独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

中国の政治を理解するための視点⑥

2017-10-15 20:13:30 | 日記
習近平政権を語るときに忘れてはならないのが、父親である習仲勲(1913-2002)の存在だ。習近平政権を支えているのが、革命世代の二代目である「紅二代(ホン・アール・ダイ)の強力なバックアップであることは何度も触れた。毛沢東をリーダーとする革命世代は、建国を成し遂げた同士であると同時に、激烈な政治闘争によって戦った政敵でもある。非常に複雑な人間関係がある。

刺されたら刺し返す。相手の刀を相手自身に差し向ける。自分を守るために仲間を売る。有力者に取り入るため汚れ役を引き受ける。中国共産党史の裏側では、こんなマフィアまがいのことが繰り返された。毛沢東は約半世紀にわたる闘争を経て、個人崇拝の極致を生み出し、不動の座を築いた。

習近平政権はたかだか5年であるが、そこに至るまでに紅二代による準備期間がある。習近平に思想があるとすれば、「革命=紅い血」と「農民=黄色い土」の伝統を結び付け、政権の正統性を共産党の創設から、中華民族の誕生までに至る時間の座標軸に置いたことにある。だが、光明が大きければ、それが生む影も深くなる。影の部分を照らす役割を、習仲勲が残した遺徳が引き受けている。

党内で、権力欲に狂って失脚した薄熙来・元重慶市党委書記の父親、薄一波の悪口を言う者は多いが、習仲勲を悪く言う者はいない。この二人を比較すると、その子どもがたどった道がよくわかる。

薄一波は、保守派の元老として開明的な指導者の弾圧で先導的役割を果たした。それだけに政敵も多い。文化大革命後、失脚した多くの幹部を復権させたのは当時、党中央組織部長だった胡耀邦元総書記だ。薄一波も胡耀邦に救われた一人だが、民主化運動の処理を巡っては、なりふり構わず胡耀邦打倒に走り、「恩知らず」のレッテルを張られた。それに真っ向から対抗し、正々堂々声を上げて恩人である胡耀邦を守ろうとしたのが習仲勲である。このために習仲勲は鄧小平に排斥され、晩年の十数年は広東省深センで不遇の余生を送る。

さかのぼる1960年代、習仲勲は、毛沢東の側近として右派弾圧を担っていた康生の陰謀によって冤罪事件をでっちあげられ、「反党分子」のレッテルを貼られた。欠席裁判のまま解任され、文化大革命終了後、胡耀邦によって冤罪を晴らしてもらうまで16年間、北京での軟禁生活や河南省洛陽での工場労働を強いられたほか、陝西省で十数回にわたり見せしめの街頭引き回しを受けた。

習仲勲が尊敬を集めるのは、こうした政争の中にあっても、決してだれかを恨んだり、憎んだり、報復手段に訴えたりすることをせず、従容として運命を受け入れたところにある。恩を忘れず、人を裏切らず、人を巻き添えにせず、一人で濡れ衣を背負った。周囲には、「私は生涯、人を打倒したことがなく、真理を堅持し偽りを語ったことがない」と語り続けた。

彼の功績として伝えられるエピソードは、決して中国共産党史の大事件ではないが、庶民の生活と密接にかかわっている。1959年の建国10年を記念し、人民大会堂など大規模な建設プロジェクトが決まった際、国務院ビルの建設について、周恩来首相から意見を求められた習仲勲は「多くの庶民の家を立ち退かせることになる」と反対し、結局、見送られた。1958年、封建思想の象徴として城壁の取り壊し運動が全国規模で起きた際は、陝西省西安からの陳情を受け、旧長安の城壁保護を貫いた。習仲勲は「民衆の中にいれば安心だ」と言い続けた。

習仲勲の評を概括すれば、革命を率いた「紅い血」と中華文明を生んだ「黄土」の粋を体現した人物だと言える。習仲勲は過酷な政治的迫害を受けながらも党の事業に尽力し、農民の子として庶民の側に身を置き続けた。混じり気のない「紅」と、土とほこりにまみれた「黄」に彩られた人物である。多数の党幹部がどんなに横暴で、腐っていようとも、党の屋台骨を支えるために、「紅」と「黄」の正統を語り継がなければならない。習仲勲はそのためになくてはならない人物の一人である。

左右いずれの政治的立場からも、さらに知識人から庶民レベルに至るまで、習仲勲の評価に異論を挟む声はない。その高潔な人格は、全国民に受け入れられている。習近平が背負っている父親の遺徳は、彼の政治基盤の核心をなすものである。習近平がそれに背けば、父親に恩を感じている人々の反発はとてつもなく大きいだろう。

(続)
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中国の政治を理解するための視点⑤

2017-10-15 12:37:33 | 日記
新学期で大学内の諸行事に忙殺され、ブログの更新が遅れてしまった。

そうこうしているうちに昨日は、第19回党大会のお膳立てをする第18期中央委員会第7回総会(7中全会)が閉幕した。中華文明にせよ、中国共産党の歩みにせよ、習近平は、伝統の継承や原点の回帰をさかんに強調している。習近平の新理念や新思想、新戦略がしばしば語られるが、「毛沢東思想」に比すべきオリジナル性はもともとない。習近平は当初から、「空談誤国、実幹興邦」(空論は国を誤らせる。着実な仕事が国家を振興させる)とのスローガンを掲げており、理論よりも実践を重んじる政治家だ。

根っこには「紅二代」の血とともに、父親の習仲勲から受け継いだ色濃い農民の血が混じっている。

習近平は同世代の若者と同様、文化大革命期、都市の学生に肉体労働を経験させる下放政策によって農村生活を経験した。大雑把に言えば、中国共産党は地主の土地を小作農に分配する土地改革を通じて農民を組織化し、農村に拠点を築きながら、都市を基盤とする国民党を包囲する形で政権を奪取した。だから指導者の大半は農民出身で、父親の習仲勲も「私は農民の子だ」が口癖だった。

習近平は15歳の時、陝西省の延安市梁家河村に送られた。父の故郷である同省富平県からは北東へ350キロ。乾燥した黄土高原の山あいにへばりつくように広がる村だ。習近平は幅2メートル、高さ3メートルの横穴を掘った「ヤオトン(窯洞)」と呼ばれる地元特有の横穴式住居で7年間、同世代の農民と同居した。習近平にとっては、父親の農民としての生活を追体験する場となった。

習近平は2003年、福建省外大学校友会が編集した双書『福建博士風采』に寄せた文章「私は黄土の子だ」の中で、寝床のノミと雑穀の食事、過酷な農作業と初めての経験ばかりだったが、「農民の勤勉で、辛抱強い精神を学び、素朴で質素な人品に影響を受けた」とし、「現実とは何か、実事求是とは何か、大衆とは何かを知り、自分への自信を培ったことが最大の収穫だ」と振り返った。また、次のようにも書いている。

「最初は孤独だと思ったが、父親の世代を育てた黄土高原は、必ずや寛大な胸襟を開いて、この世間知らずの子どもを受け入れてくれると思った」

習仲勲は富平県の貧しい農家に生まれた。習家は清朝末、自然災害と悪政に見舞われた河南省南陽の住まいを捨て、黄河の流れをさかのぼるように西に逃れて富平県にたどり着いた。習仲勲の祖父、習近平によっては曽祖父の代である。富平県は名前の由来である「富庶太平」(人口が多く、土地が豊かで、天下太平である)の言葉通り、黄河流域の肥沃な土地だったが、3年連続の干ばつで人口が大幅に減少していた。耕作者を失って土地が荒れ、多くの移民を必要としていた。黄河文明発祥の地とされる中原の河南では、農民が自然に翻弄される歴史が繰り返されてきた。習家は、過酷な自然と圧政に苦しめられてきた農民の記憶を受け継いでいる。

習近平の妻、彭麗媛は人民解放軍所属の国民的歌手として知られるが、生まれは山東省だ。山東人は腹で思ったことを口にし、そろばん勘定ができないお人好しが多い。彼女はその典型だとされる。両親は地方の文芸分野に身を置くごく普通の家庭で、二人の縁談には当初、両家の釣り合いから尻込みをした。だが、習近平がこう言って説得した。

「うちの父親も農民の子だから」

このエピソードは『中華文摘』2007年9月)に紹介されている。習近平にとっては二度目の結婚だった。最初の相手はエリート外交官の娘だったが、育った環境の違いから、性格や価値観が合わなかった。むしろ、飾り気がなく、率直で、実は男性から一歩退く伝統的な山東女性に引かれたのだ。

習近平は総書記就任後、頻繁に地方視察を重ねている。小さな椅子に腰かけ、地元の農民に溶け込んで語り合う姿は、パフォーマンスだけでは演出のできない一体感が
ある。歴代の官僚臭い指導者につきまとっていたわざとらしさがない。それは彼の背負った農民の血と生い立ちによるものだ。だが、農村の疲弊は、もはやそこを根拠地とした共産党の正統性を脅かすほどにまで深刻化している。

共産党による政権奪取を支えたその農民が、改革・開放政策の「先富論」によって、安価な労働力として都市に流れた、その数は2億人を超えた。だが農民は戸籍制度によって都市住民と区別され、教育、就業で差別を受けている。2011年には都市人口が農村人口を上回ったが、一方、一家で都市に移住し、住民のいない「空心村」(からっぽの村)も出現している。農村は労働力の流出で、老人と婦人、子どもが取り残され、家族の崩壊や土地の荒廃を招いている。取り残された老人と婦人、子どもは「留守老人」「留守婦女」「留守児童」と呼ばれ、それぞれ5000万人前後がいるとされる。

農民の子である習近平は、この点においても原点回帰が求められ、最下層の農民をいかに救うかが至上課題となっている。理念や思想では解決のできない、現実の課題である。父親が残した遺言でもある。

習仲勲は、階級闘争におびえる農民に対し、「かつてはアヒルを2匹飼えば社会主義で、3匹では資本主義だと言っていた」といった平易な表現で行き過ぎた左派思想をただし、華僑の企業家には「一に愛国、二に商売と言うが、もうからなければ誰が国を愛するのか」と正直に話したというエピソードが、『習仲勲伝』に書かれている。

(続)
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