行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

AI時代のメディア論・・・「不立文字」の領域

2017-08-29 21:32:37 | 日記
私が好きな言葉の一つに、「本来無一物」がある。中国・南宗禅の祖である慧能大師が残したと伝えられる。世界にはもともと煩悩も無く、身も心も無い。だから振り払う塵や埃もない。これ以上ない高みの悟りだ。地位や名誉、財物への執着が人の目を曇らせる。真理に到達したいと思う者にとって、かくありたいと心に刻むべき言葉である。

日本語の中で、中国から伝わった漢字、いわゆる漢語の中には、禅を中心とする仏教典からの転用が多くある。仏教が及ぼした影響の大きさを考えれば、それも当然だ。儒教と仏教はほぼ同じ時期、大陸から日本にもたらされたが、儒教が統治階級の教えだったの対し、仏教は庶民の生活に直接かかわるものだったのだ。もちろん大きく意味の変わったものもある。

鈴木修次氏の『漢語と日本人』(みすず書房)が、『碧巌録』や『無門関』など代表的な禅の書から、日本語となった漢語の実例を多数挙げていて、参考になる。禅書には、道理、理論、理路、議論、意識、知識、見解、心境など思惟にかかわる言葉が頻繁に使われており、日本語に少なからず影響を与えたことが推測される。応用、葛藤、工夫、向上などもまたしかりである。、

禅家が愛用した言葉の中に、「言語道断」がある。日本では「とんでもない」という意味に転じているが、もとは、言葉での説明では到達のできない奥深い真理を語る際に用いられた。言葉は因果を語り、論理の中に閉じこもる。そこから解放されるために必要なのは、あらゆる執着を断ち、無一物となって感じるしかない。

『碧巌録』の第一則にはには次の言葉がある。

「不立文字、直指人心、見性成仏、もしこのように会得すれば、すぐに自由の身となることができる」

鈴木大拙の『禅と日本文化』(原著『Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture)』)は「不立文字(ふりゅうもんじ)」を禅の核心とする。言葉によらない、直観による悟りだ。本読んだり、実験をしたりして得られる知識ではなく、執着を解き、超越的な孤高の境地を極めるうちにたどり着く知識である。まさに無一物の悟りに等しい。

慧開の『無門開』は、「無」を説くところから始まる。

僧が禅師に、「犬に仏の心はあるか?」と問う。「草木国土悉皆成仏」である以上、あらゆるものに仏性があるのだから、あえて問う必要のない言葉だ。だが、禅師の答えは「無」だ。有る無しを答えたのではない。そうした二元論の思考を超越した境地、それが「無」だというのだ。

言葉にできるのはここまでだということなのだろう。あとは直感によるしかない。実は、荘子の斉物論も同じことを言っている。言葉が生まれて対立する概念が生じ、人の目を曇らせた。だから真理にたどりつくのは言葉によるわけにはいかず、感じるしかないのだ、と。東洋の知恵は偶然にも一致をみている。

言葉を捨てて虚無に陥り、厭世や退廃に向かうのではない。むしろ、言葉をぎりぎりまで信じたがゆえ、その先にある境地だと考えたい。人は容易にそこまでたどり着くことができない。もしかすると永遠に。だからこそその営みが尊い。

コンピューターはすべての情報を「0」か「1」に分け、それを組み合わせる二分法によって無限の認識をすると設計されている。そこには「0」と「1」を超越する「無」の入り込む余地はない。最初から、言葉でとらえることのできない人間の直感は排除されている。

われわれのコミュニケーションは、言語によるもの以外、触覚や視覚、聴覚、さらには直感といった非言語の要素で成り立っている。ときには非言語が、言語以上にコミュニケーション能力を発揮することがある。ネット空間のスクリーンを見ているだけでは体感できない世界がある。だからわざわざ教室に足を運んで、同じく気を吸い、顔を見合わせながら議論するのではないか。

シリコンバレーの人々だけで構想されるバーチャル世界を、一緒になって、無批判、無反省に追いかけるだけでなく、少しでも異なる価値観をぶつけ、技術を人間の手の内に引き戻すことを考えてもいい。

AI時代のメディア論・・・「必然」の法則12

2017-08-29 00:05:26 | 日記
『WIRED』誌創刊編集長、ケヴィン・ケリー氏の最新著『THE INEVITABLE』(服部桂訳『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』)は2016年1月、世界に先駆け中国語版が先行出版されてベストセラーとなり、日本では同年4月に発行された。中国のネット人口は7億を超え、世界一である。強力な国家政策の後押しもあり、EーCOMMERCEは日本より進んでいる面もある。出版社からすればこの読者市場を無視するわけにはいかない。

中国語のタイトルは『必然』である。中国では外国の著作物について、忠実に直訳を用いることがほとんどだ。読者の目を引くため、凝った訳が考えられる日本とは異なる。



技術の実用化には、旧技術の更新を伴うため、むしろ一足飛びに進むことのできる後発の利がある。中国やインドはそのメリットを生かし、IT分野での主導権争いに加わっている。中国の大学や研究機関では猛烈な勢いでインターネット研究が行われている。私のいる汕頭大学でも、世界のインターネット報告を文書化するべく、私にはこの夏休み、日本編をまとめるミッションが与えられた。中身はともかく、とにかく走り出そうというお国柄である。

7億超のネット人口とはいっても、全人口の半分余りだ。ネット人口が8割を超える日本などの先進国とは大きな差がある。マックス・ウェーバーがすでに中国の「二重構造の文化」を指摘したように、この大国には常に階層が存在している。王朝体制のもと、支配階級は儒教に縛られていたが、庶民は生活や人生の難題を解いてくれる仏教や道教を信仰した。だが、若年層の携帯普及率に限れば、ほぼ先進国並みだ。後発の利は間違いなく発揮されている。

手元に長く置く本ではないと思い、同書を近くの区図書館で借りようとしたら、25人の先約があった。すでに出版から1年がたっているというのに、とんでもない人気だ。順番を待っていたらさらに1年かかる。やむなくアマゾンで購入した。わからない用語はすっ飛ばし、パラパラとめくるように速読した。すでに多くの感想が書かれていると思うので、率直な感想だけを記す。

読みながら、「これがシリコンバレーで交わされている日常会話なのか」と知り驚いた。世界の半数がまだネットに接続できていない状況で、すでに人間と技術が過剰なまでに共生する姿が、エネルギッシュで、煽情的な表現で描き出される。人はもはや携帯も持つ必要がなく、体に身につけたデバイスが目となり耳となる。人はコンピュータの中にいて、「身体がパスワード」と化し、「テクノロジーはわれわれの第二の皮膚になる」。どこでも目の前にスクリーンが浮かび上がり、欲しいものを注文し、読み、書き、自由に人の顔を見ながら会議ができる。

「もし未来において、誰かがぶつぶつ言いながら目の前で両手をダンスするように動かしていたら、それはコンピューターで仕事をしているということなのだ」

こんな世界が遠くない将来に出現するのだと予測する。どこの国でも、どんな言語でも…というのだが、ネットに接続していない人々が半数いることは切り捨てられている。後発の利どころではなく、遅れて加わったものは、たちまち迷子になり、バーチャルのスラム街に駆け込むしかないような不安も抱かせる。どれほど楽天的に考えても、みなに自由で平等な楽園が生まれるとは、とうてい思えない。

それでも、光明が感じられる点があった。筆者が当初、可能性はないとみていたウィキペディアだ。不完全な内容ながらも、無料で、自由にシェアリングすることによって、人々の知的好奇心を刺激し、多数の参画が絶えず改良を進めている。

筆者は、ウィキペディアを「集合精神の有効性を示す生きた証拠」だとし、率直に語る。

「私はかなり強固な個人主義者で、自由主義(リバタリアン)教育を受けたアメリカン人だが、ウィキペディアの成功によって、社会の力についても評価するようになった。そしていまでは集団の力や、個人が集団に向かうことで生じる新たな義務について、より関心を抱くようになった。市民の権利を拡張するのと同時に、市民の義務も拡張しなくてはならないと考えている」

まるで、独立した市民が公共空間で共有財産を築いているようなイメージを起こさせる。現代のメディアに欠け、ネット社会が直面している最も深刻な問題に答える鍵が隠されていることは間違いない。これが遅ればせながら、同書から得た最大の収穫だ。

中国ではエリート層を中心に、我先にと新技術に飛びつく人々がいる。と同時に、天命を信じ、足ることを知りながら生活している庶民らの光景も、私の頭の中には浮かんでくる。世界に先駆けた出版だが、たぶん、町の図書館に予約をする人はもういないだろう。これがこの国の面白いところだ。