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもへりのいかり)を棄てて、人の違(たが)ふことを怒らざれ。(推古紀十二年四月条)

とある。万6番歌左注に見える「斑鳩比米」なる「二鳥」とは、イカルガヒメ、すなわち、イカル(怒)+ガ(助詞)+ヒメ(姫)という皇極・斉明天皇のあだ名をもとに作られた伝承であったかもしれない。彼女の怒りの肉声は、紀に録写されている。大化改新のクーデターが宮中で行われた箇所に、

 天皇、大きに驚きて、中大兄に詔して曰はく、「知らず、作(す)る所、何事有りつるや」とのたまふ。(皇極紀四年六月条)

とある。
 碇と怒との関係は、その図像によっても証明される。おおきな石に蔓のロープを絡ませたものを碇に使った。他方、怒りを表した忿怒の像、不動明王の頭部は、まるで、碇のように、ロープ状の弁髪や凸凹のある顔つきになっている。碇を下ろしたら船は不動ということである。
碇石(森の宮遺跡出土、大阪府立弥生文化博物館編『弥生人の船』(同発行、平成25年)より)
不動明王立像(部分)(平安時代、11世紀、東博展示品)
十巻抄(不動明王の項、紙本墨画淡彩、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)
 船団がどの程度の規模であったかはわからない。紀では、

 大将軍大錦中阿曇比羅夫等、船師(ふないくさ)一百七十艘(かはら)を率(ゐ)て、豊璋等を百済国に送りて勅を宣りて、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月条)

とある。「一百七十艘」という船の数は、後述する白村江の海戦の時の唐軍の船の数と同じである。なお、天智10年11月に唐領百済から倭に向かった船の数は、47隻、人数は2000人とある。そのまま行くとびっくりして一触即発になるだろうからと、事前通告に使者が来ているとのお知らせである。この記事は信憑性が高い。斉明天皇の船団の船数を絞り込むことはできないものの、相当数であったことは確かであろう。
 船団を組んで進んでいた時、大海人皇子が水先案内人(パイロット)役を担っていたのであろう。彼の乳母はその名から、丹後国加佐(かさ)郡凡海(おおしあま)郷、現在の京都府舞鶴市付近に拠点を置いていた凡海(大海)氏であり、いわゆる海人族に育てられたとされている。そのつてで航海技術を持った人は雇われていたに違いあるまい。誘導されるままに斉明天皇らの乗った御船号は進んだ。しかし、難波津のある大阪湾や山陰・北陸の日本海側の海岸の状況と、瀬戸内海西部とでは様子が違っていた。潮汐においてである。(つづく)
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熟田津の歌 其の四

2015年02月09日 | 論文
(承前)
 もういちど紀の前後の記事を見てみると、

 [春正月の丁酉の朔にして]庚戌に、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。
 [三月の丙申の朔にして]庚申に、御船、還りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居します。

とある。2つの文章の構造に注目したい。両方とも、日にち・「御船」・場所の順に並んでいるが、最後の動詞のあたりに大きな相違がある。後の文章では、船は至り、天皇はいらっしゃったとある。動詞が2つある。前の文章には動詞が1つしかない。船は行宮に停泊したと読むのが順当になっている。これには、石湯行宮が現在の道後温泉付近ではなく、海や川に面していたという解釈が付けられることになる。益田、前掲書には、「伊予湯宮」と「石湯行宮」とが書き分けられているから、石湯=海浜のサウナとの説があった。歌の左注に、舒明天皇と訪れた昔を偲ぶことができる「昔日猶存之物」をご覧になって、感愛の情をもよおしたとあり、往時の「伊予湯宮」には「物」ぐらいしか残っていなかったらしい。
 では、2カ月ほどにもわたる熟田津滞在中、天皇の行在所、「石湯行宮」はどこにあったのであろうか。出掛けていって「感愛之情」を起こしているから、船に缶詰ではなかった。確かに紀の記事からは、船は停泊し、天皇は宿泊した、という意味にも取れないことはない。しかし、船と人間とが一緒くたにされているようで、文章の座りが悪い。孝徳紀にも、

 皇太子、乃ち奉皇祖母尊(すめみおやのみこと[皇極・斉明天皇])・間人皇后を奉(ゐたてまつ)り、并せて皇弟(すめいろど)等を率(ゐ)て、往きて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)に居(ま)します。(孝徳紀白雉四年是歳条)

とある。いちばん偉い人はオハシマスものである。記者は何ごとか言い淀んでいるように見受けられる。
 後の文章の「還りて」を、本来の行路に戻ったことと考えていた。地図を広げてみて、難波から博多へ向かうのに松山付近を通ったとして、本来のルートから外れているとは思われない。もう一度、歌全体を聞いてみなければならない。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)

 この歌の特徴は力動感である。船に乗って海に出よう、さぁ今こぞ漕ぎ出そう。そう歌っている。月や潮の様が歌の主題ではなく、人々の動作や自然の動き、すなわち、「乗りせむ」、「かないぬ」、「漕ぎ出でな」 といったことばが主役である。強い意志が感じられるのは、最後の助詞ナの1語にあるのではない。 これほど息せき切って力強く歌っているのは、ちょうど反対の事情、今までは、船に乗って漕ぎ出そうにも漕ぎ出せなかったからではないか。それは何か。たちの悪い座礁であろう。
 船団は瀬戸内海を西へ西へと進んでいった。ところが太陽太陰暦で1月14日、大潮に近い日に、今の松山付近で浅瀬に乗り上げて座礁した。それも船団の中心、天皇らが乗り組んでいた豪華船「御船」号であった。とりあえず、一部の船には先に進んで博多方面へ行き、大宰府などに待機しているよう指令を出した。足止めを食らった天皇には上陸してもらい、かつての行幸場所へもご案内して寛いでいただいた。
 座礁の可能性はけっして低くない。紀では、

 皇后(きさき)[神功皇后]、別船(ことみふね)にめして、洞海(くきのうみ)洞、此には久岐(くき)と云ふ。より入りたまふ。潮涸(ひ)て進(ゆ)くこと得ず。時に熊鰐(わに)、更(また)還りて、洞(くき)より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進かざることを見て、惶ぢ懼りて、忽に魚沼(うをいけ)・鳥池を作りて、悉(ふつく)に魚鳥を聚む。皇后、是の魚鳥の遊を看(みそなは)して、忿(いかり)の心、稍に解けぬ。潮の満つる及びて、即ち岡津(をかのつ)に泊りたまふ。(仲哀紀八年正月条)

とある。征西において、斉明天皇が真似をしている神功皇后の事跡である。重要視されなければならない。後述する。また、円仁の入唐求法巡礼行記巻第一に、開成四年(839、日本の承和六年)のこととして、遣唐使船が座礁した際の詳細な記録が残っている。深谷先生の訳、テキストを紹介する。

 四月十一日。午前六時、栗田録事らが舶に乗ったのでまもなく出航、帆を上げて真っ直ぐに進んだ。南西の風が吹く。東海県の西に行こうとしたけれども、風にあおられてすぐに浅い浜に着いてしまった。そこで帆を下ろして櫓を動かしたわけだが、船はますます浅い方に行ってしまう。仕方がないので棹(さお)で海底を突いて船の通る個所をはかるためにしばしば船足を留める始末だった。こうして一日中苦労してやっと東海県に着いたのであるが、潮が引いて船は泥の上に居坐ってしまい動くことができない。夜に入ってそこに停泊した。
 そこに陸から舶に上って来た人がいて彼が言うには「きょう宿城村から手紙があって、その知らせによると、日本の九隻の船のうち第三船は密州の大珠山に漂着した。午後四時、押衙と県令(県知事)の二人が宿城村にやって来て『日本国の和尚を探し出して日本船に戻した』と言っていたという(「覓本和尚却帰船処」)。なおその一船(第三船)は萊州の管内に漂着し、流れに任せて密州の大珠山に着いている。他の八隻の船は海上でいずれも見失って行方不明である、云々」と。午後十時、ともづなを曳いて船を引っ張り、泥の浅瀬から出ようと試みたが、まだ浮かび上がらず動くことができない。
 ○「覓本和尚却帰船処」=「却帰」はふたたび元に帰す。(小)[小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究 第一巻』鈴木学術財団、昭和39年]「和尚が船処に却帰せんことを求めぬ」日本の和尚が船から抛却されたところを尋ねた。置き去りの意に解し、(ラ)[ Dr.Edwin Oldfather Reischauer. Ennin’s Diary, THE RECORD OF A PILGRIMAGE TO CHINA IN SEARCH OF THE LAW,1955,RONALD PRESS CO., NEW YORK]はleftと訳し、「圓仁たちが船から離れた場所を尋ねて宿城村にやってきた」とする(堀)[堀一郎訳「入唐求法巡礼行記」『国訳一切経和漢撰述部史伝部二十五』大東出版社、昭和14年]「和尚の船処を覓求して却帰せり」これは帰り戻ったの意(洋)[足立喜六訳注・塩入良道補注『入唐求法巡礼行記1』平凡社(東洋文庫)、昭和45年]「和尚を覓め船処に帰却せり」「和尚を発見して日本船に帰した」。この説をとった。
 十一日卯時粟録事等駕舶便発上帆直行西南風吹擬到東海県西為風所扇直着浅浜下帆揺櫓逾至浅処下掉衝路♭(足偏に主)終日辛苦僅到県潮落舶居泥上不得揺動夜頭停住上舶語云今日従宿城村有状報偁本国九隻船数内第三船流着密州大珠山申時押衙及県令等両人来宿城村覓本和尚却帰船処但其一船流着萊州界任流到密州大珠山其八隻船海中相失不知所去云々亥時曳纜擬出亦不得浮去
 四月十二日。明け方、風は東風になったり西風になったりして一定しない。 船はまだ浮かばず動けない。また県庁から連絡の文書が来て良岑判官らに知らせていうには「朝貢使の船のうち第三船は当県の管内に漂着した。この船は先日出港したものである」と。私は正式の害状をまだ見ていない(「先日便発者未見正状」(洋)「先日送った知らせはまだ正確な情報ではなかった」(堀)「先日出港したものであるが、まだ正確な情報ではない」)。風向きはしきりに変わって一定しない。
 十二日平旦風東西不定舶未浮去又従県有状報良岑判官等偁朝貢使船内第三船流着当県界先日便発者未見正状風変不定
 四月十三日。早朝、上げ潮となり、船は出発しようとした。しかし風向きが定まらないので何度も往ったり戻ったりした。午後、風は南西から吹いて向きを変え西風となった。午後二時、潮が満ちて舶は自然に浮かんで東へ流れて行く。そこで帆を上げて進んで行った。東海県の前から東へ向かって出発した。舶上の小舟に上ってお祓いをし、同時に住吉大神を礼拝、海を渡りはじめる。風はかなり強く吹いている。大海に入って間もなく、水夫一人が前々から病いに臥していたが、午後五時ごろ死去した。死体はむしろに包み海中に押し落とすと、波にゆられて流れ去った。海の色はやや澄んでおり、夜に入ると風がしきりに吹く。東を指して真っ直ぐに進んだ。
 十三日早朝潮生擬発縁風不定進退多端午後風起西南転成西風未時潮生舶自浮流東行上帆進発従東海県前指東発行上艇解除兼住吉大神始乃渡海風吹稍切入海不久水手一人従先臥病申終死去褁之以席推落海裏随波流却海色稍清夜頭風切直指東行(圓仁・深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』中央公論社(中公文庫)、1990年、174~177頁)

 この時の遣唐使船は、特に船の破損もなかったようであるが、船が壊れていく様を目の当たりにして怯えている様子は、承和五年七月二日条に見える。これらを参考にすると、「御船」は、本稿の初めの方でも触れたラグーン(潟湖)に寄港したつもりが、そのまま潮が引いてタイダル・フラット(干潟)となり、動けなくなったという推測が成り立つ。船は無事だが、なかなか出航できなくなった。吉田金彦『吉田金彦著作選4;額田王紀行』(明治書院、平成20年)に、「額田王采配(さいはい)のもとで『月待てば潮もかなひぬ』とあるように、『月読』の神に祈り、『月』の出を待って、満汐の良い時をねらっていたわけである。……特にここは『汐』のことが取り上げられている。それは熟田津の地理条件がある面で軍港というにはふさわしくない、大浦田沼(おほうらたぬ)というような船の停泊するには便利だが、出帆するには苦労するところの、汐満ちの影響を考慮しなければならない潟湖津であったことを示しているのである。しかも入港も出帆も同一だということでなかったかもしれぬ」(100~101頁)とある。「大浦田沼」については、「この『田沼』はタヌと訓まれ、田と沼か、田である沼か分からないと言われるが、『田沼』といっても、それを逆にした『田沼(ママ)』といっても同じで、大浦の地が沼田(ぬた)の状況であることをいっている。それは『津田』といっても『田津』といっても同じなのと同様の語構成だ。志賀島湾内が潟湖をなし、沼田状になっていることを指している」(同、25頁)と説明されている。梶川、前掲書にも、写真入りでラグーン、あるいはひょっとして、タイダル・フラットにボートが置いてきぼりにされている様が紹介されていた。梶川先生は、そこを「天然の良港」とされている。
 日下、前掲書には、「潟」の意味する地形について、的確な表現が施されている。

「潟」という語は、ラグーン(潟湖(せきこ))とタイダル・フラット(干潟)の二つの地形(景観)にあてられているといえる。前者すなわちラグーンは、砂や礫(れき)からなる高さ二~五メートルの砂堆(砂嘴(さし)・沿岸洲(す)・浜堤(ひんてい))によって外海(湖の場合もある)から隔てられた水域である。この水域は海岸線に平行して細長く延びるのがふつうであり、水深は小さいが、干潮時にも完全に干上がってしまうことはない。外海とは河口や狭い潮口(ちょうこう)(砂堆の切れ目)によってつながっていることが多く、外海より海水、そして汽水をへて淡水域へと移る。また潮の干満によって塩分の濃度は絶えず変化する。汀線付近の傾斜が比較的大きいため、潮の干満による汀線の水平的な移動はあまり大きいものではない。
 それに対し、干潟は傾斜がきわめて小さいため、高潮時には水没し、低潮時に陸化する朝間帯(ちょうかんたい)の幅は、数キロにも達するのがふつうである。たとえばフランスの西海岸では、干潟の幅が約一〇キロであり、わが国の有明海も大きい値を示す。ラグーンが、風波の強い海洋型の海岸に発達するのに対し、タイダル・フラットは、波の静かな内湾に形成される。有明海のほか、岡山市の児島湾の例がよく知られている。
 もっとも、ラグーンの周辺に幅が狭くて規模の小さいタイダル・フラットが形成されるため、両者を厳密に区別することは難しい。(80~82頁)

 ラグーンも、タイダル・フラットも、上代の人にとっては、同じ「潟」なのである。ことばとして同じ範疇にするほどに、似通った景観であった。砂嘴があるから良港と思って廻りこんで入港したつもりが、とんだ干潟になってしまったということであろう。
 高見大地「熟田津とはどこか;古代の良港と微地形」越境の会編『越境としての古代2』(同時代社、2004年)に、「良港の条件」として、「港の最も重要な機能は船が安全に停泊できることである。そのためには、主として地形的な次の基本条件を満たす必要がある。1船の出入りに相当した幅と水深の航路がある。2港内は船の数に応じた深さと広さがある。3海底は錨かきがよい。4波が静かである(風よけがある)。5潮の干満の差が小さい。近年は土木工学の進歩により、これらの条件を満たすように防波堤、防潮堤、導流堤、岸壁、桟橋などが建設され、昔は港にならなかった場所にも多数の港が作られている。古代には、自然にこの条件を満たすリアス式海岸や潟湖に港が作られた。しかし、その港が良港であるためには、前述の基本条件だけでは不十分で、さらに次の条件を満たしていなければならない。1内政、外交、文化交流、物流経済などの目的にあった背後地をもつ。2背後地との交通運輸通信などの連絡が容易である。3港の周囲には、貨物の積み込み・積み下ろし・保管あるいは乗客の休憩・宿泊、船舶の修理、港の保守などの設備がある。4これらの設備の保守および機能維持のための要員が近傍に住んでいる。古代の港も、これらの条件をたとえ小規模であっても満たしていなければ良港とはならない」(140~141頁)とまとめられている。熟田津は、基本条件の「5潮の干満の差が小さい」を欠いていたといえる。ヨリ正確には、満ち潮の高さが定時的に十分であるという条件を欠いていたといったほうがふさわしい。この点については後述する。
 「御船」号は、前期遣唐使船に想定されるように船底は平らだったであろう。しかし、大きな準構造船で、豪華客船、ないし、大軍艦である。斉明7年正月6日に出航したのは、難波津である。河内湖(草香江)と大阪湾とを結んだ難波堀江にあったのではないかとされている。仁徳紀十一年十月条に、「[難波高津]宮の北の郊原(の)を掘りて、南の水(かは)を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ」とある水路に面しているとされている。そこは、「難波御津(なにはのみつ」(仁賢紀六年九月条)、「難波三津之浦(なにはのみつのうら)」(斉明紀五年七月条割注・伊吉連博徳書曰)とも呼ばれる。「御津(三津)」のミは甲類で、「満つ」のミも甲類である。毎日のように水が十分に満ちてきて、出航に手間取らない良港であったということであろう。日下、前掲書に、万葉歌の

 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり(万3594)

について、「上町台地(大阪市)の先端から平行して、ほぼ南北方向に走る二本の砂洲に挟まれた細長いラグーンのみなと「難波津」で、潮が満ちて来るのを待っていた。満潮を少し過ぎるころ、十分な水深を利用して、船はラグーンから『難波堀江』に出て、潮とともに下り、明石の門を越えてさらに西方へと向かったのである」(88頁)とある。ところが、熟田津の場合は、潟湖が干潟に変身して、身動きが取れなくなったというのであった。
6-7世紀ころの摂津・河内・和泉の景観(部分)(日下雅義『古代景観の復原』(中央公論社、1991年)口絵より)(講談社学術文庫版でもご覧になれます。)
 先にみた紀の博多到着の記事に続いて、不思議な文章が紛れ込んでいる。

 天皇、此を改めて、名をば長津(ながつ)と曰(のたま)ふ。(斉明紀七年三月条)

 「娜大津(なのおほつ)」 とあったのを、「長津(ながつ)」に改名したというのである。「娜大津」は、那珂津(なかつ)、那津(なのつ)(宣化紀元年五月条)、「娜太津(なたつ)」(家伝上(鎌足伝))などともいわれる。名は体を表すから、一般に改名するのは、それなりの意味があってのことである。
 記紀のなかでも、大国主神(おおくにぬしのかみ)や日本武尊(やまとたけるのみこと)はいろいろな名前を持っており、名を替えては変身を遂げ、それまでとは異なる役割を担っている。大国主神は大己貴神(おおあなむちのかみ)(大穴牟遅神(おおあなむじのかみ))となれば国作り、八千矛神(やちほこのかみ)となれば遠くまで婚活に出掛けていた。一方、日本武尊(倭建命)は、もとは日本童男(やまとおぐな)(倭男具那王(やまとおぐなのみこ))といった。それが熊襲征伐に際して女装して潜入し、川上梟師(かわかみたける)(熊曽建(くまそたける))の胸を剣で刺した。今はの際の捨てぜりふに、

 今より以後(のち)、皇子(みこ)を号けて日本武皇子(やまとたけるのみこ)と称(まを)すべし」(景行紀二十七年十二月条)
 是を以て、吾、御名(みな)を献らむ。今より以後(のち)は、倭建御子(やまとたけるのみこ)と称(い)ふべし(景行記)

と言っている。「敗者が祝福を与えることによって、服従が確認される。敗者の自発的な服従によって天皇の世界は成り立っていく」(山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集本1 古事記』小学館、1997年、220頁頭注)、「クマソタケルを倒すことによって、ヲウスはヤマトタケルへと変貌します。それは、彼が少年から一人前の男へと成長したことを意味しています。少年は、みずからの力で敵を倒すことによって大人になったのです。その意味で、クマソタケル討伐は、スサノヲのヤマタノヲロチ退治と同様に、成人式としての通過儀礼とみなすこともできます」(三浦佑之『古事記講義』文芸春秋、2003年、148頁)などと解されている。しかし、熊襲が服従したのは、究極のところ、首長が殺されたからに過ぎない。
 この問答が言わんとしていることは、「ヤマトタケルノミコ称す」ように言われたのを受けて、ヤマトタケルノミコト(トは乙類)という名に落ち着いたということである。コ音の甲類→乙類への転訛はト乙類に引きずられて生じたかとしておく。馬鹿馬鹿しいことば遊びに見えるが、 聞いていると漫才にも使えそうなほどとぼけている。子どもに寝物語して言い伝えていくには巧みなスパイスになっている。当たり前のことであるが、言い伝えは話しことばの世界の話である。後づけの観念体系など知ったことではない。
 また、応神天皇は皇太子時代、角鹿(つぬが)(敦賀)の気比(けひ)神宮の大神と名を交換したという話がある。仲哀記に、皇太子に付き添っていた建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)の夢に気比神宮の大神が現れる場面がある。

 爾して、其地(そこ)に坐す伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)、夜の夢(いめ)に見えて云(のりたま)ひしく、「吾(あ)が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」 とのたまふ。爾に言寿(ことほ)きて白(まを)さく、「恐(かしこ)し。命(みこと)の随(まにま)に易へ奉らむ」とまをす。亦其の神の詔(のりたま)はく、「明日(あす)の旦(あした)、浜に幸すべし。名を易へし幣(まひ)献らむ」とのりたまふ。(仲哀記)

 翌朝浜に出てみると、たくさんの魚が「幣(まひ)」として捧げられていた。それを見た皇太子は、「我に御食(みけ)の魚(な)を給へり」と言ったとある。神託にあった「名」の交換とは、「魚(な)」の交換でもあったというなぞなぞである。簡単になぞなぞを解いたことは、皇太子の成長を意味するとの指摘もある。名を替えた結果、気比の大神は「御食津大神(みけつおほかみ)」と称えられた。気比神宮は、朝廷に食物を献上する服従関係に入ったと解釈されている。しかし、皇太子の元の名前がイザサワケノミコトであったわけではないからおかしいと、紀には割注で注意書きされている。

 一に云はく、「初め天皇、太子(ひつぎのみこ)と為りて、越国(こしのくに)へ行(いでま)して、角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおほかみ)を拝祭(をろが)みまつりたまふ。時に、大神と太子と、名(みな)を相易へたまふ。故、大神を号けて去来紗別神(いざさわけのかみ)と曰(まを)し、太子の名は誉田別尊(ほむたわけのみこと)とまをすといふ。然らば、大神の本名(もとつみな)は誉田別神(ほむたわけのかみ)、太子の元名(はじめのみな)は去来紗別尊(いざさわけのみこと)と謂(まを)すべし。然れども見ゆること無し。未だ詳かならず。(応神前紀)

 この点については稿を改めて論ずる。いずれにせよ、「名替え」によって互いの関係が更新されるという考えは、斉明天皇の時代にもあったであろう。言霊信仰はまだ十分に余韻を保っていた。万葉集の10番歌において、「岩代(いはしろ)」と聞いて怖がっていたのは、「中皇命」こと斉明天皇であった。名前の持っている呪力にかなり縛られていたと思われる。そして、斉明天皇は娜大津を長津へと名替えをした。その意味するところは何であろうか。
 紀のきわめて初めのところに、

 至尊(しき)を尊(そん)と曰ひ、自余(じよ)を命(めい)と曰ふ。並びに美挙等(みこと)と訓む。(神代紀第一段本文)

という割注がある。偉いのは「尊」で、次なるは「命」、訓み方はいずれもミコトであると言っている。また、続日本紀・元明天皇の和同六年(713)に「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」(和銅六年五月条)と、地名に「好(よ)き字」を選んで付けるよう命じている。いわゆる好字令である。それらを参照して、長津への改称も好字を当てたにすぎないとする考えがある。しかし、斉明天皇は日本書紀を書いてもおらず、約50年後の元明天皇のように、文字を意識していたとは考えにくい。この間には大きな文化変容があった。無文字文化から文字文化への移行である。斉明天皇がどれほど文字(漢字)を読めたかは、興味深い課題であるが、別に論じたい。そして、字がただ変わったというのではなく、音が少しだけ変わっている。かといって、娜大津を、博多や福岡に変えたというほどには変わっていない。それぐらいに変えたのなら、何か深遠な意味合いがあってのこととも思えよう。ところが、ナノオホツやナノツ、ナツ、ナタツと、ナガツとでは、音として変わり映えがしない。「天皇、此れを改め、名をば長津と曰ふ」という表現は、何を改めたといいたいのか。
 奇妙な改名の話はその後も引きずっている。娜大津の近くの「磐瀬行宮(いはせのかりみや)」(斉明紀七年三月条)が、「磐瀬宮(いはせのみや)」(斉明紀七年八月条)と記されるばかりか、ところによって「長津宮(ながつのみや)」(天智前紀斉明七年七月是月条・同九月条)と変わっている。ひょっとしてこれは、娜大津を変えたいがための改名ではなく、磐瀬行宮の名を変えたかったからではないのか。熟田津の「石湯行宮(いはゆのかりみや)」にたいへんよく似ている。イハセとイハユは1音違いである。つまり、ナノツやナノオホツ、ナツと呼ばれる船着場部分の場所を、土建国家的に長津と呼んでしまって、市区町村合併流に、その付近一帯をナガツという統合的な地名に改変したかったのであろう。イハユを思い出したくないからである。もうあんな足止めはごめんだよ、そういう声が聞こえてくる。
 翻って言うと、これらの記事は、「熟田津」という地名について、婉曲に何かを物語っているように思われる。つまり、座礁した場所には別の名前があった。○○浜、××浦である。横浜とか北浦とか、素朴な名であったのではないか。それを熟田津に名称変更した。あるいは名前などなかったのかもしれない。船着場の意味の津ということばを使い、船は停泊させるべきところへ停泊させている、というのが戦時下における政府の公式見解であった。座礁の失態は隠蔽されたのである。先の大戦でも、1944年に起きた昭和東南海地震さえ、情報統制され、被害は隠蔽されている。当然、紀に詳細が書かれることはない。それでも司馬遷ばりの記者は、苦労して文章ひねり出した。「泊」と表記すれば、停泊したことにも宿泊したことにもなる。ただし、意味はとまること、stop である。さらに娜大津を長津と改名したことも記す。磐瀬宮も長津宮になっていたりいなかったりする。その結果、熟田津についても、もともとあった地名ではない可能性を示唆することになっている。仲哀紀の座礁記事でも、神功皇后は「忿心」を覚えている。魚鳥の遊をご覧になってようやく解けている。斉明天皇の場合、舒明天皇との思い出の物をご覧になっていた。万6番歌左注に、

 ……山上憶良太夫の類聚歌林に曰く「記に曰く……一書に云はく、『この時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹に斑鳩・比米二つの鳥さはに集まれり。時に勅して多く稲穂を掛けてこれを養ひたまふ。すなはち作れる歌云々』といへり」といへり。……

ともある。そんなものを見て心を落ち着かせていたのかもしれない。すなわち、斉明天皇は、憎々しく痛々しく感じていた。憎し、痛し、の語幹に津をつけて、niku+ita+tu→nikitatuと名づけられたと想像することも可能である。山部赤人の歌には、「飽田津(にきたつ)」とある。

 ももしきの 大宮人の 飽田津に 船乗りしけむ 年の知らなく(万323)

 赤人は神亀1年 (724)から天平8年(736)の間は生存が確認されている。万323番歌まで、斉明7年(661)からおよそ50年は経過している。天武13年(684)の大地震も経ている。「土左国の田苑(たはたけ)五十余万頃(しろ)、没れて海と為る」と記されているように、伊予国でも地形変動が起きたのではないか。1946年に起きた昭和南海地震では、愛媛県下の海岸線は40~50cm地盤沈下し、道後温泉の湧出も6ヶ月間止まったという。今日、四国の瀬戸内海岸の波打際が迫って感じられるのはそのせいである。赤人がいつのことか年を知らないと歌っているのは、詩的な表現である。年が経ってしまったからと納得しているが、場所さえわからなかったのではないか。後世に伝わらないニキタツという地名は、臨時に名づけられたのかも知れないと問題提起をしておく。
 鎌倉時代の仙覚(1203?~1272?)の萬葉集註釋に、伊予風土記を参照したらしい注が付いており、斉明天皇の御歌が記されている。その歌は、「美枳多頭爾(みきたづに) 波弖丁美禮婆(はててみれば) 云々」というもので、3句目以下は伝わっていない。ニキタツがミキタヅになるのは、音韻が訛る傾向としてあり得ることである。3句目以下が割愛されて「云々」と書いてあるのは、早い段階で検閲を受け、意図的に割愛されたことを予感させる。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)

 (大意)熟田津と名付けられたこの船着場で船出したいと満月の月を待っていたら、大潮の満ち潮はすでに期待以上に満ちてきてしまっている。さあ早く、今はほかのことはどうでもいいから漕ぎ出そう。
 3月望月近くの大潮の日、額田王は、東の空から昇る満月によって高い満潮を導くのを待っていた。確かに「月」は待っていたのであるが、月のことは念頭から離れて「潮」に注意が向いている。月のまだ昇らぬ夕刻から思いもかけず潮の満ち方が急で、今にも船がうまく動き出そうとしている。おそらく春の低気圧が発達して通過し、南風も手伝って高潮傾向になったのであろう。それで有頂天になってこの歌は歌われた。歌は必ずしも形象を厳密に詠むものではないが、この歌から聞こえてくるテンションの高さは、それなりの何かがなくては生まれないように思われる。(つづく)
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熟田津の歌 其の三(附中皇命論)

2015年01月29日 | 論文
(承前)
 斉明天皇が亡くなったのは朝倉宮(朝倉橘広庭宮)である。現在の福岡県朝倉市杷木志波(はきしわ)付近に当たり、筑紫平野に位置する。磐瀬行宮(長津宮)、現在の福岡市南区三宅から、大宰府よりもさらに奥まったところへ遷っている。その理由は、もっぱら言い伝えにある神功皇后の新羅親征の話に由来しているのであろう。神功皇后は橿日宮(かしひのみや)、福岡市東区香椎から、松峡宮(まつおのみや)、現在の福岡県朝倉郡筑前町栗田へ遷っている。斉明天皇も神功皇后と同じように遷っている
 行軍の行動においても、同様の傾向が見られる。中大兄の三山歌(万13~15)に歌われた「印南国原(いなみくにはら)」や「大伯海」(斉明紀七年正月条)などの兵庫県の明石市から瀬戸内市付近、また、熟田津の歌に関連する「石湯行宮」(斉明紀七年正月条)、これは「伊予湯宮(いよのゆのみや)」(万8左注)と同地かその近くであり、今の愛媛県松山市の道後温泉に当たるようであるが、神功皇后が夫君の仲哀天皇とともに訪れているところである。

 一家(あるひと)いへらく、印南と号くる所以は、穴門(あなと)の豊浦(とよら)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇[仲哀天皇]、皇后[神功皇后]と倶に、筑紫の久麻曽(くまそ)の国を平(ことむ)けむと欲して、下り行でましし時、御舟(みふね)、印南の浦に宿りましき。此の時、滄海(うなばら)甚(いた)く平(な)ぎ、波風和ぎ静けかりき。故、名づけて入浪郡(いりなみのこほり)といふ。(播磨風土記・印南郡条)
 十二月の己巳の朔の壬午(14日)に、伊予温湯宮(いよのゆのみや)に幸す。(舒明紀十一年十一月条)
 天皇等の湯の宮に幸行(いでま)すこと、五度なり。……帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)[仲哀天皇]と大后(おほきさき)息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)[神功皇后]と二躯(ふたはしら)を以て、一度と為す。……岡本の天皇[舒明天皇]と皇后[後の皇極・斉明天皇]と二躯を以て、一度と為す。時に、大殿戸に椹(むく)と臣木(おみのき)とあり。其の木に鵤(いかるが)と此米鳥(しめどり)と集まり止まりき。天皇、此の鳥の為に、枝に穂(いなほ)等を繫(か)けて養(か)ひたまひき。後の岡本の天皇[斉明天皇]・近江の大津の宮に御宇しめしし天皇[天智天皇]・浄御原の宮に御宇しめしし天皇[天武天皇]の三躯を以て、一度と為す。(伊予風土記逸文)

 斉明天皇は言い伝えの神功皇后の新羅制服の話のとおりに行動している。ところが、神功皇后であるはずの斉明天皇は、朝倉宮で崩御してしまう。死因は伝染病によるものと思われる。宮を建設するとき、

 天皇、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)に遷りて居(おはし)ます。是の時に、朝倉社の木を▼(昔偏に斤)り除ひて此の宮を作りし故に、神忿りて殿(おほとの)を壊つ。亦、宮の中に鬼火見(あらは)れぬ。是に由りて、大舎人及び諸の近侍(ちかくはべるひと)、病みて死(まか)れる者衆(おほ)し。(斉明紀七年五月条)

とある。神社の木を伐ったため、神の怒りに触れて病死者が多数出た。天皇は5月9日に朝倉宮に入り、7月24日に亡くなっている。流行していた疫病で天皇は逝ってしまったらしい。病気の記事がないのは、あっという間に亡くなったからでもあるし、天皇が崇りを受けたことになっていては困るからであろう。とはいえ、なにか崇りであることを予感させる不気味な記事が付け加えられている。8月1日に枢を磐瀬行宮へ移した日の様子が次のように描かれている。

 秋七月の甲午の朔にして丁巳[24日]に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙て、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。衆(ひとびと)、皆嗟怪(あやし)ぶ。(斉明紀七年七月~八月条)

 新羅親征を前にして神の崇りによって亡くなったのは、天皇史上2人目である。最初は仲哀天皇(足仲彦(たらしなかつひこ)天皇)である。仲哀天皇と神功皇后(気長足姫(おきながたらしひめ)皇后)とは、熊襲を平定しようと筑紫へ進軍したが、そこで皇后が神憑りして、海の向こうに「宝有る国」(仲哀紀八年九月条)があると託宣を伝えた。真に受けなかった仲哀天皇はあっけなく亡くなってしまった。今、斉明天皇も亡くなっている。言い伝えを信じていた人にとって、これは重要な事柄であったろう。最も信じていたのは、実は斉明天皇自身であったかもしれない。そもそも彼女は、「宝皇女(たからのひめみこ)」(舒明紀二年正月条)といった。「宝有る国」(仲哀紀八年九月条)、「財宝国(たからのくに)」(神功前紀仲哀九年二月条)、「財国(たからのくに)」・「財土(たからのくに)」(神功前紀仲哀九年四月条)、すなわち、新羅のことが頭にこびりついていたであろう。そして舒明天皇(息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇)と再婚した。新旧両カップルの論を比較すると、

 (仲哀)……足仲彦天皇     (舒明)……息長足日広額天皇  
                    
 (神功)……気長足姫皇后    (斉明)……天豊財重日足姫天皇

となる。「足姫」や「天豊」などは尊称である。神功皇后の「気長」と舒明天皇の「息長」 はともに近江国坂田郡、従前の滋賀県坂田郡近江町、現在は米原市となっているところの地名であり、 息長族の系譜を引いている皇族のことという。だから、舒明天皇と神功皇后の名前はよく似ている。斉明天皇は神功皇后のようになろうとして失敗し、仲哀天皇の運命を担うことになってしまった。名前は「足(たらし)」を共にし、「彦」と「姫」とは男女の対で同じと見なせる。仲哀天皇にあって斉明天皇にないのは 「仲(なかつ)」だけである。
 万葉集の巻1の最初の部分の編者が作った「中皇命(なかつすめらみこと)」(万3・4・10・11・12) という名の「中」とは、仲哀天皇の「足仲彦天皇」によったものであった。最初に、皮肉にしてふさわしい諡号の「天皇財重日足姫天皇」なる長たらしい名前を構想し、大幅に省略して「仲天皇」、それを万葉集の言文一致運動に従って「中皇命」とした。自分が仲哀天皇の運命を担うものであることも知らずに、愚かな外征に赴いたことを揶揄した名づけであろう。
 「中皇命」については、諸説ある。称徳天皇の宣命に、「挂麻久毛新城大宮天下治給天皇臣等御命之久」(続日本紀・神護景雲三年(769)十月条)とあったり、大安寺伽藍縁起并流記資財帳(天平三年(731))に、「仲天皇奏、妾我♯(女偏に夫)等炊女而奉」とあることから、中天皇と同様の名称と考える説がある。また、野中寺弥勒像の銘に、中宮天皇、すなわち、「丙寅年四月大旧八日癸卯開記、栢寺智識之等、詣中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也、友等人数一百十八、是依六道四生人等、此教可相之也」とあることも絡めて考える説もある。
 しかし、50年以上も後に現れた、その途中には確かには現れていないことばと同じ概念であるとするのは疑問である。井上光貞著、吉村武彦編『天皇と古代王権』(岩波書店(岩波現代文庫)、2000年)に、「中天皇の語義についても、学者の説はきわめて多岐にわたっているが、問題が錯綜した理由の一つは、先にあげた中宮天皇や『万葉集』の中皇命を、この中天皇と一緒にとりあげるからである。しかし私は、中宮天皇と中天皇を一緒にするのはおかしいとおもうし、『万葉集』の中皇命は、果して天皇かどうかも疑問とすべきだとおもう。言葉をかえていうと、中天皇は中皇命とは別に扱うべきである」(246頁)と尤もなご意見を示されている。さらに、野中寺弥勒像の銘については、東野治之「古代在銘仏二題」(稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十一集』(塙書房、平成22年))は、「銘の信憑性に疑念」をお示しになっている。「像の表面の状態が、戦前と戦後で一変している」こと、「文中に使用されている四つの『之』」や「『六道四生人等』という表現」が、「七世紀の銘文に似つかわしくない」と指摘されている(20~21頁)。
 飛鳥時代の万3~4・10~12番歌にある「中皇命」の「中」についてのみ考えた場合、著名な捉え方として、必ずといっていいほど折口説があげられる。

 その「中」であるが、片一方への繋りは訣る。即、天皇なるすめらみことと、御資格が連結してゐる。今一方は、宮廷で尊崇し、其意を知つて、政を行はれようとした神であった。
 宮廷にあつて、御親ら、随意に御意志をお示しになる神、又は天皇の側から種々の場合に、問ひたまふことある神があつた。その神と天皇との間に立つ仲介者なる聖者、中立ちして神意を伝へる非常に尊い聖語伝達者の意味であつて見れば、天皇と特別の関聯に立たれる高巫であることは想像せられる。すめらみことは、語原論からすれば、天皇以外の御方を指しても、さし支へはなかつた。天皇ばかりを意味することのやうになつて行つたのは、意味の分化でもあるし、又一方からは、天皇のみこともちの上に今一つみこともちを考へ、其を「仲だちの」と限定したものと見ることが出来る。(折口信夫「女帝考」折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集18』中央公論社、1997年、403~404頁)

 神と天皇との仲立ちという、巫女的な考え方によっている。しかし、紀から斉明天皇が巫女であるとの印象は、皇極紀元年八月条の雨乞い記事ぐらいしか見当たらない。これを過大視すると、前兆を予言するような「時の人」は、みな、「中時人(なかつときのひと)」ということになる。崇神紀十年九月条では、「少女(をとめ)」(「童女(わらはめ)」)は、崇神天皇の伯父であり、義父でもある大彦命(おおびこのみこと)に怪(しるまし)を歌って去っていっている。彼女が「中少女(なかつをとめ)」(「中童女(なかつわらはめ)」)であるとは記されていない。裏付けのないところには何を言っても仕方がない。
 これに対して、井上、前掲書には、「古代には、皇位継承上の困難な事情のある時、先帝または前帝の皇后が即位するという慣行があったのであり、それが女帝の本来のすがたであった、と見るのである」(228頁)、「これら[元明女帝・倭姫・持統女帝]に共通なことは、女帝の即位がいわば権宜の処置であることで、そのような天皇は、中つぎの天皇に他ならないではないか」(246頁)とある。「中」=中継ぎであるという論である。女帝を特別視した考え方で、続日本紀の慶雲四年七月条の詔に見える「不改常典の法」に従ってのこととされている。しかし、中継ぎという意味で「中」の語が用いられた例は、記紀に見られない。また、「不改常典の法」の内容は不明で、「天智天皇(『近江大津宮に御宇しし大倭根子天皇』)の時期に定まったとされる、直系の皇位継承法のこととしか考えられないであろう」(吉村武彦『女帝の古代国家』岩波書店(岩波新書)、2012年、162頁)といった程度であり、いささか仮構にすぎる議論である。
 そもそも、そんなことを言ってしまうと、男女に関係なく、すべての天皇は中継ぎである。山之口貘の「喪のある景色」(3:11~/4:35)に、「うしろを振りむくと/親である/親のうしろがその親である/その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに/親の親の親ばつかりが/むかしの奧へとつづいてゐる/まへを見ると/まへは子である/子のまへはその子である/その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに/子の子の子の子の子ばつかりが/空の彼方へ消えいるやうに/未来の涯へとつづいてゐる/こんな景色のなかに/神のバトンが落ちてゐる/血に染まつた地球が落ちてゐる」(山之口貘『新編山之口貘全集第1巻 詩篇』思潮社、2013年、246~247頁)とある。
 他の説として、「中」は、二人目、あるいは、二代目の義とする。本居宣長「続紀歴朝詔詞解」(大野晋編『本居宣長全集第七巻』(筑摩書房、昭和46年、所収)に端を発する。「中天皇は、元正天皇也、平城(ナラ)は、元明天皇より宮敷坐て、元正天皇は、第二世に、坐ますが故に、中(ナカツ)とは申給へる也、中昔に、人の女子あまたある中にも、第二にあたるを、中の君といへると同じ」(423頁)とある。「中津少童命(なかつわたつみのみこと)」・「中筒男命(なかつつのをのみこと)」(神代紀第五段一書第六)などの神々や「中子仲彦(なかつこなかつひこ)」(応神紀二十二年九月条)、「足仲彦天皇」(仲哀天皇)は日本武尊(やまとたけるのみこと)なども三人兄弟の「中」の子であるとし、「住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)」(仁徳紀二年三月条)は仁徳天皇の皇后、磐之媛命(いはのひめのみこと)が産んだ四人兄弟の第二子であるとし、「泊瀬仲王(はつせのなかのみこ)」は聖徳太子の第二子であったらしいからとする。そこから発展させて、「中女(なかつみこ)」(推古前紀)と呼ばれた推古天皇は、堅塩媛の第四子ながら皇女としては第二子にあたり、「中大兄」は、舒明天皇の皇子のうち、古人大兄につぐ二人目の大兄だからとする。二男・二女の話が高じて行って、苦し紛れのこじつけになっていないだろうか。「中皇命」という語自体からは、性別さえ決め難い。仮に皇極・斉明天皇のこととして、その系譜を辿れるのは、皇極紀の、

 天豊財重日重日、此には伊柯之比(いかしひ)と云ふ。足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)の曾孫(ひひこ)、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおほえのみこ)の孫(みまご)、茅渟王(ちぬのおほきみ)の女(みむすめ)なり。母をば吉備姫王(きびつひめのおほきみ)と曰す。(皇極前紀)

という箇所だけである。長女か二女か三女かなど、どうやってわかるのであろうか。そもそも、中皇命はナカツスメラミコトと訓む。「中」を二人目の、二代目の捉えるなら、二番目のスメラミコトは、初代の神武天皇(神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと))の次の綏靖天皇(神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと))のことになりはしないか。
 中皇命という皮肉なあだ名は、言い伝えが常識として伝わっていれば結構わかりやすいものであったのではないか。ところが、にわかに文字の時代が到来して誰にもわからなくなってしまった。ただ単にそういうことに違いなかろう。
 閑話休題。ホラー映画に出てきそうな大笠を着た鬼に似た表現は、斉明紀にはもう一箇所出ている。

 夏五月の庚午の朔に、空中(おほぞらのなか)に竜(たつ)に乗れる者有り。貌(かたち)、唐人(もろこしびと)に似たり。青き油(あぶらぎぬ)の笠を著て、葛城嶺(かづらきのたけ)より、馳せて膽駒山(いこまのやま)に隠れぬ。午の時に及至(いた)りて、住吉(すみのえ)の松嶺(まつのみね)の上より、西に向ひて馳せ去りぬ。(斉明紀元年五月条)

 これは悪いことの起こる前兆を記したものと考えられる。この「笠」については、本ブログ「中大兄の三山歌 其の六」ほかに詳述した。容貌が唐人に似ているというのは、唐ならびに唐の服制を取り入れた新羅と戦って敗れることを暗示するものでもあろう。天武八年十月条に、「新羅、……天皇・皇后・太子に、金・銀・刀・旗の類を貢ること各数有り」とある「旗」とは、幡蓋、つまり、衣笠のことであろうと、新川登亀男「日羅間の調」『日本古代の対外交渉と仏教』(吉川弘文館、1999年)を引用しながら、本ブログ「中大兄の三山歌 其の九」に論じた。
 それよりずっと以前、神功皇后が筑紫平野へ出張る記事に、

 戊子(十七日)に、皇后、[熊襲の羽日(はしろ)]熊鷲(くまわし)を撃たむと欲して、橿日宮(かしひのみや)より松峡宮(まつをのみや)に遷りたまふ。時に、飄風(つむじかぜ)忽ちに起こりて、御笠(みかさ)堕風(ふけおち)ぬ。故、時の人、其処を号けて御笠(みかさ)と曰ふ。(神功摂政前紀仲哀九年三月条)

とある。おそらくは傘状の地形から名づけられた地名に、後からこじつけた地名説話であろう。お偉い神功皇后がいらっしゃってふさわしい場所とは、衣笠をもって覆われるようなところであるということである。導きたいのはカサである。神功皇后のときは笠が飛び落ちた。ところが、それに倣ったはずの斉明天皇の朝倉宮では、気味の悪い笠を身につけた妖怪が現れる。それは同音の「瘡(かさ)」、すなわち疱瘡、天然痘によって、天皇が亡くなられたことを表しているに違いない。「唐人」といった形容があるもうひとつの理由には、伝染病が海外からもたらされることを当時の人も知っていたからであろう。外国の使節団をなかなか都へは入れず、迎賓館に当たる「難波館(なにはのむろつみ)」(継体紀六年十二月条、敏達紀十二年是歳条)や「筑紫館(つくしのむろつみ)」(持統紀二年二月条)、後の鴻臚館に滞在させていたのは、防疫態勢の一環で、隔離と同じような効果を得たかったからでもあろう。(つづく)
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熟田津の歌 其の二

2015年01月24日 | 論文
(承前)
 これによって、「潮」という語に、②潮流、という可能性のないことが示された。しかし、船が出港する際に、風や波を気にしていた記事は残されている。

 時に、磐金(いはかね)等、共に津に会(つど)ひて発船(ふなだち)せむとして風波(かぜなみ)を候(さぶら)ふ。(推古紀三十一年(623年)是歳条)
 五日、風南東に変りて発(た)つこと得ず。三更に到りて、西北の風を得て発つ。(円仁・入唐求法巡礼行記・承和十四年(847年)九月五日条)
 八日、……風无くして発つこと得ず。船の衆(ひとびと)、鏡等を捨て神を祭りて風を求む。(同、九月八日条)

 後二者は、後期遣唐使船で、帆に適度な追い風を受けることを狙っていた。山東半島の先端の赤山から、大海を渡ろうとしている。しかし、前者は、遣隋使時代である。「将発船以候風波」とあるのだから、船出しようとして風波が収まるのを見守っていたのである。帆に風を受けようとしたためではない。入唐求法巡礼行記の同、五月五日条に、「船に上りて風を候ふ」、五月十四日条に、「黄昏に海州界の東海山の田湾浦に到り、船を泊し風を候ふ」とあるのも、同五月二十四日条に、「逆風・猛浪に縁りて、淮路に入ること獲ず」、六月一日条に、「風波、稍く静まり、趁潮に漸く淮に入る」とあることから考えて、強風が静まるのを待っていたと解される。上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』(三省堂、1967年)に、「さもらふ【候・侍】(動四)」は、「②時の至るのを待つ、風浪の和ぎ静まるのをうかがい待つ場合に用いることが多い」(341頁)と説かれている。万葉集にわかりやすい例を見ると、

 風吹けば 浪か立たむと 伺候(さもらひ)に 都太(つだ)の細江に 浦隠り居り(万945)
 大海を 候(さもら)ふ水門(みなと) 事し有らば 何方(いづへ)ゆ君が 吾(わ)を率(ゐ)凌がむ(万1308)
 天の川 いと河浪は 立たねども 伺候(さもら)ひ難し 近きこの瀬を(万1524)
 …… 蘆が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮け据ゑ 朝凪に 舳向け漕がむと さもらふと わが居る時に ……(万4398)

などとある。特に、4398番歌は、船の航行の手順をよく示している。潮が満ちて船は海に浮かび、傾きがなくなって船として安定し、しかるのち、舳先を行く方向へ向け直して、楫、櫂、艪を漕いで進んだのである。そうしたいのであるが、風波が穏やかにならないとできない。出航の際は水深が浅く、ちょっとした岩礁でもぶつかる危険性が高く、船体に損傷が起きかねないからである。航行において用心しなければならないのは、水深の深い沖合ではなく、水深の浅い個所である。当時は、まず出港し、そのあとで、風や潮流をみて対応するという、出たとこ勝負的な航海術が行われていた。それは、後に詳述する円仁の入唐求法巡礼行記に記されるとおりである。
 この考えは、先述の石井先生の和船の研究に依拠しており、夜の船出について万葉集を研究される諸先生方の議論とは一線を画すものである。直木孝次郎『夜の船出』(塙書房、1985年)に、「……当然のことながら、航海に風がどんなに大切かが知られる。ただし外洋へ乗り出す場合と内海を行く場合とでは、風向の持つ意味が違うだろうが、何といっても帆船の航海は風次第である。船人は夜を恐れてはおられないのである」(109頁)とある。それに対して、吉井巌『萬葉集への視覚』(和泉書院、1990年)では、

 月よみの 光を清み 神島の 磯廻(いそま)の浦ゆ 船出そわれは(万3599)

について、「遣新羅使船は、玉の浦……より神島に至り、さらに、その夜、神島より鞆に向って夜の船出をするのであるが、その船出の第一の理由は鞆において適切な潮流を待つことであった。第二は備後灘および燧(ひうち)灘が、友ヶ島水道、豊後水道の東西の両水道からの潮流が相合し、また東西に分流する分水線となっていて……船はこの分水線を適当な時間に通過する必要があり、当日は神島に午後二時すぎには到着していて、潮流を待つために少しでも船を進めておくのは好条件であったことである。第三には、鞆より尾道瀬戸、布刈(めかり)瀬戸のいずれかを経ての長井津……までの約三〇キロメートルの航路は、いずれの潮流も速く複雑な狭い瀬戸を通過しなければならない危険なものであり、神島からの夜の船出は、この危険な夜の航路につづくものではありえず、この危険な航路により好条件で出航するために行なわれた約十キロメートルの夜の船旅であったことである。……『夜の船出』はやはり通常の場合ではなく、『風向きさよければ、船人は夜を恐れずに船出するのである。』というのは、潮流のきわめて複雑な瀬戸内海においては、きわめて危険なことであったのである」(114~128頁)と反論されている。また、益田勝実著、鈴木日出男・天野紀代子編『益田勝実の仕事3』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年)には、「楫による手漕ぎは、あくまでも港の出入りに狭い『水脈』を通る時や、風が凪いだ時の補助手段で、主体は帆走でありました。……三津浜から興居(ごご)島までは、冬季でも、日中ではなく夜間なら東風が吹いていることが多い。その陸風の力を借りて、興居島まで夜の間に乗り切っておかねばならないことが、『万葉』の夜の船出の根本理由でした」(552~566頁)との意見もある。
 しかし、現在でも、大型船が出港する際、タグボートの力を借りるなど苦労している。船が海上を進むことと、船が港から出ることとは、異質の作業と考えられる。また、石井先生の、前期遣唐使船の北路を通った「地乗り航法」、「大型準構造船」、「推進の主力は櫂(または櫓)」、「帆は順風時だけの補助的役割」の解説も重んじられなければならない。さらに、その準構造船の停泊形態について、きちんとした理解が求められる。 澁澤敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編『新版 絵巻物による日本常民生活絵引 第五巻』(平凡社、1984年)に、

[法然上人絵伝]第三四巻、法然が四国へ流されるとき摂津経の島(兵庫)に足をとめて説法した。これは経の島の港のさまを描いたものである。ここでは船を主としてとりあけたが、当時の港は沖に防波堤があるわけでもなければ、岸に岸壁やガンギ(石段)があるわけでもなく、砂浜へそのまま船を艪づけにしたのである。兵庫が港として発達したのは平清盛が、ここに経の島をつくって、これを波よけにし、その島かげを船着場として利用してからのことである。この港にはそれから大型の宋船もはいって来るようになった。宋船はいわゆるジャンク型のものであったと思われる。造船技術は日本よりずっと進んていて堅牢で吃水もふかかった。高倉院が厳島へ参詣したときには宋船に乗っていった。船が大きくて渚につけることができないから、沖に停泊して、はしけで船と陸の間を往来したという。したがって大型の船が発達して来ると、海岸が砂浜や遠浅のところよりも、入江になって海の深いところの方がよくなって来るわけだが、兵庫経の島の港は砂浜をそのまま利用した昔のままのものであった。しかし港の町はかなりととのっていたもののようで[ある。]……渚のところにとまっている船は苫で屋根を葺いている。あまり高級でない客船のようである。客を乗せて四国路や中国路の港へ向かうものであろうと思われる。船の側面には釘穴のならんでいるのも見えるから丸木造りではなくて[準]構造船と考えられる。当時としてはかなり造船技術の進んでいる船であった。(54~55頁)

と解説されている。
「兵庫経の島」(小松茂美編『続日本の絵巻2 法然上人絵伝 中』(中央公論社、1990年)146頁より)
 湖沼や河川と、海との違いは、潮汐による変化の大きさ、荒れたときの波の激しさである。防波堤のない岸壁に横付けしておくと、船はタイヤも当てていない岸壁に打ちつけられ続け、壊れてしまうのではないか。港(「津」)について、考古学上の近年の発掘事例については、識者の御教示をお願いしたい。古辞書には、和名抄に、「津 四声字苑に云はく、津<将隣反、豆(つ)>は水を渡る処也といふ。唐令に云はく、諸、関津を渡り、及び船筏に乗りて上り下り、津を経る者は、皆当に過所(くゎそ)有るべしといふ」とあり、令集解・営繕に、「穴に云はく、津は船を泊める処にして、妨障无からしむるを謂ふ也といふ」とある。
 また、古代の地形を研究されている日下雅義先生も、ラグーンに津を設けて、潮の干満を使って平底の準構造船を停泊させていたのではないかと推測されている。

 古い時代の船については、土器の線刻画、船形埴輪(はにわ)、装飾古墳の壁画、さらに地中から掘り出された船体の破片などから、いろいろと推定されている。それによると、船の基本形は単材の丸木舟(刳船(くりぶね))から準構造船、構造船へと進んだ(松木哲「船の起源と発達抄史」『古代の船』福岡市立歴史資料館、一九八八)。……大阪府八尾市の久宝寺(きゅうほうじ)遺跡からは、残存状態のきわめてよい船が発掘され、五世紀初頭の準構造船の様子がかなり具体的なものとなった。この時期をとおして、船底は浅くて扁平で、あまり尖(とが)っていなかったらしい。平安時代においても、小型船は単材刳船(くりぶね)、大型船が準構造船という伝統的な技術段階にあったとされる。
 このような形をした準構造船ないし初期の構造船にとっては、手ごろな水深をもち、しかも外海からの風波をさけることができるラグーンが、港として最適であった。そのうえ、ラグーンの底は砂や泥によって構成されているため、船が出入りをする際に破損することはほとんどなかった。またラグーンでは、干潟と違って比較的近いところによく乾いた砂堆があるため、潮の干満をうまく利用すれば、着岸と上下船をわりあいたやすくおこなうことができたのである。
 わが国の古代の港がどのような施設を備えていたのか、今のところよくわからない。多分、流れのゆるやかな河口部や入江、そしてラグーンの岸に何本かのくいを打ち込んで、それに板を渡したり、近くから小石や砂利を運んできて、足場をよくした程度のものであったであろう。すでにふれたが、『万葉集』の「水門の葦の末葉(うらは)を誰か手折りしわが背子が振る手を見むとわれそ手折りし」(一二八八)が、船着き場のプロトタイプ(原型)の様子をよく示している。[小さい河口の入江にあった船着き場には、アシが一面に茂っており、見とおしはよくなかった。そこで船出して行く人(夫か恋人)が手をふる様子を見やすくするために、あらかじめ、アシの穂先を折っておいたというのである。(72頁)]
 木でつくられた杭や桟橋(さんばし)はやがて腐り、痕跡をなくしてしまう。また渚に敷きつめられた礫や石は、自然の働きや人間の手によって埋められたり、他の場所へ移動したりもする。そのため、古代の港を地下から掘り出すとか、地表景観としてとらえることは不可能に近い。そこで当時の地形をまず復元し、しかるのちに各種の史料、遺構と遺物、地名などからその位置を推測するほかはない。(日下雅義『地形からみた歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年、193~197頁)

 原の辻遺跡調査報告書)からは、最古の船着き場の遺構が発掘されている。「熟田津の歌 其の七(補遺)」を参照のこと。
 現在の港の船着場の様子を見ても、コンクリートスロープが設けられているところがある。ランチャーを使って手軽に揚げ降ろしができるものの、漁船専用のところもある。砂浜海岸では、大型タイヤのランチャーを使っても、重量級ボートではタイヤがめり込んで動かなくなって往生する。専用重機を使った昇降サービスを行う業者もあるが、前期遣唐使船の時代に、船の昇降台車があったとは浅学にして知らない。航海からの到着時に綱で引っ張った画(一遍上人絵伝)はあるから、流されないようにある程度のところまで引き揚げたのであろう。逆に出航する際に、人夫が海のなかに入って船を引いてどれほど力が入ったかは、想像がつかない。とはいえ、上の法然上人絵伝のすぐ次には、切り立った箇所に船を繋いだのではないかとおぼしき絵も見える。ご教示をお願いしたい。
船を曳く(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』(中央公論社、1988年、305頁)より)
佐々木一郎「漁村A」(松岡美術館展示品)
舫い綱(小松茂美編『続日本の絵巻2 法然上人絵伝 中』(中央公論社、1990年、14頁)より)
 8番歌に戻る。紀の記事他から斉明天皇が亡くなる頃までの記事を整理して年表とし、当時の状況を確認しておく。ただし、崩御後の事項は、斉明紀と天智紀とで日付などに入れ違いがある。天智紀に記された部分は括弧でくくる。

  斉明6年(660)
 9月5日  百済、……「今年の七月に、新羅、力に恃み勢ひを作して、隣に親(むつ)びず。唐人(もろこしびと)を引構(ゐあは)せて、百済を傾け覆す。君臣(きみやつこ)総(みな)俘(とりこ)にして、略(ほぼ)▲(口偏に焦)類(のこれるもの)無し。……」とまをす。
 10月   百済……、来(まゐき)て唐の俘一百余人を献る。……又、師(いくさ)を乞(まを)して救を請ふ。……「……天朝(みかど)に遣(まだ)し侍る王子(せしむ)豊璋(ほうしゃう)を迎へて、国の主(にりむ)とせむとす」と、云々まをす。
 12月24日 天皇、難波宮に幸す。……[百済の要請に]随ひて、筑紫に幸して、救軍(すくひのいくさ)を遣らむと思ひて、初づ斯(ここ)に幸して、諸の軍器(つはもの)を備ふ。
  斉明7年(661)
 1月6日  御船、西に征きて、始めて海路(うみつみち)に就く。
 1月8日  御船、大伯海(おほくのうみ)に到る。
 1月    ……勝れたる兵(つはもの)二萬人を得たまひき。(備中風土記逸文)
 1月14日  御船、伊予の熟田津の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊つ。
 3月25日  御船、還りて娜大津(なのおほつ)に至る。磐瀬行宮(いはせのかりみや)に居します。天皇、此を改め、名をば長津(ながつ)と曰(のたま)ふ。
 5月9日   天皇、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)に遷り居します。
 7月24日  天皇、朝倉宮に崩(かむあが)りましぬ。
〔7月    皇太子(ひつぎのみこ)[中大兄]、素服(あさものみそ)たてまつりて称制(まつりごときこしめ)す。
 是月   皇太子、長津宮に遷り居します。稍(やうやく)に水表(をちかた)の軍政(いくさのまつりごと)を聴(きこし)めす。〕
 8月1日   皇太子、天皇の喪(みも)を奉徙(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る。
 10月7日  天皇の喪、帰りて海に就く。
 10月23日  天皇の喪、還りて難波に泊(とま)れり。

 年表をみると、急いでいるのがのんびりしているのか疑問だらけである。左注に同じく、斉明7年1月6日の出航を、「始めて海路に就く」とある。ハジメテとは、物事がそこから始まって次々に展開していく、その発端をあらわす。わざわざ「始めて」と副詞を使って表すことは、「海路」であることが今後の話(歴史的事件)の前提、基盤を成していて、その重要性を指摘したいからであろう。最終的に、白村江の海戦に終わった話の発端ということである。その道中に、「大伯海」、「熟田津」、「娜大津(長津)」などはある。
 3月25日の記事には、「還りて娜大津に至る」とある。本来の航路に戻ったことを指すとされている。不審が残る。後述する。さらに、天智紀の斉明七年七月条、皇太子中大兄が、長津宮に遷った時、「稍くに水表の軍政を聴こしめす」とある。総大将である斉明天皇の喪に服し、悲しみに暮れていたのがようやく、という意味に一応はとれる。しかし、「水表の軍政」とは、海外の軍事情勢のことである。遠征する際、試合のことを前もって考えないのであろうか。朝鮮半島へ行くには、対馬海峡を横断しなければならない。内海や沿岸を進んだ難波から娜大津(長津)でさえ、2か月半ぐらいかかっている。一刻を争う状況の戦争に出掛けているにしては、呑気というか、気が散っているというか、手間取っているというか、納得のいかないことが多い。
 歌の左注記事から、熟田津寄港を物見遊山に出掛けたものと直ちに判断するのは早計であろう。ふつうは天皇の病気治療のため、湯治に立ち寄ったと考えられている。しかし、日本書紀の記者の思いを総合すると、いかにもいい加減な戦時態勢であったようである。最高司令長官の斉明天皇にも、総司令官の中大兄にも、差し迫った緊張感が見られない。新羅や唐を見くびっていて悠長に構えていたのか。斉明天皇が亡くなり、白村江に大敗北してしまうから、当時の気分は一変してしまって後に伝わらない。その実際の雰囲気を伝える文献資料は、今のところ額田王の歌しかないことになる。
 呑気に構えていたらしいことからか、折口信夫「額田女王」折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集6』(中央公論社、1995年)に、「熟田津は、古代から名高くて、今もある伊予国道後温泉に近い海岸、船乗りと言ふのは、何も実際の出帆ではありません。船御遊(フナギヨイウ)と言つてもよいでせうが、宮廷の聖なる行事の一つで、船を水に浮べて行はれる神事なのです。持統天皇の御代の歌、/英虞(アゴ)の浦に船乗りすらむ処女らが、たま裳のすそに、汐みつらむか━人麻呂/などゝ同じく、禊(ミソ)ぎに類した行事が行はれるのでせう。『月を待ち受けて、船乗りをしようとしてゐると、汐までが思ひどほりにさして来てゐる。さあ漕ぎ出さうよ』と言ふ儀式歌(ギシキウタ)です。女帝陛下には、聖(セイ)なる淡水(タンスイ)・海水(カイスイ)を求めての行幸が、屢(しばしば)行はれたのです。此二首も、やはりさうした場合を背景に考へて見れば、一等よいやうです」(304頁)などとある。戦時中に人員、物資を駆り集めておいて、そんな遊びをしていたら、暴動が起きるのではないか。
 歌が歌われたのは、娜大津、改め長津に着いたのが斉明7年3月25日とあるから、その少し前のことであろう。熟田津には1月14日に着いている。2カ月ほど滞在していたと推測される。その後に出航しようとしたときの歌である。5句目の「今は漕ぎ出でな」という強い呼び掛けの声からして、人々の意欲を高めるものであったことは間違いない。宮廷社会の人々に共有されるような気持ちを歌にして歌うことが額田王の役目であった。とりわけ、その中心人物の天皇を代弁することになりやすい。斉明天皇の代詠と考えていけば、天皇は乗組員たちに向けて士気を高めていることになる。そうは言うものの、この歌はうますぎはしないか。
 熟田津滞在は、退屈なものであったろう。左注に、天皇が旧跡を訪ねて感愛の情をもよおしたとある。亡き夫の舒明天皇とともに、現在の道後温泉付近の「伊予温湯宮(いよのゆのみや)」(舒明紀十一年十二月条)に旅行している。639年の冬である。20年以上の歳月の流れに思いを寄せて物思いにふけるのも結構ではあるが、2カ月は長すぎる。徴兵や物資調達をしたとしても、それほどはかからないであろう。そこで登場したのが病気説である。斉明天皇は病にかかっていて、治すために道後温泉に立ち寄ったという。高齢であるし、同年の秋には亡くなっているから、そう解釈されるのも無理からぬところがある。さらには、左注に分けて書いてあることから、「『伊予の湯』の道後温泉はスプリング、自然湧出の温泉で、『伊予の熟田津の石湯』は、同じ伊予国内でも場所が離れた三津浜の人工の石湯、近代風にいえばサウナです」(益田、前掲書、559~560頁)といった空想が行われてしまう。なお、天武紀十三年十月条に、「壬辰[14日]に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大いに地震(なゐふ)る。……時に伊予温泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず」とある。
 航海中に、天皇が病気をしたという記事は、紀に見られない。歌の左注を信じるなら、天皇は心身ともに健康であったらしい。病気療養のために道後温泉へ寄ったとする説には根拠がない。確かに風邪をひいたくらいのものは、紀は載せなかったであろう。それでも秋に亡くなるときの記事も、

 秋七月の甲午の朔にして丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。(斉明紀七年七月条)

とあるだけでそっけない。
 天皇が死の床についた時、紀はつとめて記録を残そうとしている。後継問題も生じかねない重大事である。少し前から見ていくと、推古天皇は「臥病(みやまひ)」(推古紀三十六年二月条)とあって、「遺詔(のちのみことのり)」が告げられたことが書かれている。曖昧な内容であったり、聞いた人が限られていて後継争いが生じている。次の舒明天皇は13年10月に亡くなっているが、病の記事はない。後継者が皇極天皇に決まっていた点にもよるのであろう。孝徳天皇は「病疾(みやまひ)」(孝徳紀白雉五年十月条)とあり、大和にいた皇太子・皇祖母尊(すめみおやのみこと、皇極・斉明天皇)、間人皇后(はしひとのきさき)、皇弟(すめいろど、大海人皇子)、公卿等(まえつきみたち)が難波宮へ向かったとある。斉明天皇より後の代では、天智天皇は「寝疾不予(みやまひ)」(天智紀十年九月条)とある。仏の力にすがったことや、病床に呼び寄せた大海人皇子とのやりとりが述べられている。天武天皇の場合は「体不安(みやまひ)」(天武紀朱鳥元年八月条)とあり、三カ月半後に亡くなっている。やはり仏教を中心に多方面に祈らせ、大赦令を発し、占いの結果、草薙の剣に崇りがあると聞けば熱田神宮に奉納している。そして次の持統天皇は、3年3カ月間称制している。斉明天皇に病気の記事がないのは、長患いせずに急逝したと考えるのが妥当であろう。(つづく)
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熟田津の歌 其の一

2015年01月23日 | 論文
 万葉集巻一の8番歌は、額田王の熟田津(にきたつ)の船出の歌としてよく知られている。

 後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
  額田王歌
 ◆(就の下に火)田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
  右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫◆田津石湯行宮。天皇、御覽昔日猶存之物。當時忽起感愛之情。所以因製歌詠之哀傷也。即此歌者天皇御製焉。但、額田王歌者別有四首

 後岡本宮(のちのをかもとのみや)に天の下知らしめしし天皇の代天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)、後に後岡本宮に即位(あまつひつぎしらしめ)す
  額田王(ぬかたのおほきみ)の歌
 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)
  右、山上憶良大夫の類聚歌林を検(かむが)ふるに曰はく、飛鳥岡本宮(あすかのをかもとのみや)に天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午、天皇太后(おほきさき)、伊予の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔の壬寅、御船(みふね)西征して始めて海路に就(つ)く。庚戌、御船、伊予の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)より猶(な)ほし存(のこ)れる物を御覧(みそこなは)し、当時忽(すなはち)感愛の情を起す。所以(そゑ)に歌詠を製(つく)りて哀傷したまふといへり。すなはちこの歌は天皇の御製(おほみうた)そ。ただし、額田王の歌は別に四首あり。

 〔大意〕熟田津に船に乗って出発しようと月を待っていると、月も出、潮もちょうどよいぐあいになった。さあ漕ぎ出よう。(高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』(岩波書店、昭和32年)による、一部漢字を新字体に改めた。)

 この歌が歌われたのは、中大兄の三山歌が歌われたのち、朝鮮半島へ向けて九州の拠点に赴く途中のことである。百済の将軍からの使いによると、新羅と唐とに挟撃されて壊滅状態なので、援軍、および人質として倭国に滞在中の王子、豊璋(ほうしょう)を国主に立てたいとの意向であった。斉明天皇は要請を受け入れ、自ら新羅討伐の軍を率いてまず九州へと進撃する。ところが天皇は筑紫にて客死し、さらに2年後の天智2年(663) 8月末、白村江の海戦で大敗を喫することになる。
 梶川信行『額田王』(ミネルヴァ書房、2009年)に、

 熟田津は伊予国温泉郡、現在の愛媛県松松山市に存在した港であったと考えられる。しかし、その正確な位置は不明である。古来、多くの候補地が挙げられて来たが、近年では、松山市内の南部、来住町で発見された石湯行宮の跡ではないかとされる七世紀の遺構との関係が注目される。松山市古三津とする説が有力だったが、松山市南西部の重信(しげのぶ)川河口とする説も浮上して来た。
 ニキタツという地名は、ニキ・タ・ツと分析することができる。ツが港の意であることは言うまでもないが、ニキはアラ(荒) に対する語。穏やかな、という意味にほかならない。そうした形状言のニキに続くタは、名詞であろう。そこで、『万葉集』から語中にあるタの用例を求めると、田の意と見るのがもっとも穏当である。「熟」という字は、物事が十分な状態になることをも意味するが、ニキタツとは、まさにその表記の通り、理想的な田のような港の意であると見ることができる。すなわち、熟田津はラグーン(潟湖)と呼ばれる、干潟のできる港であったと考えられるのだ。人麻呂の歌には石見国「和多津(にきたつ)」(巻二・一三一)が詠まれているが、それは「大津」などと同様、普通名詞的な地名だったということであろう。
 ラグーンとは、砂嘴などによって海の一部が外海と隔てられ湖沼のことで、八郎潟や浜名湖などがよく知られている。そこは外海からの風波を避けることができ、手頃な水深を持っていて、水底は砂や泥によって構成されているので、船が出入りする際に破損することがほとんどなかったと言う。さらに、干潟とは違って、比較的近いところによく乾いた砂堆のあるラグーンは、船底が平らな古代の船が、潮の満ち干を利用して、着岸と上下船をたやすく行なうことができたと考えられている。熱田津も、そうした天然の良港であったと見ることができる。

 平成二十一年七月、私は重信川の河口を訪れた。ちょうど潮の引いた状態で、河口には干潟が広がっていて、さまざまな鳥が餌を啄んでいる。そこには、河口を半分塞ぐような形の砂堆があって、その砂堆の内側には、数隻のプレジャーボートが繋留されていた。ボートの下には水がなく、あたかも干潟にそのまま座り込んだかのような形である。これならば、歩いて上下船できる。潮が満ちて来た時に、出て行くのであろう。もちろん、それだけでここが熟田津だと断定することはできないが、私は、古代の熟田津とはこういう姿だったのではないかと思われてならなかった。(91~93頁)

とある。七世紀の遺構については、橋本雄一『斉明天皇の石湯行宮か・久米官衙遺跡群』(新泉社、2012年)を参照されたい。
古図にみる潟湖(松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』折本・折仕立、万延元年、1860年、東博展示品)
 古代の船の様子は、埴輪や、少し時代の下った絵巻物などの資料、文献としては円仁の入唐求法巡礼行記から、充分とはいえないもののうかがい知ることができる。技術的な進歩に従って、一本の太い木を刳り抜いた丸木舟から、何本もの用材を使った構造船、紀に書かれるところの「同船(もろきふね)」、つまり、諸木船(もろきふね)へと発展していった。大胆にも、遣唐使船が復元されている。石井謙治『図説和船史話』(至誠堂、昭和58年)に、

 遣唐使船の航路には、前期に使われた北路と第七時(七〇二年)以後に主用された南路とがあったとされている。北路は、北九州から朝鮮に渡り、以後は朝鮮西海岸沿いに北上して山東半島の北岸にたどり着くという、地乗り航法に徹したもので、朝鮮海峡と渤海海峡(または黄海の一部)横断を除けば、『魏志』倭人伝にいう「水行」で安全なコースである。これは前述した、五世紀に倭の五王が中国南朝へ遣使したコースと同じであり、また遣隋使船のコースでもあって、航海経験者も多かったに違いない。
 地乗り航法であれば、夜間の碇泊や食料・薪・水の補給が随時できるうえに、荒天時の待避も容易なので、船はさして大型の必要はなく、むしろ喫水の浅い方が便利なため、航洋性などはあまり要求されなかったと思う。となると、北路では、当時内航船として主用されていた準構造船でも間に合ったし、またこの方が、頻繁な接岸や荒天時の待避にも適していたから、弥生時代の大陸交通以来、ずっと使われていたと思われる。大きさは排水量で三〇トン前後、長さ三〇メートル程度、幅三メートル前後の大型準構造船で充分と想像され、推進の主力は櫂(または櫓)三〇~四〇挺で、帆は順風時だけの補助的役割以上のものではなかったとみられよう。(19・21頁)

とある。さらに、東シナ海という外海を航路とする、いわゆる南路のための後期遣唐使船は、これとは少し違って構造船であったとする。円仁の入唐求法巡礼行記から見て、「中国海岸で擱座した円仁便乗の第一船は、『船はついに傾き覆りて……久しからざる頃、船また覆り、人は随(したが)って右に遷(うつ)る。覆るに随って処を遷すこと、稍もすれば数度に及ぶ』[(巻一・承和五年七月二日条)]というありさまであり、これこそ竜骨を中心に、左右にぐらつくV型船底の特徴を示すものであって、平底の船で起こる現象ではないのである」(同26頁)と指摘されている。ただし、熟田津の歌が歌われた時の船は、朝鮮半島へ地乗り航海するための準構造船(八尾市久宝寺遺跡に出土例あり)であり、船底は平たかったと推定される。
埴輪の船(西都原古墳出土、5世紀、東博展示品)
 歌は、そんな船がいま漕ぎ出そうとするときに歌われたとされる。西方へ向けて船団が再出発するときの歌、船出を鼓舞して士気を高め、航海の無事を祈った呪術的な歌と解されていることが多い。ただ、月と潮の解釈をめぐっては、佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山田福之校注『万葉集(一)』(岩波書店(岩波文庫)、2013年)に、「この歌は額田王の代表作として有名だが、解釈は難しい。『月待つ』とは、月の出を待つのか、満月になるのを待つのか。『潮もかなひぬ』とは、潮位が高くなって船出に具合が良くなるのか、または航行に都合のよい潮の流れになったのか。詠われている状況が把握しにくい」(61頁)と簡潔にまとめられている。現在のところ優勢な説は、夜の船出を想定し、月が出て明るく、しかも満潮であって、万事順風満帆の意味に解されている。
 また、5句目の「今は漕ぎ出でな」のナは、自分の行為については希望や意思を表し、自分たちの行為については勧誘を表わす助詞である。力強く歌い切っている。左注の人のように、斉明天皇の作った歌であると錯覚されるほど、額田王は天皇の代詠を見事に果たしたといわれている。なお、左注の初めに見える舒明天皇の伊予行幸の年次には誤りがあると指摘されている。
 さて、現在の学説では、4句目の「潮もかなひぬ」とある助詞のモについて、並立の意味として月も潮もかなったという意味にとっている。古橋信孝『万葉集;歌のはじまり』(筑摩書房(ちくま新書)、1994年)では、「……『月待てば潮もかなひぬ』は現代語に置き換えるとわかりにくいが、…… 月待てば 月もかなひぬ/潮待てば 潮もかなひぬ という繰り返し表現の変形とみれば、内容がよく理解できる。したがって、短歌もこの[口誦の古い歌謡に見られる]繰り返し表現法を踏まえていると考えていい。もちろん、月と潮の干満は関係しているからこのような表現がある」(48頁)と発展的に考えられている。現代語に置き換えるとわかりにくいからと、テキストに手を入れてしまっている。そのような立場に筆者は立たない。
 潮汐や海流の見地からの検討としては、松山付近月の出や月の入りから3~4時間ほどで満潮になる。また、潮流は満潮、干潮よりも1~2時間早く、北東流最盛時刻、南西流最盛時刻を迎えるとされている。そこで、満月の頃の深夜の船出がふさわしいとする説がある。阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』(笠間書院、2006年)の整理によると、「月の出と満潮の時刻の差のなるべく近い日ということで、三月十九日の深夜と考えた。……*参考 松山港の月の出と満潮の時刻(昭和五十六年の松山港)。/三月十七日 月の出、午後八時二十六分。 満潮、午後十時三十九分。/三月十八日 月の出、午後九時二十分。 満潮、午後十一時十一分。/三月十九日 月の出、午後十時十四分。 満潮、午後十一時四十八分。」(68~69頁)とある。タイミング的にぴったりする時点の可能性は、雲に隠れていた月が出てきたという以外になく、それを、「月待てば」と歌うとは考えにくい。筆者は、タイミングもベストの時を探求する立場に立つ。
 「かなふ」という語は、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)に、「解説カネ(予ね)アフ(合ふ)の約。カネは、先のことを予期する意の動詞カヌ(予ね)の連用形。他動詞カナフは下一段活用。前もって願ったり期待したり予期したりしたことが現実とうまく合うこと」(356頁)とする。上代における他の用例としては、「此の鳥の来たること、自づから祥(よ)き夢に叶へり」(神武前紀戊午年六月条)、他動詞の例としては、「然れども、上(かみ)和(やはら)ぎ、下(しも)睦びて事を論ひて諧(かな)ふるときは、事理自づからに通ふ」(推古紀十二年四月条)とある。願いと現実といった2つの事柄が合致するときに用いられるが、方向性としてうまくいく場合に用いられている。凶兆にカナフとは言わない。身崎壽『額田王』(塙書房、1998年)に、「……こうした[主体的・意欲的な表現]志向は、この四句めの『潮もかなひぬ』という語の選択によっても実現されているのではないだろうか。この語が『潮(位・流)』のあるべき(出航にふさわしい)状態に対する主体がわの期待・希求の感情にうらうちされた語としてえらばれていることは、「かなふ」の語義・用例にてらしてもあきらかだし、かりにここを、 潮もかはりぬ/とか、あるいは、/潮もみちきぬ/などのように「潮」の状態に密着した表現にしてみたばあいとくらべてみても、それはうべなわれるところなのではないだろうか」(282~283頁)とある。
 すなわち、「月待てば 月もかなひぬ 潮待てば 潮もかなひぬ」といった冗漫な表現に、カナフということばは適さないのである。月の出を待っていれば、前日よりも30分ほど遅れて月は必ず出てくるからである。次に、「潮もかなひぬ」の「潮」の意を検討すると、大野晋編、前掲書に、

しほ シオ【潮・汐・塩】名
解説シホには、①満ち干する海水、②食塩、という二つの意味である。上代における①と②の表記は、『日本書紀』では。①を「潮」、②を「塩」と書き分けている(海路の神と考えられるシホツチノヲヂを「塩土老翁」「塩筒老翁」と表記する例のみが例外)。『古事記』や祝詞では、「潮」の字は一切用いず、①も②も「塩」と表記する。『万葉集』では、①を「潮」と表記する例と、「塩」と表記する例とがある。ただし、②を「潮」と表記することはない。
なお、シホという語形をもつ語には、①②のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などが海中に没したり、姿を現わしたりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)も潮・塩と語源が同じということになる。
語釈①主に「潮」「汐」と書く。「満ち干する」というのがシホ(潮)の最も重要な属性。これに対し、ウシホ(潮)は海水・潮流を指す。……(604頁)

とある。布を染料に浸す回数のシホ(入)という語との関係の指摘は見事である。上がったり下がったりがシホという語の源流にあるらしい。そして、染色には、色落ちを防ぐために媒染剤として salt を用いることがある。そもそも、日本列島に住む人々にとって塩は、大潮の際に潮が満ちてきたときのみ海水がかかるような潮だまりが、岩窟のような雨のかからない所にあって、そこに塩が結晶化しているのを発見したによったことばなのではなかろうか。
 「潮」の意味としては、上代には、①満ち干する海水のこと、②潮流、③海水、の例があげられている。筆者は、この②潮流、の用例に疑問を抱いている。万葉集に、単語として、①満ち干する海水のことは、「満」を伴うケースが25例(40・121・388・617・919・1144・1165・1216・1394・1669・2734・3159・3243(2)・3366・3549・3610・3627・3642・3706・3891・3985・3993・4045・4211)、「干」を伴うケースが13例(271・360・388・917・1064・1163・1164・1386・1671・3710・3852・3891・4034)ある。そのほかの例としては、8番歌以外では、

 時つ風 吹かまく知らに 阿胡(あご)の海の 朝明(あさけ)の潮に 玉藻刈りてな(万1157)
 潮早み 磯廻(いそみ)に居れば 入潮(いさり)する 海人とや見らむ 旅行くわれを(万1234)
 安治可麻(あぢかま)の 可家(かけ)の水門(みなと)に 入る潮の こてたずくもか 入りて寝まくも(万3553)
 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり(万3594)
 ……大船に 真楫(まかぢ)繁(しじ)貫き 韓国(からくに)に 渡り行かむと 直向かふ 敏馬(みぬめ)をさして 潮待ちて 水脈(みを)びき行けば 沖辺には …… 暁(あかとき)の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴鳴き渡る ……(万3627)

がある。1157番歌は干潮、3553番歌は満潮の意ととれる。3627番歌の場合、後者は「満」を伴っている。前者は一般に、潮流の意とされるが、歌一首に用いられる「潮」の語に2義あると、歌を聞く者に混乱を与えるのではないか。他の1234番歌、3594番歌も潮流の意と説かれている。これら3例は、すべて船出との関連で詠まれたものである。すると、

 安胡の浦に 船乗りすらむ 少女らが 赤裳の裾に 潮満つらむか(万3610)
 譬へば、物を船に積みて潮を待つ者の如し。(安康紀元年二月条)

などといった例から、船出と「潮」とは、やはり、①満ち干する海水のこと、と考えることができる。船は、ラグーン(潟)の縁など若干傾斜のある砂浜のようなところに陸揚げされて泊められており、潮が満ちて来るのを待って海に浮かぶことになる。今日でも、釣りの小型ボートなどを砂浜にあげることはしばしば見られる。すなわち、船は、多くの場合、岸壁につながれて舫っていたのではなく、浅いところに船底を乗りあげて泊まっているのがふつうだったようである。3594番歌の「潮待つと」、3627番歌の「潮待ちて」も、潮が満ちて来るのを待っているものと捉えることができる。3594番歌の「潮待」ちは、大潮まで待たなければ船が浮かばないことから、もう少し長く彼女のもとにいられたのに、と悔しがった歌であろう。3627番歌の前者は、潮が満ちて船が浮かんで船出して、その後に、暗礁にぶつからないように水先案内に従っていって沖に出るとその沖には、という流れになっていると解されよう。
 また、1234番歌は、潮流が速いので、船を出航させないで、磯の曲がって入り込んだところに一人ポツンと佇んでいると、旅路にある私のことを、漁をする海人ではないかと見られるのではなかろうか、と解されている。しかし、船の停泊形態が、傾きのある浜辺に乗り上げるものであるならば、満潮時に船出をしようとしていたのに準備が遅れ、潮のひいていくのが早くて出航のチャンスを逸したと捉えることができる。それによって、「居れば」という語が生きてくる。「居り」は、「上代では、自分の動作についていい、へりくだった意味合いが含まれている」(大野編、前掲書、1369頁)という。自分の責任で海の旅路から置いてきぼりを食らったことについて、自虐的な表現が試みられていると解釈できる。
 潮の複合語についても見ても、潮の干満の意味で用いられていることがわかる。「朝潮満」(4396)は朝の満潮のこと、「夕潮」(1520・1780・2831・4331・4360・4398)は夕方満ちてくる潮のことである。「浦潮」(3707)は「満ちく」と続いており、また、「潮干」(229・293・533・536・918・941・958・976・1030・1154・1160・1672・1726・2486・3503・3595・3849・1062)は干潮の状態のことである。「潮騒」(42・388・2731・3710)は磯辺の波が立ち騒ぐことで、潮の干満によって起こっている。「鳴門の渦潮」(3638)の潮は、瀬戸内海全体への潮の干満によって生ずるもので、大きな渦が見られる回数は日に2回である(渦潮観潮船)。
 「潮船」(志富夫祢4368・志保不尼4389)、ならびに、枕詞とされる「潮船の」(斯抱布祢乃3450・思保夫祢能3556)については、川船ではなく海の船のことを指しているとされる。

 久慈川は 幸(さけ)くあり待て 潮船に 真楫(まかぢ)繁(しじ)貫き 吾(わ)は帰り来む(万4368)
 潮船の 舳越そ白波 にはしくも 負(おふ)せ給ほか 思はへなくに(万4389)
 乎久佐壮士(をくさを)と 乎具佐助男(をぐさずけを)と 潮船の 並べて見れば 乎具佐勝ちめり(万3450)
 潮船の 置かれて愛(かな)し さ寝つれば 人言(ひとごと)しげし 汝(な)を何(ど)かも為(し)む(万3556)

 枕詞とされる例から、並べたり、置かれたりするのが「潮船」であると読み取れる。特に、万3556番歌は、スロープ状の浜辺に引き揚げられて置かれている状態を一人寝に譬えており、かといって共寝をすれば噂になるからという対比の表現に用いられている。岸壁に係留されているのでは、横たわって寝ている譬えにならない。また、万3450番歌は、二人の男を並べて丸裸にし、身体検査をしているのだから、船体全部が見えなければならない。船腹が水面下にあっては検査できない。やはり陸揚げされていると考えるべきである。さらに、万4389番歌では、思ってもみない突然の命令を、「潮船の 舳越そ白波」に譬えている。すなわち,白波が船の舳先を越えるはずがないのに越えるという表現のはずである。しかし、海を行く船の舳先を越える波は、少し時化ればすぐに起こる。比喩表現として理解できないことになる。そうではなく、「潮船」はやはり、海浜に引き揚げられた船のことを表していると考えるべきであろう。綱で引き揚げるとき、舳先を前にして陸地側に揚げる。艫のほうが海に近く低い位置にある。それなのに、俄かに白波が押し寄せ、一気に舳を越えたと言いたいのである。青天の霹靂である。(ただし、舳先を必ず陸地側にしたかどうかについては、長野県の金台寺に伝わる遊行上人縁起絵(鎌倉時代、14世紀)の第三段、松島の塩釜明神に詣でる部分に、浜へ揚げた船の向きが一定でない描き方がなされているので確証はつかめない。識者の御教示をお願いしたい。なお、その図の船は、「棚無し小舟」(万58・272・930)と呼ばれるような小舟ではある。)
 万4368番の防人歌は、滑稽さを歌った歌ではないか。久慈川を航行するのは小さな川船である。渡しの戕牁(かし)に繋ぎとめておく。櫓漕ぎか棹使いで進めたと思われる。オールが両側についた大きな海の船など、すぐに船底を擦ってしまって役に立たない。作者の「久慈郡の丸子部佐壮(まるこべのすけを)」という人は、防人に徴兵されて出征時に歌っている。久慈川の渡し船に乗る時が、家族や村人との別れの時であったのではないか。そこで、ちっぽけな川船との対比で、自分がこれから赴く大きな任務を表現したかったということであろう。
天竜川の渡し船(小松茂美編『日本の絵巻19 西行物語絵巻』(中央公論社、1988年)より。俵屋宗達の手による出光美術館蔵本は、2015年2月15日(日)迄、「物語絵」展にてご覧になれます)
 以上から、「潮船」の潮についても、潮流のことではなく、干満の潮のことであるとわかった。(つづく)
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中大兄の三山歌 其の九

2014年12月06日 | 論文
(承前)
 最後に、数点、積み残してきた課題について触れておきたい。まず、倭・新羅・百済の三者関係について、中大兄の三山歌では、3つの時制の3者関係を重ね合せることで歌っていた。ただ、一般論としての3者関係としては、ひょっとすると無理がある可能性がある。社会心理学では、L・フェスティンガーの認知的不協和の理論と同様の考え方に、F・ハイダーの均衡理論といわれるものがある。フェスティンガーの認知的不協和の理論によれば、人は、2つ認知の要素の間に不協和が存在すると、一方の要素を変化させることで不協和な状態を低減させようと努めるという。イソップ童話に「酸っぱいブドウ」の話が載る。おいしそうなブドウが生っているが、高い所なので手が届かないとき、主人公のキツネは、実はあれは酸っぱいに違いないと思い返して、おいしそうという認知と届かないという認知の不協和を低減、解消していくというものである。同様に、ハイダー均衡理論によれば、自分の意見と異なる意見が出された時、認知的に不均衡な状態となり、緊張感・不快感が生まれるから、不均衡を解消するように動機付けられるという。これを3者の関係に敷衍してみたとき、それぞれの関係が良いのなら+、悪いのなら-として表記してみると、3者の関係のそれぞれの+-の積は、+になるとされる。3人とも仲が良いか、1人だけ嫌われるかになると認知において落ち着くとされる。両親に愛されて育っている幼少期の子どもが、夫婦げんかを目にした時、やめてやめてと叫ぶのは、不均衡が生ずることにあるとする。外交関係においても、敵の敵は味方である。倭と仲の良い百済の敵の新羅は、倭にとっても敵である。天照大御神が須佐之男命に未練があって、月読命に「相見じ」と嫌ったら、おそらく須佐之男命と月読命との関係も認知的には悪い関係であろう。認知的にはと断ったのは、「香具山は 畝傍雄々しと 耳梨と 相争ひき」(万13)とある場合、唯一の男性になる畝傍が、二股をかけるという場合がないとはいえないからである。恋愛関係において、認知上の協和や均衡とは別種のことが起こることは、上代においてもあったであろうが、中大兄は気に止めずに播磨風土記の逸話を聞き入れて作歌の材料にしている。言い伝えの力の方が、時に目にする恋愛関係のどろどろした事情よりも優先されたらしい。また、二俣小舟の話(本ブログ「垂仁天皇の御子、本牟智和気王(誉津別命)の言語障害の説話 其の二(二俣小舟の二)」)のように、精神的なダメージを食らうものとして考慮の対象から外されたからかもしれない。そこに儒教道徳などを見るかどうかについては、識者の御教示を賜わりたい。
 ちなみに、倭・新羅・百済の3者関係が成立していたのに白村江で大敗を食らったことには、認知上になかった唐の参戦があった。新羅は、唐制を採り入れて、まるで唐のような風俗と化していたとされるが、白村江の戦いで同盟して百済の残党を掃海して以降、今度は半島から唐の勢力を追い出しにかかるというしたたかな離れ業を見事にやってのけ、統一新羅を樹立した。日本史学界において、倭を“東夷の小帝国”(『石母田正著作集 第四巻』岩波書店、1989年)とする説に対して、新川登亀男「日羅間の調」(前掲書所収)では、新羅の態度からしてとても当を得た表現とはいえないとの指摘がなされている。そのなかに、「旗」についての論考があって興味深い。長くなるが、せっかくなので引用する。

 つぎに、旗も問題である。刀とともに天武天皇・同皇后・草壁皇子へ別献物としてもたらしているが、仏幡と区別された一応軍時的性格を帯びたものであろう。そして、このような旗も、実は唐から新羅へよく贈られたのである。たとえば『冊府元亀』九九一・外臣部・備禦四や『三国史記』新羅本紀善徳王十二年九月条によると、この年すなわち唐貞観十七年に新羅は唐へ使者を遣わして、高句麗・百済の侵攻による危機を訴え、救援を申し出た。すると唐の太宗は、ひとつの策として「我又能給爾数千朱袍・丹幟、二国兵至、建而陳之、彼見者以為我兵、必皆奔走」なる案を示している。唐から新羅へ贈られる「丹幟」は、唐軍ないし唐皇帝の力の表象でありえたのである。事実、百済大破の報告を新羅は唐におこなう際、「五言太平頌」を献じて「幡旗何赫赫、鉦鼓何鍠鍠」と歌いこんだ。「幡旗」は唐軍および唐皇帝の力と支配の象徴であり、「外夷違命者、翦覆被天殃」とも歌われたように、今や新羅もその「幡旗」のもとにあったのである。『旧唐書』『新唐書』各新羅伝や『三国史記』真徳王四年六月条などに伝えるところである。
 新羅と百済の盟文を製作した劉仁軌も、かつて百済に対して唐ないし唐軍は、「旌旗所指、一戎大定」と誇り、そして今、百済・新羅両国をして「永為藩服」と述べている。唐の「旌旗」のもとに、百済・新羅は入ったというのである。『旧唐書』百済伝や『三国史記』新羅本紀文武王五年八月条などに伝えるところである。さらに、『冊府元亀』九七三・外臣部・助国討伐や『三国史記』聖徳王三十三年正月条によると、この年つまり唐開元二十二年に、在唐中にして帰国直前の新羅の金忠信は、「加本国王興光、寧海軍大使、錫之旌節、以討凶残、皇威載臨、雖遠猶近、君則有命、臣敢不祇」と上表した。すなわち、新羅王興光(聖徳王)は、唐から「旌節」を贈与されて、渤海靺鞨を討ったのである。また、『三国史記』新羅本紀景徳王十五年二月条によると、玄宗のいる蜀にまで入って朝貢した新羅に対して、玄宗は「五言十韻詩」を作って贈り、「擁旄同作牧」と歌いこんだ。唐皇帝の贈与した「旄」を「牧」としてよく守っているという意味であろう。
 なお、『新唐書』新羅伝や『三国史記』真徳王八年三月条によると、新羅の真徳王が唐永徽五年(六五四)に死去したので、唐高宗は大丞張文収を派遣して、「持節弔祭」という。この「持節」とは、唐皇帝の具象でもあったろうが、葬儀に用いられている点は注目に値する。さらに時代が下って九世紀後半の例としては、唐の懿宗が使者を新羅に派遣して先王(憲安王)の祭儀をとりおこなわせる一方、新王(景文王)に「旌節一副」などを贈ったという。『三国史記』新羅本紀景文王五年四月条に伝えるところであるが、また同じく真聖王元年条割注や同七年条、さらに『三国史記』崔致遠伝などには「納旌節表」とか「納旌節」「納旌節使」が見出せる。唐から贈られた「旌節」の返納にかかわるものであった。
 このように七世紀中葉以降から、唐から贈られたり、唐のそれを仰ぎ戴く旗が新羅においてにわかに重々しい意味を持ちはじめた。それはまた、旗というものが唐帝国の権力と文化の記号として、つねに唐から贈られ、与えられてくるものであるという認識を植え付けずにはいない。しかしその旗が、実体は明らかでないにせよ、また知りうる限りわずか一回ではあるにせよ、倭(日本)に贈られてきたということは、一体どういうことであろうか。けっして唐に贈るはずのない旗を、倭に贈ってきたのである。唐の意識に倣って、新羅もみずからの権力と文化の表象として旗を倭に贈り、その王権を誇示するとともに、両国の王権の通有性の確認を積極的にはたらきかけてきたのではなかろうか。(12)少なくとも新羅にとって倭が、唐という中華のミニチュア版などではありえなかったことを正しく認めるべきである。
 (12)新羅からの贈物のうち、旗と明記されたのは『日本書紀』天武八年十月甲子条のみである。そして、この旗は、金・銀・刀とともに天皇・皇后・太子(草壁皇子か)への別献物とされたのであるが、時あたかも、『三国史記』新羅本紀文武王十九年(天武八年)八月条には「創造東宮」とあって、同じく文武王五年(天智四年)条で伝えられる政明(のちの神文王)立太子のあとをうけて東宮機構の整備がおこなわれたらしい。この政明の東宮創造と、日本(倭)の太子らへの旗などの贈物とには間髪を入れない緊密なかかわりが認められて、立太子にもとづく王権構造の相互模索や通有性の督促がうかがわれよう。事実、この贈物に促されたかのように、『日本書紀』天武十年二月甲子条には草壁皇子立太子の記事がみえるのである。本章第三節参照。(18~20、33頁)

 新羅から「天皇・皇后・太子に、金・銀・刀・旗の類を貢(たてまつ)ること各数有り」(天武紀八年十月条)と贈られている「旗」がどのようなものかは、新川先生の仰るとおり不明である。それでも、倭国への朝貢品としてでなく、天皇、皇后、太子へ個人的に、金、銀、刀と並んで受け取っているから、standard(軍旗)ではなくparasol(幡蓋)であったと考えるのが妥当ではないか。蛸旗である。新羅の意図がどのようなものであれ、個人的に受け取ったのだから国が傘下に入ったことを意味するとは露とも知らないことであったろう。とはいえ、新川先生の補注にあるとおり、立太子による王権安定を促されたことについては仰る通りではなかろうかと筆者も考えている。
 次に、斉明親征の戦略的手法についてである。半島への出兵としては、確かに神功皇后の新羅親征が名高かったであろうし、住吉大神の加護を求める気持ちはわからないではない。そして、熟田津など、津々浦々をめぐりながら徴兵して、軍を整えていったものと思われる。それまでにも、ほかに、雄略紀九年条、仁徳紀五十三年条、欽明紀二十三年条、推古紀八年条にも、新羅征討の記事は残っている。確かにそれらは必ずしも成果が上がってはいないが、新羅を攻める際、なにも唐の海軍が待ち構える白村江へ軍勢を集結させなくとも良かったように思われる。その前にも、「前将軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけののきみわくご)等、新羅の沙鼻(さび)・岐奴江(きぬえ)、二城(ふたつのさし)を取る」(天智紀二年六月条)とあって、新羅側の防衛線は強固ではない。けれども、主戦としては当初より海戦を想定していたようで、その理由には、神功皇后の新羅親征の話に則りたがったからとの視点も持てるようである。記には、

 故、備(つぶさ)に[天照大神ノ御心ト底筒男・中筒男・表筒男三柱ノ大神ノ]教へ覚(さと)したまひし如く、軍(いくさ)を整へ双(な)めて度り幸でます時に、海原の魚大き小さきを問はず、悉に御船を負ひて渡る。爾に順風(おひかぜ)大(いた)く起りて、御船浪の従(まにま)にゆく。故、其の御船の波瀾(なみ)新羅国に押し騰(あが)りて、既に国半(くになから)に到る。(仲哀記)

とあり、船が内陸まで侵入することでもって勝利したとなっている。神功皇后の親征譚に準えて中大兄は三山歌を歌っていた。宮廷社会の人々はその内容に共鳴し、陶酔してしまい、歌の見事さに逆に呪縛されて戦術を誤ったように思われる。白村江、今の錦江(?)を遡上すれば、「御船の波瀾、新羅国に押し騰りて、既に国半に到」って圧勝と考えたのであろう。言い換えれば、倭は“東夷の小帝国”などではなく、新羅が“東夷の小帝国”で、倭は“なぞなぞ大帝国”であったがゆえの敗戦であった。
 津々浦々で徴兵しながら進軍したことは、後の防人の制に関係してくるのではないかと感じられる。岩波書店の日本思想大系本律令の補注に、「軍防令にとくに規定はないが、八世紀を通じて防人の多くは東国の兵であったことが察知される。東国の兵が防人にとられた理由としては、東国が令制以前から舎人などの武力を多く出した大和政権の武力の基盤であったこと、また斉明・天智朝の外征で西国の地方首長・農民が著しく疲弊したのを補う意味をもっていたことなどが指摘されている。またそれと関連して、万葉集巻二〇の東国防人歌の左注の分析を通じて、防人軍の編成に令制以前の国造軍の遺制のみられることが、岸俊男によって指摘されている」(623頁)とある。防人の実質的な始まりは、「是の歳に、対馬島・壱岐島・筑紫国等に、防(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く。又、筑紫に大堤を築き水を貯へ、名けて水城(みづき)と曰ふ」(天智紀二年是歳条)という記事とされている。思うに、西国の津々浦々から集めて戦った白村江での敗戦、疲弊は目を蔽うものであったのであろう。東国からの徴兵の場合、陸路を辿って難波の津に参集するから、津々浦々で徴兵するのとは異なり、住吉大神の力を注力させられるわけである。大宝令・養老令を定めた時点でも、法案作りに勘案されたのではないかと考えられる。万葉集では、巻20の防人歌には、遠江、駿河、相模、下総、上総、常陸、信濃、上野、武蔵、下野の10国である。尾張から西がないのは、上の理由からと考えて異存はないが、北陸道の人々は徴集されなかったのか、なお、疑問の残るところである。
 筆者の当初の着眼点の(5)として挙げた、「左注は時代的にかなり早いはずだが、その誤解をもたらした精神史的転回とは何であったか」についても、上述の内容と関連している。記紀や初期万葉とは、無文字社会の言い伝えを文字に残したものである。怒涛の如く文字文化が入ってきて、それまでの口承の時代は遠ざかって行ってしまった。したがって、およそ7世紀までのことがらが、8世紀にはよくはわからなくなってしまった。文字になじんでことばを使う文明とは、文字を知らずにことばを使う文化とは、ことばの使い方がまったく異質である。今日でも、幼児期になぞなぞに興じる子どもたちが、学校に通って長じるにつれ関心を失っていくのは、脳におけることばの情報処理方法に変化が生じているためであろうと考えられる。識字教育は、文明を支える基礎であるから、ユネスコから文部科学省、それぞれのご家庭まで、当たり前のように考えられているが、記紀万葉に確かにあった言霊信仰と呼ばれる豊かな言語生活は、残念ながら文字というものによって失わざるを得なくなったのである。すなわち、記紀万葉の時代の人々と、早くは奈良時代の識字層で三山歌に左注を付けた人以降現代人までとは、言語操作において別世界なのである。漢字という文字の流入、活用は、言語生活にコペルニクス的転回をもたらした。記紀万葉に見られる、我らがやまとことばによる未開社会の思惟、野生の思考について捉え直すことは、我々が捨ててしまった精神の可能性を見つめ直す契機になるであろう。これはもはや文化人類学の領域に当たる。そのような姿勢で、上代、飛鳥時代を考究し直す必要があるのである。日本古代を知りたがって考古学上の発掘が行われているが、いちばん発掘が遅れているのは記紀万葉のテキストということになる。
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中大兄の三山歌 其の八

2014年11月19日 | 論文
(承前)
 筒(つつ)という語には、まるい井戸側、筒井筒のことが考えられる。ワタツミを、ワ(輪)+タツミ(立水、潦、ミは甲類)と捉えると、筒井筒のことが連想される。掘り井戸の内壁に曲物が用いられていた例は、各地から出土している。タツミは溢れ流れる水の意である。

 はなはだも 降らぬ雨ゆゑ 庭立水(にはたつみ) いたくな行きそ 人の知るべく(万1370)
 隠処(こもりづ)の 沢たつみなる 石根(いはね)ゆも 通して思ふ 君に逢はまくは(万2794)

 「庭潦(にはたづみ)」(仁徳記)、和名抄に、「潦 潦〈尓波太豆美(にはたづみ)〉は雨水也」などと、濁音もあり、また、「庭多泉」(万178)、「直海」(万3335)、「潦」(万3339)、「尓波多豆美」(万4160)、「庭多豆水」(万4214)なども、ニハタヅミと訓んで、枕詞ではないかともされている。ニハタヅミの用字に「庭」を用いていることについて、三省堂の時代別国語大辞典上代編に、「【考】ニハは俄カの語根、タツは夕立のタチと同語、ミは水、という説があるが、万葉・日本後紀など『庭』の文字ばかりがあてられていることから、当時の語源意識としては、ニハに庭を感じていたと思われる。また、名義抄図書寮本のアクセントでは上上上上平となっていて、同源の語の第一アクセントはひとしい、という法則からは、平上平の俄(ニハ)カよりも、上上の庭(ニハ)に一致しているのである」と指摘している。その庭という語については、広い水面、海面、漁場などの意がある。ということは、“当時の語源意識”として、ワタツミをワ(輪)+タツミ(立水、潦)と捉え、海とは汲めども尽きぬ井戸だと思っていたとしても極めて自然である。ニハタヅミと濁音化するのも、イヅミ(泉)との連想からであろう。
 確かに、記紀の、海神の娘、豊玉毘売(豊玉姫)(とよたまびめ)が火遠理命(ほおりのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を見つけるときの海神宮の設定は、井戸端であった。

 「……魚鱗(いろこ)の如く造れる宮室(みや)、其れ綿津見神(わたつみのかみ)の宮ぞ。其の神の御門に到らば、傍(かたはら)の井上(ゐのへ)に湯津香木(ゆつかつら)有らむ。故、其の木の上に坐さば、其の海神(わたつみ)の女(むすめ)、見て相議(はか)らむぞ」といひき。……爾くして、海神の女豊玉毘売の従婢(むかひめ)、玉器(たまもひ)を持ちて水を酌まむとする時に、井に光有り。(記上)
 忽(たちまち)に海神の宮に至りたまふ。其の宮は、雉堞(たかがきひめがき)整頓(ととのへそなは)りて、台宇(たかどの)玲瓏(てりかかや)けり。門(かど)の前に一の井有り。井の上(ほとり)に一の湯津杜樹(ゆつかつらのき)有り。枝葉扶疏(しきも)し。時に彦火火出見尊、其の樹の下(もと)に就きて、徒倚(よろほ)ひ彷徨(たたず)みたまふ。良(やや)久しくして一の美人(をとめ)有りて、闥(とびら)を排(おしひら)きて出づ。遂に玉鋺(たまのまり)を以て、来りて当に水を汲まむとす。因りて挙目(あふ)ぎて視(みそなは)す。乃ち驚きて還り入りて、其の父母に白して曰さく、「一の希客者(めづらしきひと)有(ま)します。門の前の樹の下に在(ま)す」とまをす。海神、是に、八重席薦(やへたたみ)を鋪設(し)きて、延(ゐ)て内(い)る。(神代紀第十段本文)

 つまり、海底国(?)の井(ゐ)に居(ゐ)るのが海神であるという洒落である。住吉三神が、底筒男・中筒男・表筒男と、ツツと形容された理由については、筒状の轂や、先に懐疑的にとりあげた帆柱を支える船側の台座の名称の他に、津々浦々のツツ、星の古語のツツなどがある。もとより上代の人の洒落や頓智からして意味に多様性を含ませているに違いないが、わたつみは第一義的には、海の神さまである。海が水ばかりであるという素朴なことがらを直截に伝えたいなら、筒井筒のニュアンスが先頭に立っているものと思われる。なお、米粒を糸につけて鮎を釣った箇所に、

 時に皇后(きさき)の曰はく、「希見(めづら)しき物なり」とのたまふ。希見、此には梅豆邏志(めづらし)と云ふ。故、時の人、其の処を号けて、梅豆邏国と曰ふ。今、松浦(まつら)と謂ふは訛(よこなば)れるなり。(神功前紀仲哀九年四月条)

という地名譚が残されている。海神を訪れた希客者と神功紀の地名とは絡めて考えていたらしいとわかる。
 むろん、井戸から水を汲むには、それも海の水ほど汲むには、それなりの装置が必要とされる。大正期とされる手押しポンプ以前の汲み上げの画期は、車井戸の発明である。滑車を用いて両端につけた釣瓶で交互に汲み上げるのである。この滑車も、轆轤構造を有している。“当時の語源意識”として、ワ(輪)+タツミ(立水)の輪とは、井筒のことと車井戸のこととを兼ね含めた言い方であったらしい。確かに車井戸のなかには、まるで海神の宮であるかのように、屋根瓦を積んだ豪勢な作りのものが見られる。
車井戸(川崎市立日本民家園にて)
 わたつみという海の神さまが、住吉大神である。スミノエという地名については、澄んでいる江のこととする説明が多いが、筆者は語源を求める立場にはない。“当時の語源意識”、ないし、語呂合わせとして、江に人が住んでいるという状態を想起したものと考える。江とは、海が陸に入り込んだところ、入江のことをいう。和名抄に、「江 唐韻に云はく、江〈古双反、衣(え)〉は海也といふ」とある。江に人が住んでいるとしたら、それは船の上に生活する水上生活者、海人のことである。上に、「庭潦(にはたづみ)」について、庭は漁場、濁音化は「泉」という語とのかかわりのなせるものと考えた。和名抄に、「泉郎 日本紀私記に云はく、漁人〈阿万(あま)〉といふ。弁色立成云はく、泉郎〈和名は同上、漢語抄の説又同じ〉といふ。萬葉集に云はく、海人也といふ」とある。「泉郎」は字を上下に分離して、「白水郎」(允恭紀十四年条、万23・252・999・1167・1204・1245・1246・1253・1318・1322・2622・2743・2798・3170・3225)とも記されて、アマと訓んでいる。中国でも同様の表記が散見される。上代の言霊信仰の上からは、汲めども尽きない筒井戸のあるような海の、わたつみという神さまは、スミノエと呼ばれるような海人の住む地に斎く神さまであると、なぞなぞ的に納得できる。そして、海人のアマと天のアマとがアクセントとも同一であることは、迷うところがない。記に、建内宿禰の神託に、

 是は、天照大神(あまてらすおほかみ)の御心ぞ。亦、底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神ぞ〈此の時に、其の三柱の大神の御名は顕れき〉。(仲哀記)

とある。新羅親征を始める神託の神さまに、天照大神と墨江大神(住吉大神)がごっちゃになっている。どちらもアマの神さまなのだからであろう。
 15番歌の豊旗雲の豊という美称については、住吉大神を祀る幡蓋であることから冠せられたとすること、大伯皇女の誕生というおめでたいできごとによるばかりでなく、この軍隊の出兵目的とも絡んでいるとも考えられる。百済を救援するためのものであり、倭の傀儡政権を樹立するために、百済の王子、豊璋を同乗させている。連合艦隊の主船には、轂と甑があって、そのコシキとによって、豊璋を王(こきし)に擁立しようとするのが、倭の駄洒落の政治戦略であった。豊璋という漢字名は、やまとことばに訳せばトヨタマである。倭に伝わる言い伝えでは、豊玉姫の話が思い浮かぶ。13・14番歌で想定してきた「古」の説話のなかで、海幸・山幸の物語に登場した海神の娘である。その昔、住吉三神、底筒男・中筒男・表筒男といったツツ、すなわち、コシキの力を以て、新羅の王が征服されたという伝承に基づいき、準えようとするに実に好都合であった。だから、ワタツミノという語が冒頭に置かれている。15番歌の1句目と2句目とは連動して成立したことばのつながりであると理解できる。紀に、

 冬十月の己亥の朔辛丑に、和珥津(わにのつ)より発ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起し、陽侯(うみのかみ)は浪を挙げて、海の中の大魚、悉(ふつく)に浮びて船(みふね)を扶(たす)く。則ち大きなる風順(おひかぜ)に吹きて、帆舶(ほつむ)波に随ふ。㯭楫(かぢかい)労(いたつ)かずして、便ち新羅に到る。時に、随船潮浪(ふななみ)、遠く国の中に逮(みちおよ)ぶ。即ち知る、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)の悉に助けたまふか。新羅の王(こきし)、是に、戦戦慄慄(おぢわなな)きて厝身無所(せむすべなし)。(神功前紀仲哀九年十月条)

とある。コシキの力を以て、朝鮮半島の王、コキシは手玉に取ることができるというのが、この駄洒落話の総括なのである。
 以上、いろいろ考え合わせてみると、15番歌では、わたつみは、幡蓋の下にある轂から、日没のようすを見ている。そうこうしていると、おぎゃあおぎゃあと産声が聞こえ、甑落としが行われた。「わたつみの」のノは格助詞で、この歌の主語に当たる。「わたつみの 豊旗雲に 入り日見し」とは、わたつみが入り日をご覧になるのである。太陽太陰暦正月7日の半月は、夕刻時には実は上空にすでにある。幡蓋の轂の部分は、傘の下にあるから、傾いた日の光は横ざまに当たっても、上空にある半月の光は生地が遮って届かない。轂にいらっしゃる住吉大神の目には、入り日は見えても月は見えないというわけである。そして、斜陽が幡蓋の裏側から当たれば、幡蓋は、まるで天空をはためく五色大雲のように見えるではないか。まったくもって、作られた瑞祥が歌い上げられているのである。大きな船に幡蓋が差しかけられている具象としては、三重県松坂市の宝塚1号墳出土の船形埴輪がつとに有名である。
蓋(木製、大阪府羽曳野市 伝応神陵古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
 次の4句目の「今夜の月夜」は、同語反復と受け取れかねない。「今夜の月よ」と訓んで、最後の「よ」は格助詞ヨリの古い形(ヨは甲類)である。今夜の月よりも、という比較の基準を表すことに用いられている。比較できるのは、正月7日の上弦の月が「入り日」の時に天上に出ているからである。三貴子伝説にあるとおり、「月」は月読尊を表している。わたつみは、月読尊の表す新羅よりも、天照大神の表す倭を見ている。百済としては、新羅ではなく倭と一緒になりたいと言っていると歌いたいわけである。
 第5句の最後にあるコソについて、岩波書店の大系本萬葉集一の補注に、

 奈良時代にコソで終結する歌は、「人目を多みこそ」(巻七、一三七七、巻十一、二三五九)「うち若みこそ」(巻十四、三五七四)、「常を無みこそ」(巻十九、四一六一)「君故にこそ」(巻八、一五七六)「妹が為こそ」(巻十二、三二〇一)「人を見まく欲れこそ」(巻四、七〇四)「君を見にこそ」(巻四、七七八)の八首[佐佐木隆『上代語の構文と表記』(ひつじ書房、1996年)に、「寝まく欲りこそ」(巻十二、二八四四)がもれていると指摘がある]で、みな…ダカラデアルという理由・原因を示す場合に限られている。(328頁)

とある。おおかたの解釈に、ダカラデアルの意のには感じられないから、この文末のコソは係助詞ではなくて、作者の願望・希求を表現する助詞であると捉えられている。戦時下において、国家を統率する側の天皇や皇太子が、歌の最後に願望や希求を公式表明していては、兵卒の士気は高まるどころか人心の乱れにつながるだろう。コソは係助詞で、ダカラデアルと完全に肯定して説得しているに違いあるまい。中村幸弘先生の前掲書に、13番歌のコソが係助詞であることが確認されていた。15番歌においてもコソとあり、同じ時に同じ作者が歌ったのであるなら、ダカラデアル調で一貫しているほうが歌い手としても演説のボルテージは高まるし、聞き手にとって受け入れやすいはずである。アジテーションに船上は盛り上がったことであろう。
 「清明己曽」のコソが、係助詞で順接の確定条件を表すと、その前の「清明」は、已然形か、形容詞の語幹にミが付いた形に訓むものである。「清(す)み明(あか)れこそ」、「清(す)み明(あか)みこそ」、「清明(あきらけ)みこそ」「清(きよ)く明(て)れこそ」といった訓が考えられる。ただし、「清」はスミと訓みたい。住吉大神のスミの音と重なるからである。神功皇后の新羅親征と同じく、その御加護にあやかりたいのである。また、「明」については、動詞アカルの語とすると、明(あか)るという動詞は、赤(あか)ると同根のことばである。上代においては、赤くなることと明るくなることを同じことと把握していた。そして、明るくなる色(明度)を赤と称した。半月の白く、小さく、はかなげな光よりも、太陽は美しく、力強く、赤く明るいことを示した。
 仲哀記に「墨江大神」とあるとおり、スミに墨の字を当てることがある。スミノエを炭の柄の意ととると、棒状の炭、車炭のことが想起される。車輪のような形に輪切りにした炭である。太い枝を炭にした断面は、輻のように放射状に隙間ができている。轂からの連想で、自ずと気づくことであろう。そのスミノエのさきに火をつけると、赤く明るく燃え、まるで入り日のように見える。さらに、スミアカレコソと訓んだ場合の好条件として、スミアカルには、「住み散(あ)かる」とも取れる点があげられる。更級日記に、「人々は皆外(ほか)にすみあかれて、故郷にひとり、いみじう心ぼそく悲しくて、……」などとある。
 いろいろなところへ植民していくことは、蜘蛛の子を散らすように国(播磨国、吉備国、伊予国、……)が生れていったとする国生みの話と似通ってくる。全国の津々浦々に広まったのである。稲作の技術を持った民が、列島をどんどん開拓していったということである。今度はその列島中から兵士を集めて、いま、まさに、倭の連合艦隊は、新羅を攻めようとしている。そのためには、熟田津はじめ、津々浦々に寄りながら徴兵して軍を増強し、進むのである。津々には海人がいて、汲めども尽きない筒井戸のあるような海の、わたつみという神さま、住吉大神と近しい関係の人たちである。その住み散かれている人々を、澄み明れる入り日のもとに集めて、弱々しい輝きしかない月を表す新羅を討伐しようというのであった。

 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比弥之 今夜乃月夜 清明日曽
 わたつみの 豊旗雲に 入り日見し 今夜の月よ 澄み明かれこそ(15)
 (大意) 素戔嗚尊の守る、百済を象徴する海の神さまが、機を織る蜘蛛の作る網(い)のごとくに開いた幡蓋の真ん中、轂のところに坐して、天照大神の守る、倭の象徴である、稲をたくさん稔らせることができる太陽の、水平線に入っていくのをはっきりとご覧になる。月読尊が守る、新羅を象徴する、弱々しくて食べ物を何も生まない月よりも、ずっと澄んで赤く明るくなっているからだ。百済が欲しているのは新羅ではなく倭なのである。そして、我らは、稲作のために住み散じていた人々を集めて、連合艦隊を率いて進軍していることよ。

 15番歌では、「うつせみ」の気象を「古」の故事を用いて詠じ、参戦することの意義を高らかに歌い上げている。時制はすべて現在である。素戔嗚尊が守る海の上の雲と天照大神の守る日との都合のいいランデブー現象と、それに比べて月の光の弱いことを目にし、作歌に及んだのであろう。百済に侵入する倭が、新羅よりも強いことを歌っていた。いわゆる歌の「予祝」効果とは、当時の人にとっては、論理的な説得術であったようである。なお、月や蜘蛛のモチーフは、既述の万240番歌に受け継がれている。歌経標式にも見えるこの万240番歌は「反歌一首」で、239番の前の題詞には、「長皇子の猟路(かりぢ)の池に遊(いでま)しし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌」とあり、「猟路の池」とは奈良県桜井市の鹿路(ろくろ)を伝承地としている。蓋(きぬがさ)のロクロは、車の轂に相当することを述べてきた。
15番歌の美しさとは、壮観な叙景にあるのではなく、国際政治のパワーバランスを、倭国の言い伝えの上に立って、夕景と皇女出産のおめでたい出来事とを合わせて歌い込んで士気を高めようとしたところにある。遣隋使が「日出づる処の天子」などと言って陽帝(位、604~618)の激怒を買っているほどだから、赤く明るい日の光を自らのトーテムとする考えは盛んであったらしいとわかる。(つづく)
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中大兄の三山歌 其の七

2014年11月19日 | 論文
(承前)
 戦艦「御船」号は、当時の我が国の技術の粋を集めたものであったろう。具体的史料は乏しいものの、絵画に残された遣唐使船に似たものと推測される。
遣唐使船(小松茂美編『日本絵巻大成17 華厳宗祖師絵伝(華厳縁起)』(中央公論社、昭和53年)巻二より)
遣唐使船(小松茂美編『日本の絵巻3 吉備大臣入唐絵巻』(中央公論社、昭和62年)巻一より)
 住吉大神を祭るのに、どうしたかであるが、船の描写に2点、興味深いものが見られる。楼上に、太鼓のようなものが見られる。「艫(とも)のあたりに櫓(やぐら)を組んで、大鼓(おおつづみ)が据えられている。航海の合図を告げるためのものであろう」(前掲の小松茂美編『日本の絵巻3 吉備大臣入唐絵巻』3頁脚注)という。ただ、斉明紀の蛸旗の記事に、鼓・弓矢・鎧が登場していた。蛸旗は、蛸の形をした幡蓋(はたきぬがさ)で、八本の骨の先に旒のついたものと推定した。鼓とあるのも、絵巻に見えるようなもののことを表しているのであろう。すると、進軍ラッパの演奏のようなことは、住吉大神を祭ることと深い関係があることではないかとわかる。神功紀にも、

 則ち諸人を集へて曰く、「新羅の、国を建てしより以来(このかた)、未だ嘗(むかし)も海水(うしほ)の国に凌(のぼ)ることを聞かず。若し天運(よのかぎり)尽きて、国、海と為らむとするか」といふ。是の言未だ訖(をは)らざる間に、船師(ふないくさ)海に満ちて、旌旗(はた)日に耀く。鼓(つづみ)吹(ふゑ)声を起して、山川悉(ふつく)に振ふ。新羅の王(こきし)、遥(はるか)に望(おせ)りて以為(おも)へらく、非常(おもひのほか)の兵(つはもの)、将に己が国を滅さむとすと。讋(お)ぢて志(こころ)失(まど)ひぬ。(神功前紀仲哀九年十月条)

とある。旌旗・鼓・吹の音によって、山川が振動して新羅王が気を失っている。
 豊旗雲の雲と同音の蜘蛛といえば、明石海峡を通過していることから連想が進む。本ブログ「蜻蛉・秋津島・ヤマトについて」(其の一其の二其の三其の四補遺)で論じたように、本州をいう秋津島とは、明石海峡が証となるような、淡路島を胞(え)としてできあがったとの言い伝えを言っていた。ヤゴから蜻蛉が出てくるように、蜘蛛の子を散らすように国々が出てきたと洒落ていた。その明石は蛸の産地として有名で、その蛸の別名を蜘蛛蛸という。そういう謂れのある海域を進んでいる。すなわち、蜘蛛が巣を張ったように、幡蓋(はたきぬがさ)を広げたということではないだろうか。「王身」、つまり、斉明女帝に蓋(きぬがさ)を差しかけて、住吉大神の「和魂」のほうが現れたということである。蜘蛛の巣(網(い))のような蓋(きぬがさ)の部分とは、蓋(きぬがさ)がうまい具合に広がる仕掛け、すなわち、轆轤に当たるのであろう。ちょうど蜘蛛が巣を懸けたような形をしている。この轆轤の作りは、なかなかに精巧を極めており、中に柄を通すような筒状をして、さらに親骨を支える受骨を集めている。親骨のほうは石突のところで集まっており、上下させる轆轤を下轆轤というのに対して、上轆轤とも呼ばれる。この神憑り的に巧妙な部材によって蓋(きぬがさ)は成立している。よって、住吉大神の和魂は、王さまの身のツイデのところに祀られると考えられた。
 他方、荒魂のほうは、華厳縁起の船の画にあるように、舳先にある轆轤のことを言っているらしい。碇を巻き上げるための仕掛けである。船舶の航行において、重い石をつけた碇はとても重要な役目を果たす。停船させるとき、港に接岸できるならば纜(ともづな)、舫い綱をもって岸壁の杭に結わいておけばよいのであるが、海上で停めるには、碇を下して海底に沈め、あるいは岩等に引っ掛けて流されないようにしなければならない。風や潮流が進行方向と反対になったら、流されるままだと元の木阿弥であるし、ひとたび海が荒れれば、座礁、転覆といった危険もついてまわるからである。それまでにないような大きな遣唐使船を停めるには、非常に重い碇を必要としたであろうから、手だけで引き上げることはできず、轆轤が絶対に必要であった。帆を上げるために身縄用に小さな轆轤も使われたかもしれないが、東シナ海のような大洋の航海においてヨリ重要なのは、大掛かりな碇用の轆轤のほうに違いない。いったんこの大きな轆轤が壊れてしまったら、重い碇を上げることはできなくなり、綱を切って進むしかない。水夫は昼夜を問わず、天候を問わず、休むことはできなくなったであろう。いかにも「荒魂」に相当するように思われる。
 船舶における住吉大神、底筒男・中筒男・表筒男、わたつみの神の祀られ方について想像を膨らませてきた。この想定においては、万15番歌の「豊旗雲」とは、幡蓋(はたきぬがさ)のことをいっていて、ワタツミは、傘の轆轤のことを指した表現であるとした。この轆轤は、車の構造によく似ている。中に車軸が通るように筒状をしていて、その輪から放射状に輻(や)が広がっているhubである。古語に轂(こしき、コは乙類、キは甲類)という。和名抄に、「轂、車の古之岐(こしき)、俗に、筒と云ふ」とある。俗名の「筒」については、賽を振るドウと音読みされたことも窺われる。「……筒をひねりて、とみに打ち出でず」(源氏物語・常夏)などとある。しかし、ツツと訓読みされたこともあったであろう。轂の中心が筒状だからである。底筒男・中筒男・表筒男の筒に通じるものである。幡蓋を開いて差すと、長い脚の蜘蛛が機織りをしたように幡が広がり、蜘蛛の体の胴体のところが轂に当たり、雲のように蓋いかぶさっている。その仕掛けの巧みさは、すべて轂に当たる轆轤によっており、まさしく「豊」と美称を与えるにふさわしい。
 この轂と同音の語に、甑(コは乙類、キは甲類)がある。蒸し器のことである。新撰字鏡に、「甑 子曽反、牟須己志支(むすこしき)」、和名抄に、「甑〈甑帯附〉 蔣魴切韻に云はく、甑〈音勝、古之岐(こしき)〉飯を炊く器也といふ。本草に云はく、甑帯灰〈古之幾和良波飛(こしきわらはひ〉は弁色立成に炊単と云ふといふ」とある。今日の蒸籠のような木製だけでなく、土器製のものもあった。形が似ているから同じことばになっているとされている。山上憶良の貧窮問答歌に、「…… 竈には 火気(ほけ)ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯(いひ)炊(かし)く 事も忘れて ……」(万892)とあるのは、蒸し器である甑の底に、轂(こしき、コは乙類、キは甲類)状に穴が開いており、まるで蜘蛛が巣を張ったような同じ形だというので譬えたところに機智があるものである。甑に◆(木偏に曾)の字を当てることもあった点については、本ブログ「三輪で杉の木を『斎(いは)ふ』のは、甑(こしき)による」に詳解した。
甑(東博展示品(平壌市貞柏里227号墳出土、楽浪時代、2~3世紀、朝鮮古墳研究会寄贈))
 中大兄の三山歌の歌われた時点においては、その「御船」号において、おめでたいできごとが起きている。「大田姫皇女、女を産む」(斉明紀七年正月条)と、大海人皇子と大田皇女との間に、赤ちゃんが誕生している。鎮花祭の淵源に見た崇神紀の、大田田根子のような大田姫皇女の名が出ているということは、住吉の御田植神事にふれた花笠が、やはり意識の底流に存在していることがわかる。印南国原の沖合を通過しているとは、稲が波を打つように豊かに稔っていること、それは大田姫皇女の出産からしても確かということになる。稲作の祭祀者としての天皇家として、何重にもめでたいこととして慶ばれたことであろう。そして、安産を祝って屋根の棟から甑を落として割るという風習、甑落としがあった。
 甑落としの習俗に関しては、建礼門院が安徳天皇を出産した時のことを記す文献がよく知られている。平家物語に、「次に后御産の時、御殿の棟より甑を転(まろ)ばかす事あり。皇子御誕生には南へ落し、皇女誕生には北へ落すを、これは北へ落されたりければ、『こはいかに』と騒がれて、取り揚げて落し直したりけれども、悪しき御事に人人申しあへり」(巻三・公卿揃)、山槐記に、「此間自日陰間、上転甑破三分〈兼破之、以麻仮結之、落後為令破也。召使持之、兼在棟北、随其告可落之由誡仰云、而誤落北方、不足言事也。仍更取上之、侍所司盛光相副令落之。件甑自社所有大原渡内膳、大炊令用之後渡庁、於庁破結云々。〉」(治承二年(1178年)十一月十二日条(89/170))などとある。予め割っておいて落とすのは失敗しないための工作であろう。徒然草にも、「御産(ごさん)の時、甑落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣(おんえな)滞る時の呪いなり。滞らせ給はねば、この事なし。下ざまより事おこりて、させる本説なし。大原の里の甑をめすなり。ふるき宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑おとしたるを書きたり」(第61段)とある。
 この甑落としの風習がいつから始まったかは定かではない。ただ、甑とお産とが関係することがらといえば、神功皇后の鎮懐石の逸話しか思い浮かばない。御裳、つまり、スカートの糸を取って「飯粒(いひぼ)」をつけて餌として、アユを釣ったという伝承につながる部分である。記に、

 故、其の政、未だ竟へぬ間に、其の懐妊(はら)めるを産むに臨みて、即ち御腹を鎮めむと為て、石を取りて御裳の腰に纒(ま)きて、筑紫国に渡るに、其の御子はあれ坐しき。故、其の御子を生みし地を号けて宇美(うみ)と謂ふ。亦、其の御裳に纒ける石は、筑紫国の伊斗村(いとのむら)に在り。(仲哀記)

とある。お腹に石を当てがって産まれないようにしたということは、腹帯ならぬ石のコルセットでがんじがらめにしたということであろう。足は出るように穴が開いているが、お腹をぐるりと取り巻くような石材とは何か。そんなイメージに合致するものは、上代の人にとっても、現代の我々にとっても、底に穴が開き、灰青色をした須恵器の甑しか想像がつかない。腰(コは乙類)と音が通じている。須恵器焼成の技術は、瓦に通じている。甑の瓦だから、河原でのアユ釣りの話に展開していっている。つまり、神功皇后と応神天皇とが一体となっている状態は、甑によって成立していたのである。中大兄と斉明天皇が一体となって、新羅へ攻め込もうとし、しかも勝利を収めるためには、甑は必須アイテムなのであった。その甑を割って御子が生れた。いま、大田姫皇女の出産によって、にわかにヴィヴィッドなものとして立ち現れた。出産というおめでたによって、戦勝というおめでたが予祝できることになった。まことにおめでたい人たちである。
須恵器(成美堂出版編集部編『図解古代史』(成美堂出版、2007年)より)
 家にあれば屋根から甑を落とすわけだが、船上での出来事である。それも当時の我が国の技術の粋を集めた優れた高速艇である。海を軽快に進むには、櫂や艪によって漕ぐだけでなく、帆をかけていたに相違あるまい。それは、魚に譬えられて鰭である。魚の鰭のことは、古語に、「鰭(はた)」という。和名抄に、「鰭 文選注に云はく、鰭〈音耆、波太(はた)、俗に比礼(ひれ)と云ふ〉は魚の背の上の鬣也といふ。唐韻に云はく、鬣〈音〒(獣偏に葛の旧字)、馬躰に見ゆ〉は鬚鬣也といふ」とある。魚の胸鰭よりも、背鰭にハタという語を当てることを強調している。ホを導く枕詞に、ハタススキ(ハダススキ)があった。やはり、帆のある「御船」とハタとは関係があるらしい。そんな帆柱のてっぺんの高い所に甑を持って上がって落としたのであろう。時は「うつせみ」である。ウツセミということばの語源については諸説あるが、船上で蝉といえば、帆柱の上にある滑車のことである。帆をあげるのに、その滑車に懸けてある身縄を引き上げたのである。高い木の上で鳴くが如く軋むことからの命名と思われる。水夫のうちでも身軽な者が持って上って落としたのであろう。
 田村、前掲書に、「全国各地の大型漁船の乗組員のうち、漁に出たときフナダマサマを祀るのはカシキ(炊事人)の仕事とされている。カシキは船に乗って日の浅い見習い少年がこの役にあたる。食事時にはかならずオフナダマサマにもご飯を供えることから三陸沿岸では『カスギはオフナダマサマのオガダ(夫)だ』といった。カシキはフタメシガマなどといって飯釜の蓋に炊きたてのご飯を盛って御霊に『おあんがりまし』などと供えるのも全国的に聞かれる儀礼である。……カシキは、岩手の方言でカスギという。カスギは台所で炊事することや人に対していうことが多く、語源としては動詞の炊(かし)ぐの名詞化である」(80頁)とある。三省堂の時代別国語大辞典上代編にも、「コシキの語は炊(カシ)キからできたといわれる。炊ク(四段)の名詞形が炊飯のための道具を意味することは考えられ、ア列音とオ列乙類音の交替も例が多いから、この語源説は成立の可能性がある」とする。そんなところから、フナダマサマを祀る役割は、飯炊き見習い少年に与えられたのであろう。そのカシキが蝉のところまで甑を持って行って落とした。
 うまい頓智として、甑と轂のことも合わさってくる。王の身の少し後ろがかったミツイデの、幡蓋(はたきぬがさ)の柄の高い位置に、轂として住吉大神の和魂が鎮座ましましている。その見ていらっしゃる前へ甑が落ちてきて割れたのである。出産の甑落とし行事が、船上の住吉大神をさらに祭ったことになったわけである。(つづく)
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中大兄の三山歌 其の六

2014年11月17日 | 論文
(承前)
 さて、中大兄は戦艦「御船」号に搭乗しており、瀬戸内海を西に進んでいる。その状況下で想定してみる。船上で旗といえば、軍艦に掲揚する船旗のことがまず想定されうる。ただし、それが雲のようであると譬えられたかどうかは熟考を要する。彼らの行いは、言霊信仰に負っている。すべて記紀に伝わる言い伝えを信じていて、それを焼き直す形で準えていけば、言い伝えの結果と同じようになると考えている。敵は新羅である。神功皇后の親征と同様に行えば、勝利が近づくと思っている。息長帯日売命(気長足姫尊)(おきながたらしひめのみこと)と品陀和気命(誉田別皇子)(ほむだわけのみこと)の態勢で臨みたい。誉田天皇(ほむたのすめらみこと)は、「胎中誉田天皇(はらのうちにましますほむたのすめらみこと)」(継体紀六年十二月条)、「胎中之帝(ほむたのすめらみこと)」(同)、「胎中天皇(ほむたのすめらみこと)」(継体紀二十三年四月条)、「胎中之帝(ほむたのすめらみこと)」(同・宣化紀元年五月条)と記される。母胎に子を宿したまま、いわゆる鎮魂石でとどめて出兵したとの逸話になっている。それと同じように、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)と中大兄と対照させている。中大兄の名の「中」の称については、神功皇后と応神天皇の治績に由来したかったのであった。お腹の中の中である。
 そして、住吉大神を祭りながら、艦船を進めれば、勝利すると考えていた。紀に、

 既にして神の誨(をし)ふること有りて曰はく、「和魂(にきみたま)は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂(あらみたま)は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」とのたまふ。(神功前紀仲哀九年九月条)

とある。岩波書店の大系本日本書紀頭注に、「王身の古訓ミツイデのミは、敬称の接頭語。ツイデは、序の意であろうが、王身を、何故ミツイデと訓むか不明」とするが、王の身に続いて服する形のものを指すのであろう。前述にさかんに蓋(きぬがさ)を見たが、王の身に次いで従者が蓋(きぬがさ)を差しかけている。この部分の記には、仲哀天皇の崩御後に大祓をして、建内宿禰が神託を聞いたことになっている。

 是に、教へ覚す状、具に先の日の如く、「凡そ此の国は汝命の御腹に坐す御子の知らさむ国ぞ」となり。爾に建内宿禰、「恐し、我が大神、其の神の腹に坐す御子は何なる子か」と白せば、「男子ぞ」と答へ詔りたまふ。爾に具に請ひけらく、「今如此(かく)教へたまふ大神は、其の御名を知らまく欲し」とこへば、即ち答へ詔りたまはく、「是は天照大神の御心ぞ。亦底筒男・中筒男・上筒男、三柱の大神ぞ。此の時に其の三柱の大神の御名は顕はれき。今寔(まこと)に其の国を求めむと思はば、天神・地祇、亦山の神と河海の諸の神とに、悉く幣帛(みてぐら)を奉り、我が御魂を船の上に坐せて、真木の灰を瓠(ひさご)に納れ、亦箸とひらでとを多に作りて、皆皆大海に散らし浮けて度る可し」とのたまふ。……爾に其の御杖を以て、新羅の国王(こきし)の門(かど)に衝き立てて、即ち墨江大神の荒御魂を以て、国の守り神と為て、祭り鎮めて還り渡りき。(仲哀記)

 記の「我が御魂を船の上に坐せて」が、紀の「和魂は王身に服ひて……荒魂は先鋒として」に当たる。もともと、底筒男・中筒男・上筒男は、伊耶那岐命(伊弉諾尊)が黄泉国から帰還後、禊ぎをして生まれた神である。本稿其の一でも挙げているが、再録する。

 是に詔はく、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に墮ちかづきて滌ぎし時に、成り坐せる神の名は、……次に水底に滌ぎし時に、成れる神の名は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、次に、底筒之男命(そこつつのをのみこと)。中に滌ぎし時に成れる神の名は、中津綿津見神、次に中筒之男命。水の上に滌ぎし時時に成れる神の名は、上津綿津見神(うへつわたつみのかみ)、次に上筒之男命。此の三柱の綿津見神は、阿曇連(あづみのむらじ)等が祖神(おやがみ)と以ていつく神ぞ。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫(あなすゑ)ぞ。其の底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神ぞ。(記上)
 [伊弉諾尊、]乃ち興言して曰はく、「上つ瀬は是太だ疾し。下つ瀬は是れ太だ弱し」とのたまひて、便ち中つ瀬に濯ぎたまふ。……又海(わた)の底に沈き濯ぐ。因りて生める神を、号けて底津少童命(そこつわたつみのみこと)と曰す。次に底筒男命(そこつつのをのみこと)。又潮の中に潜き濯ぐ。因りて生める神を、号けて中津少童命(なかつわたつみのみこと)と曰す。次に中筒男命(なかつつのをのみこと)。又潮の上に浮き濯ぐ。因りて生める神を、号けて表津少童命(うはつわたつみのみこと)と曰す。次に表筒男命(うはつつのをのみこと)。凡て九の神有す。其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち住吉大神なり。底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等が祭れる神なり。(神代紀第五段一書第六)

住吉大社の神を船に祀ったのである。その祀られた様子に、中大兄の造語、「豊旗雲」なるものが関係してくるのであろう。万葉集に、

 住吉の 現人神(あらひとがみ) 舟舳(ふなのへ)に 領(うしは)きたまひ ……(万1021)
 ……住吉の 我が大御神 舟の舳(へ) 領(うしは)きいまし 舟艫(ふなども)に み立たしまして ……(万4245)

などと記されている。
 円仁の入唐求法巡礼行記にも、「順風を得んが為に、住吉大神を祭る」(巻第一)、「艇を上げて解除(はらへ)を為し、兼ねて住吉大神に礼し、始めて乃ち海を渡る」(巻第一)、「卜部をして神等(かみがみ)を祈禱せしめ、火珠一箇を住吉大神に祭施し、水晶の念珠一串を海龍王に施し、剃刀(かみそり)一柄を主舶の神に施し、以て本国に平(たひら)けく帰らんことを祈らしめぬ」(巻第一)、「日没の時、船上に於て天神地祇を祭り、亦官私の絹、纐纈(こうけち)、鏡等を船上の住吉大神に奉上(ささげたてまつ)る」(巻第二)、「猶ほ冥神(わたつみのかみ)の和(やは)したまはざるの相(すがた)と疑ひ、同じく共に発願し、兼ねて解除を為す。船上の霹靂神(かむとけのかみ)を祈祠し、又船上の住吉大神を祭る」(巻第二)などとある。住吉大神をわたつみの神として船に祀っている。どのように祀ったかは定かではないものの、霹靂神に祈った記述の箇所から、住吉大神には祠はなさそうである。
 民俗において、船霊を祀ることが行われる。田村勇『海の民俗』(雄山閣出版、平成2年)に、「船霊を祀る場所をタツという。タツとは船を舫(もや)うときの綱を結んである場所である。房総半島では船の艫(とも)の両弦に立っている角柱を指すことばである。ところが、三陸一帯では、船の前方にある、一般的にボウズといっている角柱のことをタツと呼んでいる。そして、オフナダマサマはこのタツの隠れた前方の面、一尺ばかり下がったところに彫りこみを入れて納め、その上から厚い板状の木片でキッパメ(封じ込め)をして、表面をカンナで平らにする」(75頁)とあり、五穀やサイコロ、銅銭、髪の毛、折り紙の人形などであった。船の構造の変遷史については、資料が乏しくて困難とはいえ、今日の研究では、船のタツは鎌倉期以降に登場したようである。それ以前には、今日でも見られる場合があるらしいが、船の筒(つつ)の部分に祀られたのではないかとされる。筒とは、帆柱を支えるために、船側に設けられた台座となる支柱部分のことである。今西氏家舶縄墨私記(1813)に、「筒と子持へ檣(ほばしら)を建る、此具合能くなくしては船遅しと言。遅早(ちそ)にかかわる大事場所也」とある。艫側の面に溝を付けて帆柱の襟肩をはめる。また、その下部両サイドに穴を刳り抜き、船霊さまをお祀りする(小嶋良一「近世期における日本の船の地域的特徴」参照)。そのツツという名称から、サイコロなどを一緒に入れるという発想が生まれたものであろう。一説に、底筒男・中筒男・表筒男という神名に登場する「筒」との関連から、帆柱の根本こそが祀るにふさわしく、逆に、神名の起源は、船の構造部名によるとの意見もある。ただ、そもそも船霊と住吉大神とを完全に同一視してよいものかわからない。住吉大神は船の神さまではなくて、海の神さまである。
 延喜式・神名帳には、「住吉郡二十二座〈大十座 小十二座〉 住吉に坐す神社四座〈並(みな)名神大、月次・相嘗・新嘗〉……船玉神社……」とあって、いま、船玉神社は摂社の扱いを受けている。虎尾俊哉編『延喜式 中』(集英社、2007年)の頭注に、船玉神社は、「住吉大社神代記に住吉神の子神の一つとして『船玉神〈今謂、斎祀紀国紀氏神、志麻神、静火神、伊達神本社〉』とあり、また同書船木等本記に神功皇后が熊襲と新羅を征した際に大田田命と神田田命が造り献上した船を征討後『令斎祀武内宿禰』め、それが志麻神・静火神・伊達社の三神であるという」とある。また、神功紀の、「和魂は王身に服ひて寿命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」と、2分割の祀り方との関係を説明しきれない。そのうえ、入唐求法巡礼行記に、幣を捧げている箇所がある。水夫(かこ)たちは、帆の上げ下げなどする際、奉納された場所を回避しながら作業したのであろうか。どうにも現実的でない気がする。
「フナダマサン」(河合雅雄・岩井宏實監修『調べてナットク! みんなの博物館5;くらしと伝統工芸について調べよう』(河出書房新社、2012年)より)
タツのある船(小松茂美編『日本の絵巻20 一遍上人絵伝』(中央公論社、1988年)巻十二より(前掲の法然上人絵伝も))
 神功記紀から考えて、住吉大神は、単に航海神であるだけでなく、水軍の神でもある。重要な神さまだから、天皇など貴人同様、蓋(きぬがさ)を翳して奉られたのではなかろうか。住吉大社において、古くから伝わる祭に御田植祭(おんだまつり)がある。住吉大社については、航海神としてだけでなく、農耕神としての意味合いを考えなければならない。13・14番歌に、印南国原が稲の波を打ったような豊穣性を歌っており、日神、天香具山を称えていたからである。田舞、田楽などについてはここでは深く触れないが、八乙女たちによって舞われているところは、13・14番歌の三山の性別からして適っていることである。今日、御田のなかに舞台が設けられているのは、それほど古いことではないかもしれないが、それら詳細については、ネット上で、小野功龍・大谷紀美子「住吉大社お田植え神事について」を参照されたい。ここで注目したいのは、住吉大神の祀られ方である。摂津名所図会(47/380)に載る「住吉御田祭式」の図に、今日では舞台の中心に、風流花笠が据えられる。風流花笠はとてもゴージャスな蓋(きぬがさ)である。神さまのために翳されていると考えられる。
御田植神事の風流花笠(三好和義・岡野弘彦・櫻井敏雄『日本の古社 住吉大社』(淡交社、平成16年)より)
祇園御霊会の風流花笠(小松茂美編『日本の絵巻8 年中行事絵巻』(中央公論社、昭和62年)巻九より)
 風流花笠が見られるのは、鎮花祭、御霊会などと習合した今宮神社のやすらい祭、その他のケチンと称されるお祭りなどである。鎮花祭は、春の花が散るときに、同様に疫病が飛散するのを止めようとするものとされている。大神神社と今ではその摂社になる狭井神社の祭である。狭井神社は、「大神之麁御霊」(令集解)、「狭井坐大神荒魂神社五座〈鍬・靫〉」(延喜式・神名帳)とされる。延喜式・四時祭では、祭祀の料物の数量が大神神社よりも狭井神社の方が上回っている。大物主神の荒魂である狭井の神を重視したためかとされる。いずれにせよ、荒魂と和魂とのセットを祭りたいものらしい。これは、神功紀の記事の、住吉大神を船上に祀る際と同じである。鎮花祭の起源説話として、崇神記紀にある、意富多多泥古命(大田田根子)を神主として大物主神を祭って疫病が終息したとする話があげられている。京都今宮神社のやすらい祭については、「『やすらい祭』の鬼は二十年ほど前[昭和30年代カ]までは、……上賀茂からも今宮の『やすらい』に参加していた。ところがちょっと変わった宮司が上賀茂神社にはいっていろいろの『改革』をやったとき、今宮へは出なくなった。その代わり五月十五日の葵祭(あおいまつり)の当日、大田神社から上賀茂神社に練り込む趣向に変わった。……しかし民衆のほうではすこしでも先祖伝来の形をくずすまいとして、宮司に抵抗しながら、風流の花傘(はながさ)は大田の沢の杜若(かきつばた)に、松緑(まつみどり)と山躑躅(やまつつじ)と藤の花を添えて立てている」(五来重『宗教歳時記』角川書店(角川文庫)、平成22年、74~76頁)とある。風流花笠は大田神社と曰く因縁があるらしいとわかる。すなわち、御田植祭、大田田根子、大田神社と、どうも田と関係があるのではないかと感じられる。鎮花祭にあった疫病について、あるいは人間の疫病だけでなく、稲の病虫害、イモチ病やウンカのようなことも兼ね含めていたのではないかと思われる。悪霊にも荒・和があり、荒いと人間に直接病を起こし、和やかだと食べ物が枯渇して間接的にひもじい思いをして苦しめるということを考えたのではなかろうか。識者の御教示をお願いしたい。
 この柄の付いた傘、蓋(きぬがさ)、花笠と、住吉大神との関係は、紀にも窺い知ることができる。

 夏五月の庚午の朔に、空中(おほぞらのなか)に龍(たつ)に乗れる者有り。貌(かたち)、唐人(もろこしびと)に似たり。青き油(あぶらぎぬ)の笠を着て、葛城嶺(かづらぎのたけ)より馳せて膽駒山(いこまのやま)に隠りぬ。午の時に及至(いた)りて、住吉の松嶺(まつのみね)の上より、西に向ひて馳せ去ぬ。(斉明紀元年五月条)
 八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮(いはせのみや)に至る。是の夕(よひ)に、朝倉山の上に鬼有りて、大笠を著て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。衆(ひとびと)皆嗟怪(あやし)ぶ。(斉明紀七年八月条)

 神功皇后の治績に似せて新羅親征を企てていた斉明女帝の、統治の最初と最後に「笠」の記事がある。「青油笠」について、岩波書店の大系本日本書紀の頭注には、「油を塗った青い絹で作った雨具。笠は、この場合平安時代以降の雨衣や蓑にあたる、合羽に似た唐風の装束か」、小学館の新全集本日本書紀の頭注には、「青色の油塗の雨用外衣か」とある。しかし、唐風のカサといえば、身につける笠ではなく、柄を伴った傘、いわゆるカラカサをいうのであろう。北野本には、「青油笠」(4/26)と記される。傍訓に、アヲキアフラキヌカサとあるのは、油を塗って青光りする蓋(きぬがさ)に似たもの、簦のことを示しているのではないか。和名抄に、「簦 史記音義に云はく、簦〈音登、俗に大笠を云ふ。於保賀散(おほがさ)〉は笠の柄有るもの也」とある。和漢三才図会の「傘」の項には、「簦〈音登〉和名於保加佐(おほがさ)」とあり、説文の「簦は笠蓋也。竹に从ひ、登声。笠は簦の柄無き也。竹に从ひ、立声」との説を引き、「按ずるに、繖は華盖(きぬがさ)也。簦は即ち笠の柄有る者にして、甚だ賤し。傘は即ち繖(きぬがさ)にして、雨を禦ぎ、甚だ侈(おごれ)り。近世の制(製)は、其の中を得たる者也。竹骨の上に紙を張り、微かに荏の油を注ぎ、紙をして湿り敗れざらしむ〈俗に唐簦を曰ふ。傘の字を通用す。〉」などとある。守貞漫稿では同書の引用として、「夏の日に日を御すの傘は白紙青紙を以て之れを張り、荏の油を注ぐを用ゐず。之れを日傘と謂ふ」との説明も加わっている。着と著の字は通用されるとされ、「髻花(うず)著(さ)せり」(推古紀十九年五月条)とあり、直線的なものをその方向に動かす意でサスと訓む可能性がある。また、大系本では、「鬼」について、「この山[朝倉社のある麻底良山を含んで東西に連なる山々]上の鬼もそのような[聚落の東方にある]山に立ち易い雷雲か」としている。この箇所の著の字の北野本傍訓にキイ(23/26)とあり、名義抄に、「衣 キイ」とある。きぬがさは衣笠とも記すように、被覆面の材質が菅笠などのような植物そのものではなく、絹繊維なのである。それを表わそうとして、キイル、キイス、キイトスなどという動詞を作成したものかもしれない。ハイカラな唐人やおそろしい鬼ならば、傘は自分ではなく、従者が差しかけていると考えるのが妥当であろう。そして、斉明紀の前後にある「青油(絹)笠」、「大笠」の記事は、先述の皇極紀の蘇我入鹿の記事とパラレルになっていることがわかる。皇極紀と斉明紀とは、太田善麿『古代日本文学思潮Ⅲ』(桜楓社、昭和37年)における呂ロ系、西宮一民『日本上代の文章と表記』(風間書房、1970年)におけるⅡ系列、森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店、1991年)におけるα群に当たり、同じ筆録者の手になっていると考えられている。すなわち、住吉大神にご加護は得られないという凶兆として、やがては白村江に敗れる前兆として描写されているようである。(つづく)
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中大兄の三山歌 其の五

2014年11月12日 | 論文
(承前)
○くものはたて(8)
  夕されば雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人恋ふる身は
 顕昭云、雲のはたてとは空の広き心なり。はたは将といふ心也。手はよろづの事にわたりたる事なり。常には夕の雲の旗の手に似たるを、雲のはたてとはいふとあまたのふみに申したれど、万葉集の長歌を見るに、国のはたてに咲きにける桜の花と詠みたれば、国には旗手ありといふべくもなければ、空の広きをば雲のはたてといひ、地の広きをば国のはたてと詠めるにやと、なずらへて思ふなり。たとひ雲のはたてと言ふべくは、花の色々に咲きみちたるを旗手といふべきにや。それはなほ心ゆかず。古歌をば歌ひとつに付きてはいみじく釈するほどに、あまたの歌を見る時にたがふ也。たとへば、おほ舟のゆたのたゆたといふ事を、船の湯かく手のたゆき由を言ふ程に、ねぬなはのゆたのたゆたといふ歌にては、大きにたがふが如し。
 万葉第八巻長歌云、
  をとめらが かざしのために たはれをの かつらのためと しきませる 国の波多弖(ハタテ)に 咲きにける 桜の花の  にほひはもあなに
此の長歌のことばに心得あはすべきなり。
 無名抄云、とよはた雲といふ、雲のはたてといふも同事也。日の入らむとする時に、西の山ぎはにあかく様々なる雲の見ゆるが、旗の足の風に吹かれて騒ぐに似たる也。其旗に似たる雲の絶間より入日のさして入りぬれば、三日許は雨降らずして空もこゝろよく照るなり。されば万葉歌に、わたつみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜すみあかくこそとよめり。次に雲のはたての歌は、そのとよはた雲のさだめもなく騒ぎかはりゆくやうになむおぼゆると詠む也。其雲の空にあるものなれば、うはの空なる人を恋ふるによそふる也。是を又蜘蛛といふ虫の手は八つあれば、その蜘蛛の巣は軒に見ゆるものゝ、手をくみたる様に見ゆれば、それによそへて詠む也。是も事の外の僻事になきにや。
 重之が、死にたる蜘蛛のゝけざまに臥したるに風の吹きければ、生きたる様に手のはたらきけるを見て詠める歌、
  さゝがにの蜘蛛のはたての騒ぐかな風こそ雲の命なりけれ
これを見れば、虫の手をもくもでと言はんにとがなし。
 奥義抄云、蜘蛛の手をくものはた手とはいふ也。きぬゝの織るやうなればよそへていふ也。くもでといふにつきて、空の雲によそへて天つ空なる人恋ふる身はと詠めり。雲のはたてに物思ふとは、蜘蛛のいはとかくかきたれば、ひとすぢならずとかくなん思といふ心也。雲でに物を思ころかなといふ歌もこの心にこそ。
 今案云、とよはた雲とくものはたてと別事也。古語云、とよはた雲とは海の雲の古語也。瑞応図云、豊旗雲者瑞雲也。帝徳至時出現雲也。雲勢似也云々。
 又たとひ旗手といふにても雲にてあるべし。天つ空に寄する故也。蜘蟵の手を機織るに寄せて、いかゞは又二重に雲には寄すべき。あまりに任意なる義なり。但重之が歌を蜘蟵の死にたるを見てよみたれば、虫とは詠みきりたる。さらば蜘蛛といふ虫の機手にて雲の旗手には寄すべからず。重之が集を見れば、蜘蛛の手一つ落ちたるが二三日まで動くを詠めるとて、第三句は動くかな風を命に頼むなるべし、とあり。これは古今の雲のはたてといふ歌をくもといふ詞同ければ、蜘に詠みなしたるなるべし。藤を淵と詠みなすが如し。
 又源順が仮名序にも、
  思ふ心くものはたてにありながらおりたちてしも言はむかたなし
と書けり。これも雲の旗手を機に寄せて織立と詠めるにや。いかにも国のはたてに思ひ合はすべきなり。(川村晃生校注『歌論歌学集成 第四巻』三弥井書店、平成12年、37~40頁)

 顕昭には、袖中抄とほぼ同じ内容の、顕秘抄という書物が伝わっている。ただし、「今案云、とよはたくもと、雲のはたてとは別事也。古語拾遺云、とよはた雲とは、海ノ雲ノ古語也。瑞応図云、豊旗雲者瑞雲也。帝徳至時出現雲也。雲勢似旗也云々」(久曽神昇編『日本歌学大系 別巻五』風間書房、1981年、26頁、旧字は改めた)となっている。古語拾遺にそのような記述は見られないから、誤写によるものか、もともと怪しいかどちらかであろう。それ以上に、袖中抄の記述には、いろいろと不可思議で興味深い指摘がある。要約すると、雲と同音の蜘蛛は、糸を吐いて布を機織りするが如く蜘蛛の巣を張っていく。機織りでできた布は同音の旗のようである。ということは、雲、蜘蛛、機、旗は、すべてゆかりのあることば、縁語ということになるというわけである。
 万葉集に、漢籍から学んだ観念に依った例を2つみる。

 天の河 霧立ち上る 織女(たなばた)の 雲の衣の 飄(かへ)る袖かも(万2063)
 生死(いきしに)の 二つの海を 厭はしみ 潮干の山を 偲ひつるかも(万3849)

前者は、織女(たなばた)が自分で織り、身につける衣を雲に見立てている。それが旗のようにはためき飄々と翻ると洒落ている。万葉人は洒落が大好きらしいから、雲、蜘蛛、機、旗の縁語関係は、十分に可能な想定といえる。後者は、1・2句目が華厳経の考えによるのではないかとされる。佐竹昭広『佐竹昭広著作集 第二巻;言語の深奥』(岩波書店、2009年)では、「生死の 久しき海を」と訓んで、仏典語の「生死久海」に依った直訳語であると主張する。尤も、漢籍から採り入れるにしても、倭の人々の感覚にそぐわないものは取り入れられなかったであろうと思われる。仮に豊旗雲がはっきりと直訳語であったなら、顕昭自身、海の雲の古語だと言ってみたり、瑞雲だと言ってみたり、二説唱えることはなかったであろう。
 そこで、次に、上代人にとっての旗のイメージを探ってみる。三省堂の時代別国語大辞典上代編には、「はた【旗・幡】(名)旗。戦争や葬式などのときに用いる。縦に細長い、のぼりのような形のものが多かったらしい」とする。記紀万葉に見える旗の例としては、「旗」(継体紀二十二年十一月条)、「幡旗(はた)」(神代紀第五段一書第五)、「旌旗(はた)」(神功前紀九年九月・十月条、欽明紀十四年十月条)、「旗旘(はた)」(天武紀元年七月条)、「旗幟(はた)」(推古紀十一年十一月条・舒明紀四年十月条)、「素幡(しらはた)」(景行紀十二年九月条)、「白旗」(欽明紀二十三年七月是月条・推古紀八年二月条)、「白旆(しろきはた)」(神功前紀仲哀九年十月条)、「幡荻(はたすすき)」(神功前紀仲哀九年三月条(枕詞))、「幡蓋(はたきぬがさ)」(欽明紀十三年十月条・十六年八月条、皇極紀二年十一月条)、「幡幢(はたほこ)」(万3856)、「五色幡(いついろのはた)」(欽明紀二十三年八月条)、「観頂幡(くわんぢゃうのはた)」(推古紀三十一年七月条・天武紀十一年八月条・持統紀三年正月条)、「小幡(ちひさきはた)」(推古紀三十一年七月条)、「五色幡蓋(いつつのいろのはたきぬがさ)」(皇極紀二年十一月条)、「蛸旗」(斉明紀四年七月条)、「波多(はた)張り立(だ)て」(允恭記歌謡88)、「赤幡」(清寧記)などとある。さらに枕詞のハタススキもあり、万葉集では、清音のハタススキ、濁音のハダススキの二形がある(万307・1601・1637・2283・2311・3506・3565・3800・3957)(枕詞ハダススキを含む)が、その異同の理由は不明である。旗が風に靡いているように風に靡くススキを表し、枕詞として、穂(ほ)に関する語句にかかる。他に、枕詞では、「青旗の」(万148・509・3331)という例がある。アヲハタノは、山の木々が茂っている様を導く。
 古字書類には、新撰字鏡に、「旟 二形同じ、以与反、平、旐也、旌也、旗の属也、勇也、揚也、波太(はた)」、「旄 七高反、軍陣の旄、波太(はた)」、「憧憧 昌恭反、又徒到反、意不定也、又往来也、比呂女久波太(ひろめくはた)」、和名抄に、「幡〈旒附〉 考工記に云はく、幡〈音翻、波太(はた)〉は旌旗〈精期二音〉、幡の総名也といふ。唐韻に云はく、旒〈音流、波太阿之(はたあし)〉は旌旗〈の末の垂れる者也といふ」とある。雄略紀に、「高麗(こま)の王(こきし)、我が国[新羅]を征伐(う)つ。此の時に当りて、綴(かが)れる旒(はたあし)の若く然なり」(八年二月条)とあって、今や新羅は吊り下げられた旒にのように、高麗王の思いのままに振り回されている始末であるとの意である。これは、きぬがさのそれぞれの骨の出っ張りの端に、脚のように総のように垂らしているものを言っている。
 また、和名抄・伽藍具の項に、「幡 涅槃経に云はく、諸の香木の上に五色の幡を懸くといふ〈波太(はた)又征戦具に見ゆ〉」とあり、「葢 同経に云はく、幢幡宝葢〈岐沼加散(きぬがさ)、白葢有り、高座の上具也〉なりといふ」、「宝幢 華厳経偈に云はく、宝幢は諸幡盖〈訓は波多保古(はたほこ)〉なりといふ」ともある。仏教の幡関連の具である。葢や盖は蓋の異体字である。きぬがさは、和名抄・服玩具に、「華盖 兼名苑注に云はく、華盖〈岐沼加散(きぬがさ)〉は黄帝蚩尤を征する時、当に帝の頭上に、五色の雲有り、其の形に因て造る所也といふ」とある。養老令・儀制令に、「凡そ蓋(きぬがさ)は、皇太子は紫の表、蘇方(すは)の裏、頂及び四角に、錦を覆ひて総垂れよ。親王は紫の大き纈(ゆはた)。一位は深き緑。三位以上は紺。四位は縹(はなだ)。〈四品以上及び一位は、頂・角に錦を覆ひて総垂れよ。二位以下は錦を覆へ。唯し大納言以上は総垂れよ。〉並に朱(あか)き裏。総には同色(どうじき)用ゐよ」とある。新撰字鏡に、「傘 〈繖字に同じ、先岸桑爛二反、盖也、支奴加佐(きぬがさ)〉」とある。以上から、上代にハタとは、軍旗であったり、降参する時の白旗、仏会に使う灌頂幡(かんじょうばん)のほか、蓋(きぬがさ)や幡幢(はたほこ)の類も含んでいるとわかる。
 用例としては、

 ひさかたの 天ゆく月を 網に刺し 我ご大王(おほきみ)は 盖(きぬがさ)にせり(万240)
 吾が背子が 捧げて持てる ほほがしは あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)(万4204)
 婆羅門の 作れる小田を 喫(は)む烏 瞼(まなぶた)腫れて 幡幢(はたほこ)に居り(万3856)
 ……蓋(きぬがさ)を飛雲(くもとひるが)へし、旌(はた)を張虹(にじとは)り、……(常陸風土記・行方郡条)
 青葉は自づから景(ひかげ)を蔭(かく)す蓋を飄(ひるがへ)し、……(同・久慈郡条)

といった形容が見られる。ハタと総称されるもののなかでも、蓋(きぬがさ)が人の上に冠さるもののため、雲の形容としてふさわしいようである。
蓋(きぬがさ)(左:成田山新勝寺にて、右:押上のソラマチにて(骨60本))
「傘」(和漢三才図会(寺島良安編『和漢三才圖會〔上〕』東京美術、昭和45年))
左:「爪折傘」、右:「羅傘」(ともに守貞漫稿(室松岩雄編『類聚近世風俗志』名著刊行会、平成元年))
左:「きぬがさ」(貞丈雑記(故実叢書編集部編『貞丈雑記』明治図書出版、1993年))、右:「きぬかさ」(後三年合戦絵詞下段第五段(小松茂美編『日本の絵巻14 後三年合戦絵詞』中央公論社、昭和63年))
蓋(きぬがさ)(華厳縁起・義湘絵巻一(小松茂美編『日本絵巻大成17 華厳宗祖師絵伝(華厳縁起)』中央公論社、昭和53年)
蓋(きぬがさ)(彦火々出見尊絵巻巻六(小松茂美編『続日本の絵巻19 彦々出見尊絵巻 浦島明神縁起』中央公論社、1992年))
蓋(きぬがさ)(法然上人絵伝巻三十四(小松茂美編『続日本の絵巻2 法然上人絵伝 中』中央公論社、1990年))
天蓋(法然上人絵伝巻八(小松茂美編『続日本の絵巻1 法然上人絵伝 上』中央公論社、1990年))
八角天蓋残欠(正倉院宝物(米田雄介・杉本一樹編著『正倉院美術館 ザ・ベストコレクション』講談社、2009年))(蛸旗?)
 また、斉明紀の「蛸旗」については、

 別(こと)に沙尼具那(さにぐな)[馬武(めむ)]等に、蛸旗二十頭(はたち)・鼓二面(ふたつ)・弓矢二具(ふたそなへ)・鎧二領(ふたつ)を賜ふ。(斉明紀四年七月条)

と記されている。服従した蝦夷に叙位するとともに与えている。この蛸旗は、平面的な旗の布に蛸の絵を描いたグラフィックデザインではあるまい。蛸の形をした幡蓋(はたきぬがさ)のことを指しているのであろう。八本の骨の傘で、それぞれの骨の先に旒(はたあし)、つまり、総状の飾りが吊り下がっているものであったものと思われる。鼓、弓矢、鎧とともに授けているので、軍事において使うように指示したものであろう。この蛸旗の記述は重要で、後に詳述する。
 そして、上の例中に垣間見たように、雲にも旗にも五色と表現されることがあった。続日本紀・神護景雲元年(767年)八月条にも、「五色瑞雲」とある。とはいえ、「豊旗雲」が「五色旗雲」と同一であるとは考えられていない。皇極紀に、

 二年の春正月の壬子の朔の旦(あした)に、五色(いつつのいろ)の大雲(おほきなるくも)、天に満(いは)み覆ひて、寅(とらのところ)に闕けたり。一色(ひとつのいろ)の青霧(あをききり)、周(よも)に地(つち)に起る。(皇極紀二年正月条)
 時に、五色(いつつのいろ)の幡蓋(はたきぬがさ)、種種(くさぐさ)の伎楽(おもしろきおと)、空(おほぞら)に照灼(てりひか)りて、寺に臨み垂れり。衆人(もろひと)仰ぎ観、称嘆(なげ)きて、遂に入鹿に指し示す。其の幡蓋等、変(かへ)りて黒雲(くろきくも)に為りぬ。是に由りて、入鹿見ること能得(あた)はず。(皇極紀二年十一月条)

とある。幡(はた)のなかでも蓋(きぬがさ)が雲に変わって行っている。そして、同じ皇極紀二年条に、わざわざ2文が示されている。仮に、「五色旗雲」なるものを想定したとして、それは吉兆らしいが、直ちにその通りになるとは当時の人としても決めかねるという意味である。(つづく)
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中大兄の三山歌 其の四

2014年11月12日 | 論文
(承前)
 15番歌については、議論が盛んである。

 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比弥之 今夜乃月夜 清明己曽

 3句目については、原文伝本において異同がある。元暦校本等に「弥」、西本願寺本等に「祢」、細井本等に「沙」、紀州本に「佐」とある。澤瀉久孝『万葉集注釈 巻第一(新装普及版)』(中央公論社、1982年)では、もともと「紗」とあった字をいろいろと誤写したとの説までとられている。現存する古写本の本文を尊重する点からいえば、「弥」であるはずで、「入り日見し」と訓むべきである。
左:元暦校本(小松茂美監修『元暦校本萬葉集〔巻第一〕』(二玄社、1983年)より)、右:西本願寺本(主婦の友社編『西本願寺本万葉集巻第1 普及版』(主婦の友社、1993年)より)
 ところが、それでは、文法的に二つの点で納得がいかないとされている。「入り日見し」について、第一に、佐佐木隆『上代語構文論』(武蔵野書院、平成15年)に、「〔実例として、〕『住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝…』〔万1149〕という表現は、『住吉に通じているという道で(私が)昨日見た恋忘れ貝…』という意味のものであり、作者が『住吉に行くといふ道』にいてそこで『恋忘れ貝』を見たという状況を描写したものである。『住吉に行くといふ道』にある『恋忘れ貝』を作者が遠い地点から眺めた、という意味の表現ではない。……この種の[――に――(を)見る]という構文は、
 [(表現主体が)――に(いて、その場所で)――(を)見る]
という意味を表すものであ」(6頁)るとする。上一段活用の他動詞「見る」の使われ方が、上代においてすべてそうなのだから、「この歌の作者が『豊旗雲』のある場所にいてそこで『入り日見し』という体験をしたという、事実としてありえない状況を想定せざるをえなくなる」(同、7頁)から、原文は「伊理比弥之」ではなく、「伊理比沙之」を採るべきであるとされている。
 第二の問題は、文の構造における時制(テンス)のことである。山口佳紀『古代日本語史論究』(風間書房、2011年)に、「連用形並立法とは、普通『連用形中止法』と呼ぶ用法のことである。先行の用言を後続の用言と並立させ、前者に後者と同じ構文的資格をもたせる用法である。……並立法においては、テンスは、先行する連用形の部分では決定されず、後続の動詞句で初めて決まる。そもそも、並立関係は、構文的職能を同じくする成分の間で成り立つ関係である。〈動詞連用形〉は客体的概念を表すが、〈動詞+テンス〉は単なる客体的概念ではない。したがって、両者が並立関係に立つ時、前者は後者全体とは並立できない。そのため、後者の動詞のみと関係を構成し、テンスは後から付け加わる形になる。それゆえ、先行の動詞句は、結果的に、後続の動詞句とテンス的に一致することになるのである」(413頁)とある。つまり、「豊旗雲に 入り日射し」とすると、「入り日」が「射」すのを現在の情景、「清明己曽」を未来の情景となって考えにくいとしている。そのうえで、「上代の〈動詞連用形〉には、『動名詞的用法』と呼ぶべきものが存したことが分かっているから、ここもその一例と見て……『入り日』の『入り』が『豊旗雲に』を直接に受けて、『豊旗雲に入ってゆく日』と表現したものと見ることができる。このような語法は、『万葉集』中にもさほど多くの例があるわけではなく、やや古風な語法であったかと思われる」(500~501頁)としている。これに対して、佐佐木、前掲書は、そのような承接関係を構成している東歌である万4407歌と表現に特殊な趣向を加えた記4歌に限られ、15番歌に敷衍するのは無理があるとしている。
 これらの議論の前提には、「見し」は上一段活用の他動詞「見る」の連用形に過去を回想する助動詞キの連体形のシが続いてものであるとの考えがある。確かに、これまでの解釈ではそうである。豊旗雲については、後に述べるとおり、瑞祥の形容である可能性を支持する意見は多い。しかし、そのような漢籍の知識をひけらかされたとして、大多数の無学の聞き手にとってはわかるはずもなく、聞き手がなるほどと納得して心に響かなければ名歌ではなく、伝えていく必要もない。しかし、万葉集の当初の編者はこの歌を採り、録している。当時の宮廷社会の人々に訴求して余りある重要な歌と考えたからであろう。
 ところで、「見し」の形となる活用形としては、「見る」の尊敬語の「見す」がある。四段活用の連用形で「見し」となる。確例としては、

…… 御諸(みもろ)が上に 登り立ち 我が見せば つのさはふ 磐余の池の ……(紀97)

とあり、天皇が国見の行為をする時の自称敬語となっている。また、

 潮には 立たむと言へど 汝夫(なせ)の子が 八十島(やそしま)隠(がく)り 吾を見さば知り(常陸風土記・香島郡条)

とあるのもその例かとされるが、原文の「和乎彌佐婆志理」を「吾を見さ走り」と訓むとも考えられる。
 この尊敬の動詞「見す」は、15番歌において、たいへん魅力的に感じられる。佐佐木先生の主張される、[――に――(を)見る]という構文が、[(表現主体が)――に(いて、その場所で)――(を)見る]であるとする原則は、上一段活用の他動詞「見る」のことである。下二段活用の自動詞「見ゆ」には当てはまらないと、先生ご自身で指摘されている。では、四段動詞の敬語の動詞「見す」に当てはまるかどうかであるが、他動詞だから当てはまるかと思われるが、例が少なくてわからない。
 歌い出しは、「わたつみの」である。ノは助詞であるが、連体助詞と格助詞の2種類がある。これまでの説では、「入り日見し」にせよ「入り日射し」にせよ、連体助詞として考えられていた。「わたつみの豊旗雲」のことを、海に浮かぶ素敵な雲のこと、cloudをお洒落に表現したものであることと解釈されていた。しかし、はたしてそうであろうか。
 1句目の「渡津海」はワタツミである。「わたつみ」とは海の神さまである。和名抄に、「海神 文選海賦に云はく、海童は是に於て宴語なり〈海童は則ち海神也〉といふ。日本紀私記に云はく、海神〈和名和多豆美(わたつみ)〉といふ」とある。西郷信綱「萬葉私記」(『西郷信綱著作集 第3巻;記紀神話・古代研究Ⅲ 古代論集』平凡社、2011年所収)に、「万葉において『わたつみ』と『海』『大海』『海原』等はまだかなりはっきり使いわけられ、『大海』や『海原』が視覚的平面をさすにたいし、『わたつみ』はもっと霊的なものを喚起する語であった。『わたつみの豊旗雲』の『わたつみ』も、したがってたんに海原とするわけにゆくまい。……豊御酒、豊葦原、豊宴(とよのあかり)、豊の年などの用語例をあげるまでもなく、豊ということばには呪的讃美をうたいこめるのがならわしであり、形式文法のいうように決して《美称》一般ではなかった」(83頁)としている。海とまったくの同一語とはいえない霊的な存在のワタツミが、海の上にただよう雲の直接の形容になると考えるのは、たとえそれが瑞祥であったとしても不釣り合いであり、記紀や風土記ほか、何の伝承にないところに架空することは歌作りとして強引に過ぎる。
 万葉集には、以下に示すように、ワタツミなる語は22例あり、ワタツミハの1例を除いてワタツミノの形をとっている。

 海若(わたつみ)の 沖に持ち行きて 放つとも うれむそこれが よみがへりなむ(327)
 …… 綿津海(わたつみ)の 手に巻かしたる 玉襷(たまだすき) 懸けて偲ひつ 日本嶋根を(366)
 海若は 霊(くす)しきものか 淡路島 中に立て置きて ……(388)
 潮満たば 如何にせむとか 方便海(わたつみ)の 神が手渡る 海部未通女(あまをとめ)ども(1216)
 海神(わたつみ)の 手に纒(ま)き持てる 玉ゆゑに 磯の浦廻(うらみ)に 潜(かづ)きするかも(1301)
 海神の 持てる白玉 見まく欲り 千遍(ちたび)そ告りし 潜きする海子(あま)(1302)
 潜きする 海子は告るとも 海神の 心し得ずは 見ゆといはなくに(1303)
 …… 海若の 神の女(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向ひ 相誂(あとら)ひ こと成りしかば かき結び 常世に至り 海若の 神の宮の 内の重(へ)の 妙なる殿に ……(1740)
 海若の いづれの神を 祈らばか 行くさも来(く)さも 船は早けむ(1784)
 海若の 沖つ玉藻の 靡き寝む 早来ませ君 待たば苦しも(3079)
 海若の 沖に生ひたる 縄海苔の 名はさね告らじ 恋は死ねとも(3080)
 和多都美(わたつみ)の 沖つ白波 立ち来らし 海人少女(あまをとめ)ども 島隠る見ゆ(3597)
 和多都美の 海に出でたる 飾磨川(しかまがは) 絶えむ日にこそ 吾が恋止まむ(3605)
 帰るさに 妹に見せむに 和多都美の 沖つ白玉 拾(ひり)ひて行かな(3614)
 …… 和多都美の 沖辺を見れば 漁(いさり)する 海人の少女は 小舟(をぶね)乗り …… 和多都美の 手巻きの玉を 家苞(いへづと)に 妹に遣らむと 拾ひ取り ……(3627)
 和多都美の 沖つ縄海苔 来る時も 妹が待つらむ 月は経につつ(3663)
 和多都美の 恐(かしこ)き道を 安けくも なく悩み来て ……(3694)
 …… 海神の 殿の蓋(いらか)に 飛び翔る ……(3791)
 …… 和多都美の 沖つ宮辺に 立ち渡り との曇り合ひて 雨も賜はね(4122)、
 和多都民(わたつみ)の 神の尊(みこと)の 御櫛笥(みくしげ)に 貯へ置きて 斎くとふ ……(4220)

 そして、ワタツミノにつづくことばとして、「沖」、「神」、「手」、「白玉」ないし「玉」、「持てる」、「手巻き」、「宮」、「殿」といったことばが見られる。海の神さまは手に真珠らしき白玉を巻き持っていたり、記紀に豊玉姫を娘とする海神は龍宮城のような宮に住んでいたとか、浦島子のかたらった処女の話などと関係があると考えられていたようである。白玉については、あるいは、ワタツミをワ(環)+タツ(龍)+ミ(霊)ととって、龍の持っているとされる玉を暗示しているのかもしれない。新川登亀男『日本古代の対外交渉と仏教』(吉川弘文館、1999年)に、遣唐使船が船に海龍王を祭り、海龍王経を読むことについて、論述されている。それはさて、万葉歌のなかで、366・1301・1302番歌などのワタツミノのノは、格助詞である。15番歌の場合も、「渡津海(わたつみ)の 豊旗雲に」のノも、格助詞ではないか。
 2句目の「豊旗雲」は、修飾語が畳みかけられたことばである。
 記紀において、形容語の冠された雲の例としては、固有名詞を除くと、「海上浮雲(うなはらのうへにうかべるくも)」(神代紀第一段一書第五)、「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」(神代紀第八段本文)、「藂雲(むらくも)」(景行紀四十年十月条)、「天八重雲(あめのやへたなくも)」(神代紀第九段本文・同一書第四・第六)、「天之八重たな雲(あめのやへたなぐも)」(記上)、「青雲の」(神武前紀戊午年三月条、神武記(枕詞))、「西北(いぬゐのかた)に山有り。帯雲(くもゐ)にして、横(よこしま)に絚(わた)れり。蓋し国有らむか」(神功前紀仲哀九年九月条)、「雨雲」(宣化紀元年五月条)、「風雲」(欽明紀十三年十月条)、「五色大雲(いつついろのおほきなるくも)」(皇極紀二年正月条)、「黒雲」(皇極紀三年十一月条・天武紀元年六月条)があげられる。
 万葉集において、「雲」という語の前にそれを形容する修飾語の付いた語は、「旦雲(あさくも)」(324)、「雨雲」(167(2)・199・205・235・319・321・420・443・546・547・553・800・1304・1369・1700・1801・1804・1832・2132・2227・2451・2490・2658・2816・3030・3031・3225・3259・3272・3326・3329・3344・3409・3716・3791・3898・4242・4253・4247・4254)(枕詞アマクモノを含む)、「青雲」(161・3329・3519・3883・4403)(枕詞アヲクモノ、東語アヲクムを含む)、「下雲」(3516)、「白雲」(243・287・317・353・377・509・574・668・758・866・942・971・1089・1282(2)・1520・1681・1740・1747・1749・2026・2041・2332・3179・3329・3360・3517・3602・3957・3958・4003・4006・4122)(枕詞シラクモノ、動詞シラクモガクルを含む)、「浪雲」(3276)、「布雲(にのくも)」(3513(東語))、「八雲刺す」(430(枕詞))、「八重雲」(167・2658)(ヤヘクモガクリを含む)、「横雲」(2647)が挙げられる。
 新撰字鏡に、「崦¶(山偏に曇) 上於牟反、鬱也、不明也、暗昧也、下微等反、黒雲曰乎於保不(くろくもひをおほふ)」、和名抄に、「雲 説文に云はく、雲〈王分反、和名久毛(くも)〉は山川の気出づる也といふ」とある。そのような例から見ると、普通名詞として「豊旗雲」なる語が存在することは、べらぼうに過剰な修飾形容をつけられていて不自然に感じられる。文徳天皇実録に、「天安二年[858]六月庚子。早旦、白雲有りて、艮より坤に亘る。時人之れを旗雲と謂ふ」とあるが、「旗雲」ではなく、また、平安時代の例である。「豊旗雲」という名称を瑞祥とする説としては、東野治之「豊旗雲と瑞祥;瑞祥関係漢籍の受容に関連して」『萬葉集研究 第十一集』(塙書房、1983年)に、顕昭(1130?~1209?)の袖中抄が引く、「瑞応図云、豊旗雲者瑞雲也。帝徳至時出現雲也。雲勢似也云々」とある記事を援用している。平安時代の前半の寛平年間に録された藤原佐世(ふじわらのすけよ)の日本国見在書目録・五行家に、「瑞応図十五」、「符瑞図十〈顧野王撰〉」、同・兵家に、「瑞祥兵法二」、「雲気兵法一」といった書名が見える。実生活や戦場において、本当に瑞祥かどうか確認するためには、 図入りの手引きが必要であったと思われる。養老令・儀制令に、「凡そ祥瑞応見せむ、若し麟鳳亀竜(りんふうくゐりう)の類、図書(づしょ)に依るに、大瑞に合(かな)へらば、随ひて即ち表奏(へうそう)せよ」とある。いずれの書物も今日には伝わっていないものの、芸文類聚に載る雲についての瑞祥記事としては、「孫子瑞応図に曰く、景雲は太平の応なりといふ。一に曰はく、慶雲といふ。気に非ず、煙に非ず、五色の氛氳(ふんうん)、之れを慶雲と謂ふ」とある。皇極紀の「五色大雲」は瑞祥を示す記事であろうとされる。8世紀の元号の慶雲(704~708)や神護景雲 (767~770)、唐の景雲(701~702)もこれに由来する模様である。そして、周礼の春官・大史に、「大師に、天時を抱かせ、大師と車を同じくす」とあって、大規模な軍事行動の際には天時を占う図書を携行し、耳の達者な人を同乗させよと指示されている。敵軍の動きを察知しながら占いに従って作戦を練った模様である。戦争に赴くのであるから、瑞応図を見ていても不思議ではないということになる。
 しかし、豊旗雲に関して伝える袖中抄が引く記事は、芸文類聚には見当たらず、袖中抄以外に豊旗雲について漢籍に由来するとの記事が見当たらない。そのため、信用するに躊躇せざるを得ない。もし漢籍に当該語があるなら、景雲(慶雲)(ケイウン)などと同様に、豊旗雲はホウキウンなどと読まれ、訳されてトヨハタクモになったのではないかと考えられるが、そのような形跡を見ない。ましてや、時代は初期万葉期であり、漢語を巧みに使いこなす層は一握りにすぎなかったであろう。瑞応図から採られたことばとしてトヨハタクモなる語があったとは考えにくい。むしろ袖中抄が関連していろいろ考察している怪しげな文章のほうに、興味深いものを感じる。項目は、「くものはたて」である。多少長くなるが、全文を引用する。(つづく)
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中大兄の三山歌 其の三

2014年11月03日 | 論文
(承前)
 天照大御神(天照大神)・月読命(月読尊・月弓尊・月夜見尊)・須佐之男命(素戔嗚尊)の三貴子によって、世界は治められることになっている。記紀の各本によって細部にはいろいろ違いがあるが、記とおおよそ同じ話は神代紀第五段一書第六に見られる。亡くなつた妻の伊奘冉尊を追いかけて伊奘諾尊は黄泉に至った。けれども、けがらわしい姿を見たことが原因で仲違いして現世に戻ってくる。 穢れた身を清めようと川で禊ぎをした。身につけていたものを脱ぎ捨てていくと、それぞれ数々の神が生まれた。最後に左の眼を洗うと天照大御神(天照大神)が生まれ、右の眼を洗うと月読命(月読尊)が生まれ、鼻を洗うと須佐之男命(素戔嗚尊)が生まれたという。それに先立って、反歌の15番歌に登場している「わたつみ」の神々も生まれている。出航して沖合にいるのだから、人々にはこの物語が想起されていたに相違あるまい。住吉大社神代記においても、同様の記述が行われている。
 この三貴子は分治を行なうのであるが、記紀それぞれの書により少しずつ異なる。それらをよく行われているように表にあらわすと、次のようになる。
 
         天照大御神(天照大神) 月読命(月読尊)     須佐之男命(素戔嗚尊)
 記        高天原           夜の食国          海原
 紀本文     天上             日に配ぶ          根の国
 一書第一    天地             日に配ぶ          根の国
 一書第六    高天原           蒼海原            天下
 一書第十一  高天原           日に配ぶ          滄海原

異同はあるものの、天照大神が日の象徴、月読尊が月の象徴であったことは確かであろう。そして、記や神代紀第六段一書第十一には素戔嗚尊は海原を治めたことになっている。
 この三貴子の伝説に語られる事柄こそ、中大兄は13番歌で詠んだ3つの時制、「神代」、「古」、「うつせみ」のうちの「古」に対応する事柄である。飛鳥時代の宮廷社会の人にとって、特に天皇にとっては、大和三山の話は「神話」であっても、三貴子の物語は「史実」、当時のことばでいえば、コトであると考えていたであろう。それが飛鳥時代までの天皇の正統性の主張である。日本書紀について平安朝以降に解釈された考え方とは異なるし、現代の歴史学が盛んに主張、展開する「天皇」の称号の発生や「日本」という国号の成立との関連から説く考え方とも異なるものと考えられる。
 記紀の文章の中に、「神世(かみのよ)」ということばが出てくるのは、

 次に成りし神の名は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)。次に豊雲野神(とよくもののかみ)。此の二柱の神も亦、独神(ひとりがみ)と成り坐して、身を隠しき。次に成りし神の名は、宇比地邇神(うひぢにのかみ)、次に妹須比智邇神(いもすひちにのかみ)。次に角杙神(つのぐひのかみ)。次に妹活杙神(いもいぐひのかみ)〈二柱〉。次に意富斗能地神(おほとのぢのかみ)。次に妹大斗乃弁神(おほとのべのかみ)。次に於母陀流神(おもだるのかみ)。次に妹阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)。次に伊耶那岐神、次に妹伊耶那美神。上の件の、国之常立神より以下(しも)、伊耶那美神より以前(さき)は、并せて神世七代(かむよななよ)と称(い)ふ。〈上の二柱の独神は、各一代と云ふ。次に双(なら)べる十の神は、各二の神を合せて一代と云ふ〉。(記上)
 凡て八の神ます。乾坤(あめつち)の道、相参(まじ)りて化(な)る。所以(このゆゑ)に、此の男女を成す。国常立尊(くにのとこたちのみこと)より、伊弉諾尊・伊弉冉尊に迄(いた)るまで、是を神世七代(かみのよななよ)と謂ふ。(神代紀第三段本文)

と、きわめてはじめのところである。伊耶那岐神(伊奘諾尊)・伊耶那美神(伊奘冉尊)が登場するところまでである。それ以降は、初期万葉時代、飛鳥時代の人にとっては、「神代」というよりも「古」ということばで認識されていたということになる。彼らに伝えられて今日、記紀に残るような伝承は、いわゆる「神話」とは思っていなかった。言い伝えられるお話は、みな現実感に満ちて生き生きとしていた。それを中国の史書のように文字によって書き上げることが命じられて苦心惨憺してできあがったのが文献としての記紀である。やまとことばを漢字、漢語で表す折衷案によって成ったのである。紀の巻名に「神代上」などとあるのは、漢風諡号同様、後の人の書き入れによるものと推測される。
 13番の長歌に、「神代」といっているのが大和三山の争いである。「古」といっているのが三貴子の物語、「うつせみ」とは直面する国際情勢である。その関係を図に示した。三つの時制におけるそれぞれの三者関係は見事に対応している。香具山は天の香具山といれるとおり天を象徴している。天に輝く太陽の光によって、稲は豊かに育つのである。ただし、そう言い出したのはそれほど古いことではなかろう。都が香具山に程近いところ、飛鳥の地へ遷ってきてから、稲作祭祀が発展したに違いあるまい。畝傍山と耳梨山が当初から何を象徴していたかは不明である。ここで想定したいのは三者の関係性である。三貴子の伝説では、天照大御神(天照大神)が天、月読命(月読尊)が月、須佐之男命(素戔嗚尊)が海を表象している。そして、今、倭と新羅は百済をめぐって争っている。



 記紀のさまざまな文章からは、三貴子の力関係がはっきりしないが、13番歌に、「古も 然にあれこそ」と強調している。中大兄は天照大御神(天照大神)の優位性を信じていたに相違あるまい。須佐之男命(素戔嗚尊)の悪童ぶりは、「天石屋(あめのいはや)(天石窟(あまのいはや))」に閉じ籠る事件につながる話として、記紀のいずれにも出てくる。天照大御神(天照大神)は弟に当たる須佐之男命(素戔嗚尊)をずいぶんかばい、好意的な評価をするけれど、結局は愛想が尽きて引き籠ってしまい、業を煮やした他の神々たちによって、高天原というエデンの園から放逐されてしまった。
 月読尊に関しても、神代紀第五段一書第十一に保食神(うけもちのかみ)を殺す場面がある。食物神を殺すのは、記の速須佐之男命が大気都比売(おおげつひめ)を殺すのと同じである。自ら食物を作ることができないことの証であって、支配者に幣を捧げることも意味すると考えられている。その話自体は、五穀の誕生の物語と結びついている。五穀には、紀一書第十一に、記にはない牛馬や稗が登場している。記の発展形として、紀一書第十一は捉えられる。牛馬や稗が加わっているのは、水田稲作農耕に利用する牛馬や、稲の雑草としての稗のことが気になるからであろう。自分たちを稲作「民族」として強く意識して位置づけていったということである。その箇所には、

 時に天照大神、怒りますこと甚しくして曰はく、「汝は是悪しき神なり。相見じ」とのたまひて、乃ち月夜見尊と、一日一夜(ひとひひとよ)、隔て離れて住みたまふ。(神代紀第五段一書第十一)

とある。月夜見尊がその後どうなったか記述はないが、日中は太陽が、夜は月が輝くこと、そして、日中に月があっても影が薄いことの由来を暗示しており、そのうえ、太陽は食物、ひいても稲を稔らせることができるが、月は食物を何も生まないことを表しており、素直に受けとめることができる。月読尊(月夜見尊)は、天照大神から取るに足らないと無視されるほどの存在であったと捉えて自然である。
 これらの相対的な力関係を重ね合わせてトレースしてみると、結果的に、香具山・天照大御神(天照大神)・倭が、耳梨山・月読命(月読尊)・新羅と争って勝利し、畝傍山・須佐之男命(素戔嗚尊)・百済を支配するという展開に至る。中大兄が歌のなかで言わんとしていることが明瞭になってきた。
 歌が歌われた当時、実際に争っていたのは新羅と百済である。百済に救援軍を送るのが倭であり、新羅と連合軍を作ったのが唐である。しかし、倭の送った軍隊は義勇兵ではなく、天皇を最高司令長官とする正規軍である。元首が戦場へ赴こうとしているのだから、百済の救済が目的ではなく、唐に代わって百済を事実上領有しようとするのが目的であったろう。人質にして倭に留まっていた百済王子の豊璋(ほうしょう)を百済の王として擁立し、傀儡政権の樹立を画策していた。上に引いた斉明紀六年十月条の割注に、「天皇、豊璋を立てて王と為し」とある。同じようなことは少し後になって新羅が行っている。唐の勢力を朝鮮半島から追い出しにかかるときに、滅亡した高句麗に新政府を作って唐と戦わせている。
 中大兄の三山歌は、神代の時代から説き起こして、三貴子伝説を媒介にして日・月・海の三者関係を導き出し、直面する国際情勢を歌った歌である。13番歌の大意は、香具山は、畝傍山を男らしいと思って、耳梨山と互いに争った。神代からこうであるらしい。古の三貴子もそうであったから、今の世も夫を争うが如き出来事が起きているに違いない。14番歌の大意は、香具山と耳梨山とが争った時、その勝敗を見定めようと阿菩大神が見に来たという印南国原である。その名は、稲の稔りが豊かで、稲穂が波を打っているように広がる平原であることに因んでいる。いま船上からよく見えるのは、そんな天の恵みが優れているところである。
 13番の長歌において、「神代」、「古」、「うつせみ」の三つの時代を並列させて、争いの状況を確認している。三つの時代を歌うことは、紀122歌の童謡の意見に反して「倭」の版図が拡大することを示唆させる役割を担っている。三山の性別をめぐって議論が分かれていた。中大兄が歌いたいのは最終的には百済の領有権争いである。ツマは比喩である。歌のなかでは香具山が畝傍山を「雄々し」と言っているから、香具山は女性、畝傍山は男性と推定される。したがって、互いが争っている耳梨山は女性と考えるのが順当であろう。一人の男性を二人の女性が争っている形式になる。実際の山容も畝傍山の標高が高く、男性的である。ただし、女性としての魅力は香具山の方が耳梨山よりもずっと優っていると言いたいのであろう。
 古の三貴子において、天照大御神(天照大神)は女性、須佐之男命(素戔嗚尊)は男性のように言い伝えられている。月読命(月読尊)の話はほとんど出てこないから性別は不分明である。万葉集では、「月読壮士(つくよみをとこ)」(985・1372)という例が見られ、平安初期、延暦23年(804年)に書かれたとされる皇大神宮儀式帳には、馬に乗った男神とされている。しかし、月と女性との関係は生理との関連などから根強く意識されるところでもあり、中大兄の三山歌の時点ではまだ決まっていなかったのではなかろうか。ここでは三者の関係上、月読命(月読尊)は女性と考えたほうがわかりやすい。天照大御神(天照大神)と同じく、禊ぎによって伊耶那岐命(伊奘諾尊)の目から生れている。
 うつせみにおいて、倭、百済、新羅の関係を考えると、倭は推古天皇(在位、592~628)、皇極・斉明天皇(在位、642~645・655~661)と、女帝が長らく君臨している。天照大御神(天照大神)の国の首長には女性が適任との考えに基づくらしい。百済は男帝が続いていた。一方、新羅は、7世紀の半ばに善徳(ソンドク)王(位、632~647)、真徳(チンドク)王(位、647~654)と2人女王が続いた後、男性の武烈王 (位、654~661)が王位に就いている。武烈王は、紀に、「金春秋(こむしゅんしう)」の名で載る。「質(むかはり)」として来ていたとあり、「姿顔(かほ)美(よ)くして善(この)みて論笑(ほたきこと)す」(孝徳紀大化三年是歳条)と紹介されている。
 中大兄が、播磨風土記の揖保郡条に載る三山闘争と阿菩の大神の話を民俗採集の形で聞いて、そのまま三山歌を歌ったとは想定できない。風土記の話では三山のどこが勝ったのかわからない。おそらく、三山闘争に関係する話を聞いて着想し、彼なりにその後の経緯を考えたのであろう。当然、香具山が耳梨山に勝つようにである。そして、印南郡の印南国原に結び付けた。不分明であることも手伝って、「神代」のこととされた。印南国原とは、太陽の恵みで稲が波を打つように稔り豊かな平原のこととこじつけた。太陽を司るのは天照大御神(天照大神)であり、また、倭の天皇は稲作の祭祀者になっている。それを大和三山に当てはめれば天香具山である。勝者は香具山、敗者は耳梨山である。そして、それは、大和三山の相対的な位置関係にも対応している。香具山が東、畝傍山が西、耳梨山が北に当たる。倭、百済、新羅の方位と相似形になっている。戦争の図上訓練を、なぞなぞ歌謡のなかでしていたということである。(つづく)
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中大兄の三山歌 其の二

2014年11月03日 | 論文
(承前)
 さて、三山歌について戻って考えると、なかなかに奇妙な設定といえる。海上にいるのだから3首目の15番歌は納得がいく。しかし、朝鮮半島にまで行こうとする船の上で、何がおもしろくて大和三山を歌っているのであろうか。播磨風土記にある伝説から着想を得たという説が通行しているけれど、それにしてはずいぶん分量が多い。中大兄は何が言いたいのか。紀では、斉明天皇が6年10月に百済救済の出陣を決めてから、7年正月に出航する前から不吉な記事が続いている。負け戦の前兆ではないかと言っている。

 [六年冬十月に、斉明天皇、]詔して曰はく、「師(いくさ)を乞ひ救(すくひ)を請(まを)すことを、古昔(いにしへ)に聞けり。危(あやふき)を扶け危えたるを継ぐことは、恒の典に著れたり。百済国(くだらのくにのひと)、窮(せま)り来りて我に帰(よ)るに、本邦(もとのくに)の喪(ほろ)び乱れて、依るところ靡(な)く告げむところも靡しといふを以てす。戈を枕にし胆(い)を嘗む。必ず拯救(すくひ)を存(たも)てと、遠くより来りて表啓(まを)す。志奪ひ難きこと有り。将軍(いくさのきみ)に分ち命(おほ)せて、百道(もものみち)より倶に前(すす)むべし。雲のごとくに会ひ雷のごとくに動きて、倶に沙㖨(さたく)に集らば、其の鯨鯢(あた)を翦(き)りて、彼(そ)の倒懸(せまれる)を紓(の)べてむ。有司(つかさ)、具(つぶさ)に為(そなへ)与へて、礼(ことわり)を以て発(た)て遣せ」と、云々(しかしかのたまふ)。王子豊璋(ほうしゃう)及び妻子(めこ)と、其の叔父忠勝(ちうしょう)等とを送る。其の正(まさ)しく発遣(た)ちし時は、七年に見ゆ。或本に云はく、天皇、豊璋を立てて王(こきし)とし、塞上(さいじゃう)を立てて輔(たすけ)として、礼(ことわり)を以て発(た)て遣すといふ。
 十二月の丁卯の朔庚寅〔24日〕に、天皇難波宮に幸(おはしま)す。天皇、方(まさ)に福信が乞(まを)す意(こころ)に随ひて、筑紫に幸して、救軍(すくひのいくさ)を遣らむと思ひて、初づ斯に幸して、諸の軍器(つはもの)を備ふ。
是歲、百済の為に将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖(つくりをは)りて、続麻郊(をみの)に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無くして艪軸(へとも)相反(かへ)れり。衆(ひとびと)終に敗れむことを知(さと)りぬ。科野国言さく、「蠅群れて西に向ひて、巨坂(おほさか)を飛び踰ゆ。大きさ十囲(といだき)許(ばかり)。高さ蒼天(あめ)に至れり」とまをす。或いは救軍の敗績(やぶ)れむ怪(しるまし)といふことを知る。童謡有りて曰く、
 摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝
といふ。(斉明紀六年十~十二月条)

 最後の童謡は奇怪なもので、難訓で今日まで訓めていない。紀の歌謡は独特の難しい文字を使っていながらも、一字一音の音仮名だから訓めないというのはおかしい。この童謡もほとんどが音仮名に見られる文字である。要するに、征西の軍の成功しないことを諷刺した歌であり、検閲によって訓めなくしたのか、検閲されて消されないように難しく書いたのであろう。「童謡」と書いてワザウタと訓むのは、子どもが歌うことによって事柄の真意、隠された神意が表明されるからという。子どもが世相を諷刺する歌を歌うしかない時代とは、なかなかに息が詰まるような生きにくい時代であるらしい。
 中大兄の三山歌の落ち着きのなさは、おそらく、この童謡の内容がわからないためであろう。世論調査の支持率が悪く、失政ではないかと批判する諷刺マンガが出た。官房長官である中大兄は、記者会見の席でそれを否定する見解を述べ、政策の正当性を主張する演説を求められていた。それも格調高く、人々、わけてもヤマト朝廷を支えている宮廷社会の人々の心に訴える術が必要であった。そのために歌が選ばれ、三山歌が歌われた。それが事実に近いのではなかろうか。童謡が読み解かれれば、船旅をしながら見えもしない大和三山を歌った理由がヨリわかりやすくなるであろう。
 この紀122番歌の解読はたいへんなので別に論じることにする。中大兄が三山歌を歌う動機まで詮索しなくても、理解できないことはない。童謡の指していることは、政策への批判、出兵への反対に相違ないものと思われる。そしてまた、三山争いのことが「神代」のこと、朝鮮半島と倭の国際情勢が「うつせみ」とするなら、「古」のことが抜け落ちているから、「古」の言い伝えを拠りどころとした皮肉を童謡が言っていて、それに真っ向から事実誤認であると反論しているものと想定される。そう仮定したうえで論を進めていくことにする。
 中村幸弘『和歌構文論考』(新典社、平成26年)に、万葉集には、「已然形に『こそ』が直接して構成される確定条件順態接続表現は、[帰結句のあるものとしては]十六例存在する。それに、同じはたらきをする形容詞型活用語の語幹相当部分に接尾語『み』を付けて『こそ』に連ねた二例を加えた十八例が、已然形に付く『ばこそ』以前の、それに相当すると思われる該当例である。……[そして、13番歌の『古も 然にあれこそ うつせみも 嬬を 争ふらしき』とあるのは、]あらかじめ理由に相当することになる具象事例が前文に引かれていて、それを受けて『然(しか)にあれこそ』……として、改めて理由として、周知の現実の背景を推定している、已然形に『こそ』が付いた前件とその後件とである」(175~177頁)と解説されている。
 13番歌には、

 神代より かくにあるらし
 古も 然にあれこそ
 うつせみも 嬬を 争ふらしき

と、3つの時制について述べられている。その述べ方において、「神代」と「うつせみ」では推量の助動詞ラシが用いられながら、「古」においてのみ、確定している具象事例が周知の事柄として取り扱われている。「神代」≠「古」なのである。管見ではあるが、これまで「神代」=「古」と決めつけていたため、中大兄の三山歌は、真の理解に近づくきっかけを失っていたものと思われる。神野志隆光「中大兄の三山歌」神野志隆光・坂本信幸企画編集『セミナー万葉の歌人と作品 第一巻;初期万葉の歌人たち』(和泉書院、1999年)に、「大和三山をめぐる話は共通の了解としてあり、歌はそれを前提として、歌のなかで話にはふれない(一四歌にも通じる問題である。……)。『神代よりかくにあるらし』という『かく』は、歌の外にあるものにおいてはじめて了解されるといってよい。歌は言語外の文脈に依拠して成り立つのであり、言語表現として自立していない。そのありようは口承の世界のものであったとみるべきであろう」(108頁)としている。その「かく」を播磨風土記に求めるのは正しいことと思われる。ただし、「古も然に有れこそ」とは、前述のとおり、歌の外の文脈に依拠しつつ、その出典は播磨風土記とは異なると考えられる。「古」のストーリーのみ、当時の宮廷社会の人々にとって、誰もがお馴染みの周知の現実として語られている。それは、とりもなおさず、記紀の言い伝えにあるに相違あるまい。
 記紀において、「古」において三者が競い合うような形の事柄といえば、三貴子の分治の物語として良く知られる。黄泉国から帰還した伊耶那岐命(伊弉諾尊)の禊、ないし、伊弉諾尊・伊弉冉尊の国生みにつづく事項として語られる。

 是に[伊耶那岐命、]詔(のりたま)はく、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱(よわ)し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に墮ちかづきて滌(すす)ぎし時に、成り坐せる神の名は、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、次に大禍津日神、此の二の神は、其の穢れ繁き国に到れる時に、汚垢(けが)れしに因りて成れる神ぞ。次に其の禍(まがこと)を直さむと為て成れる神の名は、神直毘神(かむなほびのかみ)、次に大直毘神。次に伊豆能売神(いづのめ)。〈并せて三の神ぞ〉次に水底に滌ぎし時に、成れる神の名は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、次に底筒之男命(そこつつのをのみこと)。中に滌ぎし時に、成れる神の名は、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、次に中筒之男命(なかつつのをのみこと)。水の上に滌ぎし時に、成れる神の名は、上津綿津見神(うへつわたつみのかみ)、次に上筒之男命(うへつつのをのみこと)。此の三柱の綿津見神は、阿曇連(あづみのむらじ)等が祖神(おやがみ)と以ていつく神ぞ。故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)の子孫(あなすゑ)ぞ。其の底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前(みまへ)の大神ぞ。是に、左の御目を洗ひし時に成れる神の名は、天照大御神。次に、右の御目を洗ひし時に成れる神の名は、月読命。次に、御鼻を洗ひし時に成れる神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)。右の件の、八十禍津日神より以下(しも)、速須佐之男命より以前(さき)の十柱の神は、御身を滌ぎしに因りて生めるぞ。此の時に、伊耶那岐命、大きに歓喜(よろ)こびて詔はく、「吾は子を生み生みて、生み終へに三の貴き子を得つ」とのりたまひて、即ち其の御頸珠の玉の緒、もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて、詔ひしく、「汝が命は、高天原を知らせ」と事依して賜ひき。故、其の御頸珠の名は、御倉板挙之神(みくらたなのかみ)と謂ふ。次に月読命に詔ひしく、「汝が命は、夜之食国(よるのをすくに)を知らせ」と、事依しき。次に建速須佐之男命に詔ひしく、「汝が命は、海原を知らせ」と、事依しき。(記上)
 次に海(うなはら)を生む。次に川を生む。次に山を生む。次に木の祖(おや)句句廼馳(くくのち)を生む。次に草(かや)の祖草野姫(かやのひめ)を生む。亦は野槌(のつち)と名く。既にして伊弉諾尊・伊弉冉尊、共に議(はか)りて曰はく、「吾已に大八洲国(おほやしまのくに)及び山川草木を生めり。何(いかに)ぞ天下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざるか」とのやまふ。是に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(おほひるめのむち)と号(まを)す。大日孁、此には於保比屢能武智(おほひるめのむち)と云ふ。孁の音は力丁反。一書に云はく、天照大神といふ。一書に云はく、天照大日孁尊(あまてらすおほひるめ)といふ。此の子、光華(ひかり)明彩(うるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る。故、二の神喜びて曰はく、「吾が息(こ)多(さは)ありと雖も、未だ若此(かく)霊(くしび)に異(あや)しき児有らず。久しく此の国に留めまつるべからず。自づから当に早(すみやか)に天に送(おくりまつ)りて、授くるに天上(あめ)の事を以てすべし」とのたまふ。是の時に、天地(あめつち)、相去ること未だ遠からず。故、天柱(あめのみはしら)を以て、天上に挙(おくりあ)ぐ。次に月の神を生みまつります。一書に云はく、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つくよみのみこと)、月読尊といふ。其の光彩(うるは)しきこと日に亜(つ)げり。以て日に配(なら)べて治(しら)すべし。故、亦天に送りまつる。次に蛭児(ひるこ)を生む。已に三歲になるまで、脚猶し立たず。故、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載せて、風の順(まにま)に放ち棄つ。次に素戔嗚尊を生みまつります。一書に云はく、神素戔嗚尊(かむすさのをのみこと)、速素戔嗚尊(はやすさのをのみこと)といふ。此の神、勇み悍(たけ)くして安忍(いぶり)なること有り。且常に哭き泣(いさ)つるを以て行(わざ)とす。故、国内(くにのうち)の人民(ひとくさ)をして、多に以て夭折(あからさまにし)なしむ。復使(また)、青山を枯(からやま)に変(な)す。故、其の父母の二神、素戔嗚尊に勅(ことよさ)したまはく、「汝(いまし)、甚だ無道(あづきな)し。以て宇宙(あめのした)に君臨(きみ)たるべからず。固(まこと)に当に遠く根の国に適(い)ね」とのたまひて、遂に逐(やら)ひき。(神代紀第五段本文)
 伊弉諾尊、既に還りて、乃ち追ひて悔いて曰はく、「吾、前(さき)に不須也凶目(いなしこめ)き汚穢(きたな)き処に到る。故、吾が身の濁穢(けがらはしきもの)を滌ぎ去(う)てむ」とのたまひて、則ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)に至りまして、祓(みそ)ぎ除(はら)へたまふ。遂に身の所汚(きたなきもの)を盪滌(すす)ぎたまはむとして、乃ち興言(ことあげ)して曰はく、「上つ瀬は是太(はなは)だ疾(はや)し。下つ瀬は是れ太だ弱(ゆる)し」とのたまひて、便ち中つ瀬に濯(すす)ぎたまふ。因りて生める神を、号けて八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と曰す。次に其の枉れるを矯(なほ)さむとして生める神を、号けて神直日神(かむなほひのかみ)と曰す。次に大直日神(おほなほびのかみ)。又海(わた)の底に沈(かづ)き濯ぐ。因りて生める神を、号けて底津少童命(そこつわたつみのみこと)と曰す。次に底筒男命(そこつつのをのみこと)。又潮の中に潜(かづ)き濯ぐ。因りて生める神を、号けて中津少童命(なかつわたつみのみこと)と曰す。次に中筒男命(なかつつのをのみこと)。又潮の上に浮き濯ぐ。因りて生める神を、号けて表津少童命(うはつわたつみのみこと)と曰す。次に表筒男命(うはつつのをのみこと)。凡て九の神有(いま)す。其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち住吉大神(すみのえのおほみかみ)なり。底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連(あづみのむらじ)等が祭れる神なり。然して後に、左の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて天照大神と曰ふ。復右の眼を洗ひてたまふ。因りて生める神を、号けて月読尊と曰す。復鼻を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて素戔嗚尊と曰す。凡て三の神ます。已にして、伊弉諾尊、三の子に勅任(ことよさ)して曰はく、「天照大神は、以て高天原を治すべし。月読尊は、以て滄海原の潮の八百重(やほへ)を治すべし。素戔嗚尊は、以て天下を治すべし」とのたまふ。是の時に、素戔嗚尊、年已に長いたり。復八握鬚髯(やつかひげ)生ひたり。然れども天下を治さずして、常に啼き泣ち恚恨(ふつく)む。故、伊弉諾尊問ひて曰はく、「汝は何の故にか恒に如此(かく)啼く」とのたまふ。対へて曰(まを)したまはく、「吾(やつかて)は母に根国に従はむと欲ひて、只に泣かくのみ」とまをしたまふ。伊弉諾尊悪(にく)みて曰はく、「情(こころ)の任(まにま)行ね」とのたまひ、乃ち逐(やらひや)りき。(神代紀第五段一書第六)
 一書に曰く、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、高天之原を御(しら)すべし。月夜見尊は、日に配べて天の事を知らすべし。素戔嗚尊は、蒼海之原(あをうなはら)を御すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第十一)(つづく)
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中大兄の三山歌 其の一

2014年11月03日 | 論文
 万葉集の巻1の13~15番歌は、中大兄の三山歌として知られる。原文に、

  中大兄近江宮御宇天皇三山歌一首
 高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍竸伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉
  反歌
 高山与耳梨山与相之時立見尓来之伊奈美國波良
 渡津海乃豊旗雲尓伊理比弥之今夜乃月夜清明己曽
   右一首歌今案不似反歌也但舊本以此歌載於反歌故今猶載此次亦紀曰天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子

とある。諸説あるところ、以下、便宜的に、小学館の新日本古典文学全集本によって訓読と現代語訳を示す。

  中大兄(なかのおほえ)近江宮(あふみのみや)に天(あめ)の下(した)治めたまひし天皇の三山(みつのやま)の歌一首
 香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)雄雄(をを)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)争(あらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻(つま)を 争ふらしき(13)
  反歌
 香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら)(14)
 わたつみの 豊旗雲(とよはたくも)に 入日(いりひ)見し 今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけかりこそ(15)
   右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。ただし、旧本にこの歌を以(もち)て反歌に載(の)せたり。故(このゆゑ)に、今も猶(なほ)しこの次(つぎて)に載す。また、紀(き)に曰(いは)く、「天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇の先の四年乙巳(いつし)に、天皇を立てて皇太子(わうたいし)としたまふ」といふ。

(訳・13番歌)香具山(かぐやま)は 畝傍山(うねびやま)を雄々しく思って 耳梨山(みみなしやま)と いさかった 神代の昔からして こうであるらしい 古(いにしえ)も そうだったからこそ 今の世の人も 妻を 奪いあって争うらしい
(訳・14番歌)香具山と 耳梨山とが いさかいした時 阿菩(あぼ)の大神がわざわざ見に来た 印南野(いなみの)なのだなここは
(訳・15番歌)大海原(おおうなばら)の 豊旗雲(とよはたぐも)に 入日を見たその 今夜の月は 清く明るくあってほしい

 この中大兄の三山歌は、今日まで諸説紛々で、十分な理解が行われていない。たくさんの先人たちの入り乱れた議論を網羅したり、整理することは、筆者の能力を遥かに超えたものである。恐縮ながら、ポイントごとに諸説を紹介しながら、私見を進めることにしたい。いろいろと議論されている焦点としては、
 (1)作歌の時点は斉明7年(661年)であること。
 (2)三山の性別とそれぞれの関係について。
 (3)歌の外にある風土記の伝説をもちだすことについて。
 (4)15番歌は反歌とは考えにくいこと。
 (5)15番歌の原文は、伝本によって「弥」が「沙」や「佐」という異同)があり、「入り日射し」と訓むかもしれないこと。
 (6)15番歌の第五句、「清明己曽」の訓について。
といった議論が主に行われているようである。それも大事なことではあるが、筆者は、もっと肝心な問題点があるように考える。
 (1)戦争に赴く船上で、大和国にある小さな山々の歌を歌って何が面白いのか。
 (2)三山の性別を表すことで何がしたいのか。
 (3)13番歌に「神代」、「古」、「うつせみ」とあるのだから、「神代」≠「古」である。
 (4)万葉集の原本は標目、題詞、歌だけだから、13~15番歌は1セットの歌謡であって、15番歌も反歌である。
 (5)左注は時代的にかなり早いはずだが、その誤解をもたらした精神史的転回とは何であったか。
 (6)15番歌に、「今夜の月夜」と訓んでいるが、今朝の午前中、のような下手な言い回しではないか。
といった点である。包括的な理解を目指さなければ、三山歌それぞれについても、また、初期万葉の雑歌の性格についても、真の理解には近づかないと考える。
 まず確認できることは、三山歌が歌われたのは、多く指摘されているように、百済救援軍の一行が、斉明7年の正月、艦隊を仕立てて瀬戸内海を西に進んで行ったときである。やがて白村江の海戦に敗れる進軍である。8番歌、額田王の熟田津の歌の前ということになり、船上で歌われた可能性が濃厚である。紀に、

 七年の春正月丁酉の朔壬寅[6日]に、御船西に征きて、始めて海路(うみつみち)に就く。甲辰[8日]に、御船、大伯海(おほくのうみ)に到る。時に、大田姫皇女(おほたのひめみこ)、女(ひめみこ)を産む。仍りて是の女を名けて大伯皇女(おほくのひめみこ)と曰ふ。(斉明紀七年正月条)

とある。前年に難波宮に幸し、年が明けてから出航して「大伯海(おほくのうみ)」、今の岡山県瀬戸内市の旧邑久郡(おくぐん)と小豆島との間の海を航行したのが8日である。ちょうどそのときに、大海人皇子と大田皇女との間に女の子が産まれ、大伯(大来) 皇女(おおくのひめみこ)と名づけられた。万葉第2期の歌人として知られる人である。妊婦が船に乗っているほど豪華客船であったものと思われる。後の律令・軍防令に、「凡そ征行(しゃうぎゃう)せむときは、皆婦女を将(ゐ)て、自ら随ふること得じ」となっているが、古くは日本武尊が弟橘媛を随行させるなど、倭の国では将軍クラスは夫婦で従軍する憤習があったという。ともあれ、播磨国の沖合を航行している時、中大兄はこの三首連作の歌を歌っている。斉明7年正月7日、8日、9日位の夕刻に歌っているはずである。
 次に、13番歌は原文に「雄男志」とあるのを、「雄々し」とするか、「を惜(愛)し」とするか、意見が分かれている。それによって、三山の性別について、諸説かまびすしい。簡単にまとめると、
 A.香具山(♀)・畝傍山(♂)・耳梨山(♂)
 B.香具山(♀)・畝傍山(♂)・耳梨山(♀)
 C.香具山(♂)・畝傍山(♂)・耳梨山(♂)・他山(♀)
 D.香具山(♂)・畝傍山(♀)・耳梨山(♂)
といった考え方が行われてきた。その点において、毛利正守「大和三山歌『雲根火雄男志等』考」犬養隆博士米寿記念論集刊行会編『万葉の風土・文学』(塙書房、平成7年)に、

 形容詞においては、現代語と同じく古代語であっても、「胸を痛し。」とか「我を苦し。」などといった、ヲをとり形容詞終止形で文が終わる形はあり得ない。形容詞終止形がヲをとるときは、助詞トがきて、しかもそれに続いて思惟動詞・伝達動詞等が接続するときである。……世間を憂しと思ひて……(13・三二六五)……世の中の厭しとやさしと思へども……(5・八九三)……我が振る袖を無礼と思ふな(6・九六六)……旅をよろしと思ひつつ……(4・五四三)……我を欲しといふ……(11・二三六二)……人言を良しと聞かして……(3・四六〇) このように、ヲを伴う形容詞終止形の場合、助詞トのあとに引用動詞(思惟動詞・伝達動詞等)が位置する。萬葉集で、こうした場合、引用動詞がこない例を全然見出すことが出来ない。(61~62頁)

との指摘がある。「雄男志」を、「を惜(愛)し」ととるのは苦しいというのである。香具山は、畝傍山を雄々しいと思って、耳梨山と互いに争ったという意味である。すると、三山の性別において、(d)説は捨てられるべきである。(c)説を歌に詠むには、「香具山ハ 畝傍耳梨 雄々シト思ヒ 相争ヒキ」のような表現となるであろう。(a)説は、男性の畝傍山と耳梨山とが、女性の香具山をめぐって争ったということになり、歌の途中で主語が転換することになってしまう。歌は、「香具山は」で始まって「相争ひき」まで一文が続くものであろう。
 (b)説の、香具山(♀)・畝傍山(♂)・耳梨山(♀)は、2人の女性が1人の男性をめぐる争いの形になる。万葉集中の「葦屋処女(あしのやのをとめ)」・「菟原処女(うはらのをとめ)」の話(1801~1803、1809~1811、4211~4212)、「桜児」・「縵児(かづらこ)」の話(3786~3790)のように、1人の女性をめぐっての2人(3人)の男性の争いの例と異なるものの、人間の話ではなく、神代の山の話である。「嬬」の字を万葉集では、男性の夫(つま)(例えば、万153・194・426・1795)にも女性の妻(つま)(例えば、万635・1129・1561・1562・1679・2075・2086)にも使っており、2女1男争いの話は住吉大社神代記に見られる。

 大神、霊(くす)しき男神人(をかみ)と現れ賜ひて、宮城(みや)を造作(つく)る料(しろ)の材木(き)を流運(なが)さしめて、行事(わざ)をし賜ふ。時に、斯の川に居す女神、妻に成らむと欲ふ。亦、西方(にしのかた)近くに在る武庫川に居す女神も亦、同じき思を欲す。両(ふたはしら)の女神、寵愛之情(みめぐみをもとむるこころ)を成す。而して、為奈川(ゐながは)の女(めがみ)、嫡妻之心(むかひめなるこころ)を懐(うだ)きて嫉妬(ねたみ)を発(おこ)し、大石を取りて武庫川の妾神(めがみ)に擲打(なげう)ち、并せて其の川の芹草(せり)を引取る。故、為奈川には大石無くして芹草生へ、武庫川には大石有りて芹草無し。両(ふたつ)の河一つに流れ合ひて海に注く。(住吉大社神代記・為奈河木津河条)

 これは上代に珍しい例であるとされて、13番歌とは関係ないと思われている節がある。しかし、三山歌が歌われたのは、征西の途上の航海においてである。航海神とされる住吉大社の関連記事にあるなら、非常に重要視されていたと考えなければならない。場所は、14番歌にある「印南国原」から、広く見積もっても、今の明石市から加古川市、高砂市、姫路市、相生市、赤穂市、備前市、瀬戸内市、岡山市、玉野市付近と推定される。
 そして、梶川信行「三山歌と住吉大社」(真弓常忠編『住吉大社事典』国書刊行会、平成21年)に指摘されるように、明石海峡付近の山陽道地域は、住吉大社の神領であった。住吉大社の祭神は、航海守護の神である住吉三神、ならびに、新羅征討を成功させた神功皇后である。新羅との戦争を始めようとしており、言霊信仰のなかに漂っているヤマトの人々にとって、ジンクスとしても住吉大社にかかわりのある伝承を信じて追従しないはずはあるまい。
 播磨風土記に、

 上岡(かみをか)の里〈本は林田の里なり。〉土は中の下なり。出雲国の阿菩大神(あぼのおほかみ)、大倭国の畝火・香山・耳梨、三つの山の相闘ふと聞かして、此を諫め止めむと欲して、上り来ましし時、此処(ここ)に到りて、乃ち闘い止(や)みぬと聞かし、其の乗らせる船を覆(ふ)せて、坐しき。故、神阜(かみをか)と号く。阜の形、覆せたるに似たり。(播磨風土記・揖保郡条)

とあって、14番歌に、「香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原」の立って見に来たのは、この阿菩大神であるとする説が根強い。ところが、播磨風土記に揖保郡と印南郡は別項であり、地理的に離れているし、歌では触れられていない阿菩大神を引き入れて解釈するのはいかがなものかと言った疑問が呈されている。そこで、印南国原が立って大和へ出掛けていって見に来た(?)とか、二山の争いに嫌気がさした畝傍山が、印南=否みて逃げて、二山はそれを見ようと見に来た、という説も立てられている。しかるに、そもそも13番歌において、「神代」と断っているとおり、三山闘争の話は神話的なものである。地理的厳密性を求めるほうが不合理である。また、印南国原や三山が移動したとする伝承はなく、仮にあるならば、移動可能なように「神」格を与えられ、「印南国原神」、「高山神」、「雲根火神」、「耳梨神」とされるのではなかろうか。
阿菩大神は、出雲から大和へ行く途中で揖保郡でとどまった。そういう民俗伝承を、船で沖合を通過する中央の宮廷社会の人々、そのなかの中大兄が聞いたとして、同じ播磨国の印南国原とを混同しても不思議ではない。揖保を音で聞けば、イヒ(飯)+粒(ボ)である。記紀に、

 故、其の政[征韓]未だ竟らぬ間に、其の懐妊(はら)めるを産むときに臨みて、即ち御腹を鎮めむと為て、石を取りて御裳の腰に纒きて、筑紫国に渡るに、其の御子はあれ坐しき。……亦筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り坐して、其の河の辺に御食(みをせ)し時は、四月の上旬(はじめ)に当たりき。爾くして、其の河中の礒に坐して、御裳の糸を抜き取り、飯粒(いひぼ)を以て餌と為て、其の河の年魚(あゆ)を釣りき。其の河の名は、小河と謂ふ。亦其の礒の名は勝門比賣(かちとひめ)と謂ふぞ。故、四月の上旬の時に、女人(をみな)の、裳の糸を抜き、粒(いひぼ)を以て餌(ゑ)と為て年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。(仲哀記)
 夏四月の壬寅の朔甲辰に、北(きたのかた)、火前国(ひのみちのくちのくに)の松浦県(まつらのあがた)に到りて、玉嶋里(たましまのさと)の小河の側(ほとり)に進食(みをし)す。是に、皇后(きさき)、針を勾げて鉤(ち)を為(つく)り、粒を取りて餌にして、裳の縷(いと)を抽取(と)りて緡(つりのを)にして、河の中の石(いそ)の上に登りて、鉤を投げて祈(うけ)ひて曰はく、「朕(われ)、西、財(たから)の国を求めむと欲す。若し事成すこと有らば、河の魚鉤を食へ」とのたまふ。因りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚(あゆ)を獲つ。時に皇后の曰はく、「希見(めづら)しき物なり」とのたまふ。希見、此には梅豆邏志(めづらし)と云ふ。故、時人、其の処を号けて梅豆羅国(めづらのくに)といふ。今、松浦と謂ふは訛(よこなば)れるなり。是を以て、其の国の女人、四月の上旬(かみのとをか)に当(いた)る毎に、鉤を以て河中に投げて、年魚を捕ること、今に絶えず。唯し男夫(をのこ)のみは釣ると雖も、魚を獲(う)ること能はず。(神功前紀仲哀九年四月条)
飯粒
とある。神功皇后の征韓に際しての逸話として、イヒボということばが関連している。イヒボでアユが釣れるかどうかが、征韓の成功不成功を占うから、本邦ではアユに鮎の字を当てて記すのが慣用である。そして、ご飯粒だけで魚が獲れてしまうのだから、稲作が漁撈を上回ることを隠喩しているということであろう。さらに、

 印南郡 一家(あるひと)いへらく、印南と号くる所以は、穴門の豊浦の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇、皇后と倶に、筑紫の久麻曽(くまそ)の国を平(ことむ)けむと欲して、下り行でましし時、御舟(みふね)、印南の浦に宿りましき。此の時、蒼海(うなばら)甚(いた)く平(な)ぎ、波風和(やは)ぎ静けかりき。故、名づけて入浪(いりなみ)の郡といふ。(播磨風土記・印南郡条)

とある。印南の浦は、神功皇后と関係のある場所なのである。イナミ=イネ(稲)+ナミ(波)、すなわち、稲が波打つように豊穣に育っていることを暗示している。そして、印南=否みの連想としては、出雲から大和へ向かおうとしていた阿菩大神が、和解したから来なくていいよと否まれたところとの連想が働いたものであろう。後述するように、来なくても稲作の優位が知れたからである。そんな民俗伝承を、「御船」の上で中大兄らは聞いた。そして、考えていることは、目下の、百済を救援するための新羅との戦いのことである。
 その後の行軍の展開としては、

 庚戌〔14日〕に、御船、伊予の熟田津(にきたつ)の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊つ。熟田津、此には儞枳拕豆(にきたつ)と云ふ。(斉明紀七年正月条)

とあるのが、額田王の熟田津の歌として知られる万8番歌の時である。万省集巻1のはじめの頃の雑歌の項の歌は、紀に記された記事と密接に連携しながら物語を構成しているようである。(つづく)
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