独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

教師の心無い言動がどれだけ子どもの心を傷つけているか

2016-12-28 08:28:30 | 日記
ある女子学生が期末テストの課題に、忘れがたい「沈黙」を論じた。

小学生の時、作文の授業で、直近に起きた家族の死について書いた。悲しみに暮れる日を送り、ようやく現実と向き合えるようになったころだった。返ってきた答案には、先生から赤字で慰めの言葉が残されていた。心の傷を縫い合わせるような教師の言葉に癒され、理解者を得た喜びが込み上げてきた。

ところが続いて、予期しない事態が起きた。自分の書いた作文のコピーが、クラスのみんなに配られ始めたのだ。身が震え、筋肉が緊張し、こみ上げてくる感情に押しつぶされようになった。涙があふれるのをこらえながら、不快な感情、恨み、激怒、自責、恐怖といった感情に包まれた。周りのクラスメートがみな自分の作文を読んでいる。ラインマーカーを引いている者もいる。私は凍り付いたこぶしを握り締め、あふれる感情を抑えるのに必死だった。

先生は私に朗読するよう求めた。だが私は沈黙した。すると先生はあきらめて、自分で読み上げ始めた。

最初の一節を耳にしたとたん、抑えていた感情が堰を切ったようにあふれ出し、涙で作文が濡れた。涙が止まらない。先生は朗読をやめ、私に近づいて、慰めの言葉をかけてきた。私は絶望と無力を感じた。クラスのみんなの注視を集める中、私は言葉を飲み込んだ。泣くのをこらえ、笑いながら「大丈夫」と答えた。沈黙のなか、みんなはそれぞれ作文を黙読し、授業は続いた。苦痛にさいなまれながら、私は考えた。

「私の作文は先生にとってなんなのか」
「先生にとって、それは文字で記された道具でしかないのではないか」
「先生は本当に、私が失った家族を思う気持ちを気遣ってくれているのか」
「先生は、私が家族を失った悲哀と無力の感情を理解してくれたのか」
「先生は本当に、作文の中に隠された絶望と孤独を深く知ろうとしてくれたのか」

先生が私の作文に対し、お決まりの評価によって点数をつけることに強い抵抗を覚えた。おそらく私の気持ちなど理解できない人たちになぜ、先生はわざわざ見せびらかすようなことをしたのか。私にはまったく理解できなかった。むしろ強い反感を覚えた。私の家族を思う気持ちが、偽りの色に染められ、汚されたように感じた。なによりもたまらなかったのは、私の弱い一面をみんなの前で徹底的にさらしてしまったことだ。面目がなかった。

クラスのみんなが寄ってきて、私への同情から、「かわいそうに!」「きっと天国に行っているよ」と声をかけてくれたが、どれもが安っぽく、空疎で、冷淡で、虚偽に思えた。そして自らを振り返った。どうしてあんなことを書いてしまったのか。自分の不明を恥じた。先生の慰めがほしかったのか。同情してほしかったのか。結局先生は、私の作文と、いい加減に書いた生徒の作文と、どれだけの違いあるのかも理解していない。しょせんは授業の道具に過ぎないのだ。

以上が彼女の体験である。以来、彼女は、メディアが貧困や困難を抱えた人たちを伝える際、当事者がいつも沈黙を守っていることに気付いた。貧困や困難に陥りながら、なおもメディによって尊厳を傷つけられ、みなからの冷たい視線にさらされている。メディアは正義や道徳の高貴なスローガンを掲げるが、本当に虐げられた者たちの気持ちなどわかりはしない。だから弱き当事者は沈黙し、さらし者にされるままの状況に身をゆだねるしかできない。

彼女の目には、社会が、メディアがこう映っている。だが過去の傷と向き合う勇気と強さを得た。あれから10年近くを経て、彼女は「悩んだ挙句、書くことを決めた」と話した。いかにして心の傷を乗り越えるべきか、模索しているのだ。沈黙は必ずしも無関心や冷淡の表現ではない。時には愛をも表すことができる。当たり前のように腰かけている学生たち一人ひとりの心に、深い世界が宿っている。教壇に立つ者の責任は極めて重い。彼女の文章はそう私に語り掛けているように思える。
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