行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

コピー文化を生んだのは古人の願いだったのだろう

2016-11-22 23:10:36 | 日記
一週間前のスーパームーン(超級月亮)を見た時の感想を学生たちに聞いてみた。

「宿題に忙しくて忘れていた」
「外を眺めるよりも携帯で送られてくる写真の方を見ていた」
「すごく大きく見えた。いつもと違っていた」
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私の感慨も伝えた。上空に大きな満月を見上げて感動したのは、メディアが「68年に一度のスーパームーンだ」と伝えたことに影響を受けたからなのか。だとすればその感動は月そのものに対してではなく、メディアによって刷り込まれた疑似環境への感覚に他ならない。もし報道がなければ、月を見上げることも、大きな月に感動することもなかっただろう。それほど現代人の環境に対する感覚は鈍っている。

だがわれわれは、月を通じ時空を超えて対話するすべを知っている。



李白は『月下独酌』で、月を盃に写し取った。それは月の複製なのか。湖面に映える山影や月と同じように、それは本体がある間だけ存在する分身、化身でしかない。夜が明ければ月も落ち、湖面の月も、盃の月も消えてしまうのだ。分身は一回性を宿命的に背負っている。

そのはかなさゆえ、人は一回性を永遠にしたいと望む。暗い洞窟の中で壁画に動物や自然を写し取った古人はきっと、こんな素朴な感情を抱いたのかもしれない。そしてカメラが生まれ、映画、テレビへと複製の技術は進歩していく。携帯はそうしたあらゆる技術をすべて平面の中に押し込め、人が歩んできた立体的な歴史をも飲み込んでしまうかのようだ。

中国では、ニュースから娯楽まで、現場からの生中継映像が大流行だ。長々しい文章よりも、刺激的な、扇情的な映像は視覚の受けがいい。アクセス数が上がれば素人でも簡単に金儲けができる。生中継がニュースの概念を変えた、とまで豪語するネット業界のリーダーがいる。

だかちょっと待ってほしい。見えないものを掘り起こす記者の営みを忘れてはいないか。見えるものを偶然に、あるいはたまたま早く見つけたからというのがニュース・バリューの首座を占めるのならば、われわれはこれまで幾多の苦難を経て築いてきた公共の財産はいとも簡単に失われてしまう。

外からはうかがうことができない。隠されている。埋もれている。意図的に隠蔽されている。だからこそ明らかにしなければならない。人の良心に訴え、説得をし、真実に一歩一歩近づいていく尊い営みはどこへ行ってしまったのか。カメラを向けるだけが報道だとするならば、人の感覚も思考もとうの昔に退化していることだろう。

そうしたニュースの意義をだれも語ろうとしない。手間ヒマがかかり、採算に合わないとでもいうのであろうか。大勢に流されて価値あるものをどぶに捨て、目先の利益ばかりを追い求めていれば、そのしっぺ返しがいつか必ずやってくることだけは間違いない。

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